『運動論的学校づくり』(大森修著 明治図書)を読んだ。
いつもながら、明快な主張にあふれている。
表記の仕方なのだろうか若干文章が読みにくい箇所があったのだが
それでも、校長職としての「責任」と「課題」に正対している姿は揺らぎもしない。
大森先生の明快さは、この文章一つでわかる。
教育を語るときに使われる比喩は枚挙にいとまがないくらいである。
比喩を使って語られている場合には、次のように考えたらよい。
「ようするに、分からないのだ。」
書かれている内容に関しては、県が違えども当面している問題がある。
コンピュータ、安全管理、特別支援教育、一年生への対応等々ほとんどあてはまることが多い。
しかし、「それらが課題となっているか」「課題への取り組みを考えているか」「動き出しているか」と問われれば、非常に心許ない現実とも言える。
自らの非力さを棚に上げながら、この本の構成に一つの方向を見いだしている。
最終章は「授業づくりの技術力」である。学力を保証するという、学校の核となる仕事へ校長としてどう動くか、が記されている。最後は「習慣化」を取り上げて終わることにその使命を感じた。
何にしてもねばり強さが求められている。
いつもながら、明快な主張にあふれている。
表記の仕方なのだろうか若干文章が読みにくい箇所があったのだが
それでも、校長職としての「責任」と「課題」に正対している姿は揺らぎもしない。
大森先生の明快さは、この文章一つでわかる。
教育を語るときに使われる比喩は枚挙にいとまがないくらいである。
比喩を使って語られている場合には、次のように考えたらよい。
「ようするに、分からないのだ。」
書かれている内容に関しては、県が違えども当面している問題がある。
コンピュータ、安全管理、特別支援教育、一年生への対応等々ほとんどあてはまることが多い。
しかし、「それらが課題となっているか」「課題への取り組みを考えているか」「動き出しているか」と問われれば、非常に心許ない現実とも言える。
自らの非力さを棚に上げながら、この本の構成に一つの方向を見いだしている。
最終章は「授業づくりの技術力」である。学力を保証するという、学校の核となる仕事へ校長としてどう動くか、が記されている。最後は「習慣化」を取り上げて終わることにその使命を感じた。
何にしてもねばり強さが求められている。