津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御徒然さのつれづれに

2015-10-21 17:02:16 | 歴史

 家康公の何代前のご先祖なのかよくわからないが、三河の松平に住み着いたのが徳阿弥という遊行者であったと伝えられている。
松平氏の娘にちょっかいを出し入り婿となった。
それ以前にも「御徒然(おとぜん)さのつれずれに」酒井氏の娘とも情を通じたと、あの大久保彦左衛門が書いた「三河物語」に記されている。
徳川家の宿老とも云うべき酒井家とのかかわりは、ここから始まっている。

「大名の過去は野に伏し山に伏し」という川柳があるが、後に「源氏の棟梁」たる徳川家も同様であったらしい。
この三河物語はその信憑性も疑わしいそうだが、「御徒然さのつれづれ」のちょっかいはどうであろうか。
徳川家にとってはあまり結構な話ではなく、彦左衛門も余計なことを書いたものではある。 

同じ意味の言葉が重なる「御徒然さのつれづれ」がよく理解できないが、デジタル大辞泉の解説から言葉をチョイスすると、「無聊の中の連れ連れに」と言うことになるのだろうか。
徳川家において徳阿弥という人物はどのように扱われているのだろうか。

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つれ‐づれ【徒然】

《「連(つ)れ連(づ)れ」の意》
[名・形動]
 することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。「読書をして病床の―をまぎらわす」
 つくづくと物思いにふけること。
 しんみりとして寂しいこと。また、そのさま。
[副]
 長々と。そのままずっと。
 しんみりと寂しいさま。
 よくよく。つくづく。

と‐ぜん【徒然】

[名・形動]何もすることがなく、手持ちぶさたなこと。また、そのさま。つれづれ。無聊(ぶりょう)。

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■NHKテレビ講座

2015-10-21 08:09:44 | 徒然

                    趣味どきっ! 女と男の素顔の書―石川九楊の臨書入門
                    

                     趣味どきっ! 女と男の素顔の書―石川九楊の臨書入門

 昨晩何の気なしにTVのチャンネルを動かしていたら、女優の羽田美智子さんがガラシャ夫人の文書の臨書をしている番組に出会った。
手ほどきの講師が先に「一日一書」でご紹介した石川九楊先生である。そのときご紹介したガラシャ夫人の「何事も」という文字が登場しないかと探したが、確認することが出来なかった。羽田美智子の文字はなかなか達筆である。
史談会の講師をしていただいた柏原卿雲先生によると、達筆とは「我流上手」ということらしいから、達筆という言葉がほめ言葉なのかどうかあやしいが・・・・

柏原先生の講演をお聞きして以来少々興味を覚えて、本棚の中で埃をかぶっていた「三體千字文」や「草書・赤壁賦」などを取り出した。
硯を洗ったりして準備万端なのだが、筆のほうが久しく使っておらずこれは新調せずばなるまいと思っている。
また、般若心経を写経してみようかと思っている。(空覚えしていた般若心経も後半のほうは怪しくなっている)
 

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■狭い空

2015-10-20 09:32:12 | 徒然

 満天雲なくとまではいかないが、朝からよい秋日和である。
ごみ出し(私の運動不足にかこつけて押し付けられている)に行って空を見上げるが、少々違和感がある。空が狭い・・・・
随分まぶたが腫れぼったい感じがする。また瞼下垂だなと直感した。
昨晩はある調べごとのために数時間読書をした。本を取り出しては目的の頁を数頁読み、また次の本で同様な作業を繰り返す。
PCの脇に六七冊の本が積みあがった。

鏡をのぞいてみると、眼の大きさが半分ほどになっている。
私は団子っ鼻で目が大きかった。その目が半分の大きさになろうとしているのだから、空も狭くなる。 
3月自画像を描いたがどうやら書直しが必要となってきた。
大きく目をひらく自前の瞼の体操を真剣にやらないといけないなーと思っている。
「PCがいけない」と奥方の大目玉が一番応える。 

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■然は然り乍ら

2015-10-20 08:41:53 | 熊本

 司馬遼太郎の「春灯雑記」に細川護貞様と一両日熊本で過ごされたことが書かれている。
(護貞氏の話ー肥後細川家のことども p49~134)
その中で司馬氏は江戸での細川家の言葉についてたずねている。当然標準語だとの答えを予想していた。
「家の中の言葉は昔から肥後弁でした。ですから私の肥後弁の方が、今熊本で使われている肥後弁より古いかも知れません」との意外な答えに、司馬氏は驚いている。
そして司馬氏は、忠利が入國に際し熊本城から加藤清正の墓所に向かい、「今からあなたのお城をあずからせていただきます」と挨拶したという護貞さまの説明をうけて又驚いている。
清正候を愛してやまなかった肥後人にたいする配慮であった。細川家が肥後弁を使ったというのもそういう気配りからきているのだろうと、司馬氏は推測している。
護貞様が使われていたという肥後弁がどのようなものであったのか、なんとも気になるところではある。

 先日外出した折、ある住宅の建築現場の前を通り過ぎた際、「そらそぎゃんばってん」という言葉が耳に飛び込んできた。
なんだか久しぶりに聞くような気がしたが、まさか護貞様がお使いになった肥後弁の中にはないだろうなと感じたことであった。
「それはそうだけれど」という意味だが、まさか「然(さ)は然(さ)り乍(なが)ら」とは仰るまいと思いながら、思わず一人苦笑してしまった。 

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■江戸期にあった同性婚

2015-10-19 15:33:53 | 歴史

 雑花錦語集・巻三十一にある「変性男子の記」は、よくよく読むとどうやら同性婚の話のようだ。
ようよう読み下しをして改めて精読すると、そういう次第で驚いてしまった。

         菊池郡水島村権助娘きん当時廿六歳にお成り候
         容儀諸人に勝しながら男を持年をきらひ手業彼是
         人に勝し第一心立触して孝心専に有之候
         後は近村より此娘もらいぬ者はなきよし親も一生
         のかた付ゆへいろ/\すゝめ候へ共とくしんせず
         田畑持条にて入婿かれこれも所々より申条候へ共
         嫁入を断申候
         諸方江も此年承及近き比は左様成ん相談もなし
         此娘近所の娘おとくといふものと昼夜を分かず
         ぬいはり織機をも一所にいたし居候がおとくはや
         七月のくわいたいと成りおとく親共不審たへづ
         段々吟味いたし候へば彼きんと夫婦のかためい
         たし申候よし
         とく申候へば女と女と左様の事傳ふ申よし
         それよりはかくきんを吟味いたし候所に持もの
         此図のごとくなり(以下略)

其後の顛末については判りかねるが、両家の親御さんのお気持ち察するに余りある。 

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■文久三年以降

2015-10-18 11:40:48 | 歴史

 「熊本藩江戸詰一ヶ年の諸経費は拾貮萬石と云。然るに今軍艦を製して江戸詰・米・味噌・醤油等を輸送し、又家内を國に就かしむる時は一ヶ年貮萬石にて済べしと云へり」
肥後学講座Ⅲにある堤克彦氏の「肥後の幕末ー福井藩士村田氏寿の『関西巡回記』を読む」に書かれている一文である。

軍艦を作って熊本から諸々の物を送り、奥方やお子、お付の女中衆などを国許へ返せば12万石の懸かりが2万石で済むであろうという話である。
ごもっともな話と納得させられるが、前者は行われたような形跡は見受けられない。
後者については、文久二年(1862)参勤交代の廃止や妻子證人の廃止や献上物のあらためなどが行われた。
熊本藩に於いては藩主夫人や御子などの住まいが準備されるが、同居するという有り様はなく巨大な住まいの建設は大変な物入りであったろうし、帰国の費用も膨大なものとなったであろう。
明治の改元(1868)まで約6年、果たして収支は如何様であったろうか。

明治二年の華族制度が設けられ、これらの人々は東京移住が義務付けられる。韶邦は翌三年末の上京にあたり東京移住を申し付けられそのまま帰郷することなく今戸に新邸をたて新しい生活を始めることになる。

藩士たちは秩禄返還をへて身分の隔てがなくなった世界で、厳しい風にさらされていく。

 

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2015-10-17 18:19:10 | 徒然

 今日は史談会の10月例会、資料は一昨日までに一応準備したのだが、昨日になって一つ増やそうと思い原稿を作成、プリントしようと思ったらトーナーが切れてアウト。今日は少々早めに会場に行きここでコピーさせていただく。ぎりぎりまでこんな具合でなんとも疲れる。
今日のお話は私の担当で二時間ほとんどしゃべり通し、いつもの通り近くのホテルで食事の後、デパートで開かれている先月講師をお願いした柏原卿雲先生が主宰される「入木(じゅぼく)会」の展覧会を展観する。ちょうど先生も居られてしばし歓談、それから本屋さんに回って帰宅。
少々気温も高くて汗ばむ陽気、帰宅した頃には疲労困憊と相成った。

いすに腰を下ろし資料をながめていたら、眠り込んでしまい・・・気がついたら一時間ほど経過していた。

自分の体力がよく自覚できるようになってきた。無理は出来ないと感じている。
ノートPCのトラブルは解決せず、古いディスクトップのPCを使っているのだが、XPで動かしているのでサクサクと動いてくれず、PCの前に座る時間が少々短くなった。おかげで寝るのが早くなって、早寝早起きのまさに老人型の生活になりつつある。

しかしながら、来月の会はどなたにお話いただこうかと又考えなければならない。ほっとできるのは一日二日である。 

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■五本指ソックス

2015-10-16 09:50:27 | 徒然

 奥方が「お土産」といってソックスを買ってきた。いまだかって私のソックスを買うなどということはなかったので、不思議に思ったことであった。
それも一足・・・封を切ると「五本指ソックス」である。「健康のため」といつもながらの御託宣である。
躊躇していると「はきなさいよ」とうるさい。仕方なしにはいてみると、これがなかなかGoodである。
足首をしめつけず、土踏まずの部分は適当な締め付けがあり、どこかの病院のドクターの監修によるものらしい。

まだ靴下をはく季節ではないが、最近どうも冷え性になったようで夏でも靴下を履きこむことがあった。
そんな私を見ての事であろうが、一足だけで替えがない。黙っていると二足目は届かないのではないか・・・

蛇足:先日外出した折、足元がやけに派手な男性にであった。なんとそれが派手な柄で装った地下足袋である。
    先日見るでもなくTVの画面を見ていたら、外国の女性が日本の地下足袋を愛用しているという。
    その足元はまさしく私が見た若い男性のものとすごく似たものであった。
    熊本の人間は「わさもん」とよく言う。「早稲者」とでも書くのか、流行に飛びつくのが早い。
    しかし「わさもん過ぎるんでは・・・」と爺様は思ってしまった。

    正月には足袋でもはいて着物を着てみようかと、ふと思った。 

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■準備完了

2015-10-15 15:28:05 | 熊本史談会

 明後日の史談会へ向けての史料の準備がようやくできた。歯が痛かったこともあって少々時間が過ぎてしまった。
今回は福岡(朝倉)と熊本の荒木村重の子孫四家を取り上げる。
寛永諸家系図・荒木善兵衛家系図・荒木氏系細田家系図・荒尾荒木氏系図・朝倉正福寺荒木氏系図などを照合しながらの話となる。

寛永諸家系図には荒木善兵衛や荒尾荒木氏の事にはまったく触れていない。
だれが荒木家の事をまとめて幕府に提出したのか、鍵はその成立の年(寛永十九年)にあるように思える。
私は荒木局によってこれらの情報はまとめられたと考えている。
此処には村重の娘・荒木局やその養子となる甥の村常の事には触れているが、荒木局が罪を得て配流となることや、養子の村常が連座して徳川家のろくを離れたことには触れていない。村常が細川家に召しだされて細田栖隠と名を変えたことは光尚代のことであるが、村常=栖隠と理解されるのは最近のことである。
善兵衛は弟になるのだが、異腹でもあろうし幼い頃細川家で育てられていることなど知らなかったであろうし、荒尾の荒木氏についても承知していなかったものと思われる。
朝倉市の荒木氏(正福寺)の系図は、寛永諸家系図そのものである。

荒木家については瓦田昇氏の大部の立派な研究書「荒木村重研究序説」があり、一族の方々が研究会報を出されるなど大変積極的である。
そんな中でずうずうしく、熊本における荒木家について諸資料からお話をしようと思っている。 


 

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■御恵贈御礼「澁川春海と谷重遠 双星煌論」

2015-10-14 07:33:40 | 書籍・読書

                              澁川春海と谷重遠 双星煌論

 著者は東海大学文学部の志水義夫教授である。肥後細川藩の重臣・志水家のご子孫でもある。
お目にかかったことはないのだが、長いご厚誼をいただいている。今般も御著御上梓のご連絡を頂戴しご恵贈を給わった。
厚く御礼を申し上げる。
澁川春海の名は賢明なる諸氏にはすでにお判りのことであろうが、書簡を通じての弟子である谷重遠との学問の交流を軸に、元禄期の学者の世界をご紹介いただいている。大変興味深い御著であり、熟読したいと思っている。

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■抜歯しました

2015-10-13 10:13:59 | 徒然

 連休の間に歯が痛み出した。随分以前に左上の奥歯にかぶせていた冠が取れたのを放っていたので、そこだろうと思っていたのだが、指を入れて探ってみると場所が違っていた。正面からは見えないのだが奥から三番目の歯が前後に縦に二つに割れてぐらぐらしている。歯医者さんも当然連休、そこで朝一番の客となって抜歯をした。
四五年前に掛かっていた歯医者さんは、80歳までは自分の歯で食事が出来ますよと太鼓判を押してくれたのだが、ついに一本欠けてしまった。なんともあっけない治療で、レントゲンを撮って抜歯してその間約20分ほど、商売気のない歯医者さんでその跡をどうするのか聴かれもしない。歯石もとって奥歯も治療したいと思うのだが、抜歯後二週間ばかりして又ご相談くださいとのこと・・・・
歩いて五分も掛からない処にあるから有り難いことでも有るし、あまりまとわり付かれて、あれこれ言われるのもいやだからこれも有り難いと言えば有り難い。麻酔が切れるまであと二三時間、少々痛みがあるし今日は昼飯抜きで過ごしましょう。 

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細川幽斎 消息 読有【思文閣目録所載】安土桃山時代 歌人 掛軸

2015-10-12 10:01:47 | オークション

細川幽斎 消息 読有【思文閣目録所載】安土桃山時代 歌人 掛軸

これは随分高くなりそうな予感、商売をされている方の応札が結構あるんじゃないでしょうか。
信長の菩提寺見院に宛てた能興行の案内状、常真院(織田信雄)の出席なども知らせている。

                 細川幽斎 消息 読有【思文閣目録所載】安土桃山時代 歌人 掛軸_画像1


思文閣墨跡資料目録第217号143番掲載 

「明日於当院狂
 能興業候ヘハ
 常真様其外伏見衆
 一両輩茶湯仕候
 可有美物哉然者未
 明より可初え由も候
 夜中二可有御参義候
 為其令啓達候恐惶
 謹言    幽斎
  八日    玄旨(花押)
 見院
      侍者御中」

大意:明日当院で狂言や能の興業がありますので、常真様やそのほか伏見の衆数人で茶の湯などもいたします。何か美しい物でもあるのでしょうか、未明から始めるとのことですので、夜中にお越し下さい。以上お知らせ申し上げます。

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■午前三時前の激痛

2015-10-12 08:00:54 | 徒然

 午前三時前こ左足にこむら返りをおこした。身体を起こそうとするが毛布が絡んでしまって2秒3秒と時間をロスしてしまった。
激痛で声も出ない。なんとか身体を起こし足の甲をつかまえて引っ張りおこす。数秒くらいの短い時間なのだろうが、あまりの痛さに悶絶するような感じである。ベッドの上でしばらくあぐらをかき、何とか落ち着いたところで床に足を下ろしてみる。
両足でたってようやく通常の感覚を取り戻したが、ふくらはぎ全体に鈍痛が残り今も続いている。
また痛みが来るかもしれないと、足首をそらせる運動をしばし・・・・睡眠不足状態である。
六時前今度は右足に一瞬痛みが走った。今度はタイミングよく足首をそらせて難を逃れることが出来た。

奥方に言うと「水を飲め」と又うるさいので、黙っておくのがよさそうだ。
自転車に乗るせいで、ふくらはぎだけは大いに元気なのだが、少々お疲れ気味なのかもしれない。
寝る前にマッサージでもすることに致しましょう。あの激痛は度々味わうものではありません。 

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■菊池家の家紋の変遷

2015-10-11 07:39:06 | 家紋

 K家は菊池家の分流である。K家の系図を見ると大職冠鎌足公十二世・藤原兼良に遡っている。
この兼良の代に家紋を「みょうが」にしたらしい。ここでは「みょうが」としたが「姜葉」と書かれてその図が書かれている。
現代の「茗荷紋」である。その説明に次のようにある。
         此紋を姜葉(みょうが)ト号ス 實ハジカミノ葉也
         後代誤テ蓑荷ノ丸ヲギヤウヤウ(杏葉)ト云
         蓑荷ノ丸ハ花アリ 遠祖天■(児の旧字)屋根命高天原ヨリ姜(ハジカミ)ヲ 
         持来リ薬物ノ為ニ日向国ニ植玉シヨリ後代ニ家紋トス

茗荷紋と杏葉紋はなかなか区別するのが難しいが、ここでは杏葉紋には花がついていると解説している。
「家紋の辞典」をみると両者の違いは、「杏葉には花や葉脈がなく、先端が内側に曲がる」とある。上の解説とは食い違いがあるし
系図に描かれている「みょうが紋」のスケッチは先端が内側に曲がっており「陰抱き杏葉紋」そのものである。 

藤原兼良の五代の孫が菊池家初代・則隆だが、この代に家紋を変えている。説明にいわく
         則隆代ヨリ日ニ日脚ノ紋ニ改ム 祖神春日大明神ノ御告ナリ
         是春ノ日和光明温和ノ家ナリ 

そして五代目経直に至り鷹の羽紋に変わった。
         鷹ノ羽ノ紋此時ヨリ始ル 経直夢想ノ告有テ阿蘇へ参詣ス
         中途宮川ニ鷹ノ羽一枚流レ来ヲ経直取之云ク 今一枚流レ
         来ラハ旗ノ紋ニスベシト云処ニ 又一枚流レ来ル
         経直取之頂戴メ云ク 此レ阿蘇大神ノ賜ル処昨夜ノ■夢ニ應也トテ
         是ヨリ日脚ノ紋ヲ鷹ノ羽ヲ紋ニス 是ヲ揃鷹ノ羽ノ紋ト称ス 

日足紋を鷹の羽紋に変えたというのは、佐賀の竜造寺氏が日足紋を使っているので、これを嫌っての事ではないかと考えているのだが如何だろうか。

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■図書館浴・・史料の宝庫「中路文書」

2015-10-10 14:34:38 | 史料

 朝から図書館行き、昨晩から「上妻文庫」「盤桓随筆」「吹寄与勢」「雑撰録」「藻塩草」「錦嚢移文」「雑花錦語集」などの目次を眺めて、コピーをする資料をピックアップした。成果はA3版9枚・・・・・

今ひとつ目を付けていた「中路文書」の古文書数点を眺める。こちらはすべて古文書の原本であり史料の宝庫である。
その一点は80×180㍉ほどの小さな紙にぎっしりと小さな文字で書き込まれた一冊の冊子であり、厚さが12・3㍉ほどありページをめくるのも憚れるようである。おそらく3・400ページあるのではないか、これを何とか写真撮影をしたいものだと思っている。
これは190点ほどある中路文書の1点にしか過ぎない。ただ手付かずに図書館の収蔵庫に納まっている。
これらの文書には多くの図面が含まれており、江戸藩邸、熊本城、花畑邸、奉行所における御規式その他の要領などが書かれている。貴重な史料である。
どなたか「やってやろう」と調査をしていただけるような方は居られないだろうか・・・・

まずはこの190点の「中路文書」の目次をこのブログでご紹介しようと思っている。
(なにせノートPCの不具合で古いディスクトップのXPを使っているのでなんとも自由が利かず、早々にとは参らぬことをお断りしておく)
 

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