不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

高麗門記 -- 2

2013-04-21 15:30:05 | 熊本史談会

先に 高麗門記 をご紹介したが、白文でありなんとかお読みいただける方がお出でにならないかと念じていた。
今般MU様のお手を煩わせてこのように解読をいただくとともに、ご紹介することにもご理解をいただいた。

ここで述べられている事で注目すべきことは、高麗門を京観としているところである。
京観とはまさしく戦勝記念碑の意味であろう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E8%A6%B3 
多分蔚山城の門を解体して熊本の地に持ち帰り、戦勝記念碑的意味合いと共に、熊本城西南の地の守りとしてこれが建設されたことを物語っている。
時期が判らないが、この門は名前だけを残して櫓門に作り替えられた。

西南戦争においてはまさしくこの高麗門記にある如く、西郷軍は祇山=花岡山に砲を据え熊本城攻撃の足掛かりにしたのである。
熊本城防御の戦略上、重要な門として取らえられていたことが判る。

尚、これを著した人は中山黙斎(昌禮)で、家老有吉家家臣である。陪臣ながらも藩校時習館の塾長を勤め、又、「井田衍義」「度支彙缶(タクシイカン)」「肥後官員職領指掌図」「中山市之進上書」その他、有用な著作を多く著している。
これ等の功績により、藩は有吉氏に請い直臣ならしめんとしたが、「固く二君に仕へざる」義を主張して固辞したといわれる。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月例会

2013-04-20 14:27:17 | 熊本史談会

 10:00~12:00 史談会の四月例会に出席、実は今回から事務局を御預かりすることになった。今までは講師の先生を御招きして、お聞きすることに専念してきたが、今回からは会員の皆様の研究課題その他もろもろの事柄の発表を主として運営し、年に一回程度の特別講師の招聘や、各地の歴史などを見学するような小旅行の実施などを運営の方針とすることにした。自らの仕事として受け継いでみると、前任の中村勝氏(肥後金春流中村家当主)の御苦労の程が痛いほど感じられた。
そして新年度第一回として責任上、「綱利公に対する松井興長公諫言の書」をテーマとしてお話申し上げた。原文及び読み下し文、出典を明らかにした資料などを御渡しして1時間20分ほど説明した。

次回はビッグなテーマである。新しく会員として御迎えした大矢野氏にお頼みし、大矢野家から明治23年に宮内庁に献上され御物となった「蒙古襲来絵詞」についてお話を伺うことと成った。そして「蒙古襲来絵詞」の無彩色の巻物があるとの由にて、これもお持ちいただくことになったし、天草五人衆いらいの各種古文書を拝見することと成った。いささか強引なお頼みに快諾をいただき感謝を申し上げたい。
                                                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E 
                                                http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html

                      http://www.city.kamiamakusa.kumamoto.jp/q/aview/328/1208.html

史料つくりなどでいささか疲れも覚えた数日であったが、まずはささやかな歩みの一歩が踏み出せたことに感謝。
今後は当サイトを通じて、積極的に資料の公開などを行っていこうと考えている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肥後スミレではないようだけど・・・

2013-04-19 14:46:30 | 徒然

 現場の片隅でみつけたスミレと思われるこの花、葉っぱが少しギザ/\しているので一瞬「肥後スミレ」かと思ったのだが、茎が少し長く下葉もありどうも違うような気がして・・・・・一応撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪蔵屋敷-2

2013-04-19 14:09:31 | 史料

 「日本の古本屋」から購入した、大坂の歴史と文化財 第2号が昨日届いた。これにある「新出熊本藩大坂蔵屋敷絵図について」から引用させていただいた。
先にご紹介した中之島の図からするとこの絵図は天地が逆さまである。下が北で堂島川であり、上が土佐堀川である。
この絵図からはスケール感が沸かないが、あの中の島の南北の川に挟まれた地域であるから、相当な広さであることが判る。
堂島川から広大な広さの御船入レ入江が切りこまれていて、米を積んだ船が川をさかのぼりこの蔵屋敷に直接入ってきたことが判る。
藩士の名前が書きこまれていて、これを手がかりにいろいろ調べてみたいと思っている。

よくよく考えてみると、大坂にはもう30年ほど出かけていない・・・・・ 

蛇足
留守居として猪股才八の名前が見えるが、誠に偶然であるが、母の実家のT家はもともとは猪股氏を称し、大坂蔵屋敷にいたことが先祖附けにある。
二代程が大阪で過ごし後に熊本に入ってT氏と改めている。この猪股氏との関係は如何なるものだろうかと、また/\好奇心をくすぐらされる。
(いのまた氏は猪俣と書く場合が多いが、こちらは猪股だからどうしてもそう考えてしまう。) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内空閑記は

2013-04-19 08:31:45 | 史料

「山鹿郡城村籠城之次第」「隈部軍記」をおわり、次はどちらをご紹介しようかと考えていたが、「肥後国衆一揆」の全貌をとらえるのは並大抵の事ではない。
「内空閑記」については、どなたかがUPされていたことが記憶にあったので調べてみたら、次のサイトで紹介されていた。
                               http://www7a.biglobe.ne.jp/~k1058/kobunkensiryo10.html

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(192~196) 了

2013-04-18 11:20:21 | 史料

      雑花錦語集(巻百九十二)

1 浅野義臣追善詩
2 人麿を讃える和歌並序
3 宣命裏書
4 高倉院治承二年六月十七日延久のふるき跡を尋ねての御製
5 村上帝が夢で給ひたる御製
6 批把大納言の歌
7 後三条院実政朝臣への餞別の御製
8 菅丞相太宰府権帥の詩
9 慈恵僧正の起請文
10 葉室大納言の詩歌
      雑花錦語集(巻百九十三)
1 字読方
2 古書之抜書
3 藤崎宮桃燈之事
4 水野河内守井上筑後守秋山修理柳生但馬守四人ニ被仰付條々
5 高野山寺領寄附状
6 肥後熊本藤崎宮拝殿之昇之事
7 切支丹之事
8 異名分類
9 丹波国大江山願書
10 唐訓蒙図彙
      雑花錦語集(巻百九十四)
1 和歌
2 合志川芥に有之歌のこと
      雑花錦語集(巻百九十五)
1 必境肥後州十四郡又云肥后蒼霞草ニ薩摩之北為肥後図書編横直五百里宗史火児
2 風来山人
3 遼東
4 唐国及外国至長崎路程
5 珍魚之事
6 有職僧綱
7 切麦之粉合せ様
8 大風之節之事
9 官物記
10 菰蒙先生伝
11 異物之事
12 橋本和作御密柑船相勤頃日帰帆ニ而直ニ咄承候左之通 安永6年
13 安永7年京都源草検校十三回忌肥後杉谷勾当施主ニ而高麗門外於実成寺二月十
14 池部弥八郎春迫歴術ニ而年々月之大小壬月等見含之ため記置申候
15 燈心之事
     雑花錦語集(巻百九十六)
1 和歌
2 天皇御製集
3 釈門百人一首
4 萬葉和歌集等之撰者名附
                      (了)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隈部軍記 - 4 「 隈部親安城村の城ニ楯籠事 付 合戦之事 」  了

2013-04-18 07:00:27 | 史料

隈部式部太輔親安は混引に引て山鹿城村の城に楯籠る、其人数男女壱万五千余人 男八千余人、女七千余人、 内侍ハ八百余人也 ・鉄炮八百三拾挺内 七百三拾挺ハ方々ノ持口、百挺ハ浮武者ニ付 大手の大将は山鹿彦次郎重安、搦手ハ有働の一族有働志摩・同甲斐・同玄蕃・同掃部・同大膳・同左京・仲光五郎・山崎三郎・鉄炮百八十挺・弓百張、追手原口ヲ固めけり、同能登・同将監・筒間土佐・出田弥三郎・岡田三郎兵衛、鉄炮七拾挺・弓五十張、保柳口には隈部次郎親房を大将として、有働伯耆・高浜武蔵・進ノ惣兵衛・木原紹宅・冨田主膳・野田蔵人・宗利主水・角田河内・松尾源三郎・木原次郎・須賀山七郎、鉄炮百挺・弓七拾張、尾、口にハ有働駿河・同蔵人・村神軍次・高木万力、鉄炮六十挺・弓三拾張、出丸妙見口ニハ北里与三兵衛・常陸入道万鉄・千葉新助・有働左助・同帯刀、鉄炮百五十挺・弓百張、円通寺口には隈部五郎兵衛・大塚平次・関部玄蕃・木済少二郎・上科備後・関佐渡・同隼人・池部弥三郎、鉄炮百弐拾挺・弓五十張、浮武者頭有働孫市・同又七・糸木宮内、鉄炮百挺・弓百張・鎗百筋、惣物頭有働大隅兼元也、同八月七日佐々成政城村に発向し、日輪寺の上の斥候を上け、城の躰を見せ、大手原口より古閑の谷境ニ足軽を出し鉄炮せり合有所に、城村の足軽大勢打出候、是を見て成政の足軽大将相掛りに馳合、追手原口より半丁程近付ける、有働左京・糸木宮内・小場二郎三十余人切て出て追返す、同十三日佐々か兵庫口に攻懸、保柳口・円通寺口ニ押寄せたり、保柳口には数刻攻戦ひ相引にす、円通寺口ニハ佐々右馬頭を大将として、大軍押寄、鬨を作懸々曳々声を出して攻立る、味方も爰を専途と防戦といへども、ついには責破られ引色に成りける所に、大将親安鎗提け突て出れハ、持口の軍士立直し戦ふ半に、浮武者頭有働孫市・同又七・糸木宮内、尾崎より横合に懸り、際纔ニ五六間に成りし時、矢一筋・鉄炮一挺放すとそ見へし、鎗を揃へて突かゝる、寄手こらへ兼敗北す、右馬頭惣勢に後れ引けるを、隈部五郎兵衛か家人追懸けれは、右馬頭取て返し突伏せける、有働孫市・糸木宮内ハ遁すましと追懸候、右馬頭ハ石原渕ニて追詰られ、引へき所なく岩の上より飛けるを、二人も続て飛下り、孫市右馬頭を押伏せ、首をは宮内取にける、岩地蔵口ハ城第一の節所なれハ、はか/\しき兵もなく、防くへき方便もなき所に、成政か兵三百余騎にて押寄、責登り、已ニ危く見へける所に、円通寺の住僧は世に聞へし強勇にて、寄手大勢を物の数とも思ハす馳廻り/\坂を追下、岩の上より打落し、十死一生の働に寄手もあへて近付得す、木原藤兵衛ハ兼て聞へし強弓の矢継はやなれハ、下り挙に散々ニ射る、有働孫市・糸木宮内、岩地蔵口難儀なりと聞、敵の後陣より打て懸り、火花を散し責立れハ、流石の大軍なれ共我先ニと敗北す、成政か物頭赤沢左近・高木左エ門取て返し働きけるを、有働又七郎鑓を合せ、二人共に突伏ける、親安か近習中原修理・河井権助・牧野主殿ハ群に抜て働ける、中原は城下の川中ニて太刀打しけるか、刀鍔元より打折けれハ、透さす敵を引組、水中ニて取て押へ、首搔切て立上る、牧野主殿も川中ににて戦ひ、敵を組伏せ首を取、川井権助は能き武者三人、馬上より切て落す、其外敵を討取者勝て記しかたし、同十三日、敵円通寺口より押寄、鯨波を吐と上る、城中よりも鯨波を合せ、互ニ矢合初り、夫より味方も城戸を開ひて打て出る、味方陣中より木場太郎左衛門と名乗打てれハ、敵方よりも水野六左衛門と名乗切て出、互ニ秘術を尽し戦しか、ついに水野、木場を切伏せ首を取、是を見て城中より三人切て出、水野を中に取込戦ひけれ共、勝成屑共せす、三人共ニ弓手馬手ニ切伏せ、暫く息つき居たりける、勝成に続て道家次右衛門・鈴木小左衛門・浅井喜太郎・鬼田将鑑・原半左衛門各敵を討て首を得たり、山田庄大夫ハ劣るまし進ミ出しか、城中より打出す鉄炮にて眉間を射れ、二言共なく馬より逆さまに落て死にけり

       佐々成政附城を構事
係る所に隈本より、国侍一揆せしめ城を囲み攻る事甚(以下欠)

 

       右隈部軍記残欠謄写之、後人得全本て可補者也 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(187~191)

2013-04-17 08:49:03 | 史料

     雑花錦語集(巻百八十七)

1 しゅ語体式
2 何知歌七言訣
3 五露相
4 五帯殺相
5 六悪相
6 六賤相
7 論婦人十賤歌
8 論淫相秘訣
9 論衣食刑尅秘訣
10 論尅夫尅子秘訣
11 養子秘訣
12 隠居聯
13 白石詩集序
14 白石詩草叙
15 奉送朝陽藪先生之京
16 奉呈南肥文学朝陽藪君
     
    雑花錦語集(巻百八十八)
1 飛登利古登
2 さし芽の事少々
3 祇園社司之事
4 婿に水をかくる事
5 謠番組目録當百番
6 蘭曲之目録并諸謠
7 渡唐船法渡條々
8 夢窓国師尊氏将軍教訓十三ヶ條
9 江戸新吉原五町之青樓門名
10 信州筑摩郡木曽上松駅寝覚浦鳥寺略縁記
11 川越名号略縁記
12 七日御出候節御供町之次第
13 智恵の板切形七枚
14 ガイ嚢鈔抜書
     雑花錦語集(巻百八十九)
1 大阪ノ陣の事
2 ものの始りの事
     雑花錦語集(巻百九十)
1 漢詩文
2 池辺家茶杯記
3 奉従西帰紀行
4 村井見朴療沢氏医按
     雑花錦語集(巻百九十一)
1 和歌
2 阿蘇参詣道々之記
3 梁塵愚業抄神楽歌

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隈部軍記 - 3 「隈府城陥事 付 隈部親安敗軍之事 」

2013-04-17 07:39:39 | 史料

夜明けれハ、成政か方より使者を以親安か陣ニ、軍評議を遂すへく候条、御出可有之旨三度迄、親安ハ相承 刻限も相違致し、成政が使も甚急なれハ、心得がたく、何レ城中ニ変有と覚たりと末言も終らさるに、外聞の者、城中ニハ多久大和大勢を引て成政ニ降り、富田一族も討死仕たる由を告来る、親永左こそあらめ、此上ハ討死する外なしと云所に、成政か使来り、早々御急御出有へしとそ申ける、親安ハ成政か使を搦捕り、首を切て陣頭に曝し、必至と極めて扣へける、城中ニハ多久降参・冨田一族が討死にて、親永も勇気衰へ、是非なく剃髪染衣の身となり、二男次郎親房を伴ひ降参せんと有けれハ、傍ニ有ける木場・神崎・高木・岡田・村神・山崎・大塚・出田・仲光・須賀山・池部の一族百五拾八人、言葉を揃へ、こハ云甲斐なき御事哉、降参まします共、陸奥守殿いかてか許容有へき、斯て親安の御陣ニ馳着申さんニ、何の堅事候へしと、親永を中に引包み、一文字ニ突て出、真地暗(マッシグラ)ニ打て掛り、鍔を割、鎬(シノギ)を削、白刃に火を散し、なんなく打破り、裏へ颯と懸抜け、親安の陣に馳加る、此時三拾弐人は打死す、二郎親房ハ冨田主膳・野田蔵(人・脱ヵ)・宗利主水・角田河内の主従五人、高塚と云所ニ上り、是より親安の陣に加ハらんとする所に、多久大和か弟須屋源五郎百余人ニて馳懸来る、富田・野田ハ宗利・角田ニ向ひ云けるハ、各は二郎殿の御供して急かるへし、我々ハこゝにさゝへて戦うへし迚、両人取て返し、各四尺計りの太刀を振、大勢の中に破て入、火花をちらし、死者狂ひに戦へハ、野田ハ近付者八人切伏る、富田ハ七人討取れハ、須屋かなハしとやおもひけん、鞭を揚て逃けるを。冨田追かけ馬より切て落す、大将討れ、残党全からす我先にと落行を、野田ハ声かけ、きたなし返せと競ひ掛つて呼ハれども、返し合する者もなく、跡をも見るすして走りける、富田ハ須屋か首搔落し、二人静々と引退く、宗利・角田ハ二郎親房を肩に引かけ、親安陣に馳着、しか/\の由を物語ける所、富田・野田ハ血刀をふりかたけ、須屋か首を提け来りけれハ、各驚き人間の業にはあらしと感しける、係る所に大軍鯨波を作つて押来れハ、有働大隅か曰、斯勝ほこつたる大軍に、纔(ワズカ)の勢にて戦とも、勝利を得る事堅かるへし、一ト先ツ城ニ御引有て然るへしと諌けれ共、親安あへて承引なく、群かる敵に打てかゝり、散々にいとミ戦ふといへども、なしかはたまるへき、つゐにハ親安討負て、従兵四方ニ落乱す、親安の家臣山鹿四郎と云者、成政か家人鈴木彦市と引組て彦市を取て押へ、已に首をかゝんとする所を、鈴木が下人折重て山鹿か首を取にけり、有働ハ数ヶ所疵を被るといへとも親永の側を離れす、馬の頭を引返し一先ツ城村の城にかへり玉へと諌けれ共、親安承引なく是非に討死せんと鞭を打て進みけるを、有働はたと白眼(ニラ)み、馳引を知らさるを良将とハ不申、軍の勝負ハ時の運にて候得ば、爰を軽々と引取城村の城に楯籠り防き戦うものならハ、其内にハ味方の勢も出来候ハん、はや/\爰を引せ玉へと諫をなし、死残たる者共ハ跡より続へしと呼ハり/\山鹿をさして引返す、成政ハおもひのまゝに勝利を得、隈府の城には城番を置、七月十八日(廿カ)口の成政出馬ハ廿六日ト有、帰陣は十八日有、如何 帰陣し、隈本の城に篭置たる所の人質を悉く追出す、其中ニ冨田安芸か末子棒千代とて十歳に成けるを、したしき者見逢て、安芸か妻山本に隠れ居けるに遣しけれハ、斜ならす歓ひ暫の程は忍ひ居けるか、行末いかなる憂目をや見んと安き心もなかれハ、せめては桑門の身ともなし親兄弟・其外一門の菩提をも弔せはやと、玉名郡西安寺 正応元年相良建立の地今ハ廃寺となる に連行、寄方なき狐にて候へは出家の身とも成し一門の菩提を弔せ度存候旨、宜敷御世話被下かしと涙を押へ懇にぞ頼ミける、和尚も涙を流し、某とても其古へハ同道より出し身なれハ人の上とも思ハれす、必こゝろに懸け玉ふな、某いたわり参らすへしと、情も厚き言の葉に、母は嬉しく、いとゝ涙にむせひつゝ、いとま申て帰りける

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(182~186)

2013-04-16 10:42:04 | 史料

     雑花錦語集(巻百八十二)

1 御社参草
2 大倭本草之内
3 大友真鳥実記目録全部十四巻
4 本朝武家高名記之内
5 嶋原軍記之内抜書 百八十巻洩れたる覚
6 ふくろうものがたり
7 田中八郎兵衛事
     
    雑花錦語集(巻百八十三)
1 獨角獣など語意
2 川魚ノ名
3 織田信雄秀吉会盟之事
4 姓氏録
5 公家名集乗之内唱
6 官名外記方
7 又官方
8 蔵人方
9 女役
10 北面十七人苗字
11 御隨身三十九人苗字
12 瀧口十二人苗字
13 楽人九十六人苗字
14 宮御門跡方法親王
15 御比丘尼御所
16 摂家御門跡
17 准門跡
18 親王家
19 御姫宮方
20 京都用事之町人
21 諸方絵図所
22 京都役者之名
23 群書拾よう抜書
     雑花錦語集(巻百八十四)
1 江戸下り狂歌
2 志水晩秋八十歳賀之和歌
3 ある双紙の歌
4 由井正雪自害の節の辞世
5 古町順正寺住職の歌
6 加々長意東武に参り道すがらの旧跡産物等題としての発句 明和元年
7 万里小路亜相卿の女肥後に縁結ひし言葉おかしきと興がる歌を詠したまひし
8 森本一瑞七十の賀之歌
9 中村資民白萩を送られけるに礼として送る歌 (長意)
10 女教訓の歌
11 酒教訓和歌
12 正月十一日江戸御城御連歌
13 素貞の歌
14 明和9年2月29日大火江戸中過半焼亡之節落書狂歌
15 手馴草
16 我国の名ある所々の品を手折つひろひつかぞへての歌
     雑花錦語集(巻百八十五)
1 和歌
2 山崎京町贈答
3 明和元年琉球人来朝之時和歌を詠す
4 古歌の面白数々     
     雑花錦語集(巻百八十六)
1 河尻若宮御祭礼次第
2 画工略系
3 内侍所
4 住吉大明神
5 祈雨之事
6 相撲博奕
7 蹴鞠
8 馬芸
9 虎が塚
10 奥州信夫文字摺石
11 七嶋之事
12 信州諏訪七不思議
13 九百年来売家
14 少年失数
15 外宮権祢宣事
16 宿執
17 絵之事
18 狼の事
19 森鏡邪正録十巻之内荒増之説
20 落書
21 他国より罷越候曲馬乗之事 安永5年10月
22 伊ノ字
23 てこの事
24 髪毛の事
25 朝臣の事
26 義経の事
27 八木守り
28 曽呂理の答話
29 鵙のくさぐさ
30 無間鏡
31 女夫石乃記
32 木綿の事
33 曽我兄弟之塚
34 仲哀天皇陵并神功皇后陵
35 だてといふ事
36 高祖聖人御自作木像略縁記
37 肥後国熊本明専寺
38 武勇
39 管絃
40 を文字の事
41 尚歯会
42 禁中御間之絵之事
43 中将姫之語
44 松井左伝太屋敷ニ而曲馬有之其節之曲馬之名 安永6年11月14日
45 大小之文字 安永6年
46 三河国八橋略縁起
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隈部軍記 - 2 「多久大和降参之事 付 冨田安芸討死之事」

2013-04-16 07:19:53 | 史料

然といへとも成政囲を解されハ、親永ハ且恨且憤り、千悔すれとも甲斐ぞなき、此上ハ是非ニ及ハす、思ふ程戦て討死するより外なしと、老臣冨田安芸宗治・多久大和宗員・小場常陸重実を初、諸士列座ニて評議一決して、明朝城戸を開き打て出、一戦の下ニ成政と雌雄を決すへきにぞ極りける、親永曰、此節の合戦ハ国守に対しての戦なれハ、千ニ一つも勝利を得る事堅(ママ)かるへし、只今父子不和なりし雖(イエドモ)死を共にせすんハ、世の人口後代の恥辱たらむ、此儀心懸りなり、親安か家老有働大隅ハ冨田安芸か婿なれハ、親き者を遣し、大隅に斯と沙汰致すへしと有けれハ、富田安芸畏て同姓兵庫を遣しける、兵庫山鹿ニ着、有働ニ対面致、右の趣を相達す、大隅兵庫を私宅ニ止め置、親安の前ニ出、爾々の趣を相達す、親安の曰、某も斯社(コソ)思へり、今父子義絶すといへとも、義によつてハ止事を得されは也、子として父の討死を余所に見るの法やあるとて、返書を認め、有働ニ渡されける、有働ハ親安の返書に私の状を添、兵庫ニ渡し、大隅か曰、明朝未明ニ城中ニ狼煙を揚け打出玉ふへし、親安は玉章(ママ)寺原に勢を伏せ、成政か陣の後より責戦ハ、一戦の下ニ勝事を得へしとそ申ける、兵庫ハ急き帰て返書をそ達ける、親永大に歓ひ、け様ニ割府を合たる如くにして戦ハ、成政を討ん事掌の中に有とて、夫より先手分を定むへしと小路口よりハ冨田父子切て出へし、後陣に某続くへし、御所小路口より多久大和・小場常陸突て出へしと極め、各持口ニ帰り明日を遅しと待にける。式部大輔親安には陸奥守成政か方より使者を以、足下父子義絶の旨承り候、此度の合戦は隈部家を断絶せんとにはあらす、親永非儀の仁たるにより、誅戮のため出馬せり、足下父子義絶之由承届候、此度某に属し城を御責候ハゝ、隈部領無相違相渡へしと申遣しける、親安ハ願幸と心中相歓ひ、被仰下趣承知仕候、任御差図人数可差出と返答有之、使者を被差返、其趣を父親永の方へ内通し、従弟山鹿彦次郎重安と共に佐々か陣所より川を隔玉正寺原ニ陣を取、相図の時刻をぞ待にけり、爰に親永の家老多久大和宗員つく/\思案しけるハ、此度成政を討取とも、当国を領せられん事ハおもひもよらす、所詮佐々殿に降参いたし、隈部領半分にても賜り後栄を期すへしと、弟須屋源五郎を招き密談し、郎従・与力の者千五百人を引連、成政に降参す、富田安芸此由を相達、親永ハ暫く忙然として云(言ヵ)葉なし、良人の大和、先々誅戮せさりし事の残念さよ、只今残り止る者何程か有、安芸か曰、百八十騎ニハ過不申とそ申ける、親永の曰、嘸(サゾ)足浮て覚らん、乍去係る時節に残り止る者ハ皆金鉄の士也、一騎に千騎をも代ゆへからす、然し諸軍の心をしつむる為、何れも人質を出すへしと有けれは、富田安芸畏候とて、宿所へ帰り妻女を質に出しける、安芸か嫡子飛騨は猶も心元なく、夜廻り致し城中を通りけるニ、母ニ行逢、何方へ越給ふやと尋けれハ、しか/\の由を答らる、飛騨か曰、此儀ニおいては存旨候得ハ、是より御帰り有へし、某本丸へ参り相断可申と母を止メ、親永の前ニ出、父安芸に人質の儀被仰付候由、母罷上居候処、某夜廻仕候道筋、御城内ニて行逢候故、母ハ宿所へ差返候、其故ハ、今宵人質を出し置、明日討死仕とも、富田も多久かことく落度社(コソ)有つらめとも、質を取られ是非なく討死致したりなんどゝ、人口ニ加らん事、尸(屍)の上の恥也、願くハ御赦免可被下と涙をうかべて願ける、親永の曰、是全く汝等か一族疑ふにあらす、城中の者共か心を定んか為也、左程におもなひハゆるすへしと有けれハ、飛騨大ニ歓ひ、母と共に帰り、斯と語りしかば、安芸大ニ怒りて、某壮年の昔より今老年ニ至迄、一事として君命ニ背す、忠臣を戴きて私なし、然るに明日ハ討死致すへき身か、今宵に至り仰を背く事有へからすと、再ひ妻を本丸にそ遣しける、斯て安芸は一族を集て曰、今度の合戦ハ仮令一旦勝利を得るとも国守に対しての軍なれハ、運を開く事有へからす、なましいに命なからへて、多久かことき二心もあらんかと一族評議相決し、翌日城戸を開き打て出る、敵方ニは多久か知らせにて城中の手配こと/\く聞へけれハ、其覚悟にて相待処、富田か一族纔(ワズカ)の人数といへとも、何れも必至と極め、槍を揃へ突掛り、裏へ颯とかけぬけて二段の備へに斬て入、火花散して戦ひける、敵兵数多討取といへども、寄手は大軍、味方は纔の小勢にて一騎も不残討死す、寄手には水野六左衛門勝成、敵を討て高名す 此勝成和泉守定重か嫡、父子義絶して成政に属す 、相続きて小谷又右衛門・松下弥兵衛も高名す

                                          ◆  ◆  ◆

   水野勝成の働きについては、別途「佐々傳記」には次の様にある。

   八月十三日、円通寺口におしよせ戦うに城中より小場太郎左衛門と名乗りて出でけるを水野六左衛門(勝成)懸け合せ、小場を切伏せ首を取る、是を見て
      城中より三人切り出て、水野を中にとりこめけれども勝成屑(ものとも)せず三人ともに弓手馬手に切りふせてしばし息つき居たりけり。

   蛇足
   熊本で藩校サミットが行われた折(平成20年6月)水野家現当主の水野勝之様もご出席になった。その席に小場一族のご子孫JK氏(熊本史談会会員)も
      出席され、しばし敵味方・首を討った者討たれた者のご子孫の顔合わせがあった。恩讐を越えての和やかな出会いであった。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂蔵屋敷

2013-04-15 10:36:25 | 徒然

 

大阪古地図物語(毎日新聞社・昭和55年7月30日発行)にある、現・中之島界隈の図(年代不明)である。右端に肥後橋がみえる。
このあたりに細川藩の蔵屋敷があったことから肥後橋の名が残されているが、文化三年の図によると上記図の如くに場所がかわっている。越中橋の名前も細川家蔵屋敷に由来するものであろう。

大阪市文化協会の「大阪の歴史と文化財・2」に、「新出熊本藩大坂蔵屋敷絵図について」という論考が載せられていることは以前から承知していたが、いささか時間を浪費させてしまった。昨晩「日本の古本屋」でこれを発見、早速注文をした。待ち遠しいことではある。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(175~181)

2013-04-15 09:36:41 | 史料

     雑花錦語集(巻百七十五)

1 平将門献太政大臣状
2 證疑
3 川中島合戦辯
4 宇治大納言源隆国伝補遺
5 中央山妙法教寺記
6 御製康煕字典序
7 勅敬書 (辨似ニ字相似)
8 下総国真間井銘
9 番神略記
10 吉田兼益記略示
11 経王護国論
12 淨土血脈五重相伝
13 佛法僧三宝
14 日蓮御書
15 煙草
16 文体明辨附録
17 錦文廻文せんき図詩
18 読法略例
     雑花錦語集(巻百七十六)
1 宇土三宮社御祭礼
2 祭り之次第
3 諸国名高品々
4 祖師の事
5 目耳の事
6 隠居の懐中
7 諸社本地大概
8 社々禁忌大概
9 日本国図 (三才図会地理十三)
10 担波国獅子図
11 新字
12 物の名
13 不老不死の弁
14 太閣龍宮状之事
15 犬之事
16 保命訣法
17 毎年御献上外之名物
18 薬種之事
19 いりこの煮様
20 抜参夢物語
21 抜参夢物語 弘法大師俗説之辨
22 抜参の辨
23 奇妙不思議の辨
24 旅行の辯
25 道中難儀の辯
     雑花錦語集(巻百七十七)
1 七夕の歌
2 西行の歌
3 米田是言の歌
4 むしの歌合
5 歌仙楓引歌
6 火よけの意
7 歌の書様 (藤原 忠輔)
8 喰あわせ日毎の杖 (桃林)
9 狂歌集
10 新選狂歌集
     雑花錦語集(巻百七十八)
1 或る人の記置たる書付
2 へびりの月
3 奥州女よりつかはし之文
4 八卦正象
5 大秘記
6 四戦紀聞
7 白澤
8 甲身
9 奥兵かい式
10 頭ぼう
11 馬甲
12 角觝図
13 文字近考
     巻百七十九は欠本
     雑花錦語集(巻百八十)
1 諸禽之相状 (王達蠡海集)
2 新語園之内
3 年中之俗説
4 御祭礼規式
5 八物湯妙薬評判
6 法念寺之事
7 奥州仙台敵討之事
8 嶋原記抜書
     雑花錦語集(巻百八十一) 
1 歌舞妓年鑑
2 しゅ窩酒令
3 しゅ窩譜式
4 算細数長短法
5 斤秤物軽重之法
6 解粟数多少之法
7 田畝数
8 産数
9 抄数
10 大数
11 小数
12 保養
13 京町仏厳寺ニ而稽古狂言 安永4年7月5日
14 子供のあそび
15 文月七日織女に奉る花首を秋の七種と云
16 伊藤保喬致任して長シと云此人去御方より紙子の羽織をもらいしに襦皆に雲龍
17 龍聾
18 戯譚
19 節用抜書
20 にほひ袋
21 にほひ袋の方
22 聞書
23 長者山をよむ歌
24 同きんぜいの歌
25 ひんになる御うの歌
26 貧福ともに心得べき歌
27 老の後心得べき歌
28 やうじやうの道に心得べき歌
29 友に善悪の歌
30 すべて世の中に善悪の歌
31 俗説
32 漢名未詳類
33 本朝書所載物名文字
34 蝋燭ヲ製スル物
35 日本古書及世俗誤訓倭名
36 諸魚ノ気四時ニヨリ盛衰
37 日本ニ上世ナク後世中華及外国ヨリ来ル物
38 足多少之説
39 物産有無同異
40 数目類
41 天地間正気生者
42 化生ノ内類ヲ以化スル者
43 灸治
44 夜有光物類
45 石類ノ内并穀類之内
46 凡草木ノ牙枝トスベキ物
47 杖ニ能物
48 長寿之事

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隈部軍記 - 1 「肥後国侍本領安堵の事」

2013-04-15 07:24:55 | 史料

              肥後国衆一揆の発端となる、新国主佐々成政の隈部氏攻めから、城村城攻めにいたる始終を「隈部軍記」に伺う。
              肥後古記集覧巻十から引用する。

                                         ◆ ◆ ◆ ◆

天正十五年、関白秀吉公、嶋津御征伐御凱陣の刻、肥後の国侍奉拝謁、武備優烈の聞へ有輩には本領の外加増の地をも賜り、国の守護職を佐々陸奥守成政に被仰付、諸国侍相良頼房ニ本領五百町、伯耆顕孝ニ同五百町、城十郎太郎久基ニ同八百町、内空閑刑部大輔鎮房・同備前守鎮照ニ本領五百五拾町の外、玉名郡江田村用木村ニおいて五拾町加増、和仁勘解由親実ニ本領壱百五拾町、大津山修理介家稜に同三百拾弐町、辺春能登守親行ニ同百弐拾町、臼間野太郎宗郷ニ同百七拾町、隈部但馬守親永ハ本領八百町の外、川尻走潟ニおいて三拾六町加増の地を賜り、其外小代下総守・天草伊豆守・志岐林専・大矢野・高森等を初、何も本領安堵無相違賜りけり、佐々陸奥守成政ハ同六月六日入部有て隈本の城に移りけれハ、国中の諸城主登城有、釣命の趣政令す、国侍各無異議礼を相述、斯て其後成政つく/\思案されけるハ、当国ハ久敷守護迚(トテ)もあらされハ、国中の田畑験地せしめ、今迄何町何反と云しを、何拾何石と究むへしと、其旨を沙汰致し、生駒小千と云者に竿を打せ、今迄ハ三百六十歩を以壱反と云しを、是より三百歩を一反と定む、是を生駒竿と云、然処に隈部但馬守親永、其儀ハ本領八百町の外加増の地とも玉ハり、秀吉公御朱印も致所持居候得は、験地の儀は御容赦可被下旨、再三雖相断、成政無承引、験地の儀は国中一統の事ニ付、隈部領迄容赦難成是非、及異議令領地没収へしと、成政怒り大かたならすと聞、某代々の領地、秀吉公より加増の地をも玉ハりし事なれハ、何そ成政の栽配ニ頂へき訳なし、外々ハ兎もあれ某の領地の儀ハ験地の儀ハ難成由を被申ける、成政安からす思けれ共、事ニよせて計るへしと内謀を廻しけるは、幸日吉太夫居合候へは、各為饗応として城中ニ能興行いたし候間、為見物御登城可有之由、廻文を出されけれる、各登城有へきに極ける、然るに城十郎太夫久基ハ成政か内謀の事を伝へ聞、隈部内縁の事なれハ密に親永ニ告知す、親永ハ左社(コソ)有へき迚病気と偽り出仕致さす、成政謀のならさる事を深く憤り、甥の佐々与左衛門宗能 宗能ハ成政姉の子、良峯氏也、後ニ成政佐々の号を与へ同姓とす を惣大将として、家人前野又五郎忠勝・久世又助・三田村勝左衛門ニ三百余騎を添、隈府の城ニ差向る、成政か曰、隈部多勢にて責かたくは急ニ註(誅カ)をすへし、某出馬して討へしとぞ申ける、親永ハ兼て期したる事なれハ、兵粮・粕藁に至迄沢山ニ積貯へ、其勢千八百余騎にて楯籠る、寄手此躰を見て成政に斯と註進す、依之七月廿六日、自六千余を率て隈府に(のカ)城ニ押寄、犬の馬場口陣を取、城中ニ使者を遣し、御辺逆心と沙汰有て(にカ)よつて、某出馬せり、逆意を翻し和予於有之ハ、望ニ任せ験地も致す間鋪候間、於承引は各人質を出さるへくとぞ申遣ける、親永の返辞曰、某此節の籠城ハ、領地を験地の儀再三及断候儀、甚御立腹有之、某可有誅戮御内謀の由を承り、不得止事、及籠城候、験地の儀有御赦免て事故なく、本領安堵無相違仕ニおいてハ、莫太の御恩なるへし迚、上下九人の人質をそ出されける、

 

             蛇足 : 幕末の佐々友房、現代の佐々敦之に至る熊本の佐々家は 佐々与左衛門宗能 を家祖としている。
                細川家家臣として初代勘兵衛が召出(200石)されるのは、元禄八年(1695)綱利代である。
                実に108年の刻をへているが、肥後国が佐々氏を迎え入れるためにはこれだけの日時が必要であったのだろう。

                水戸光圀の家臣・佐々助三郎が「大日本史」編纂のための史料収集に熊本にやってきたのは、貞享2年(1685)のことであった。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(171~174)

2013-04-14 06:43:26 | 史料

     雑花錦語集(巻百七十一)

1 生源寺氏の東武に赴頃銭別の歌
2 節用集などにある陰陽師のたぐひの物知りのよみ置る歌
3 六歌仙
4 新六歌仙
5 家三代集撰者之秀歌 千載集 (俊成)
6 新勅撰集 (定家)
7 後続撰集
8 山家集 (西行)
9 女三十六人歌会
10 和歌三神
11 二聖
12 三十六人歌仙
13 女百人一首
14 清水の池序
15 最明寺殿教訓百首
     
     雑花錦語集(巻百七十二)
1 山城国貞女の歌
2 恵方の春駒という双紙の狂歌尽
3 小野小町歌
4 右大臣家の寝殿あらたに作りたる時の歌
5 長崎仁助狂歌家集
6 漢和誹諧
      雑花錦語集(巻百七十三)
1 十幹異名
2 十二枝異名
3 地震之占
4 異草両品
5 正月
6 唐尺
7 蓮莱山
8 二十四節并漏刻
9 帝王称号
10 院号
11 春宮号
12 親王号
13 后宮号
14 大内之所々之殿
15 氏姓記
16 住吉大明神白楽天詩歌贈答の事
17 長曽我部系
18 船留魚
19 美人蕉
20 檀特花
21 鳥羽絵
22 始祖
23 蟠龍子井沢長秀先生輯録之書
24 髑髏の文を見る
25 日本九品淨土
26 五嶽
27 十二光佛阿弥陀之称号
28 三所蓬莱
29 三家
30 三如来
31 四州
32 三車
33 二十五菩薩
34 三笑
35 商山四皓
36 竹林七賢
37 白楽天九老
38 十哲
39 二十四孝
40 六腑
41 六通
42 八功徳水
43 八珍
44 二十八品
45 八苦
46 八福田
47 八災
48 八大地獄
49 八大龍王
50 七佛
51 六義
52 五刑
53 五襄
54 五種不男
55 五種不女
56 漢音異音之事
57 衆生以十事為悪
58 鐘馗の像の説
59 手譚池の説
60 百姓の事
61 官名の事并雑事色々
62 仏像光出石に字入事
63 信天翁之事
64 鏡に佛影をあらはす方
65 房中の術
66 咄一ツ
67 カウライ文
68 歌仙紅葉名目

      雑花錦語集(巻百七十四)
1 同字異字
2 古文字
3 築田勉九郎事
4 浮田秀家の内室の事
5 金山堀候節之入用諸道具之名
6 近江八景席
7 鳳議山聖護寺当国鎮守阿蘇大明神御宝前発願起請文之事
8 細川武蔵守頼之義満公御近衆之人々江内法掟之条々
9 諸国年中行事
10 身持之事
11 六芸
12 日隈の異名
13 京都七人衆
14 平安城西京町之名
15 阿蘭佗作文字
16 日本製作文字
17 奉書紙之事
18 京西陣織物羽二重のこと
19 大坂町人よりの書面
20 茶之事
21 宇治御茶師御通御用衆三十三人
22 唐国之様子漂流人共江相尋候趣申上候書付
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする