津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

史談会一月例会

2012-01-21 15:37:19 | 徒然

今年最初の史談会例会。昨年長期にわたって有吉家文書の勉強をしてきたがこれが完了、講師をお願いしてきた下津先生が退任された。
二月から花岡興文先生をお迎えして新たな勉強が始まる。その谷間を埋めるためお鉢が私に回ってきた。
事務局が準備した題は「細川家系図にみる公家・諸侯との人間関係と攻略」・・・・・
これは大変なことになったと身構えていたところだが、昨年末作成した細川家略系図をお配りしてなんとか80分ばかりの責任を果たす。
ノートPCにいささかの資料を準備したのだが、これを見る余裕もなく完了。こういうことは今回限りとして、聞く方に回りたいと思っている。

「続 加藤清正『妻子』の研究」の著者・福田正秀氏も来会、本のご紹介もかねて少々の時間であったがお話を戴いた。

今日はずいぶん暖かい日になり、上着を脱ぎ、車の暖房を止め、窓を少し開けて走るという具合である。
大役を終えたわが身にさわやかな風が心地よかった。

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「生誕450年記念・上田宗箇-武将茶人の世界展」図録・・・つづき

2012-01-20 13:02:12 | 歴史

昨日のブログ上田宗箇に係る一文についてご教示いただいた東京のYT様から、再度次のようなコメントを戴いた。
わざわざ品川区の図書館に行かれて「寛政重修諸家譜」で調べて来られたとのことで、改めてご紹介するとともに御礼申し上げる。

【図録には娘の嫁ぎ先が「天野可古」としか出てません。
上田重安(宗箇)の長男が五千石の交代寄合になります。その系譜に重安娘は中根平左衛門某が妻とあります。さらに上田新兵衛可勝(よしかつ)は「実は天野半之助可古が二男、重安に養われて細川越中守が家臣となる」と…
さて なぜ天野を称したかは 可古 東照宮に勤仕し、のち同僚を討ちてしばらく信濃国浅間山にかくれその後ゆかりあるによりて「天野三郎兵衛康高」が許に寓し、其の家号をうけて天野を称し、と有ります。可古の父親はもちろん織田信照のちの名は中根新兵衛可賢です。
可古男子六人あり、長男は家を継ぎ、その余二人は分かれて浅野家に仕え、二人は同家の臣上田氏の養子となる。家祖可成は三男にして別に家を興し、男成常がとき中根に復す… と  複雑な事情が読み取れます… 通称名も混乱しております】

 

「寛政重修諸家譜」

織田信照 「某」と表記 越中守 第八巻 168P

上田氏 第四巻 137P 

中根正照 第九巻 243P 

中根氏(可成と前後) ★ 第二十巻 299P

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1:25 改めて新たなご示教をいただいたので追記する。

 

天野可古のことは 国立公文書館の中根氏「畧譜」の方が正論だと思われます 

「天野康景」が正しい と 

「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重) とあるようです 

面白いことに 知己の 古河歴史博物館の学芸員 永用俊彦氏が面白い文書を書いてました… 

 

http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/06renewal/kouhou/10_10_01/kouhou/16.pdf

 

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2012/1/19 の一日

2012-01-19 22:49:54 | 徒然

・熊本は朝からしとしと雨である。数日前(月曜日)に2ミリほどの雨が降ったが60日ぶり程のことだったらしい。乾燥状態が長く続いて喉がいがらっぽい。
 最近、「コーヒーを止めて水を飲め」と奥方のうるさいこと・・・・雨のおかげか、我が家はただいま湿度60%である。
 
・高祖父・上田久兵衛や、我が家の曽祖父又太郎夫妻が眠る禅定寺にかかわる、都市計画道路の変更のニュースは昨晩以来地元メディアで報じられ、「よかったですねー」と電話を頂戴している。それでも一番はずれにある久兵衛のお墓がどうなるのか、まだいささかの心配はある。管轄が熊本政令都市に移管された後のことになるので、正式な位置関係が確定するのにはまだ時間を要するのであろう。
                 http://kumanichi.com/news/local/main/20120119002.shtml

・友人のご子息はお正月に帰省されると必ず親父殿のポートレートを撮影されるらしい。友人いわく「俺の葬式用じゃねーのか・・・」
 それも又よいではないか。そしてそんなことが受け入れられる年齢になった。

・近くのPCショップに出かけ1,999円也のPCバッグを買う。

・福田正秀氏から、氏と水野勝之氏共著「続加藤清正『妻子』の研究」を御恵贈たまわる。
 ある情報をお伝えしただけなのだが、いつもながらのご好意に感謝申し上げる。お礼の電話を差し上げる。
 http://www.amazon.co.jp/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E3%80%8C%E5%A6%BB%E5%AD%90%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%B0%B4%E9%87%8E-%E5%8B%9D%E4%B9%8B/dp/4434163256 
                 
・明後日は熊本史談会の例会、一時間ほど細川家にお入りになった奥方や、お嫁に行かれたお姫様方の嫁家とのかかわりなどを、先に作った系図を使ってお話しようと思っている。まったくぶっつけ本番もなるまいと、ノートPCのディスクトップに関係する資料をUPしておこうと作業開始・・・・

・ガラシャ夫人が生害に当って、二人の御子を自ら殺害されたとする説がある。真実は闇の中だが、ぴえーるさんがサイトで新たに資料を見つけられたことを書いておられる。http://d.hatena.ne.jp/muxia/ いつもながら頭が下がる。

・3時頃まで暖房をいれずに過ごしたが、センサーである私のひざが痛み出してエアコンのスイッチを入れる。

・5:30~ 相撲観戦把瑠都が勝って、白鵬負ける。どっちも変化技・・・・・ムヽヽ・・・・どうだかな~

・8:30~ 先のブログ「生誕450年記念・上田宗箇 武将茶人の世界展」図録 の東京のTY様から電話、別途メールやコメントなど戴いている。(感謝)

・10:00~ 大好きな「ブラタモリ 国分寺~遺跡編~」を見る。まいど面白い。(久保田アナが既婚者であることを最近知った。それでもフアンですよ~)


今日は私の満70歳の誕生日である。上記のごとく誠に平凡に時間が過ぎて行くだけである。特別な感慨もないが、最低あと五年ほどPCのキーを叩くことのできる健康を祈るばかりである。                                                                            
ちなみに今年のお宮参りの際の「今年の運勢」には                                                                  
             希望・・骨が折れますが始めに樹てた目的通り進みなさい。貴下の真面目な努力は十二分に好結果を生みます。
             病気・・始の間に用心なさい。大した事はありません。                                                                                                     がんばろう・・・                                       

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「生誕450年記念・上田宗箇-武将茶人の世界展」図録

2012-01-19 09:54:23 | 歴史

銀座松坂屋で行われていた「生誕450年記念 上田宗箇 武将茶人の世界展」に、東京在住のTY氏は最終日にお出かけになられたらしい。
                                 http://ueda-soukoryu.com/top/450nen.html 
そして、貴重な報告をいただいた。(感謝)

肥後細川家藩士・上田新兵衛に係ることである。(わが高祖父の上田久兵衛の先祖もこの新兵衛に関わりがあるのではないかと私は考えているので、興味深いものがある)要約すると以下のごとくである。

【織田信長の弟・織田信照(のち中根氏に養子として入り本多忠勝の附人とな、り中根可賢と名前を変える・忠勝に殉死)の子である中根可古(はじめ清正)が、この展覧会の主役である上田宗箇の娘が嫁いだ天野可古であろうされる。その子に上田可勝(細川家家臣・初代)があり、可勝の兄弟は長兄・天野清貞(浅野家家臣)であり、弟たちには天野可成(この方が〓川家臣として相続・その子である成常が本氏の中根氏に復す)・天野可辰・天野可久・安井正房があり広島浅野家の家臣となる。】

以前同氏からご教示いただいたことによると、肥後細川家臣・中根氏も同根である。
まだ、上田新兵衛家の先祖附については詳しく読んでいないので、早々に読み下しにかからなければならないと思っている。

そして、生誕450年記念・上田宗箇-武将茶人の世界展」の図録を手に入れたいと思い手配をした。

                   http://www.nhk-p.co.jp/tenran/zuroku.html

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朗報

2012-01-18 18:34:29 | 徒然

 快挙というべきだろう。熊本の古刹・禅定寺の西の端を縦貫する都市計画道路が計画変更されることが発表され、メディアが夕方のニュース番組で報道した。
                      www.tku.co.jp/pc/news/view_news.php?id=25258&mod=3000 
加藤家・細川家の重臣などの歴史的お墓が数多くあり、貴重な文化財の保存の意味をもってのことであろう。
変更がどのようなことになるのか明日の新聞報道などで確認したいと思うが、なにはともあれ、県知事の大英断に拍手を送りたい。
我が高祖父・上田久兵衛の墓も改葬を余儀なくされるかと思われていたが、これがどうなるのか気になるところではある。

昨年末の報道により、よい結果を待っていたのだが誠にうれしい。
                     http://kumanichi.com/rural/rekijyo/20111209001.php

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紆余曲折・・八代領と宇土支藩の創立まで

2012-01-18 14:48:46 | 歴史

このブログで取り上げた中から、八代領の相続問題や、宇土支藩の立藩についての関係資料を引っ張り出し時系列にまとめてみた。

■細川内膳家「細川忠雄家譜」より
     寛永九壬申年 忠利公肥後国御

     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候(以下略)

■寛永15年12月5日光利(光尚)江之御書之内
 同名刑部事身上成不申候、迷惑仕付而金子かされ候由、我等分別に相不申候、子之事ニて候へは三齋様御こらし候ハんと思召、迷惑仕様ニ被仰付候ニ、肥後取持候事、却而刑部為如何と存よし、其上其方より銀なと参候由、八代へ聞候ハヽ、弥跡を御詰候事可有之候、又御失念ニ而候事も可有之候、とかく御分別之子細可有之ニ不入儀と存候、我等為にハ弟、其方為ニハおちニて候へハ、悪敷仕ものにて無之候ニ付、弥刑部為如何と案入候

■寛永16年正月6日光利君江被仰進候御書(抜粋)
 (正月四日忠利は八代に三齋を見舞っている)
 同名刑部事中を御たかい候而御誓文にて御直り候ましきとの儀ニ付而、左候へハ人しちニ進上被成候、刑部三齋様と中たかいニ落付候へハ、 公儀へ人しちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間、立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ、尤との被仰様ニ候(以下略)

■寛永16年9月2日光利(光尚)君御自筆之御口上書之控
  八月卅日ニ酒讃岐殿へ私参申候、口上之覚
 立允事越中弟ニ而御座候へども、越中肥後へ罷下候刻、又越中江戸へ罷越候刻計ニ八代より参候まで、ふだんハ八代ニ計居申候故、立允心をも越中ハ不存候故、兄弟之儀ニ御座候得共、大国をも拝領仕、立允かくごをもミとヾけ不申候而、むさと知行なと遣ハけニ而も無御座候、然共為能力三万石遣置申候事

 扶持をまったく与えられず、光利に借金の申し入れをした刑部の経済状況や、三齋との修復不可能な仲違い状況、そして立允が刑部に替わり証人として江戸へ下されるであろう前段の話として、大変興味深い。「仲違い状態の人間を(江戸に)人質として置くのは公儀に対して役に立たない」という認識が大変面白い。

■寛永十六年正月五日、忠利君八代ニ御出被成候(詳細は覗えないが三犀齋の隠居領の相続についての談合か?)

■寛永十六年二月五日、三齋君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候
    「予ての御名依存ニ御存正之内御譲置せらるへきとて、吉日を被撰、今日八代本丸でいの間
     にて、御父子様御着座、一番に朽葉之御指物佐方与左衛門持出、是ハ大坂之役に御差被
     成、弐番ニ御旄を志方半兵衛持出候、是ハ信長公より御拝領度々無越度目出度とて御譲、
     御樽肴・熨斗・銀五百枚長岡河内披露仕候、此御座敷にて御囃子被仰付御家中御侍不残
     御酒被下、御肴之熨斗を頂戴、扨御旄被遣候時之御意ニ、休無ニ遣しても不苦ものなれ共
     牢人にて不入もの也、越中ハ大名也、其方ニ譲ると被仰候」

 『部分御舊記』(熊本縣資料・近世編第一 p289)に、正源院宛忠利書状(抜粋)として次のような文書がある。
    「我等弟立允事人質之為替と江戸へ三齋御下候 御目見させ被成度由に付て心得之由返事申
     候又重而立允身上之事は先ツ三齋御一代は此中のことくにて江戸ニ居三齋後は知行都合六
     萬石に可仕由約束仕埒明ケ申候 (略)」

     舟田義輔氏の研究論文『宇土細川支藩成立の前後』の、系譜「5-細川立孝」の欄に、
     【寛永十六年六月廿二日三齋死後は隠居料分を加えて立孝の家督を六万石に決める
     (部分御旧記による)】とあるが、上記文書のことであろうか。
                (この項了)

この二月五日の儀式の不思議さは、本藩からの出席者が見えないことである。
六月廿二日という日付は、上記のことについて忠利が正源院への書状の中に認めたものであり、その日をもって「決めた」という訳ではあるまい。更なる史料の登場が待たれる。
ちなみに東大史料編纂所の大日本近世史料-細川家史料の人物索引では、正源院(しょうげんいん)とは『東大寺塔頭正源院塔主。初代住持法印訓賢、あるいは二代住持権律師賢盛か』だとしている。

 寛永十六年卯月廿七日付、三齋の御内意として、長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物宛の忠利書状に次のようなものが有る。(抜粋)

立允 上様へ御奉公之事黒田殿子達の様ニご奉公させたきとの三齋様御内意と申候 其段加賀殿なと御申候様ニ聞申候處三齋様いか様之御このミもいまたしれ不申候 御老中之御相談たるへきと存候 先此段もさた不入事色々之儀を申物にて候間如此候事

 「黒田殿子達の様に・・」とは、元和9年(1623年)黒田長政の3男・長興が福岡藩より5万石を分知され秋月藩を立藩したことを指すものであろう。

 ■ 寛永17年(1640)正月4日、(江戸証人)興孝主江戸御立被成候・・・室津にて御薙髪・・・3月21日熊本御着 
 ■ 寛永18年(1641)3月17日 細川忠利死去   5月5日光貞遺領相続 
 ■
寛永19年(1642)8月休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京

 ■細川立孝、正保二年閏五月十一日死去

 ■細川立孝死去後三齋は、子・宮松の行末を案じて光尚に対して次のように頼み込んでいる。

    尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
    念可被下候、以上
  為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
  如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
  返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
  様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
                               三齋
       六月廿九日                   宗立(ローマ字印)
          肥後殿
             御返事

 ■細川忠興、正保二年十二月二日、八代ニ薨ず。享年八十三。法号松向院三齋宗立。

  【古老の節とて或覚書】
 尊翁御容体被為重候旨、村上河内・志方半兵衛より熊本ニ御注進申上候処、長岡佐渡守・同式部少輔父子江稠敷御内意被仰付、早速八代江被差越、猶又追而長岡監物被仰付被差越候得共、御他界之御様子承り途中より引返し、興長父子ハ直ニ八代江罷越、御逝去之御跡故直ニ相滞り、御城内外之諸事裁判ニ而取締メ之処、日数七日より内ニ引払可申段熊本より厳命有之、立允様は当閏五月御他界故、御嫡宮松様と其妹(ママ)おさん様と申を始、不残小川御茶屋江御七日目におつほミ、御家中御士も十人之外は御暇ニ而、八代御城内之諸道具ハ佐渡守ニ被仰付不残受取、熊本自分屋敷江取入候段達御聴、此儀甚不被為叶御心、若類焼等仕候ハゝいかゝ仕候哉と御咎メニ付、熊本御城江取納候、八代江は早速為御城代志水伯耆元五被差越、佐渡守より御城引渡し被申候間、八代ニ而御法事之沙汰不承、定而熊本泰勝寺江も御座候哉と云々

 ■三齋君御逝去後、刑部殿を被召候て、八代城二可被差置旨、被仰出候得とも、堅く御辞退有と云々」とある。 綿考輯録巻61(p324)

 ■三齋の死後の八代の動静を藩庁に報告した報告書(丹羽亀之允言上之覚)のなかに次のような一文がある。

    三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋)

   此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
   三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
   可分置御談合候宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候

 この文中に登場する「松助様」とは、光尚の弟・尚房のことだが、尚房に中無(中務 立允・立孝)の息女を娶わせて三万五千石を与えようというのである。中務の息女とは鶴姫(長命)しかいない。尚房が寛永十四年生まれ(当時九歳)、鶴姫は寛永十八年生まれ(当時五歳)である。結果としてこの話はまとまっていない。

 

 ■正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。

酒井讃岐守の書状である。
   一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
      れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
      承度候事

 これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
   一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
      の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
      都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
      後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上

 三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。

 宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
   一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
      其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
      御法名雲岸性浄
   一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門被御預
      ケ成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
   一、同十六已卯御歳之夏京都御登り、其節村上金右衛門母子共御醫師永井良安御供仕候、従立
      允公萩原兼連卿御縁在之付、御預ケ成候(中略)
   一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府御着座遊候、萩原殿ハ七ケ年程成御座
      候(以下略)

 

 ■正保三年五月廿六日光尚は長岡佐渡守に対して、八代城に差置く旨の書状を発しているが、この書状からこれらの措置が事前に全く相談がなされていないことが伺える。

    貴殿八代へ召置候事、かくし申事ニ而ハ無之候得共、八代向之事未被
    仰出候間、其方迄内証申遣候間、可得其意候、其方外聞無残所候、此
    段式部少江可有物語候、八代向之儀、四五日中ニ被 仰出可有之候間、
    其刻一度ニ急度可申遣候条、それ迄ハ不存分ニ可被仕候、謹言
                         肥後
       五月廿六日              光尚
             長岡佐渡守殿

 

 細川行孝譜から

細川丹後守源行孝ハ立孝カ嫡子ナリ 初帯刀ト穪ス 正保三年丙戌七月二十九日本家細川肥後守光尚願ニヨリテ肥後宇土ニテ三萬石ヲ分チ領ス 同年八月四日初テ拝謁シ承應二年庚巳十二月二十8日従五位下二叙シ丹後守ト穪ス


 

 

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続・加藤清正「妻子」の研究  発売開始

2012-01-17 14:52:21 | 書籍・読書
      続・加藤清正「妻子」の研究

       ブイツーソリューション

       待望の水野勝之氏・福田正秀氏共著の 続・加藤清正「妻子」の研究 が発売となりました。


           発行元のサイト  http://www.v2-solution.com/booklist/978-4-434-16325-8.html

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棟方志功の世界

2012-01-17 10:53:04 | 展覧会

  1月17日(火)~3月18日(日)
  
河井次郎の詞をもとにした詩画集「火の願ひ」を中心に、板画、倭画、書、絵付陶器などを展示。

 3月20日(火)~5月6日(日)
  
棟方の装幀本約120冊と装幀資料、原稿など。引き続き「火の願ひ」の一部も展示。
 ギャラリートーク詳細はここ》》

追記 1:18熊本日々新聞 http://kumanichi.com/osusume/odekake/kiji/20120118001.shtml

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加藤清正の肖像

2012-01-16 14:43:16 | 新聞

 今日の熊本日々新聞は、熊本市のO様宅から加藤清正の肖像画が発見されたことを報じている。

               http://kumanichi.com/rural/rekijyo/20120113001.php

肖像画もいろいろ伝えられているが、今回の肖像画で清正公の姿が固まってきた感じがする。
今年は清正公生誕450年だそうでいろいろイベントが催されるようだが、よいタイミングでの発見ではある。

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口内炎です~~~

2012-01-15 20:58:32 | 徒然

 体調が悪いということではなく、どうやら知らないうちに唇の裏側をかんで傷つけて、それが口内炎になったみたいです。
なんとも不愉快で仕方がありません。途端に食欲がなくなり、コーヒーもおいしく感じられません。不思議ですねー。
おかげで一日中家の中でぐうたらとすごしました。

明日は用事があって出かけなければなりませんが、しゃべるのも億劫で・・・どうなりますことやら

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明後日発売

2012-01-15 10:22:29 | 書籍・読書
シンチョウシキ
信長私記
 

著者: 花村萬月

発行年月日:2012/01/17
サイズ:四六変型
ページ数:254
ISBN:978-4-06-217435-0

定価(税込):1,680円



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松橋町竹崎

2012-01-14 23:30:26 | 史料

   http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html

五六年ぶりに松橋町竹崎(熊本県宇城市)を訪ねた。元寇襲来絵詞の製作者竹崎季長の出身地である。
国道三号線から東に当たる旧道から、さらに東に入った小高い所にその生誕の場所といわれるお寺があった。
この地域は海東と呼ばれる。かっては有明の海が近くまで入り込んでいた。海の東側だからそう呼ばれていたのであろう。
このような地域にすごい人物が生まれたものだと感慨を新たにした。

それにしても我が想いを伝えるため鎌倉まで出かける勇気が凄いではないか。そしてこのような絵図を残すとは又々凄いではないか。

最近、元寇(げんこう)の沈没とみられる体が、長崎県松浦市の鷹島沖で見つかった事が報じられた。
こんな話は大変興味ふかくわくわくさせてくれる。
http://www.youtube.com/watch?v=iNZ_h-QBiOc

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落語「井戸の茶碗」

2012-01-14 09:57:10 | 徒然

 昨日のNHKのEテレは、「日本の話芸」で柳家さん吉が落語「井戸の茶碗」をやっていた。
この噺はなかなかTVでは見る機会もなく、しばしTVの前で拝見と相成った。
主人公の町人と武士、そして細川越中守さま、それぞれの人がその言葉つかいやトーンで絶妙に語られてゆき人物像が描き上げられてゆく。
落語という世界の奥の深さを感じる好演だった。

                   http://ginjo.fc2web.com/33idonotyawan/idonotyawan.htm

高木某なる人は架空の人物であろうが、「細川家家臣略系譜」をのぞいたりしてみる。
あのおだやかなしゃべり方をされる越中守さまは、何方なのだろうかと推理してみたり、落語の楽しみ方も私流である。

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安国寺の明智系図

2012-01-13 22:55:39 | 史料



 史談会の仲間でもあるT Drから、先にお許しを得て写真撮影をした安国寺所蔵の明智系図の読み下しの依頼があった。

この手の史料は写真撮影に頼らざるを得ないのだが、撮影の状態が悪いと再度撮影をお願いするにはなかなかいかない場合が多い。
まずはできうる範囲で読み下しをしようと取り掛かったが、量的にも多くどうなることやらなんとも難題が多い。

ふと暦を眺めたら13日の金曜日だった。

 

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書くことが思いつかない人のための文章教室

2012-01-12 16:49:26 | 書籍・読書
書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)

                        幻冬舎

    ブログのねたが切れてきたのは、勉強不足に他ならない。
 そうではなくて、ちょっと何かを書いてみたいと思うのだが、なかなかうまくいかない。
 子供たちのためにも書き残しておきたいこともあるし・・・ そろそろ齢70歳になる現実を思うといささかのあせりも出てくる。
 なにかヒントがないかしらと、覗いてみようというわけだ。

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