津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本地名シンポジウム「宇土半島の地名と風土」

2015-09-21 11:57:51 | 講演会
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■実学党政権崩壊の一因・・長州奇兵隊

2015-09-21 10:15:43 | 歴史

 「肥後の維新は明治三年に来ました」とは徳富健次郎(蘆花)の著「竹崎順子」に出てくるフレーズで、歴史研究家も好んでこの言葉を使っている。
然しながら実学党政権は僅か三年ほどで崩壊した。その原因の一つに挙げられるのが、河上玄斎と長州奇兵隊の影である。

あの高杉晋作が作り上げた奇兵隊は、四強戦争の小倉戦争で勝利するなど歴史に名を残したが、維新後平民出身者は論功行賞もなく解雇された。
高杉晋作が存命であればどうであったろうか・・・。1200人ともいわれる奇兵隊の不平分子が騒動を起こし、これに一揆衆も加担して一時期その勢力は多大なものとなり、長州政府を震撼させた。大村益次郎が死んだのもこの騒動が原因している。
高杉の奇兵隊編成は方便であったのか、彼はその将来がこのようなことになる事を予感していたのだろうか。
何時の時代でも使い捨てにされる人たちが存在する。

奇兵隊に大楽源太郎成る人物がその首謀者と目され、彼はかっての知人、肥後の河上玄斎がいる豊後鶴崎にのがれ匿われる。
幕末の四大人斬りの一人とされた肥後尊王攘夷派の河上は、維新後もその行動が危険視されたいたが、のち大楽が捕らえられたあと二卿事件や広沢参議の暗殺事件にも関係ありと疑われ、鶴崎での職を解かれ江戸送りとなり後斬首された。

これらの一連の事件が実学党政権崩壊の一因だといわれる。急進的革新的熊本藩の体制を瓦解させた。 

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