光尚の生母保壽院(徳川秀忠養女・実小笠原秀政女)は、徳川家康の外孫である。光尚に徳川一族の係累としての思いは強かった事は当然であろう。年表にして眺めると、それは一人光尚の生涯ではなく、細川家の存亡さえもが危機的であったことが分かる。
寛永十三年(1636)十月十四日 室・烏丸氏(彌々姫)死去(十七歳)
寛永十五年(1638)一月 嶋原乱に参陣
寛永十八年(1641)三月十七日 父・忠利死去
寛永廿年(1643)正月八日 嫡子・綱利(六丸)誕生
正保二年(1645)十二月二日 祖父・忠興死去
慶安二年(1649)十一月廿四日 母・保壽院死去
慶安二年(1649)十二月廿六日 光尚死去(三十一歳)
光尚の治世がわずか八年余りであった事に驚かされるが、これをもってしても、光尚の無念さが感じられる。嫡男が幼いゆえ領地はお返しするという光尚の思いは、徳川一族係累の者としての、偽らざる思いであったであろう。
光尚の病気は、ひどい痔疾であったと言う。あまりの痛さに天井から縄を下ろし、それにすがって痛みに堪えたというから、生半可な話しではない。母・保壽院の看病に身も心も使い果たし、僅か一月をして後を追うようにして亡くなっている。幼い六丸と生母清高院
の奔放な生き様が始まる。
寛永十三年(1636)十月十四日 室・烏丸氏(彌々姫)死去(十七歳)
寛永十五年(1638)一月 嶋原乱に参陣
寛永十八年(1641)三月十七日 父・忠利死去
寛永廿年(1643)正月八日 嫡子・綱利(六丸)誕生
正保二年(1645)十二月二日 祖父・忠興死去
慶安二年(1649)十一月廿四日 母・保壽院死去
慶安二年(1649)十二月廿六日 光尚死去(三十一歳)
光尚の治世がわずか八年余りであった事に驚かされるが、これをもってしても、光尚の無念さが感じられる。嫡男が幼いゆえ領地はお返しするという光尚の思いは、徳川一族係累の者としての、偽らざる思いであったであろう。
光尚の病気は、ひどい痔疾であったと言う。あまりの痛さに天井から縄を下ろし、それにすがって痛みに堪えたというから、生半可な話しではない。母・保壽院の看病に身も心も使い果たし、僅か一月をして後を追うようにして亡くなっている。幼い六丸と生母清高院
の奔放な生き様が始まる。