岡本隆司『袁世凱 ―現代中国の出発』(岩波新書、2015年)を読む。
袁世凱という人物の評価は概して極めて低い。それは日本だけでなく中国においてもそうらしい。曰く、革命を奪い取った男。曰く、卑怯者。曰く、冷酷な軍人。北一輝にいたっては、「世評のごとき奸雄の器にあらずして堕弱なる俗吏なりき」と糞味噌に罵っているという。実は、著者の袁世凱評もそんなに違わないのが面白い。すなわち、イデオロギーや思想にはまったく無関係で、如何に権力を形にしていくかという実務能力に非常に長けていた人間である、と。(最近どこかで聞いたような話だが。)
袁が自己実現のため活動した時期は、清朝が滅亡してゆく激動期であった。列強に抗する力を全体として持たなかったことは事実であっても、いまの概念でとらえる国家像とは異なる。それは、汪暉『世界史のなかの中国』において示されたような、境界を明らかにせずファジーに統治する「天下」概念の国家かもしれない(1871年に台湾原住民により沖縄人が殺されたとき、清国政府は、「化外の民」がしでかしたことだとして切り捨てた)。しかし、すでに、そんなことを標榜しても無意味なほど、中央の力は弱っていたのだった。
属国として位置づけていた琉球王国を奪われ(1879年)、そのために同様のことが起こりかねないとして警戒した朝鮮半島での衝突をきっかけにした日清戦争でも敗れ(1894年-)、台湾を奪われた(1895年)。そもそも、大陸の各地方は独自の権力を持っていて中央集権とはかけ離れていた。西太后が亡くなる直前に発布された憲法大綱は、明治憲法をモデルとしたものであったが、そんなあがきも空しく、オセロの駒がパタパタと一気にひっくり返るように地方が離反し、辛亥革命が実現する(1911年)。
ここで孫文から革命を「奪った」袁の意図は、本書を読むと、強い権力体系を持つ近代国家を構築しようとしたところにあったのだろうと思える。しかし、皇帝になったのはやり過ぎだった。
ところで、李烈鈞らによる第二革命(1913年)は袁によって鎮圧されるが、これは列強から苦労して得た大借款を軍資金に回した結果であるという。その意味では、ここまでは何とかなった。しかし、第三革命(1915年)ではぐらつき、そのこともあって、皇帝推戴を撤回している。確かに、強い権力体系ということ以外にさしたるヴィジョンなど持たなかった袁の限界であった。
●参照
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
ジャッキー・チェン+チャン・リー『1911』、丁蔭楠『孫文』(辛亥革命)
大島渚『アジアの曙』(第二革命)
尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』(第二革命)
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』(秋瑾)
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
井上勝生『明治日本の植民地支配』