Sightsong

自縄自縛日記

ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』

2015-05-03 19:48:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(NBA/SAJazz、2010年)を聴く。

David Murray (ts, bcl)
Evan Parker (ts)
Pasquale Innarella (as)
Greg Ward (as)
Joe Bowie (tb)
Tony Cattano (tb)
Meg Montgomery (el-tp)
Riccardo Pittau (tp)
Jean-Paul Bourelly (g)
On Ka'a Davis (g)
Harrison Bankhead (b)
Silvia Bolognesi (b)
Chad Taylor (ds, vib)
Hamid Drake (perc)
Alan Silva (syn)
Lawrence D. "Butch" Morris (conductor)

・・・というか、再生するまでDVDだと思っていた。ニューヨークのDowntown Music GalleryでもDVDの棚に置いてあったし。故ブッチ・モリスの「コンダクション」が、実際にはどのような指示を出し、どのようなプレイヤーの自由度をもって繰り広げられていたのか興味があっただけに、とても残念。

それはそれとして、なかなか豪華なメンバーである。トロンボーンがいることで、サウンドの分厚さが強調されているように聴こえる。アラン・シルヴァのシンセも目立っている。そして何より、エヴァン・パーカーとデイヴィッド・マレイが一緒に座ってテナーサックスを吹くなんて考えられない。ここではパーカーも見せ場を作るのではあるけれど、マレイの味が目立ちまくっている。

いやホントに、映像であったらどんなに愉しかっただろう。

●参照
ブッチ・モリス『Dust to Dust』


ウェイ・ダーション『セデック・バレ』

2015-05-03 18:19:02 | 中国・台湾

ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(2011年)を観る。なかなか観る機会が訪れないため、英語字幕のDVDを入手した。

1930年、日本統治下の台湾。原住民(=先住民族)のセデック族は、自分たちの文化や生活を破壊するだけでなく、近代化前の劣る存在とみなし、労働力として酷使する日本に対し、次第に怒りをつのらせていった。そして霧深い運動会の日に蹶起する。男たちは少人数ながら、山の地形や植生を最大限に利用し(何と、オオタニワタリの上から攻撃したりもする)、ゲリラ戦を有効に展開する。それに対し、日本軍と警察とは、近代兵器で反抗し、部族間の争いも利用する。

この「霧社事件」を描いた映画は4時間半と非常に長いが、迫力のあるスペクタクルでまったく飽きさせない。もっとも、史実ではここまで日本側に打撃を与えたわけではないようである。

植民地統治のあり方については、やはりと言うべきか、悪辣なる日本人が登場する。もっとも、このような者もいただろうなと思える描写である。またそれに加え、陸川『南京!南京!』がそうであったように、原住民と心を通わせる善良な軍人も登場する。だが、この軍人も、自分が憎しみの対象となり、善意を上から施してやるという一方的なパターナリズムが通用しなくなると、結局は弾圧に疑いを持たず加担する。

ああ、思い出した。先日友人と西新宿の台湾料理店「山珍居」で夕食を取っていたところ、真後ろに座っていたいい歳の女性が「台湾って、どこかの植民地なんだっけ?」と恥じらいもなく大声で訊いていたことを。歴史とはいつまでたっても非対称なものである。

●参照
Sakurazaka ASYLUM 2013 -TAIWAN STYLU-
何義麟『台湾現代史』
丸川哲史『台湾ナショナリズム』


福岡伸一『フェルメール 光の王国』

2015-05-03 09:21:16 | アート・映画

福岡伸一『フェルメール 光の王国』(木楽舎、2011年)を読む。

ANAの機内誌に2007年から11年まで断続的に連載されたものをもとにしており、わたしもそのいくつかは読んだ記憶がある。いかにも機内誌らしく、著者の福岡氏が、実際にフェルメールの作品を所蔵している美術館まで旅をするという贅沢な企画だ。もちろん、贅沢というのはおカネの贅沢だけではなく、眼の贅沢でもある。フェルメールのみならず、多くの美術作品は、実際に現物と向き合ってこそ体感できるからである。

ヨハネス・フェルメールは17世紀オランダの画家。真贋不明なものも含め、かれの現存する作品は三十数点のみ。そのすべてとは言わないが、絵の前に立つと、その奇跡のような光と影との現出に息を呑み、しばらくの間見入ってしまう魅力がある。人気があるのは、ブランド志向ではないのだ。

著者は、この光と影のありさまを、「光のつぶだち」と呼んでいる。また、こちら側と向こう側の間や対象のエッジが「融ける」ようだとも。まさにそれは、著者が探偵のように解き明かしていく通り、フェルメールが科学の眼と芸術家の眼をもって、光のヒミツを自らのものとしたからであった。そして、その背景には、ガリレオ・ガリレイが宇宙と地球のヒミツを垣間見、同じデルフトという街で生きたアントニ・ファン・レーウェンフックという市井の学者が顕微鏡で光を手なずけはじめ、フェルメール自身もカメラ・オブスクーラという装置で光を二次情報化していたということがあった。なるほど、納得である。

この福岡氏を含め、世にはフェルメール詣でを行う人が少なくないという。わたしは機会があれば観てきただけであり、数えてみると、ロンドンのナショナル・ギャラリー、パリのルーヴル美術館、先日行ったニューヨークのフリック・コレクションとメトロポリタン美術館、来日した作品を含め、今のところ14点。数字で言えばまだ三十数点の半人前にも達していない。本書を読むと、ドイツにもフェルメールを求めて行ってみたくなってくる。その前に、新美術館にルーヴルから来日中の「天文学者」を再見するか、最初期の作品とされる「聖プラクセディス」を観るか(フェルメールらしさは稀薄なようだけれど)。

●参照
メトロポリタン美術館のフェルメール、ティルマンス、キャリントン
フリック・コレクションのフェルメール
テート・モダンとソフィアのゲルハルト・リヒター