すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

雨ニモマケズのサラリーマン

2008年10月31日 | 読書
 『月刊建築仕上技術』(工文社)という専門誌があるそうだ。
 その存在だけでも驚くが、他分野の職種からみれば「学級経営」とか「作文教育」などという教育雑誌も同等なのかもしれない。廃刊になったダカーポだったろうか、様々な職種の専門誌を取り上げて解説した連載があり感心?しながら読んだことがあるなあ、懐かしいなあ、などと妙な連想ばかりがはたらくが…

 読んだのは『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著 集英社新書)である。
 この新書は、冒頭の専門誌に連載されたものがもとになって発刊された。
 「建築材料」の専門誌に「宮沢賢治と建築」という名の連載があることに、賢治の幅広さを感じないわけにはいかないが、同時に賢治というブランドの強さ、マーケティング上の存在感も考えたりする。これは明らかに先週読んだ『宮沢賢治のちから』(山下聖美著)に毒されたからか。

 さて、『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』は、そのタイトルからして意表をつく。扉裏やプロローグの段階で、それが東北砕石工場との関わりであることはすぐに分かるが、「サラリーマン」と名づけるほど賢治がサラリーを意識していたのか疑問を持ちながら(多くの人もそうではないか)読み進めた。

 『宮沢賢治のちから』ではわずか1ページ程度しか触れられなかった東北砕石工場との関わり、仕事などについて50ページを越すボリュームで記述されている。
そこでの賢治の「生」はたしかに技師兼セールスマンとしての仕事に没頭していたし、悲しくなるほど献身的な姿にうつる。
 『宮沢賢治のちから』を読んだ時、徐々に強さを身につけていったように見えることを書いたがまさにその通りであった。サラリーを得て自分で生活していくという意識も強く出ているようであり、それが人を対象とする教師でなく、田畑や建築を対象とする仕事であったことはやはり「石っ子賢さん」にふさわしかったと言えるのだろう。
 時期からして「雨ニモマケズ」はその折の自画像であることを考えると、著者が取り上げた時期の意義深さを感じたりする。晩年に書かれた多くの作品の背景を知る意味で、貴重な掘り起こしであったと思う。

 それにしても賢治をめぐる二つの新書を読んで、当然ながら描かれた賢治像も微妙に異なることを改めて考える。それは男女の違いか岩手と首都圏という生活拠点の違いか…一見似通っているように見えるこれらの表現だって、掘り下げていけば書き手の心象にたどりつける。
 例えば、先日取り上げた山下は、こう書いていた。

 「ほんたう」に行きつくための「迷いの跡」こそが、彼の歩んだ道

佐藤はこんなふうに書く。

 永久の未完成、この言葉こそ、賢治の軌跡にふさわしい  

常識に今頃気づくが…

2008年10月30日 | 雑記帳
 整理整頓が苦手なことは再三書いている。
 断続的に続けているホームページリニューアルを通して、またもう一方でウェブに載せきれない文章などの整理も始めているので、その作業を通して気づいたことがある。

 整理とは、「一部を固定する・動かさない」ことなんだなと気づく。

 それは体裁であったり内容の共通性であったりするのだが、ああそれが「分類」か、と今さらながらに気づくのである。

 こうなると自分の性向を改めて思う。
 工夫したい、少しひねってみたい、何か今までとは違う視点で…
 そういう思考がどうも強いようだ。
 それ自体は悪くはないのだが、全体を俯瞰することよりそちらに目が向くことで、結局様々な場所に様々なモノが様々な顔をして置かれ、置いた本人も時には忘れたりして…。

 それらを統一する、分類する観点は名づけであったり、日付であったりするが、それを定めないままにずっと来ているので、「ミスター散逸」(我ながらいいネーミング)状態が続いているのである。
 もっとも量自体もかなりのものなので、時々自分の頭のなかで「あれとあれがつながって」ということもあるにはあるが…。

 今になって、いわばナンバリングやラベリングの大切さが感じても手遅れ状態だろうが、今度は例えば「縷述」のページなど結構意識して実施できている。

 ただ、綺麗すぎるとそれ自体に満足してしまって、どうも何かモヤモヤがね。
 これが曲者である。

繰り返し読まねばならない

2008年10月28日 | 雑記帳
 「内田樹の研究室」が熱い。

 わずかな入力差が「勝者/敗者」の死活的な差に読み替えられるような危険なシステム

 マーケットはしばしば致命的な誤りを犯す

 ビジネスのワーディングでしか教育を語れない人間たち

 教育の意味や価値を資本主義経済の用語で説明することはできない


 氏のこれらの言葉に、また自分の立っている位置を考えてみる。
 今、自分たちは何かに飲み込まれようとしているのではないか。

 繰り返し読まなければならない。
 目の前で起きていること、起きつつあることと照らし合わせて、何度も読み込んでいかないと、私たちは摑まるべき棒も見い出せないままに、流されていく。いや、流れを作る存在になっていく。
 それは内田氏によれば、こういうことだ。

 このような人間たちの手によって学校教育は日々殺されているのである。


賢治を形容すると

2008年10月26日 | 読書
 言われてみればなるほどと思ってしまうのが、表紙カバーうらの文章、また「はじめに」にも書かれてある形容のいくつかである。

 フリーター、自分探し、パラサイトシングル、シスコン

 「宮沢賢治のちから」(山下聖美著 新潮新書)を読んだ。
 知らなかったエピソードも数々あり、結構面白い。
 求道者、聖人的なイメージだけを思い描いていたわけではないが、どこか神格化していた部分も自分の中にあって、著者が紹介している情報や現代的な感覚でとらえた賢治の生涯は、また新鮮だった。

 次の一節はひどくまともであり、多くの人もきっと頷ける文章だと思う。

 「ほんたう」に行きつくための「迷いの跡」こそが、彼の歩んだ道であった。

 そしてそれは、結局「迷う」ことのできる環境であったという見方もできる。
 賢治の出自はもちろんだが、学生時代のこと、宗教をめぐる父親との対立、家出やその後の帰郷、就職、離職…どれをとってもそれらが許され、それなりに生活できたということはかなり重い事実だろう。むろん、同時期の著名な作家には似たような境遇であった者もいただろうが、賢治の場合はその変遷がくっきりしているように思う。

 全体的な印象として、弱かった賢治は恵まれた境遇の中で強さを身に着けていったように見える。それが晩年の献身的な姿として結実している。
 ただ、もしかしたらそれも「作られた姿」という部分がないのかと猜疑的に感じられるほど、賢治はブランド化されてきたという事実も改めて気づく。宮沢清六氏の果たした役割、また地元メディアの関わりについても考えさせられる。

 著者はもちろん賢治を批判したり揶揄したりしているわけではない。しかし、次のことばは結構重い。

 もはや宮沢賢治は、さまざまな媒体により再生産される、経済的価値を伴うブランドとなっていた
 
 独自の歴史的なキャラクターを持たない隣県人(私)の妬みも、少しはあるかなあ…

「かえる王国」にはまって

2008年10月24日 | 雑記帳
 小学校2年生の国語科教材文としてはかなり有名なのが「お手紙」。
 がまくんとかえるくんのお話である。
 国語辞典を使った活動も続けているので、何をしようかなと思いついたのが、「かえる」で、言葉集めがいいだろうということだった。

 黒板に「(  )かえる」「(  )がえる」と書いて、
「知っている言葉があったら、辞典でページを確かめてから、前に出てきて書いてください」
と言う。
 一人の子が早速出てきて「かんがえる」と書いた。
 その後も、同じ子が「あまがえる」「いきかえる」と続けたが、他の子はなかなか思いつけないし、探せないようだ。
 結構、難しいレベルであるようだ。
 でも、ここからの展開が腕の見せ所…

 それはさておき。
 「~~かえる」「~~がえる」を逆引き広辞苑を使って調べると結構おもしろい。
 私の使っている電子辞書だと「~~かえる」は145、「~~がえる」は69載っている。もっとも慣用句もあるので、単語数は半分以下のようだ。
 
 「~~がえる」の最初は「青蛙」で、最後は「若返る」。
 ふむふむなるほどで、
 「かえる」の最初は、と見ると「呆れ返る」。
 そして、最後はなんと「我に返る」。
 こんなことしている場合か、と起こられている雰囲気である。

 ずっと調べていて、面白かったのが「愚に返る」。
 「年をとっておろかになる」という意味だそうです。
 ああ、本当にそうなのかなあと、こんなことをしていて思います。

ハートフルに鉄槌

2008年10月23日 | 読書
 出版社のPR誌で見かけた作者名だったので、手にとった文庫本。

 『江利子と絶対』(本谷有希子著 講談社文庫)

 短編が三つある構成だが、一つ目の標題作を読んで思わず心の中でつぶやいた一言。

 「どうしようもねえな」

 ひきこもりの妹とその面倒をみる?姉を描いた作品。
 実に肯定的な目でひきこもりを見ていることが、端々に感じられる。そういう見方も確かにあると妙に納得するが、やはり最後まで読むと「どうしようもねえな」と思ってしまう自分はやはり凡人か。

 二つ目の「生垣の女」はさらに凄まじかった。
 ここで引用するのが躊躇われるほど、生々しすぎる表現。作者は「漫画みたいな感覚」で書いたと記しているが、言われてみればなるほど。オカルト系のタッチに近いのかもしれない。
 これは、どうしようもないを通り越して、「見ちゃいられない」(読むではなく)だ。

 それに比べると、三つ目の「暗狩」はホラーだが、至極まともに感じた。
 次々に人が殺されていくのがまともと感じること自体が、作者に洗脳されたことか。
 ちょっと次の文庫本にも手を伸ばしたい気もするが、けしていい気分で読み終えられないことが予想できるだけに…。どうするかな。

 最初に見かけたPR誌に書いたある批評家は、作者である本谷の新作を評してこう題をつけたものだ。

 「ハートフル」こそ「グロテスク」
 
 私が読んだこのデビュー作も全くあてはまる。
 しかし確かに半分わかるけど、まだそっちの世界にはいけないなあ…

 と書きながら、これだけ「イイ話」「フカイ話」が売り物として垂れ流されている今のような世の中には、その薄っぺらさを証明するためにも必要な存在だなと思う自分もいる。

そのページの初心

2008年10月22日 | 雑記帳
 秋の課題のひとつは、リニューアルしたホームページへのデータ移動である。
 合間合間に少しずつ続けているが、ソフトも換えたのでうまく読み込めないページはアップしないことにした。結局、以前のページの9割は見送ることにしている。

 残しておきたい1割の中に「キニナルキ」というページがある。
 これは自分の実践とは違って、備忘録的に始めたものだったが結構気に入ってるページだ。
 2002年に始めて2004年までの分があったので、昨日ようやく引越しを終えた。

 自分の心に留めておきたい言葉は、やはり何かの形で残そうという単純な気持ちであるが「塵も積もれば」のように、何かしら役立つこともあるように思う。
 
 先日の学習発表会用に作った群読詩に「言葉は力だ」という一節がある。
 言葉を力にするために何が必要か、様々なステップ、レベルがあるにしろ、まずは言葉ときちんと向かい合ってみることだ。
 その意味で、向かい合うべき言葉はその折で変わっていくかもしれない。その移り変わりを見ることもけして無駄ではないだろう。

 このブログにしても、始まりはキニナルキの形式だったし、時々初心にもどってみることも大切だな、と思った次第…。

進化するのは読書か

2008年10月21日 | 読書
 相変わらずのミーハーで、『読書進化論』(勝間和代著 小学館101新書)を手にした。

 この本でそんなに目新しい視点はなかったが、改めてこうした類の本のターゲットになっている層がわかる気がした。
 私のような年代、こんな職業や環境にいる者は、あまり手にはしないだろう。
 興味が示す読者の条件は、文中にある言葉でいえば、

 雇用流動性がある環境にいる

ということになるだろうか。
 だからこそベストセラーになった『年収10倍アップ勉強法』という表現に、自己啓発意欲を沸き立たせる者も結構多いだろう。
 だが、いみじくも著者も書いているように、実際に「努力すれば報われる環境」にいるのは

 東京のごく一部の、専門職に近い人たちだけでしょう

が現状だ。
 少し悲しい気持ちも湧いたりするが、その現実は簡単には変わらない。

 もちろん、だからといって読書が無駄なわけではない。本に価値がないわけではない。
 その本が目指しているもの、説いていることを、いや本だけではなくウェブ上の情報も含めて、それらを早く見抜き効率的に処理していく、ツールとしていかに活用できるか、ということにつきる。もっとも本のジャンルによって「処理」の仕方は違うし、そのことも意図的でなければならない。
 そんなことがわかりやすく書かれている本だ。(「もっと本買って」という体裁を取りながら)

 従って?この本のサブタイトル(というよりコピーみたいなものだが)

 人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか

という問いに対して答えてみれば、それは「変わらない、負けない」…という意志を自分が持つことが全てとでも表わしてみようか。

 「読書進化論」という意味はなかなか深い。

自分の得意を見てもらう

2008年10月18日 | 教育ノート
 学習発表会が明日に迫った。

 今年はぜひ「個人発表」をプログラムに入れたいと年度当初からお願いしていたのだが、児童数が少なくなったこともあり、日程的に可能だったので実現できた。
もっとも、子どもたちが発表するものは何でもよし。「好きなこと」「得意なこと」…どうしてもなければ、教科書を音読したっていい、という緩やかさで始めた。

 先日、発表会予行があり、53名全員分を見ることができた。
 マット運動あり、楽器演奏あり、けん玉あり…また速く計算する子や県庁所在地を答える子もいたりして、なかなか面白かった。
 このアイデアは、以前勤めていた学校でも提案して同じようにやったことがあり、それなりに成功を収めたので、児童数減少のメリット?を活かす一つの手段として、取り上げてみた。
 恥ずかしそうにしながらも、きっと子どもたちは自信もつけてくれるのではないかと期待している。

 以前ジャーナリストの江川紹子が様々な分野の一流人に、子供の頃のことをインタビューしてまとめた本を読んだことがある。
 それらの方々の子供の頃のエピソードに、三つの共通点があることに気づいた。
 一つ目は、「好きなことに没頭した」だった。好きなことが現在の仕事と必ずしも結びついているわけではないが、そうした体験の重要性はよくわかる。
 二つ目は「表現する場があった」。いろいろなレベルの差はあろうが、他者に認めてもらう機会は多かれ少なかれ存在していた。
 やはり、自分の得意を見てもらうことは、子どもたちの意欲に火をつけるきっかけになる。

 どの子も持っている可能性の芽を少しでも伸ばせたらなあ、とそんな目で明日は見つめてみたい。

 三つの共通点のもう一つは…これはいずれどこかで。

決定力不足の…

2008年10月17日 | 雑記帳
 決定力とは何か。

 サッカーファンではない私ではあっても、一応W杯予選などを見て「なんでええ」と熱くなったりする。
 そして引き分け、敗戦のたびに繰り返されるこの言葉…「決定力不足」。
 この「決定力」という言葉、これでいいんだろうかとふと思う。

 ネットの「はてな」ではこう載っているが、野球ではそんなに多く使われる言葉ではない。まあサッカー専用といってもいいくらいだろう。
 いろいろと考えが浮かぶ。
 この決定力、たとえばシュート力や攻撃力とどう違うのか。
 競技については全く素人の自分なので、あくまで言葉にこだわって考えてみると

 攻撃は点を入れるためにする。
 シュートは点を入れるために打つ。
 決定とは、その攻撃やシュートが決まらなかったことを指しているわけだ。
 すると、攻撃が良かったのに、いいシュートだったのに、決まらなかったということは当然あるわけだ。
 ではその理由は、相手の守りが堅い、偶然、惜しい…となる。
 偶然や惜しいがこれほど頻繁に重なるわけがないので、結局は相手の守りを崩せないということになるだろう。
 では、どの段階で崩せていないか。そこが一番の問題なのではないか。

 野球で使う場合はあきらかに「得点力」と同義なのに、なぜサッカーではそう言い切れないように感じるのか。この「決定」とは勝負に絡むことばだ。つまり、1対0でも1対1でも3対3であっても、日本が勝利できなければ使われるのではないか。あまり得点に関係なく言われたりしていないだろうか。

 ということは何かメンタルな面を感じる節もある。そこを突っ込んだら入るだろうが…、どうしてあそこで蹴らない…といった弱気を責める雰囲気もしてくる言葉だ。

 やはり「決定力」は、比喩として有効なのだ。

 と、なんだかあまり決定力のない文章だなあ。
 つまり、キレがなくて、相手を揺さぶっていない…動きが遅くて、考えられていないということでしょ。