すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

そえたい「か」は学びの時

2024年06月23日 | 読書
 『数学の贈り物』(森田真生)に、著者が紹介・引用した語は実に印象深い。数学者らしい選択となっているが、全て人の生き方そのものに関わってくる気さえする。一つは「かぞえる」。これは、かの白川静によれぱ、「かぞえ(へ)る」←「か+そへる」←「過ぎ去った日に『か』の音を『そえ』ていく」という由来らしい。




 「はかばかし」や「はかどる」の「はか」が、田んぼの区画を分かつときに使われた単位であることは、かなり昔学習で扱った記憶がある。今回、それが「はか(則、計、量)」に通ずることを読み、そこを基点とした計算認識の浸透によって、「さらなる便利と効率を追求しようという動き」の拡大が何をもたらすか考える。


 ダンプカーのおもちゃで石集めに夢中になる息子を見て、著者はこう語る。「僕の頭はいつも『いま』を、過去や未来との対比のなかで『はかる』ことで忙しいが、それに比べて息子は、はかない『いま』に、全身で没入している」…「はかどる」ことばかりに目が向き、瞬間の輝きを見過ごしがちな私達への警鐘である。


 この聡明な学者でさえ「これからどんな時代が訪れるのか、たった十年後の世界がどんな場所になっているか、僕には想像もつかないのである」と吐露する。教育に関する知見はそこを基盤とし、大人の「自分は学び終わっている側」という考えに釘をさす。「対象とともに自己を変形させていく」営みが求められている。


 古語辞典から「おくり」と「おくれ」が同根のことばだと書き出す「あとがき」も心に響いた。何かを「贈る」とは「おくれの自覚とともにおくる」のだという。学びから何かを見出すことが「前に進むだけでなく、自分の遅れに目覚めていくことである」という一節は、今頃似た作業をした自分にぴたりと当てはまった。

行為に先立つ意味がないのは…

2024年06月21日 | 読書
 『数学の贈り物』(森田真生 ミシマ社)の感想メモの続き。「意味」と題された章は、なるほどと思った。数学が苦手と語る人々は「『意味が分からなくなった』ことを以て『挫折』と決めつけてしまっているようである」と記し、分数の割算や、負の数によるかけ算などの例を出している。確かに思い当たるふしがある。


 ふと教員採用になる半年前、講師の時に中学校3年生へ数学を教えた(補充だったのだろうか)その教室で「1/2÷1/2の意味が分かる奴はいるか」と問い、いわゆる秀才も含め誰一人挙手できなかった場面が蘇ってきた。本質を理解しないまま包含除の考え方で誤魔化した時間が今さら恥ずかしい。そもそも意味は必要か。




 著者は、数が当初は意味を表現する道具だったが、記号として自立すれば演算は意味の記述のために定義されないと述べる。始めから予定された意味などなく、記号が人を導き「次第に意味はつくりだされていく」とし、「×(-1)」の演算行為を例にしながら、分配則や数直線の空間的なイメージをもって説いている。


 苦手と称する者に救いになるような一言がある。「自分が数学についていけなくなったのではなく、意味が数学についていけなくなったと考えてはどうか」この発想は、数学に限らないのではないか。ただそれは、意味を軽んじるということではないだろう。「意味ないじゃん」「意味わからん」を常套句には出来ない。


 「行為に先立つ意味がないというのは、日常においては常識である」


 この一節を深くとらえよう。我々大人は、ある面で「意味」の世界に安住している。日常生活のモノやコトはほとんどが意味づけられており、それゆえ時々目の前に登場する「意味不明」に心揺さぶられる現状がある。既成の知識や情報にすがってはいけない。やはり「意味をつくりだす」姿勢が、最後の手綱である。

「いまのいま」の豊かさを

2024年06月17日 | 読書
 Re52『数学の贈り物』(森田真生 ミシマ社)は、実にいい本だった。もちろん専門書ではなくエッセイ集である。数学的な記述は確かに多いが、どちらかと言えば「ことば」全般について色々と考えさせられた。メモしたい想いが多くあり、身辺雑記を交えながら何度か続けて書いてみたい。まず冒頭の一文に惹かれた。

 先日、もうすぐ三歳になる息子が、「おとーさん、だれかのおとしものをさがしにいこうよ!」と誘ってきた。

 「――偶然の贈り物」と題された前書きにあるこの件だけで、豊かさが迫ってくる感覚を受けた。暗い夜道を懐中電灯を手にして歩く親子は「だれかのおとしもの」を探している。そして場所は京都の、あの「哲学の道」である。子どもが見つけた「小石」を、私達はどのように受け止め評価できるか、全てがそこに通じる。





 午後のTV再放送枠で「フラジャイル」という病理医を主人公としたドラマをやっていた。今は引退したTOKIO長瀬智也が主演している。内容はともかく意味も考えず観ていたタイトル「Fragile」という単語を、かの本に見つけたのだ。フランシスコ・ヴァレラという生物学・認知科学者の言葉が引用されていた。

 Life is so fragile, and the present is so rich

 著者は、若くして逝った学者の考えをこう解釈する。「生の儚さをあきらめきることが、即ち「いま」の豊かさに目覚めることだ」そういえば、TVドラマは治癒した患者も当然いたが、そうでない結末を迎える者も多くいて、そこにどう救いを見出すかが一つのテーマのようだった。「身体と心の関係」が常に問われる。


 数学者岡潔、澤木興道禅師の言葉を引用し、著者が示しているのは「実感」の大切さであり、それは数学という「見えない研究対象」を扱っているゆえだろう。そこで戒められる「自我と根拠への執着」…こうキーボードを打ちながら「いまのいま」の豊かさを感じるため、心底の奔放さをどう発揮するか、考えている。

良作や難作や凡作や

2024年06月14日 | 読書
 『流星シネマ』のアナザーストーリーとも言うべきRe48『屋根裏のチェリー』(吉田篤弘 角川春樹事務所)を読んだ。これもなかなか面白かった。話者人物への共感というより、登場者たちの見え方が当然ながら『流星~』より広がり、姿がくっきりしてくる。こうした手法や展開のさせ方の小説がもっとあっていい。


 マイ吉田篤弘ブームで続けて取ったのは『天使も怪物も眠る夜』(中公文庫)だが読了できず。「螺旋プロジェクト」という企画は8人の作家の「原始から未来までの歴史物語」の競作。「正体不明な未来のガジェットが頻出し、決して読みやすいお話ではなかった」と著者があとがきで記す通りで、高齢者は第一章で断念。





 Re49『隠蔽捜査10 一夜』(今野敏 新潮社)。お気に入りのシリーズは、図書館の予約待ちでようやく借りた。しかし今回は凡作だ。筋書きは途中で読めたし、主人公竜崎の言動も今一つピリッとしない。作家業界?の内情は多少知れるが平凡だ。同齢のこの作家もマンネリになっているか。未読の同9.5に期待したい。


 実は昔はサンマーク出版のファンだった。月刊誌も買っていた。胡散臭く感じる人も多いが、神秘的な事柄に惹かれるのは、家が神道だからか(んなわけない)。書名だけで手にしたのは、次の2冊だ。Re50『幸運を呼び込む不思議な写真』(FUMITO)。それからRe51『幸運を呼び込むもっと不思議な写真』。幸運はあったか。


 「見るだけで、いいことが起こりはじめるという噂が!」と帯にある。いったい誰が「噂」しているのかと思う時点で、半信半疑の読者となる。写真に映るエネルギーと称されるのは、いわゆるゴーストではないかと…。ただ一つ「龍雲」の意味が今さらながらわかり納得した。そうかあ、我は何度それを目にしたことか。

手離さなければ、自ずと残る

2024年06月04日 | 読書
 Re44『旅屋おかえり』(原田マハ 集英社文庫)。既にドラマ化されていて視聴した覚えがある。それなりに面白いドラマだった。当然、原作は違う部分も多くあり、こちらも気軽に楽しめた。「旅屋」という発想はあるようでなかった気がする。人が旅に込める思いは範囲も広く、また深く、テーマは無限にありそうだ。


 数年前にずいぶん売れた。その時読んだことは失念していた。結果、再読となるRe45『それでもこの世は悪くなかった』(佐藤愛子 文春新書)。その時に「ずいぶんと『侠気』に富む」と記していた。まさに今回の読後感も同じ。どうやら映画化されるようだが、私たちは何かこういう痛快さに飢えているような気がする。




 100円だったので何気なくカゴにいれたRe46『上機嫌な自分でいるコツ』(和田秀樹 新講社)。主対象はビジネスマンのようだった。キーワードは当然とはいえ「感情」でありそこにどうアプローチするか。刺激の与え方、コンディションの保ち方等、本来の内部操作を外部からコントロールするテクニックを教える。


 Re47『一度きりの人生だから』(伊集院静 双葉社)。「大人の男の遊び方②」が副題。週刊誌連載が集約されている。ギャンブル、麻雀から他者とのコミュニケーションまで、この作家の「流儀」が書かれている。人からの批判など「それがどうした」と一言で受けとめる、今となっては旧き男の典型は、ファンが多い。


 雑な軽読書に終始した印象が残る5月。併行して読んでいる小説は結構スローリーディングだ。翻ってこれらは正直ぺらりと進めた。こういうメリハリをつけるのもいいか。本はどんなふうに読んでもいい。残るのは価値ある語だけだろうし、それなら黙っていても自ずと飛びこんでくるはず。本さえ手離さなければ。

一点集中しない生き方

2024年05月27日 | 読書
 今さらどうしてこんな本を注文するのと思いつつ、クリックして注文した一冊。Re41『音読・朗読入門 日本語をもっと味わうための基礎知識』(杉藤美代子・森山卓郎 岩波書店)。今月から毎週必ず学校や園で読む機会があるので、「初心」にかえり…と殊勝な気持ちを抱いたか。案の定読み始めたら、大概知っていた。


 ところが100%でないからこの本の価値はある。例えば無意識にしている語のアクセント、電話番号を言うときの数字の並びなど…発見だ。それよりも喜んだのは、一つのネタが非常に興味深く教室で試したいという気になったこと。宇野重吉の語りの文章で紹介されていた。あの味のある名優に一歩でも近づくか(笑)。





 何度目かのマイブームでRe42『流星シネマ』(吉田篤弘 角川春樹事務所)が風呂場読書の中心になった。読み終わりが残念なほどの素敵な世界だ。『ソラシド』と同じように、ここでも音楽が大きな背景をつくる。現代の私たちが縛られている効率とか常識とか世間体とかから、少し離れて「物語」に遊ぶに最適な一冊だ。


 たまにはこうした有難い人の文章に触れるのもいい。Re43『一日一生』(酒井雄さい 朝日新聞出版)。この方の偉大さは修行における一種の人間離れしたところにあるはずだが、記す内容は意外と人間臭い。ある大泥棒のエピソードから「千日回峰行」で長く歩き続けるコツを、老師から授けられた記述が説得力がある。


 曰く「歩きながら休む方法」。題して「足が疲れたら、肩で歩けばいい」。これはいわば精神の拡散について語っている。人生を歩くことにもそのまま原理を応用すればいいという。つらいことの一点に意識を集中させるから「苦労」に思える。しんどいことに向き合うという正論はあるにしても、大事に届くためには…。

坂道とまずいコーヒーと

2024年05月16日 | 読書
 Re39『坂道~LesPentes~』(ドリアン助川 ポニーキャニオン)。一人の画家の人生を、年齢順に見開きページで短い文章と坂道・階段等の写真で構成する。「0歳、気付けば僕は生まれていた」から始まり75歳までの「夕暮れ」までが描かれる。付属のCDもあり、著者の朗読も聴けた。思えば、初めて声に触れた。


 いい声だ。一定の修練があってこその「響き」を感じる。別の作品も聴いてみたい気にさせられた。淡々とした読み方は、この本にふさわしい。一番ぐっときたのは「64歳、持っている絵の具をすべて並べてみる。色の可能性を本当に私は試したのだろうか。」次ページに読点を打つように見開き写真が使われている。




 今風に言ってみると、カッケー小説だ。Re40『ソラシド』(吉田篤弘 中公文庫)。冒頭の一文からまずそう感じた。「まずいコーヒーの話でよければ、いくらでも話していられる。」…これだけで、どんな生き方を送ってきたか。毎日との向き合い方のいくつかが想像され、「世界」がぐっと寄ってくるような気がした。


 「あとがき」を見たら、実は同様の一行を配した小説が三つあると明かされ、もともとの出典までが記されていた。実に興味深い。「まずいコーヒー」の持つイメージは、風景につながりやすいのは明らかだし、もっと言えば、時代の文化が背景にあるのだろう。それはきっと80年代から始まり、現在もどこかに残る。


 「『あとがき』ばかり読んでいた」には参った。「本編」は「あとがきほどには面白くないと知っていた」という考えは、様々な要素が絡むが一面では真実とも言える気がする。つまり、書き終えてあるいは編み終えて、作品から離れた目で感じた思いや考えが水面に浮かんでくるような…掬い取れるエッセンスがある。

消費化社会の斑として

2024年05月12日 | 読書
 大胆な書名である。Re38『「消費」をやめる』(平川克美 ミシマ社)。根本的に考えれば無理なことだと誰しもわかる。ここで著者が提言するのは「消費を変える」こと。つまり「消費しない」ということではなく、「賢い消費」の実践である。そしてそれは、例えば「いいものを安く買う」という意味での賢さではない。


 副題に「銭湯経済のすすめ」と記してあり、「半径3㎞圏内でめぐる経済」の重要性を説いている。銭湯が半世紀も前に姿を消している地方にあってもその比喩的な表現は通用するかもしれない。つまりは地元に昔から根付いてきた商店や産業に目を向け、できるだけお金をそこで廻す、それが生き方と直結するという。




 そうした指摘は以前からあったが、膨れ上がった消費者マインドに慣れきってしまい、なかなか実践できないでいる。その結果が地域の疲弊、空洞化につながり、少子化、人口減と重なるのは明らかだ…やはり「賢さ」が足りないのだ。経済合理性を求めてきたツケで身動きできない姿を、もっと見つめる必要がある。


 一般人であれば、電気や水道があり、実際に1円も使わない生活はあり得ない。しかしそれ以外で今日使ったお金もしくは行動が何のためか、問うてみる。まず「食」。そこに顔が見えるか。その顔につながる次の顔が身近で、シンプルであればあるほど良い。自給自足を一つの頂点として、何段階先にそれが見えるかだ。


 かなり極端な話だ。ただ「衣」であれ「住」であれ、少し調べ知識を使えば「位置」がわかるはず。一歩ずつ一歩ずつ「地縁」や「贈与」の割合を増やしていきたい。もちろん、例えば通販や百均などに頼るのをすぐ止めることはできないだろう。しかし、慎重に内面を見つめれば、消費化社会の斑の一つにはなれるか。

よたよた生き残ること

2024年05月08日 | 読書
 Re37『んだんだ 無明舎出版よたよた半世紀』(あんばいこう)を読んだ。一度は話を聞いてみたいと思っていた県内人。高校の同窓でもある。ホームページ等で多少生き様に触れ、もしかしたら自分にもこんな人生があったかなあと、漠然と感じていた。しかし、この著で詳しくその半生?を知るとやはり差は大きい。



 7歳という年齢差つまり団塊世代の最後である著者との違いは、大学が置かれた時代的環境が直接的と言えるかもしれない。自分も学生の時にミニコミ誌や劇団との関わりを持ち、少し手を引っ張られた経験もあるのだが、引っ込めて「安住」を求めたのは事実だし、結局、度胸なしの怖がりだったという結論かな。


 それを踏まえて、あえて共通項を求めれば「持続力」なのかもしれない。むろん、地方出版の継続の難儀さとはレベルが違うだろう。しかし、一つの生業をあれこれ模索しながら諦めなかったことに強く共感する。趣味的な範疇への首の突っ込み方も少し似ている。「んだ」は我が国語実践の中でも印象に残る語と言える。


 三章構成で一章が「後半の三十年ものがたり」、二章が「前半の二十年ものがたり」である。こうした組み立ても面白い、二章で語りの人称を変えたのは工夫だ。「私」から「安倍」になったのは、より客観的にとの意図だが、次第に同化してしまった印象も残る。ノンフィクションを綴るうえでは難しい点かもしれない。


 三章の略年表には1972(昭和47年から2022(令和4年)までの事項と年間刊行書籍が残されている。それをさらりと見ても、無明舎が果たしてきた秋田への文化貢献度は大きい。個人的にも数冊読み込んだ書籍がある。「よたよた」と「半世紀」生き残ることは、私のような者にも強く影響を与えていることを実感した。


想像力で昇華せよってこと

2024年05月02日 | 読書
 4月中旬からの読了はわずか2冊。Re35『僕たちの居場所論』(内田樹・平川克美・名越康文 角川新書)Re36『木挽町月光夜咄』(吉田篤弘 ちくま文庫)である。読み止め、読みかけも数冊あるが、まあ読書は進まなかったな。でもこの二冊は面白かった。内容が捉えきれなかった点もありつつ、肌が合うのだろう。


 吉田篤弘の小説は結構読んできたが、このエッセイで極まったのは、やはり都会人だということ。書名が表すように「江戸っ子」の血をひいている人はやはり違うなあと素直に憧れる。似たような感覚は松本隆にも抱いてしまうし、どうしても田舎者の手の届かない世界、その魅力は大きいし、この齢でもそう感じる。


 地方から都会への人口流失が止まらない訳は様々に分析される。人的環境や就職口の問題も確かにあるが、やはり「東京」への憧れが下地を作るのではないか。「テレビっ子第一世代」(笑)としては、あれだけ魅力のあるモノ・コトを見せ続けられたらそりゃそうでしょと言い訳がましく思う。諦めてこそ冷静になれる。


 それはそうと『~居場所論』である。あまりの整理下手は読了本の行方さえわからない。堂々と居場所を確保している三人の鼎談は痛快であり、「自分」のままに行動し見つけたようだ。「落ちつくべき場所。安心していられる場所」という意味に添えば、自分がもし都会に住んでいれば、その場所を見つけられたのか。



 2024.5.2 細いけれど今年のネマガリダケ初収穫。双子(笑)


 三者の道は様々だが、結局好きなことに没頭する、他者の締め付けに抗う、自ら居心地のいい場所を創り出すといったステップを踏んでいる気がした。だから説得力がある。引き寄せて我が身を考えると、中途半端さは否めない。ただ最後が肝心でありそれは可能なこと。都会への憧れは想像力で昇華せよってことか。