すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

コンプレックスはバネだ

2018年06月30日 | 読書
 コンプレックスはたくさんある。外見的なこと、内面的なこと。まあ齢をとるのはありがたいことで、外見的なことはだんだんと気にならなくなるものだ。でも完全に消し去ってはいないと正直に認めよう。内面的な点については十代の頃とあまり変わらない気がするのは、俺だけか…こう思うのもコンプレックスか。


2018読了65
 『コンプレックス文化論』(武田砂鉄  文藝春秋)


 0章の構成である。わかりやすいのは(有りがちなのはと言い換えてもいい)「天然パーマ」「下戸」「一重」「背が低い」「ハゲ」の五つか。その次になんとなくわかるのが「解雇」「親が金持ち」「実家暮らし」だろうか。そしてタイトルだけではわからないのが、「セーラー服」「遅刻」だ。それゆえ文化論なのか。


 コンプレックスとはいったい何なのだ。ここで辞書的な意味を紐解いてみたところで仕方あるまい。要はコンプレックスが生き方にどう関わるかが問題と言えよう。その意味で「一重のアイドル」(らしい)朝倉みずほのインタビューにはぶっ飛んだ。筆者の様々な問いかけに対しての答えが、あまりにアグレッシブだ。


 筆者はこう書く。「彼女の場合は『Q』に対する『A』ではない。でも『A』なのだ。設問に答えていなくても、いっつも強い主張なのだ」。つまり本人が身体的な特徴を気にしようがしまいが、「生きようとするタフネス」を身につけたのだ。つまり、コンプレックスとはそのきっかけになり得るものだと解釈できる。


 「親が金持ち」という章には、こんな一節がある。「『表現すること』と『貧乏であること』はそもそも親和性が高い。表現者になるきっかけとしての貧乏体験の述懐はそこら辺に溢れている」。ある意味でそういう境遇に恵まれない(笑)金持ちは、どこで生きるバネを見つけるのか。そもそもそんなものは無用なのか。


 一番面白く、考えさせられたのは「遅刻」だ。次回へ。

ラズベリーな日々、忙し

2018年06月29日 | 雑記帳
 宅地も狭く畑もないので、いわゆる農作業的なことはしないのだが、唯一収穫作業に携わるのが、ラズベリーの摘み取り。家人が作るお菓子にジャムにして使うので重宝している。6年前に当時の勤務校で撤去された根を植え替えたものだ。年ごとに拡がっている。先週頃から赤みを帯び、最盛期を迎えようとしている。



 同時に公私ともにばたばたと慌ただしかったこの一週間だ。皮切りは35年ぶりのスピード違反。最近の取り締まり警察官の言葉かけのなんと優しいことよ。「急いでいだったんしかあ」「どちらさ、行ぐどこだったんすべえ」ウルセーヨ、トットドスマセテクレヨ!と心で叫び、ぐっと堪えて国庫負担金を即払いに向かう。


 上旬に参加した研修会のビデオ作成に取り組んだ。ソフトを更新しようと注文し、本格的に取り掛かったのが先週末。風景や子どもの活動などはある程度こなせるが、研修というとまた別の難しさがある。どこを切り取ると凝縮した魅力が伝えられるか。まさに編集能力が問われる。BGM選曲や効果も難しかった。


 先週末の同期会参加、驚いたのは恩師の先生方の列席だ。70代お一人、80代お二人である。出かけようという気概に恐れ入る。その方に対して「教師の話は長い、という常識を打ち破るようなスピーチを、私たちに示してほしい」と図々しくも言い放ったのは、司会の私でした。ここは同じ教職にあった者の有利さか。


 町保育会の評議員なので、今年も施設訪問と研修があった。保育希望の広域化を改めて知り、考えさせられる。さて終了後の懇親会。世代が似た方々との小宴は、途中から大方言(放言ではなく)大会になって楽しかった。言葉で笑ったり頷き合えたりすることは本当に貴重だ。改めて「文化」を持っていると思った。

ずっとキニナルきっと

2018年06月28日 | 読書
 今月号の『ちくま』は、なんとなく引っかかる、つまり「キニナルキ」が多かった。その場限りではなく、ずっと心の中に佇みそうな一節ばかりだ。


Volume110
 「平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。(中略)昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている……としか思えない。」

 作家橋本治が「人が死ぬこと」と題して、そんなふうに平成を語っている。
 昭和生まれの感慨か。といっても昭和生まれには、ずいぶん幅がある、そのがさまよう姿を作りだしているということもできないか。


Volume111
 「現代詩が一般の人にとって受け入れがたいのは、その文脈の飛び方をおもしろがるということに不慣れな人が多いからじゃないかなあ。そういう言葉の楽しみ方を、私は学校で習った覚えがないぞ。」

 詩人最果タヒが「歌詞」の文章について語っている箇所。音楽がついている歌詞は、文脈が飛んでいる文章であっても人は受け入れやすいと書く。
 なるほど。しかし、文脈を繋げる読み方こそが教育の場で重視されることは仕方なく、「言葉の楽しみ方」も取り上げられてはいるはずだけれど、限界はある。
 「おもしろがる」感性を育てるのは人なんだけどね。


Volume112
 「そんな戦争の対義語としての平和ではなく、『今日はだれも席に座りたがらないかもしれない』と考えることで、未知なる平和を呼び込むことはできないだろうか。」

 「そんな戦争」とは都会の電車の座席争奪戦のイメージだ。
 批評家中田健太郎が書いたことは「蓋然性の高低」によって決めている個の生き方そのものだ。
 ビックデータを否定はできないが、常に内面化する必要もない。
 まず小さなことから自由を模索せよ。

「ほんとうのおれ」が起動する時

2018年06月27日 | 読書
 ライターがインタビューをしてまとめた形、それも話し手が語っているような文体なので、いわゆる「聞き書き」と言ってもいいだろう。失われつつある伝統的文化等の分野で見られる手法だ。そう考えると「糸井重里」自体がそうなのか…それは大袈裟か、いや常に新しい文化を産み出してきた象徴としては当然か。


2018読了64
 『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』(ほぼ日文庫)



 コピーライターの頃からは、ある程度知っている出来事も多い。けれど幼少期から学生時代にかけてのエピソードは興味深かった。父親の存在の大きさは言うまでもない。高校卒業時に言い出した「100万円か大学か」を決めさせる話は象徴的だ。自立心を育てる親の責任として、これほど明快な提示はめったにない。


 糸井を尊敬する一人として挙げるようになったのは「ほぼ日」を知った頃からなので、もう20年近いかもしれない。著書も多く読み繰り返し出てくるキーワードは知っている。しかし常に更新されて、言い換えされていくようだ。この本での一つは「いい正直」。そこにはきっと自他を幸福にする方向性が示されている。


 同期会翌日に読みだしたこともあり、妙に心に残る一節があった。糸井は、友達を「最高のおもちゃ」と言う。そして「おもちゃということは、お互いに使い捨てを前提とした関係でもある」と突き放した言い方もする。これは、ある意味で、彼が本当に友達や周囲に恵まれた証拠ではないか。単純な割切りではない。


 人はいろいろな「場」に行くときに「切符」を手にして出かける。その場での過ごし方は人様々であろう。そして切符を使った後に「誰も見ていない場所でひとり考える自分が『ほんとうのおれ』」と言う。そのひとりの時間の経験が大事で、切符を持った自分が心を開けるかどうかの鍵となる。この喩えは沁みてくる。

コミュ力と称される窮屈さ

2018年06月26日 | 読書
 もう一読。

2018読了63
 『日本の気配』(武田砂鉄 晶文社)


 この本からもう一つ、どうしても書いておきたい文章がある。最終の第五章は「強いられるコミュニケーション」と題され、こんなふうに書き出されている。

 「今、最も警戒している言葉が、『コミュニケーション能力』である。」


 先頃、逝去なされた市毛勝雄先生は、かつて「女性との会話をスムーズに運べず、独身男性が増えている原因を国語教育の責任と捉える姿勢がほしい」といった意味のことを書いた。その時意表をつかれた感じを受けながら、妙に納得した。だから「コミュニケーション能力」の言葉に疑いを持ったことはなかった。


 しかし「コミュニケーション」の重要性は認めても、安易に「能力」を付して語ることが、どんな意味を持つのか疑問に思えてきた。著者はこう書く。「コミュニケーションなんてものは、そもそも自分と誰かの『能力』で測られるものなのだろうか。」能力がないから出来なかったと、全てが片付けられるわけではない。


 人とコミュニケーションがうまくとれない時に、それが自分や相手の能力不足だけによるものではないことを、私たちは知っている。理由の一つであってもほんの些細な割合ではないか。物理的であれ心理的であれ、原因は連鎖のごとくつながりあっているはずだ。一つの要素が変われば即座に解消ということもある。


 今は「コミュ力」と略されるほど一般化したそれを、教育や仕事の場でスキルアップしようとすることは悪くない。ただ、コミュニケーションを支えるにはいくつも要素があり、内実のないままに「能力」ばかり肥大して語られる世の中とはいったい何だろう。「コミュ力」と称された姿はずいぶん窮屈に見えてくる。

気配は「自分問題」を迫る

2018年06月25日 | 読書
 たぶん著者ぐらいの年齢(30代半ば)のときだったと思う。二つの年下の女性教師にこう言われた。「先生はいつも重箱の隅をつつくような話をするから…」。授業研究の場では嫌われていたろう。おそらく当時の自分には、著者があとがきの末尾に示したような思いが強くあったのだと、今懐かしい気持ちになっている。

 「いちいちそんなこと言わなくてもいいのに、と思うのだが、今、いちいちこんなことを言わなくてはいけないのだ、と思い直している。」

2018読了63
 『日本の気配』(武田砂鉄 晶文社)


 「気配」とはよく付けた。似通っているが「空気」とは違う。空気は、いわば知らず知らずのうちに漂っていて、たいていの人にとっては「読む」には容易いものだ。しかし気配は、自らが積極的に「察知」していく必要があるものだ。空気よりははるかに姿が見えにくい。そして知らないうちにズバッと斬られる?


 著者は今この国にある「空気読め、では見つからない、気配の在り処を見つけていきたい」と書く。そして、お笑いから政治まで私たちが見聞きしている(また気にも留めずすぐに流されるような)情報のあれこれを拾い出し、徹底的にその言葉や背景、見透ける心理などを暴いている。日常の場も真っ先に対象になる。


 第一章冒頭は「ヘイトの萌芽」と題され、知人マンション内での口論を描いている。「てゆうかあいつ、中国人なんだよ」をオチに使うような会話、風景に潜む社会状況、心理を探り、返す刀で自分自身の経験を振り返る。それは「社会問題」が急に「自分問題」として接近してきたときの、在り方を深く問うものだった。


 一貫するのは「弱者の視点」。政府や大企業の奮った弁舌に鋭く突っ込み「強者が握っている弱者のデータは、弱者の実在ではない」と言い切る。警戒すべきは、弱者が安易に流れに組み込まれることである。五輪誘致を例に「一番恥ずかしい」のは「どうせやるなら」派と書く。ある気配に負けた証拠になるのだろう。

煌きは遠くから近くから

2018年06月24日 | 雑記帳
 昨夜、高校の同期会が催された。実行委員の一人でありながら、やや腰がひけている気持ちを「暗黒時代を紐解けば」と半月ほど前に綴ってある。

 その壱
 
 その弐

 しかしながら、結びを次のように締めくくった。

 「暗黒の中にあった煌きは、案外多いのかもしれない。今『業』を働かせよ

 さて、どうであったか。

 何しろ45年ぶりである。この同期会は10年ごとに開かれ3回目というが、初めての参加。ただ教員仲間や中学同期もいるので、それほどの緊張感があるわけではない。事前に名簿をもらって眺めると、すぐに顔が思い浮かぶ者、名前すら憶えていない者様々だった。8学級360名だとそういうものかと改めて思った。


 しかし、聞き覚えのある名前と、齢はとってもどこか見覚えのある顔を突き合わせると、とたんに面影が浮かぶ瞬間が何度もあった。そしてそのイメージは制服姿が多い。これはほとんど交流のない人にも当てはまった。卒業アルバムの所在さえはっきりしない自分なので、写真からではないだろう。脳裏に在るのだ。


 逢いたいと思っていた人がいた。司会者の役得か、こちらから探す前に近寄ってきてくれた。高校1年の時に初めて寝床を共にした女性!である…実は、色気のある話ではなく、部活動合宿で疲れ果て一緒の毛布に包まり眠りこけたということなのだが。目標にかける一途な思いを持っていた青春もあったのだなあ。


彼女、その件忘れてました(笑)  我が恩師、いまだに闘士!でした

 45年が遠ざけた距離は大きい。音楽を共にしていた友は今も現役と笑う。病気で写真の道を諦めた者は「古事記」研究の人物に入れ込んでいた。他県で地道に教職を続ける者もいた…。しかし話す中でふと気づく。我が「暗黒時代の煌き」は人であり、それは今遠くにあっても煌きを放つ。目を凝らせば元気づけられる。

「問いを発する」はどこへ

2018年06月23日 | 教育ノート
 今月は地区内の中学校、小学校にお邪魔して授業参観する機会に恵まれた。一応は、町の事業を利用してのゲストティーチャーを迎える学習の様子を映像に収める活動ということだ。しかし、内容が総合や国語に関わる「取材の仕方」などが中心なので、なんとなく提示内容や進め方が気になるのは、長年の習い性か。


 インタビュー活動など、今さら自分の実践を振り返って役立たないとは思いつつ、ああ「質問力」は懐かしい。我が実践ベスト10入り(笑)は確実だなあと思う。だから県教委が「問いを発する子どもの育成」を掲げたあのときは、おおおうっと思い、正直「ようやく時代が俺に追いついたか」(大笑)と感じたものだった。


 ところが県の動きは鈍く、その年度の初めあたりは「問いを発する子ども」でネット検索をすると、我がブログ記事がトップに来て驚いたものだ。数か月が経ったあたりに、ようやく資料的なことが揃って今では無事に「美の国あきた」がトップになっている。しかし更新されていないようだし、実質消えたのだろうか。


 現役時代、結構お上からのスローガン等に振り回されることが多かった。新たな視点を加えなければマンネリになる恐れもあるだろうし、仕方なしの面も確かにある。ただだからこそ、自分はこれだというものを持っていると、そこに引き寄せて考えられるし、一体感のある取組みとして膨らませられるのではないか。


 自分には「質問力」がその一つだった。それゆえ「問いを~~」に関して県自体が当初からブレているような気がしたし、長続きしなかった訳はスタート時から内包していたのではないか。震災の年の夏に書いた「『問いを発する子ども』を問う」は今読んでも納得する。その後どれだけ出来たかは反省多しであるが…。


アマゾンカーに載せられる価値

2018年06月22日 | 雑記帳
 先月末NHK「クローズアップ現代+」がAmazon特集をしていた。ある程度知っていたつもりだったが、改めてその進歩に驚いた。不在宅へ認証キーを使って入り配達するなど、安全管理もそこまで行き届いたかと思う。巨大スーパーマーケットが廃業に追い込まれるのも無理もない。既存小売業の深刻さがわかる。


 (去年ドイツの道路で見かけた。もう日本でも走っているのかな?)

 かく言う自分も利用者の1人、というより通販全般で言えばヘビーユーザーなのかもしれない。手元にあまり現金のない隠居生活(笑)ということも大いに関わりがあるだろう。おかしな心理だが、今週は注文した現物が届いて改めてこんなモノまで…と思ってしまった。ペンキである。家のデッキを塗るために購入した。


 十円、百円単位の差であれば近くの店で買ってしまうけれど、一万円程度の値のはる物で25%以上OFFがある。これでは地域にお金を使いたい気持ちはあるが、やはり安さに軍配を上げる。へええと思わされたのは、一番安価な業者が青森県だったこと。塗料専門店となっているので特化展開をしているのだろう。


 以前から小売りは特化した者しか生き残れないという論はある。気づけば、巨大産業に間借りするような形で成立している業者も多い。専門的知識は持ち合わせていないが、いずれ地方経済を活性化させたり、地域内循環経済を志向したりするには、消費が即時・広範囲展開に包まれている現実を凝視せねばならない。


 数年前ふと「豊かな消費」を考えたことがあった。もちろんこの場合の「豊かさ」とは物質的なことではなく精神的なこと。これは満足度を高めるモノ、コトを選択していくという意味であるが、実は「買い方」そのものも対象と言えるのかもしれない。通販も使う、100均にも行く。しかし、何か一つの筋を持ちたい。

夏至に開運祈願して

2018年06月21日 | 雑記帳
 ちょいと運の悪いことが重なった。神社に出向き厄払いするほどではないが、何か行動を起こしてこれ以上の災い無きようにせねば…と、とりあえず書棚になぜか残してあった『開運大全』という雑誌を開く。ところで「」とは何か。広辞苑には「①天命②めぐってくる吉凶の現象③特に、よいめぐりあわせ」とある。


 ②によれば、吉も凶もめぐってくるわけで避けられないのかもしれない。しかし人の多くは③を求めるんだな。それを意識するから「運を開く」「運を引き寄せる」と言い、「運の尽き」「運が悪い」と悲しむ。ところで「運」という字を眺めると、何か違和感のある組み立てだ。「」に「しんにゅう(歩く)」ですよ。


 「軍」とは「戦車でまるく取り巻いた陣立て」であり、それに足の動作を合わせることで「ぐるぐるとまわること」を意味するのが「運」だということだ。「運行」や「運動」という言葉がよく表しているように、そこに留まっておらず動くことだ。「はこぶ」という訓読みにも通ずる。②の「めぐる」がすとんと落ちる。


 ところで「運を味方につける生き方があった!」というコピーをつけた『開運大全』にはどんなことが書いてあるのか。「古事記」のストーリーや「超訳般若心経」、「戦国武将の開運作法」「開運温泉」等々、少し浮世離れをして読み浸るにはいい内容だ。しかし実際に足を運!ばなければ、ご利益も期待できないだろう。


 しかしそこはなんとか「祈り」の力で!今日は夏至であることに気づき、以前出かけた時の写真を探し、念じてみる。二見ヶ浦の夫婦岩の間から昇る朝日をイメージして、禊ぎをしよう(のつもりでじっくり視る)。落ち着いた心に戻るのは、結局運悪きことを招いた自分の不注意、いい加減さ、短絡さの振り返りだ。


 訪れた時は曇っていましたが…