細川家家紋の紋形が綿考輯録に六ツ、藩譜採要に七ツ紹介されているがその違いが三ツある。
藩譜採要には「竹笹紋」があること、二つ目は後者にてっせん紋があること、最後は「松笠菱紋」のデザインが全く異なることである。
なぜ細川家の基本的資料でこういう違いがあるのかも疑問である。
綿考輯録にある紋藩譜採要にある紋
その「松笠菱紋」は築山家に下賜されたというが、そのいきさつは次のようである。
綿考輯録にはこの「松笠菱紋」について
「既に南朝の正平十年(1355)細川頼之、西岡・山崎表発向のとき、楠正儀夜討を懸、軍不意に起り、築山市正保俊一人を連、北嵯峨より帰洛之由、此時築山と鎧を着替、松笠菱の紋付たるを直にあたへ、子孫に伝ヘ候ハゝ御申候との事、築山か家記に有之、此時の感書も今以伝来致候、此砌は築山も公方御直参なり、殊に頼之の聟なり、右保俊より六代目市正俊方、藤孝君之御家士と成、松笠菱ハ代々の家紋に仕候、頼有君も松笠菱御付被成候」と記し、又御家譜抜書には「頼有公御譜中・・家之紋松笠菱代々用之」と記してる。
築山家系図には「弥十郎重俊(市正) 母細川頼之庶女・福」と記されている。
■藩譜採要にある紋
最近この紋が描かれた陣笠の写真の提供を受けたが、写真の公開は控えてほしいとのことであった。
黒漆に金で三つの家紋が描かれている大変珍しいものである。ある有料の家紋を紹介するサイトによると、「細川京兆家」(1)の家紋だと紹介しているが、よくよく観察すると提供を受けた陣笠にある紋形が微妙に違う。
四つ折り紙で紙きり細工をしたという感じがするが、穴の穿ち方が大変心地よいし、稜線が菱型とは言えども微妙に膨らんでいて奇麗である。是こそが真形だと密かに思っている。
泡坂妻夫氏の「家紋の話ー上絵師が語る紋章の美ー」を読んでいるが、残念ながら掲載されていない。御高説を伺えないものか、手紙を出してみようかと思いながら躊躇している。
■綿考輯録にある紋
綿考輯録では全く趣の違う松笠菱紋を紹介している。
紋帳ではなかなか見受けられるものではないが、先の有料サイトでは「細川京兆家」(2)or 「細川勝元」 の家紋だとして紹介している。
細川勝元は右京大夫、唐名で京兆、ゆえに京兆家と呼ばれるのだが、(1)(2)をどう使い分けしていたのだろうか。