津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の思い

2008-01-22 19:21:09 | 歴史
 光尚の生母保壽院(徳川秀忠養女・実小笠原秀政女)は、徳川家康の外孫である。光尚に徳川一族の係累としての思いは強かった事は当然であろう。年表にして眺めると、それは一人光尚の生涯ではなく、細川家の存亡さえもが危機的であったことが分かる。
      
   寛永十三年(1636)十月十四日 室・烏丸氏(彌々姫)死去(十七歳)
   寛永十五年(1638)一月    嶋原乱に参陣
   寛永十八年(1641)三月十七日 父・忠利死去
   寛永廿年(1643)正月八日   嫡子・綱利(六丸)誕生
   正保二年(1645)十二月二日  祖父・忠興死去
   慶安二年(1649)十一月廿四日 母・保壽院死去
   慶安二年(1649)十二月廿六日  光尚死去(三十一歳)

 光尚の治世がわずか八年余りであった事に驚かされるが、これをもってしても、光尚の無念さが感じられる。嫡男が幼いゆえ領地はお返しするという光尚の思いは、徳川一族係累の者としての、偽らざる思いであったであろう。
光尚の病気は、ひどい痔疾であったと言う。あまりの痛さに天井から縄を下ろし、それにすがって痛みに堪えたというから、生半可な話しではない。母・保壽院の看病に身も心も使い果たし、僅か一月をして後を追うようにして亡くなっている。幼い六丸と生母清高院
の奔放な生き様が始まる。
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熊本城図

2008-01-22 11:28:42 | 歴史
                                    (クリックすると拡大します)

一昨日(20日)メールで「熊本城図」が送られてきた。画面の左後方に丸い形の山が描かれた、おなじみの構図の熊本城図である。東京在住の丁氏のご厚意である。有録士族基本帳に四名の「丁」氏の名前が見えるが、其の中の廣之氏の曾孫にあたられる。廣之氏は津奈木村の二代目村長、そのご子息は明治・大正期のジャーナーリスト丁吉次氏である。水俣出身の氏は大江義塾に学ばれたらしいが、徳富蘇峰とは同郷ゆえの事かと思われお尋ねすると、まさしくそうであった。後日蘇峰及び蘇峰の父・一敬の書の写真もお送りいただいた。
 
 さてこの絵、原画は江戸後期の物とされているようだが、同時期に描かれたものであろうか。同じ絵師かもしれない。このようなものがまだまだ存在し、愛蔵され親しまれている事実を知ると、ちょっと嬉しくなってしまう。蘇峰・一敬の書についても、現在準備中の「フォトライブラリー」でご紹介しようと思っている。
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気が付けば「後の祭り」

2008-01-22 09:46:55 | 徒然
 東京福祉大学の理事長中島氏は、茶屋四郎次郎の子孫だというが、馬鹿をやって家名を汚した。船場吉兆湯木家も、一族に対して多大な迷惑をかけた。「白い恋人」や「赤福」や防衛省の高級官僚や、その他諸々、不祥事が続出している。すべてに常識を逸脱した「おごり」が見える。中島氏の行いなど、救い難い破廉恥人で教育者などとは片腹痛い。皆が「悪名」を担いで生きていかなければ成らない。下手をすると社会から抹殺されかねないことを、「おごり」が気付かせていない。

 二百年・三百年経過しても、「悪名」は史料として残されていく。ご子孫の思いは如何であろうかと、ふと同情する事もある。出頭し君側にあって藩政を壟断したり、家名を上げる為に策を弄して失脚したり、時には「死」をもって購わなければならないこともある。死語となりつつある「家名」と言う言葉も、このような事件が起ると息を吹き返してくる。それは現在の自分が存在する「歴史」であり「証し」であるならば、名を汚した罪は自業自得としか言い様がない。気が付けば「後の祭り」だ。

 
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