大城立裕『対馬丸』(講談社文庫、2005/2015年)を読む。
1944年8月、沖縄から「本土」に向かう疎開船・対馬丸が、米軍に撃沈された。乗船者1,661名のうち学童834名、さらに学童のなかで海に何日間も漂流して運よく生き残った数は約59名(確実に把握された数字ではない)。多くの子どもが犠牲になった悲劇とされているが、これは、半ば権力による人災であった。
というのも、沖縄からの疎開ということ自体が、沖縄戦を見越した人減らしと、それによる軍隊の食糧確保でもあったからだ。さらに、対馬丸には軍人も乗船し、軍事物資が積まれ、また2隻の軍艦が護衛についたことが、攻撃される原因にもなった。戦時国際法では非戦闘員を攻撃することを禁じていたからである。
対馬丸による疎開は、上意下達の厳しい国策として実施された。小説には、政府から沖縄の警察、市長、各学校の校長と下っていき、とにかく疎開者を集めることが強引になされたことが、よく描写されている。
沖縄からの疎開船は対馬丸だけではなかった。のべ187隻で、「本土」や台湾に7万人以上を運んだとされる(台湾疎開については、松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』に詳しい)。また、このような悲劇も、対馬丸だけではなかった。
あまり知られていないことだが、対馬丸事件の8か月前に、対馬丸同様に疎開に向かう民間人多数を乗せた湖南丸が、やはり米軍に撃沈されている。しかし、このことは、日本軍によって伏せられ、数十年間も表に出てこなかったという(丸木美術館の宮良瑛子展)。そのことは、当然、対馬丸の乗船者は知るはずもなかった。そして海から救出されたあとでも、沈没した事実を含め、沖縄の親元に連絡することが固く禁じられた。とにかく戦争遂行のためである。
●参照
丸木美術館の宮良瑛子展
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』
大城立裕『朝、上海に立ちつくす』
大城立裕『沖縄 「風土とこころ」への旅』
『現代沖縄文学作品選』
新城郁夫『沖縄を聞く』(大城立裕『朝、上海に立ちつくす』に言及)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(大城立裕『カクテル・パーティ』に言及)
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』(大城立裕の小説を「ヤマトへの距離感」として整理)
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(大城立裕との対談)
豊里友行『沖縄1999-2010 改訂増版』(大城立裕の小文を収録)