Sightsong

自縄自縛日記

トニー・ウィリアムス・ライフタイム『Live in New York 1969』

2017-08-30 22:44:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

トニー・ウィリアムス・ライフタイム『Live in New York 1969』(Hi Hat、1969年)を聴く。

Tony Willams (ds)
John McLaughlin (g)
Larry Young (org)

同一メンバーの初代ライフタイムによる名盤『Emergency!』が吹き込まれたのが1969年5月。本盤は同年の終わりころのラジオ放送。嬉しい発掘盤である。

『Emergency!』と比較すると、こちらの方がむしろいいのではないかと思える。「Emergency」と「Something Special」を両盤で演奏しているのだが、特に前者において、ラリー・ヤングもジョン・マクラフリンもパワーアップして、四方八方に突き抜けている。残念ながら音質がいまいちで、トニーのドラミングが隠れてしまっている。それだけが残念。

●トニー・ウィリアムス
トニー・ウィリアムスのメモ(1996年)
『A Tribute to Miles Davis』(1992年)
ハービー・ハンコック『VSOP II TOKYO 1983』(1983年)
ハービー・ハンコック『Velden 1981』
(1981年)
トニー・ウィリアムス・ライフタイムの映像『Montreux Jazz Festival 1971』(1971年)
ジャッキー・マクリーン『The Complete Blue Note 1964-66 Jackie McLean Sessions』(1964-66年)
マイルス・デイヴィスの1964年日本ライヴと魔人(1964年) 
ハンク・ジョーンズ


新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』

2017-08-30 21:26:51 | 沖縄

新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』(岩波現代全書、2017年)を読む。

タイトルからは、沖縄に住む、あるいは深く関わるといった「当事者性」が強調されているように感じられる。実際にこのふたりによって話されることは、その「当事者性」をいかに問い直すかという点だ。沖縄人でなければ沖縄の政治に関わってはならないのか、あるいは、沖縄人でない場合に沖縄の政治に関わるための資格はあるのか。

この視点からは、沖縄以外の日本を「内地」、「本土」、「ヤマト」のいずれで呼ぶのかという議論も出てきている。たとえば「本土」には、「本土」こそが日本の中心であるという驕りが感じられる。支配の歴史を意識する呼称として「ヤマト」を使う人も多いだろう(わたしもそうである)。しかし、鹿野氏は、「みずからをヤマトと称することの欺瞞性」と指摘する。それは、新城氏によれば、「本土」という言葉の選び直しによる「抑圧」の再自覚化である。それもまた欺瞞かもしれないのだが、言葉の持つ意味や権力関係をわがこととして慎重に考えることは、倫理的な行動に他ならないだろう。

ここで新城氏により「ビカミングアウト」という概念が紹介される。「カミングアウト」をもう一歩進め、何かに「なり続けていく」。絶えず「沖縄になる」、「沖縄人になる」、あるいは「マイノリティになる」。排除と閉鎖の性質を持ってしまう悪しき当事者性が、丸山眞男のいう「であること」に近いものだとすれば、「ビカミングアウト」は悪しき当事者性を乗り越え、開かれた関係を創り出すものとして、とても大事な捉え方なのではないか。

基地の「県外移設論・引き取り論」も、ここでは倫理をもって語られている。レイプなどの凶悪犯罪を構造的に引き起こす基地なるものを、日米安保が重要なら持っていってくださいという考え方は、やはり倫理に背いているだろうという考えに基づくものである。いやしかし、このままでは現実的に解決しないではないか、では平等に負担すべきだという論理が「県外移設論・基地引き取り論」だとして、それにも倫理はあるわけだ。このあたりの議論が、2016年に「沖縄タイムス」紙上で展開されていたのだが、それは次の何かをみることなく終わってしまったのだろうか。

もっとも、議論は倫理ばかりに基づいているわけではない。両氏は、沖縄の施政権返還が米軍の軍事戦略のなかでなされたのだとする。それが現在まで地続きである以上、移設などといったところで米軍がそのように動くわけがないという指摘も的を射ている。

●参照
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
新城郁夫『沖縄を聞く』
高橋哲哉『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』

●本書で紹介された本
屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』
伊波普猷『古琉球』
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
大江健三郎『沖縄ノート』
新崎盛暉『沖縄現代史』


クレイグ・ペデルセン、エリザベス・ミラーの3枚

2017-08-30 08:07:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

先日、新宿ピットインの客席で、エリザベス・ミラー、クレイグ・ペデルセンというふたりの即興演奏家と知り合った。カナダから3か月ほど来ており、仕事をしたり演奏をしたり勉強をしたり、だという。後日、かれらの演奏する音源をくださった。

ふたりのユニット「Sound of the Mountain」による『Amplified Clarinet and Trumpet』では、それぞれが楽器のコアでない音までも増幅させ、確かにごつごつした岩山のようなサウンドを生みだしている。マチエール感も全体感もあり、まるでマックス・エルンストの絵を眺めているようだ。

その印象のまま、クレイグ・ペデルセンのみによる『Solo Trumpet (2016)』を聴いてそのギャップに驚いた。短いトランペット・ソロ2曲なのだが、最初はロングトーンで、次は切れ切れのフラグメンツで、ぎらぎらと光り、また沸き立つような音を放っている。

そして、クレイグ・ペデルセンのクインテットによる『Approching the Absence of Doing』もまた新鮮だった。ペデルセンのトランペットはソロと同様に乱反射している。ユニットとしても面白くて、リンゼイ・ウェルマンのアルトが断続的に昇竜のように絡みつくありさまは、セシル・テイラー『Dark to Themselves』におけるデイヴィッド・S・ウェアを彷彿とさせる。ベースは全体のサウンドとのバランスを考慮する前になにかをかなぐり捨てたように我を発散しているし、ツインドラムスはパンクロック的でもある。

かれらはまだ日本に滞在しているようなので、そのうち、このサウンドについて話をしてみたいところ。

■ Sound of the Mountain 『Amplified Clarinet & Trumpet』(Mystery & Wonder、2017年)

Elizabeth Millar (cl)
Craig Pedersen (tp)

■ クレイグ・ペデルセン『Solo Trumpet (2016)』(Mystery & Wonder、2016年)

Craig Pedersen (tp)

■ クレイグ・ペデルセン『Approching the Absence of Doing』(Mystery & Wonder、2017年)

Craig Pedersen (tp)
Linsey Wellman (as)
Joel Kerr (b)
Bennett Bedoukian (ds)
Eric Thibodeau (ds)


ジャズ・ガウロンスキー『Jaruzelski's Dream』

2017-08-30 00:00:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジャズ・ガウロンスキー『Jaruzelski's Dream』(clean feed、2008年)を聴く。

Jazz Gawlonski:
Piero Bittolo Bon (as, smartphone)
Stefano Senni (b)
Francesco Cusa (ds)

「ジャズ・ガウロンスキー」とはアルトサックスのピエロ・ビットロ・ボン(PBB)を中心としたグループ名であり、おそらくは、イタリア出身のジャーナリスト・政治家にしてポーランド語も堪能であったジャス・ガウロンスキーの名前をもじっている。そしてタイトルは、『ヤルゼルスキの夢』。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキはポーランドの政治家であり、かつてレフ・ワレサの政敵として民主化を弾圧もした。

・・・というような仕掛けがあっても、それはおそらくは言葉遊びなのだろう。関係があるとすれば、苛烈な攻撃、それからアイロニー。

PBBのアルトは確かに何者かに対して苛烈であり、手を緩めずにずっと攻め続けている。ときにロリンズやドルフィーを思わせる瞬間などあるが、そんなことは関係ないと言わんばかりに力技で最後まで攻め吹く。シニカルで哄笑的にも感じられる。

●ピエロ・ビットロ・ボン
ピエロ・ビットロ・ボン(Lacus Amoenus)『The Sauna Session』(2012年)
ピエロ・ビットロ・ボン『Mucho Acustica』(2010年)