昼過ぎ自転車で近所まで出かけ、所用先でスタンドを立てたが自転車がひっくり返ってしまった。
ハンドルがねじれた状態で起こすのに難儀しているうちに、こんどは自転車もろともこっちがひっくり返ってしまった。
左足をしたたか打って、足の外側に切り傷を作ったみたいな痛みが来た。1キロほどの距離をなんとか帰宅。
しばらくは何ともなかったが、夕方から膝やふくらはぎが痛み出してきた。膝が痛くて歩行もままならなくなってきた。
シャワーをしたのち、外用の湿布薬「ロキソニンテープ」を三枚貼て調子を見ることにする。(ついでにトンプク1錠)
自転車で走るのは20キロ(10キロ往復)くらいなら何ともないのだが、自転車を降りるとさすがに疲れた足元がおぼつかない。
年寄りは骨折したら大ごとになるから心しなければならない。今日は早々に寝ることにいたします・・・
::ストロベリームーンを見てみましたら、薄い雲のなかにあってなかなか幻想的でした::
新熊本市史・別編第三巻にある、槇嶋家の住宅である。槇嶋真澂家とあるが、この人物は槇嶋家最後の当主である。つまり幕末・明治期の300石取の武家の住宅ということになる。このような資料が残ることは大変珍しい。
初代昭光は将軍義昭の側近だった。豊臣秀吉に仕え2,000石、義昭の死にあたってはその葬儀を差配するよう命じられた。
大坂の陣では西方に付、後隠居して云庵(うんあん)と称した。細川忠興などの嘆願により助命され、のち細川家家臣(1,000石)となり忠興(三齋)の側近として仕えた。
真澂は槇嶋家の12代目、半兵衛・真徴(澂)→冨次と名乗っている。間取り図にある「隠居」とは11代目の半之允であろう。
どこに住んでいたのかは判然としない。熊本市史の城下町図でも現況確認ができていない。数代前が「在宅」しており、この住宅も「在」にあったのかもしれない。南西角の部屋が当主の部屋であろうと思われる。五坪(10帖)とあるのは四坪の間違いか。
50坪ほどの大邸宅である。しかし本瓦葺・瓦葺・カヤ葺の屋根が混在していて建築的に見ても興味深い。
少々値が張る本で、図書館から借りて読んでいるが、内容がすごく良くて手元に置きたいという願望が膨らんでいる。
思文閣が出版しているのだが、まだ在庫がありそうで9,000円+税(+郵送料)だから 10,000円を超す。
古本なら少しは安かろうとAmazonを見てみたら、なんと 14,268円とある。新刊より高いという逆転現象で、儲けようという魂胆が見え見えである。
日本の古本屋は如何と思いぐぐってみると、こちらは1点だけあって8,000円(+郵送料)。
さて購入するかと考えると、買いたい本がたくさん控えていて急々にとは参らぬ。日本の古本屋さんで売れぬことを願うしかない。
机のまわりにいろんなコピーが山積みになっている。
収納する袋を準備してナンバーをうち、一方では索引帳を作ってどの袋に入れたかを控えておこうという次第である。
志方半兵衛に関する史料が出てきたから、「志方家」という袋を作り、先祖附や「志方半兵衛言上之覚」その他の史料とともに納めた。
さて山積みの中から出てきたのは「志方半兵衛の手討ち事件」に関する史料である。
どうやら地震以来行方知れず状態の「手討達之控」から抜き取った一部らしい。
文化六年 朽木内匠組
志方半兵衛儀去年四月組之足軽橋本実右衛門を
致手討候一件書付相達置候 実右衛門其節之振舞
其侭ニ難差置儀ニ者候へども先致方も可有之處直ニ手討
いたし且又実右衛門手前吟味筋専ラ相手之申分を
因而相決其身未タ屈服不致内罪名を以御給扶持
差放彼是卒忽之次第ニ付當御役被差除其方組
被 召加候条可被得其意候 以上
七月三日 奉行所
朽木内匠殿
「手討達之控」が見つかったら、こちらにもコピーを差し入れてちゃんとしようと思うが、さてどこにお隠れやら・・・・
一昨日お訪ねしたO家から、十数点の古文書をお預かりしてきた。
御赦免開きに関するものや、質地に対する税、召出しにあたって組への状等内容は多岐にわたっている。
そんな中に、天保五年十一月一日「伝授」と書かれた文書があった。
ご紹介する写真は、切り張りなどして現物とは少々状態を異にするが、三種の和歌が記されている。
O家のご先代が読み下しにチャレンジされた書付が残っていたが、読めない字が多々見られ随分苦労されたことが伺える。
その部分の10文字ばかりを読み解いた後、「西行法師 〇〇〇〇〇」と歌の頭部分を打ち込んでインターネット献策してみると答えが出た。
月をよみ侍りける 西行法師
(一) 人もみぬ よしなき山の末までに
すむらん月の影をこそ思へ (山家心中集)
(ニ) うき身こそいとひなからも哀
なれ 月を詠(ながめ)て年のへぬれば (山家心中集)
虫をよめる 西行法師
(三) 秋の夜をひとりやなぎてあか(明)さまし
ともなふ虫の聲なか里せは (玉葉集・秋)
(ニ)に「月を詠て」と読んでみたものの意味が通じない。なんと「ながめて」と読むと知った。
しばしの間、奥ゆかしい和歌の世界を楽しんだことであった。
どうやら梅雨に入ったようだ。もっとも現在は曇り空で、雨が降り出すのは夕方からのようだが。
梅雨といえば「増殖する俳句歳時記」に梅雨に関する不思議な句が掲載されている。
梅雨と書き陳者と書き嫌になりぬ 永作火童
歳を重ねた昨今、手紙を書こうと思うと相当の物理的・体力的消耗をきたす。思いをいかに伝えようかとペンを走らせていると、字句を間違えたり書き損じたり、文章の辻褄があわなくなったり、難儀に思うことが多い。
時折、気分が乗らずペンを置き数時間後に改めて書いたりする。明らかにインクの色が変わり、書き改めなければならないことがある。
最近はパソコンを使うことにしているので、加筆や修正や簡単で楽をしているが、最後のあて名書きや、自分の署名は自筆としている。
私は永作火童という人について、まったく知識を持たないが、どうやら私が大好きは俳人・久保田万太郎の俳風を受け継ぐ人らしい。
生没年も判らないでいるが「陳者」などという書き出しで手紙をしたためて居られたのだろうか。
随分以前古文書の中にこの「陳者」が現れ、何と読むのか、どういう意味なのか全く分からず往生したことを思い出す。
大辞林の解説によると、「のぶ(述ぶ)れば」と読み「候文の手紙で、冒頭のあいさつのあと、本文に入る前に書く語。申しあげますが。さて。」の意とある。
時候の挨拶を述べ、さて(陳者)とまで書いて、梅雨に入ったうっとうしさと、今から書き綴らねばならない事柄を思いうっとうしさが重なっていく想いが理解できる。すごいな~と思い知らされる。
今年の梅雨は長梅雨になるとか聞く。うっとうしい事ではある。
お昼前史談会会員O氏のお誘いを受けて古文書を拝見に出かける。3時間ほど拝見するがあまりにも多く半分以上は内容を確認することができずスルーしてしまった。2時過ぎ昼食をとり、それから島田美術館に廻り「甲斐青萍」や「杉谷雪樵」の画などを展観する。
少々疲れて夕方帰宅。シャワーをして椅子に腰かけ過日購入した「甲斐青萍熊本町並画集」を眺めていたら、またたく間に眠り込んでしまった。
正徳四年五月廿ニ日の事だそうだが、この重大事について熊本藩年表稿には記載されていない。
以前から随分気になっていたのだが、今日図書館に出かけた際「盤桓随筆・十」から該当項を発見した。
千石取三人を含め高名なる人たちがなぜまとめて「御暇」となったのか、この項でも定かではない。
真実に迫るには中々難儀である。
千石 竹内吉兵衛 千石 田邊平助
三百石 西沢文右衛門 三百石 臼杵杢之助
千石 国友源兒右衛門 百石 藤掛梶右衛門
三百石 芦田友之允 八百五十石 竹内七郎右衛門
弐百石 江村左七郎 百六拾石余 脇坂伊左衛門
右者正徳四年五月廿ニ日御暇右之内西沢文右衛門伜
西沢文太郎儀ニ享保三年二月七日五人扶持被為
拝領竹内七郎右衛門跡ハ右同日三人扶持被為脇
坂伊左衛門嫡子脇坂関右衛門儀者享保十年四月十一日
高瀬三蔵物書被召出候也
本行之通大勢一同之御暇如何之訳ニ而候哉永央安田市助ニ
咄之席ニ聞合申候処名前相分申候ハヽ書付見せ候様被申
候付■候処付紙ニて被申越■左之通
此面々御奉行所御暇帳に記有之候
思召ニ不為叶なとし有之候ヘハ事柄被分兼申候
西沢跡者御切米取之家来有之代々相續ニ而正月十一日
御鏡餅頂戴仕候
書き込み中
先に■高麗門護札ノ事 ■熊本市政便りから を書いてから、熊本城の多くの「城門」がいつ解体されたのかに関心を持っていろいろ調べている。
熊本藩知事が「熊本城廃隳」の願いを政府に提出したのは、明治三年庚午九月五日付である。この文書には付札があり「聞届候事」とあるが、これとて何時聞き届けられたのか判然としない。
「明治維新廃城一覧」によると、この年(三年)「数寄屋丸櫓門の焔硝の爆発により同櫓門等焼失」した。
明治四年七月に廃藩置県が実施されると、八月二十日の達しで四鎮台と八分営が置かれ、熊本には鎮西鎮台が置かれた。城郭は兵部省の管轄となったが、この時期に西出丸の櫓や門が取り壊されたという。
明治五年三月、鎮西鎮台司令官に桐野利秋が任命され赴任している。富田紘一氏の著「古写真にみる熊本城と城下町」で氏は、赤星典太氏が「桐野利秋が跡の魂胆もあって高麗門を壊した」(一部略・津々堂)と回想していることを紹介している。
前にも記したが「高麗門」や「新三丁目御門」が写る城下町の写真に、完成したばかりのジェーンズ邸が写っていることから、高麗門の解体はそれ以降であり、赤星氏の言が本当であれば明治五年三月以降となる。
熊本城廃隳を検索した竹崎茶堂は「御城御天守取崩し、外廻り之門塀丈を残し可申事」という考えであったことが、高木亮(曲水)の著「竹崎茶堂先生」に書かれている。
又、天守などの解体については反対する意見がいろいろ取りざたされているが、藩知事細川護久の「弟の護美がそれには及ぶまいと宥めた」とする徳富蘆花著の「竹崎順子」にある説が有力である。
明治初期の混乱期であるとはいえ、まことに資料が少なく驚くばかりである。
追記:このブログをご覧になってお昼前にご厚誼頂いている肥後金春流中村家のご当主からご連絡いただいた。
吉村豊雄氏著「熊本藩郡代中村恕斎日録抄・幕末武家の時代相」下巻に「熊本城解体」という項が立てられているとのことであった。
ご存知のようにこの著の底本ともいうべき「肥後中村恕斎日録」は二巻が発行されているが、その日記が膨大であるため残念ながら私どもはその全体を
知ることができない。12巻に及ぼうという話を聞いたことがある。
吉村先生はそのすべてを読破されたうえで、上記著に「熊本城解体」を記された。
巷間私たちが承知している一二の情報は、竹崎家にまつわる徳富蘆花や高木亮(曲水)の著によってである。
これが真実であるのかさえよくわからない。
十月十日、恕斎の元に十監(監察官・目付)宗村弥太郎が訪ねた際「この方様御城御廃堕のお願いは、当時禁庭の趣により、已むべか
らざる勢いにより候手の御事なり」と語ったとされる。
「熊本城廃隳」の願いが出されたのは九月五日であり、宗村が語る「禁庭の趣」を受けての事であろう。
吉村先生は「熊本藩のごとき大藩が自ら居城を解体するのは甚大で、藩政改革を加速させ廃藩議論に現実味を与える。」と解説する。
宗村は「朝廷の御趣もけしからず御宜しく在らせ候由也」と語る。
藩政府は十月四日藩内に熊本城解体の方針を通達、翌十五日から解体にとりかかる予定でいたが、思いがけなく頓挫することになる。
前藩主(知事)韶邦の反対である。韶邦の意向も問わず新知事・護久サイドで進められた計画は凍結に至った。時間稼ぎをしようという訳である。
恕斎は「御様子これ有り、暫く御畳置き仰せ付けられ候由」と記す。
弟・護美の「それ(解体)には及ぶまいと宥めた」という言葉がうなずける。
そして前代未聞の「御天守拝見」につながるのである。閏十月十日から大賑わいとなりその様子は五保栄八の日記などで知られるところである。
追記以前の文章はそのままにしておくが、辻褄が合わないところが多々ある。「恕斎日録」が語る処が真実であろう。
お上のなさることは誠にありがたいことで(?)、飢饉にあたり疫病などの流行の際には次のような薬を用いるようにとのお達しがある。
天明四年五月の「熊本藩町政資料」にあるものだが、これは江戸幕府からの「疾病対策触」によるものである。
参考:享保飢饉の疾病対策ー江戸幕府頒布の薬方書の内容と性格ー
処方について出典まで記された念の入れようである。果たしてこれが町在の庶民にどのように伝達されたのか・・・
それにしても何ともまずそう、しかし命あっての物種。
内容についてタイピングしかかったが、参考にあげた論考に全く同様の事が挙げられているのでここでは割愛する。
一読をお勧めする。
「差扣」は三日が3人、五日が6人、十日が1人、自ら申し出て差扣た人が2人である。順次「右之節即日ゟ親類縁者差扣之衆左之通」から、その人々を追ってみよう。
三日差扣 長岡伊豆殿 従弟 三渕伊織助殿 小舅 木村半兵衛 実小舅
・長岡伊豆とは細川内膳家6代の忠名(忠昌)で、その妻が小笠原長知女である。6,000石。左兵衛(氏常)の実妹である。従弟と書き込みがあるのは
左兵衛の実父・小笠原長知の妻が細川内膳家5代・忠雄の妹・サンであることによると思われる。
・三渕伊織助は三渕家の7代澄鮮(養子・分部若狭守光臣二男)だが、義姉・伊与が田中左兵衛氏之室となっているのだが、この人物が良くわからない。
・木村半兵衛は木村家4代・豊暉(養子・同氏豊行嫡男)、左兵衛との関係はよくわからない。先代豊章は細川新田藩2代・采女正利昌の二男である。
五日差扣 大木舎人 従弟 平太左衛門殿嫡子・丈八 聟 溝口三伍 実小舅 坂口一角 従弟 奥村安大夫 落合勘兵衛 聟
・大木舎人は大木家6代・兼暉、養子であり大木半平(4代・豊暉)の二男である。5,000石、留守居大頭・大目附・備頭。
・堀丈八は堀平太左衛門の嫡子・5代丹右衛門勝文である。聟とあるから、室が左兵衛女ということか。番頭・大目附・中老・家老。
・溝口三伍は溝口家4代で養子の長義(小笠原多宮三男)である。田中家との関係は史料不足で判らない。用人・家老・大目附。
・坂崎一角は坂崎家6代成晶、こちらも史料不足で従弟とする関係が判らない。3,600石番頭。
・奥村安大夫は奥村家5代で1,200石、中小姓頭・留守居番頭・番頭を勤めた。関係不明。
・落合勘兵衛は900石、中小姓頭・小姓頭を勤めた。堀丈八同様、室が左兵衛女ということか。
十日差扣 小笠(原・脱ヵ)備前 実兄
・実の兄であるがゆえに十日という差扣となった。ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の五代の孫・小笠原備前家6代長知衛である。
室は細川宗孝妹・津与姫(敬子)であり、縁者という意味からすると細川宗家にも及んだ。家老職・備頭。
「自分ゟ差扣」た人物が二人ある。長岡商隠老 伯父 長岡桂老 叔父
・長岡商隠老とは細川内膳家5代の忠英である。あの初代時習館惣教を勤めた人である。この事件の二年後明和九年五月十七日74歳で死去した。
・長岡桂老という人物が良くわからないのだが、叔父ということからすると、商隠老の実弟で2,000石、家老職を勤めた季規であろうと思われる。
誠審院桂山日瑶の法名からも推察される。
両人の妹(姉)サンが小笠原備前長知の妻であり左兵衛の母であることから、まさに伯父・叔父にあたる。
商隠老(5代忠英)の嫡男・6代忠名室は小笠原長知女、また娘のは小笠原家7代佐織に嫁いでいる。ガラシャ夫人の血を引く内膳家と、介錯殉死した小笠原少斎の子孫は時を隔てて、強い血のつながりを持っている。
田中左兵衛の行動はこれら親族関係者にとってはまさに青天の霹靂であったろう。2,000石減知も納得がいくところである。
略系図を作ろうと思っているが、線がからみあって往生している。そのうちにご披露したい。
島原の乱の実質的一番乗りは田中左兵衛である。幕府側は益田彌一右衛門を一番乗りと認定したため、細川家は田中左兵衛に対して手厚い対応をした。益田に対しては「千石加増御鉄炮廿挺頭」であったが、田中に対しては「島原陣後加増五百石、同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石、肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石」という手厚いものであった。
左兵衛の父は柳川城主・田中吉政の弟吉次である。
田中家の先祖附を見ると曾孫(4代)の左兵衛氏昭が、元文ニ年曹洞宗禅定寺に対し離檀申入れ、寺側が拒否し、事は幕府の裁可を仰ぐ事となりこれも不可となり、その結果蟄居処分となった。
5代左兵衛氏常は養子(実・小笠原備前長知二男)であるが、この人物が明和七年知行召上られ蟄居させられている。
何があったのか判らずにいたら、今般図書館で取得した「上妻文庫・肥後風刺文学ニ」に其の理由に触れた記述があった。
初代左兵衛の活躍で得た家禄4,000石は氏常の跡を継いだ典儀に、「明和七年十二月先祖の訳に対し旧知二千石拝領」と2,000石の減知となった。事件の当事者左兵衛は「明和九年十二月 田中典儀父田中左兵衛(蟄居被仰付置候)在宅願」ということになった。
さてその事件の顛末である。その真実は左兵衛殿の不義という不名誉なことであった。
明和七年十二月廿ニ日於御奉行所にて御備頭田中左兵衛殿
被掴呼被仰渡有之節左兵衛殿病気故有吉市左衛門殿名
代ニ被罷出候時助右衛門殿被仰渡左之通
申渡 田中左兵衛
右左兵衛儀お津よ殿召仕之女之内へ不義の文通致し候
様及露顕達
尊聴重キ御役被 仰付候処不所存之至候 殊更所柄を
茂不弁不届ニ被思召上候 知行被召上蟄居被 仰付
旨被仰出候
田中典儀
親左兵衛不行跡之次第達
尊聴御知行被 召上蟄居被 仰付候 然共被對先祖舊
知二千石被下置朽木内匠組之大組付被 仰付旨被
仰出候
名門田中家の縁類は実方の小笠原家は言うに及ばず、細川内膳家・三渕家・木村家・大木家・堀家・溝口家・坂崎家・奥村家・落合家に枝葉を広げているが、これ等の当主が差扣の処分を受けている。
「不義」という俗っぽい事件だが当時の高級武士の世界を震撼させる事件だったようだ。
6/1加筆
さて左兵衛殿のお相手についてである。左兵衛の奥方・御徒よ様召仕之女である。
御徒よ様召仕之女は御穿鑿所役人林七郎左衛門女おなミと申し年ハ二十ニ三と見へ申候伊達もの也 然共三十才ニ近きよしなり
今ハ親の家の隅に病中分にて引籠申し候よし
この事件の詳細や当事者である「おなミ」に対する処分また林家に対する処分など不肖である。
「不義の文通」とあったが、左兵衛の恋文を届ける人物が存在した。この人物は大変な目にあっている。まことにご愁傷なことではある。
御醫師小山意齊其節文の取次なと仕よしにて御蔵前百八十石被下置候を八十石被召上御徒よ様御付被差除遠慮被仰付候