Sightsong

自縄自縛日記

すずえり、フィオナ・リー『Ftarri de Solos』

2017-08-28 22:27:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

すずえり、フィオナ・リー『Ftarri de Solos』(Ftarri、2017年)を聴く。

suzueri すずえり (upright piano, toy piano, self-made instruments, objects)
Fiona Lee (DIY electronics, objects)

これはFtarriが店舗を開いて5年が経ったことを記念して作られたCDの1枚である。先日のライヴで記念品としていただいた。

すずえり、フィオナ・リー、ふたりともライヴ演奏を実際に観たことはまだない。それぞれ自作楽器を使って奇妙で愉快な音楽を創り出している。twitterなどでの報告を読むと明らかに視覚的な面白さがあるはずである。しかしそれを音だけで鑑賞することで、実は観るのとは違うように脳に入ってくるに違いない。

すずえりさんのサウンドを聴いていると、半自動のユニークな残忍さといおうか、容赦なさといおうか、そういったことによってヘンに愉快な気分にさせられる。この色彩はメトロノームによってさらに濃くなり、最後にピアノで救われるという魅力。急停止して振り落とされるのもまた愉快。

フィオナ・リーの音は、電気で動く球面内のボールなのだろうか。ぎゅわわんという金属音そのものの面白さを執拗に提示することの愉しさは、それが人間的な電気を使っていることによってさらに増している。


ヴィジェイ・アイヤー『Far From Over』

2017-08-28 21:14:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヴィジェイ・アイヤー『Far From Over』(ECM、2017年)を聴く。

Graham Haynes (cor, flh, electronics)
Steve Lehman (as)
Mark Shim (ts)
Vijay Iyer (p, fender rhodes)
Stephan Crump (b)
Tyshawn Sorey (ds)

刺激的かと言われれば、そうでもあり、そうでもない。

ジャズ・フォーマットでの暴れっぷりといったらそれは凄い。スティーヴ・リーマンは自身のバンドでないからか抑制度を引き下げていて、いつもこうあってほしいようなアルトを吹いている。タイショーン・ソーリーの個性はいまだによくわからないのだが、それはあまりにも大きなポテンシャルのゆえではないかと思えてくる。彼がサウンドをコントロールしているようにも聴こえる。

このメンバーでヴィジェイ・アイヤーにできる越境音楽とはどんなものだろう。つまり不満はそこにある。

●ヴィジェイ・アイヤー
アグリゲイト・プライム『Dream Deferred』(2015年)
ヴィジェイ・アイヤー+プラシャント・バルガヴァ『Radhe Radhe - Rites of Holi』(2014年)
ヴィジェイ・アイヤーのソロとトリオ(2010、2012年)
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』(2009年)
フィールドワーク『Door』(2007年)

ジャファール・パナヒ『これは映画ではない』、ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』(2003年)


『東方見聞録展 モリソン文庫の至宝』@東洋文庫ミュージアム

2017-08-28 20:48:58 | アート・映画

本駒込の東洋文庫ミュージアムで、『東方見聞録展 モリソン文庫の至宝』を観る。

ジョージ・アーネスト・モリソンはオーストラリア生まれの医師であり、「タイムス」の海外特派員や中華民国の顧問も務めた人物である。かれはアジアの文献や絵などを多量収集していた。それは病的な執念と言えるほどのものであったことが、展示室の書棚に並べられた膨大な書物を一瞥するだけでわかる。コレクションは、ちょうど100年前の1917年に、東洋文庫がそれらを購入し、管理している。

南満州鉄道(満鉄)関連の資料、アヘン戦争の絵など面白いものはたくさんあるのだが、やはり目玉は、時代を超えて出版され続けた、マルコ・ポーロ『東方見聞録』の数々。異本と言ってもいいのだろうか。クリストファー・コロンブスが保有していたものと同じ版もある。

こんなものを見ると旅心が刺激されてしまう。『東方見聞録』は、気になったスリランカの箇所を読んだだけなのだが、やはり通して読まなければと思っている。


南満州鉄道の資料


1664年、アムステルダム刊。


1485年版、アントワープ刊。


オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』

2017-08-28 08:06:25 | 北米

オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』(山口書店、原著1979年)を読む。

現代の黒人女性デイナは、あるとき、南北戦争前のアメリカにトリップするようになった。どうやら自分の祖先のルーファスが、いのちの危険を感じたときに「呼び出される」ようなのだった。そしてデイナが自分自身のいのちを失う恐怖を覚えると現代に戻ってくる。過去に旅する時間は体感的には長くても、戻ってくるとわずかな時間しか過ぎていない。トリップを繰り返すたびに、過去の者たちばかりが歳を取っているという奇妙な状況になった。

ルーファスは奴隷を何人も所有する農場の跡取り息子である。かれにも他の者たちにも、黒人が奴隷的立場以外の生き方をすることを受け容れることができない。時間を置いては前と同じ容姿で現れるデイナは、恐れられつつも、やはり、いのちも尊厳もいつ失ってもおかしくはないような境遇で生きていくことになった。

痛みの感覚に対する著者の描写は、読んでいてつらくなる。それは「これから起こりうること」への痛みでもあり、容易に想像できるような「レイプ」などではない。著者はそれを手段として使うことはない。デイナのパートナー・ケヴィンに、デイナが消えている間にレイプされたのではないかと疑わせるのは、ケヴィンに読者を重ね合わせているわけであり、とても優れた仕掛けである。

デイナにとってルーファスは、自分の祖先でもあり(つまり、ルーファスは黒人女性との間に子をもうけたのだ)、精神的に近い存在であるのと同時に抑圧・恐怖の対象だけではない。このことにより、デイナは、奴隷の黒人たちから白人にすりよる存在として嫌われもしてしまう。何重にも錯綜した差別の構造を容赦なく見せつけられるようだ。

バトラーは、シカゴの音楽家ニコール・ミッチェルが大きな影響を受けたと語る存在であり(>> インタビュー記事)、トランプ政権のいままた、1998年の小説で「Make America Great Again」を標榜するファシスト政治家を登場させていることが予言的であったと話題になっている(>> 記事)。もっとバトラーの作品を読んでみたいが、邦訳された長編小説は『キンドレッド』だけである。