津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■白金邸

2015-09-29 18:21:46 | 古写真

                                         

  細川藩中屋敷白金邸とされる写真である。二階建ての長屋が続き、左手に玄関を思わせる建物が付きだしている。
これが白金邸のどの位置にあたるのかいろいろ調べているが、良くわからないでいる。
何方かご存知であれば何卒ご教示給わりたい。
  

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■金御紋御先箱御免之一件

2015-09-29 08:45:21 | 史料

                        おもての行列 なんじゃいな 紀州の殿さま お国入り
                          金紋先箱 供ぞろい お駕籠のそばには ひげやっこ
                             毛槍ををふりふり やっこらさの やっこらさ

 これは大正から昭和初期にかけて歌われた童謡「毬と殿さま」(作詞 西条八十 ・作曲 中山晋平)の二番の歌詞である。
行列の先頭を進む金紋先箱(挟箱)は大名の家格を表す大事なものであった。 ここでご紹介する金御紋御先箱御免之一件によると、細川家に於ける特別な由来が記されている。つまり幽齋公が後水尾帝の要請を受けて田邊城から出るとき、古今集が入った金紋の箱を先頭にしたことに依るとされている。大名家二百五十家程の内、金紋先箱(挟箱)が許させるのは二十家程だとされる。
そんな中でもまさに由緒正しい細川家の格式である。



                              金御紋御先箱御免之一件 

                      一、安政四年丁己三月九日牧野備前守様(老中・長岡藩主)ゟ被差出候御留守居名前
                        之書付左之通
                        越中守家ニ而所持之先挟箱之儀ハ對鑓為持候節ハ草覆
                        取相用候家格ニ而嘉永六年對鎗御免之砌先格草覆
                        取相用ケ様仕度奉伺候処不苦旨御差圖被成下尤御倹約御
                        年平日ハ先是迄之通草覆を掛ケ為持御大礼并布衣供
                        召連候節ハ不苦旨も御差圖ニ相成申候 當家先挟箱之儀ハ先祖
                        幽齋
                        天子之御師範として禁裏江和歌為御傳授丹後國田邊
                        ゟ上京之節金紋之古今箱行列之先ニ為持上京仕候 右は慶
                        長五年夏 権現様會津御發向為御先手嫡子忠興ハ出
                        陳幽齋ハ小野木縫殿介大将ニ而其勢一万五千余国中亂入
                        忠興出陳之留守ニ而城中無勢騎士僅ニ不過五拾人手痛く
                        責寄候へ共望固ニ防戦及籠城候処
                        帝後陽成院此事を歎キ幽齋打死セハ本朝之神道之奥儀
                        歌道の秘密永く絶て神国之掟空敷成べし古今之伝授
                        禁裏江残さるべしと九月三日三條実條・中院通勝・烏丸
                        光廣 前田茂勝を被召連両軍和議之 勅使として丹後江
                        下向寄手之将へ 幽齋之文武ニ達シ殊ニ大内ニ絶へける古今
                        之師範たり 神道哥通の国師ト称ス 幽齋命を殨サハ誰カ傳
                        ヘンや速ニ囲を解へき旨被命将江各奉領掌於城内も
                        幽齋 叡慮之趣奉畏其砌前文之通和歌為御傳授上京之
                        節之行列格別之例を以代々對鎗為之節ハ金紋先箱相
                        用来り申候御倹約御年始當年迄ニ付明年ゟ平日共草覆
                        を取可申候へ共對鎗ニ相對シ金紋を・・・・・・・・・・・・・・・
                        禁裏ゟ拝領之■旧来訳彼意を以何卒此節ゟ平日共草覆
                        を取相用不苦候様被成下度此段重畳之御内意申上候様申付候
                        別紙家譜之内書抜相添置申候以上
                              三月九日       御名
                                             家来 吉田平左衛門

                           細川家家譜之内
                        當家年頭七五三之規式先祖幽齋古今傳授之時拝領之
                        規式也 祐筆所を御所(方)ト云も右御傳之訳故なり行列之三ツ箱
                        も同様之事ニ而 禁裏ゟ拝領之御色紙箱を以今ニ右之
                        通是等皆幽齋以来之家格也
                           家中片岡恒知ト申者元禄四年衣紋方為稽古上京
                           山科尭心ニ入門之節覚書之内四月六日之条ニ細川家行列
                           為持ニ相成哥箱ハ如何成訳ニ為持ニ相成候哉定而幽齋時代
                           より之事ニ而御座候哉と山科殿へ御尋申上候処御■
                           幽齋田邊ゟ和歌為傳授状況之節金紋之古今箱行列之
                           先ニ為持上京有之其例ニ而今ニ金紋先箱為持と相成
                      一、同年九月九日備前守様ゟ御留守居呼出御渡之御書付左
                        之通
                        此節ゟ草覆を取相用不苦候事          諸書抜茟

 

 尚草覆という文字があるが、四ヶ所ほどこの文字がありこのようにしか読めないのだが、ひょっとしたら革覆なのかもしれない。
 ともかくこの先箱を何かで覆っていたものを、特に細川家ではこの覆いを外して良いと云っているのである。
 委しい方が居られたらご教示給わりたい。又数文字が判読不明であり、なんとか頑張って完読したいと思っている。

               「浮世絵 日本橋」の画像検索結果  

                        この図を見ると挟み箱は覆いが被せられていることが判る。
                                    

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