すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

美しくないことが、その要件だ

2011年08月31日 | 雑記帳
 校内で、夏休み中に参加した諸講座や研修の報告会を持った。

 新教育課程になり、各種計画の整備が求められている。いや実際には移行の時点から計画は立てられ、今はそれを修正していく、調整していくという段階だろう。

 広範囲のことだから全部順調だとは言えないが、そういう現状に「指導」が加えられる時、どうも首を傾げてしまう一つの言葉がある。

 「○○教育全体計画」と題されるものだ。

 「○○教育」が「○○活動」や「○○指導」の場合もあろう。それらを見るたびに、いや正確には今回提示されたある資料を見て強く思ったのだが、こんな問いが浮かんだ。
 以前から感じてきたことでもあるので思いきって口に出そう。

 いったい「全体計画」の要件とは何だろう?

 目標や観点に一定の項目数があり、網羅的でなく項目に関連づけがあり、構造的になっていること…おおよそそんなところか。

 学校の「グランドデザイン」という言い方もある。これはこれで、全体像のなかで具体的な目標などが前面にアピールされるのが常で、外部へ向けてプレゼンするという意味づけもあろう。

 しかしそれをまた細分化した「○○教育」の「全体計画」は、どうも焦点がぼけてはいないか。
 必要がないと言っているわけではない。
 何のため作るのかを意識しなくてはならない。

 そうすれば、構造性・関連性・重点性のどこが必要か見えてくるし、表的な意匠にする意味が出てくるのではないか。

 少なくとも指導に直接携わる私たちが見た時に、それが頭に入る全体計画とは、文字の大きさが規格的であったり、線の太さが一律だったり、バランスのとれた配置だったり「しない」ことが、一番の要件になるのではないか。

 報告を聞き疲れした頭で、ぼんやり考えた。

造化の主が遣わした

2011年08月30日 | 雑記帳
 植物オンチを自称するくらいなので、その花の名前は知らなかった。

 先週立ち寄った道の駅で、端の棚に鉢ものがいくつか並べられていて、一緒にいった連れ合いが「あっ、サギソウ」とつぶやいたのだった。

 一見、本当にか細くどこにでもある草のような茎をしているが、近くに寄りたった一輪だけ小さな花をつけている姿を見て、「サギソウ」と名付けられた訳が一瞬にしてわかった。

 まさに鷺の飛ぶ姿。
 両翼はもちろん、尾羽もある。
 こんな花はめったにないなあと素直に思い、まだ咲かない蕾みの鉢を一つ買い求めてみた。

 「水をきらさぬこと。直射日光を当てないこと」…店の方が話した注意はこの二つだけ。ずぼらな自分でも大丈夫だろう。冬越しはまた追々考えるとして…。

 
 買った日からちょうど一週間目の朝、白く可憐な姿を現した。

 「放春花」以来になるが、鉢花をマイフォトに加えることにする。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-3809.html

 うまく撮れてはいないけれど、その形だけは理解していただけるだろう。

 たまたま読んでいた『秋田歳時記』という本に、サギソウのことが載っていた。

 その造化の妙は、いつも地上で空をとぶ鳥を見上げ、いつかは大空を飛んでみたいと願う草花を憐れみ、造化の主がこの鷺草を遣わしたとしか思えない

 共感する文章である。

 じっと見つめていると、何か温かいものを浮かんでくる。

花火にエール

2011年08月29日 | 雑記帳
 桟敷席の抽選にもれたのであきらめていたのだが、知り合いの好意で思いかけず手に入れることができたので、数年ぶりに大曲の花火に出かけた。

 日本一を謳う花火大会のことについては、ネット上でも多くの情報や感想や教訓!があり、出かける前にそれらを見たのだが、それだけでも結構疲労感を覚えるほどだった。
 結果、当日は自宅発から自宅着まで11時間(うち花火観賞は3時間半ぐらい、普通の日だと1時間半程度で行き来できる距離ということ)…確かに疲れたが、やはり本物との対面は充実感も大きかった。
 
 今回は特に指定された席が割物の打ち上げ場所の正面に位置し、視野全体を覆う光とともに、身体全体まで響いてくる音の迫力が印象に残る。

 思い出してみれば、前に足を運んだその年だったろうか、NHKの「プロフェショナル仕事の流儀」で、一人の花火師が取り上げられていた。
 茨城の野村煙火工業、野村陽一氏である。
 その番組がとても印象深く、花火を見る目が広がった気がする。
 http://www.nhk.or.jp/professional/2006/0831/index.html

 今回の競技会では入賞は逃したようだが、前年まで何度も優勝を続けてきたことを考えると、どうしてもその名前のプログラムは一層注目して観ていた自分がいた。
 今年の創造花火の曲に、『見上げてごらん夜の星を』を選んだことを平凡と思うか、究極と思うか、それは様々だろうが、私には沁みた。

 今回はそれ以外にもいくつかおっと思わされた花火があり、いつもながら花火師たちは勝負に熱く火花が散らしたことだろう。
 終了直後、手持ちのライトによるエール?に初参加したが、それもまた感動的だった。

 NHKでは毎年BSで生放送を続けている。
 http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=11820110827

 今年も再放送があるのだろうか。初めて知る方はチェックしてほしい。

 直接観たことにない方には、ぜひともお勧めしたい祭りである。人波にもまれるが、それだけの価値はある。
 と、初めて地元PRのようなことを書いてみました。

坦々のありかはここでした

2011年08月27日 | 雑記帳
 新潮社のPR誌である『波』が500号となった。
 それを記念して、表紙に掲載している作家の筆蹟が「文士たちの筆蹟」としてギャラリーっぽく特集されてある。

 これがなかなかいい。
 記念すべき一号は、あの川端康成だそうである。
 その言葉は「風雨」。

 それ以外にも超のつく有名作家が並んでおり、さすが老舗の出版社であることを感ずる。
 自分で考えた言葉あり、何か好きな文章の一節あり、それぞれが独特の筆遣いで印象深い作品に仕上げている。

 筆蹟を表せなければ意味がないかもしれないが、その言葉(文)だけでも味わい深いので、特に印象に残るものをここにメモしておく。

 歴史とはすべて後悔の記録である(石川達三)

 食べてください。この料理には毒を入れました(筒井康隆)

 一日即一生(城山三郎)

 ももくりさんねん かきはちねん 人は百でも成りかねる(深沢七郎)

 作家の個性が光る。

 「坦々」と書いたのは隆慶一郎。
 これは中原中也の『寒い夜の自画像』が出典だ。

 陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、わが魂の願ふことであつた!

 一昨日、「坦々」で何か湧いたイメージはこれだったか。
 恥ずかしながら、「中原中也研究」が卒論でした。

初日、「心のスイッチ」が…

2011年08月26日 | 雑記帳
 二学期初日。
 西側の校門のところでちょうど下水道工事をしており、集団登校の列に何かしら影響があるものかと思い、いつもより早めに学校に行き、その場所に立って子どもたちを待つ。
 工事の開始時刻を遅らせてもらうことは昨日確認したので、その点は安心だったし、さすがに鉄板など敷き詰めて安全性は確保できている。
 通行に支障はないし、あとは元気よく朝の挨拶を交わせばいいんだなと思いながら、一つ観察ポイントを見つけた。

 鉄板と道路の段差を埋めるために、黒い砂状のものが敷かれてあるのだが、その部分を子どもたちはどんなふうに歩いていくだろう。

 全部で十ほどの登校グループが通った。

 さすがに列の先頭の高学年は、きちんと跨いでいく。その後に続く一年生も見習っているようだ。
 大方はそんな子どもではあるが…

 中には足元を気にかけず、そのまま砂地を歩いていく子がいる。注意力が劣ると決定的な判断はできないだろうが、その傾向ありか。

 そして極めつけは、わざとその部分を強く踏みしめていく子である。これは好奇心旺盛タイプと言えば聞こえはいいが、嫌なもの、悪いことに惹かれどうしても体験したいタイプ…。心に何か抱えているはず。
 ああ、あの子が。やはりか…。

 とこんな多様性?にきちんとつき合っていただくことを、学期最初の打ち合わせで話した。

 始業式。
 東井義雄先生の「心のスイッチ」という詩を紹介する。
 みんな、じっとして聞いてくれた。
 かなり以前から校長室のボードに貼りつけておいたものだが、どこからの出典なのか忘れてしまい、ちょっと気になったので、式が終わり、学校報に書いてから検索をかけてちょっとびっくり。

 私が使ったのは、こちらの方が書いてあるのと同じである。
 http://www.sueoka-kodomo-clinic.com/blog/diary.cgi?no=363

 ところが、他のページを見ると違う表現がある。
 (題名もわずかに違う)
 http://mussyusiawase.blog.so-net.ne.jp/2009-08-09

 本物っぽい?のは、こちらだろうか。
 http://www.kochinet.ed.jp/otaguchi-e/gakkomeguri/gakkomeguri/yoshio.htm

 いずれ言いたいことは変わらないだろうが、少し気になる。
 略された形とも考えられるし、推敲されてどれかが完成形なのかもしれない。その道筋を知ってみたい。

坦々と乱読を

2011年08月25日 | 読書
 夏休み読書、昨日までのところで15冊。
 物足りない冊数、振り返ってみると脈絡の感じられない選択…実は結構歯ごたえのありそうな本も買ってはいるが、棚上げされていたり、挫折のままだったり…。

 ある意味「乱読」だったなあ、と反省する。
 締めくくりのここ一週間が特にふらついている。そんな4冊を。


 『教室の悪魔』(山脇由貴子 ポプラ社)

 数年前、話題になったとき立ち読みだけで止めた経緯がある。
 今回『風葬の教室』つながりで、改めてきちんと向き合った。
 私は学校職員の立場ではあるが、筆者がよく学校というものの閉鎖的体質を見ていることに感心させられた。
 ありきたりの「いじめ調査」でいったい何がわかるか、考えさせられる。


 『漢字の気持ち』(高橋政巳・伊東ひとみ 新潮文庫)

 刻字家が古代漢字を書に表し、それらの漢字について語源、考察が書かれてある。実に興味深い。『常用字解』を手元に置いている者として、こんな文章を書きたかったなあと思わされる。
 特に心に残るのは、今流行り?の「絆」という字の語義である。そもそも「きずな」だけでなく、「ほだし」という読みがあるそうで、それを知ると、この絆ブーム?はどうかと思ってしまう。


 『人の短編集』(原田宗典 角川書店)

 これは短編ではなく、掌編集と言っていいだろう。就職関係の何か機関誌だろうか、それに掲載されたものがまとめられたと書いてある。
 それにしても、わけのわからない小説群だ。
 共通しているのは、職業についている男性が主人公であることぐらいで、ストーリー(というほどの長さではない。エピソードというべきか)も様々。「世にも奇妙な物語」風のものもあれば、ややハートウォーミング傾向のものもある。結末が唐突で、尻切れ状態に感じることが多く、「いったいなんだ」とつぶやいた編もいくつか。
 まあ、こうした類もあることを知ったくらいが収穫か。一応名の知れた作家なのでファンがいたら御免なさい。


 『脳にいいことだけをやりなさい』(マーシー・シャイモフ 三笠書房)

 ありがちな自己啓発的な書だとは思う。でも時々こうした本を読んで、マイナス思考を払っておかないとどんどん溜まっていく性質の自分としては、いいじゃないかという気分で読んだ
 ここで語られる「幸せ」の概念は、楽しいや嬉しい、充足感などを超えていることは、やはり注目だ。
 以前読んだ仏教者も似たようなことを語っている。つまり心の平安、平然という境地なのだ。境地と呼べなくても「坦々」が大切ということ。んっ、この坦々。どこかで見かけている。


 うん、坦々と乱読を。
 心を乱されない読書を。いや乱されるも一興。坦々と。

紳助引退を導入にしてみたが

2011年08月24日 | 雑記帳
 朝から絶え間なく報道されているので、今日担当する職員研修の導入にその話題でもと思い、使ってみた。

 「1956年3月生まれで全く私と同じ齢ですが、島田紳助のように私は辞めることはできません。だから頑張らなければと思って、このパワーポイントを作りました」…そんな前振りで二学期開始にあたって「授業の充実」ということで話し始めた。

 その後ちょっとだけ触れたのだが、もう少し準備をしてまとめておけばよかったと思ったのは、その島田紳助の司会ぶりに関わることである。
 ファンではない。どちらかと言えば、喧しいのはきらいだから、側にはいたくないと思うが、そうは思いながら、あの司会術には舌を巻く。笑いのとり方が絶妙だ。

 出演者をイジル笑いである。最近はファミリーと称した若手が対象とされているようだが、かなり広範囲に出演していて、政治等の結構堅い番組にも顔を見せたりするので、やはり説得力そのものが広く認められていると言っていいだろう。

 同じ齢である明石家さんまとは、まったく違う。さんまは笑いを自分に引き寄せるタイプだし、紳助は逆に突き放すタイプとでも言おうか。一種の冷静さと映るのかもしれない。

 検索をしていたら、面白いエピソードを見つけた。

 当初MCとしての地位を確立するために他の司会者を引き合いに出し、「さんまには天性の明るさ、古舘さんには理論の面ではかなわない」とし、他者と比較し分析した結果、毒舌を売りにする司会者としての地位を確立する。ただし、自分の中のルールとして「好きな人の悪口しか言わない」ことを公言し、守っている。

 自身の笑いについても明石家さんまやダウンタウンを引き合いに出し、「さんまは何でもないトークでも爆笑させる力がある。ダウンタウンの笑いは何度見ても笑える二次使用としての力がある。自分の笑いはその時にしか通用しないから瞬発力が必要になる。」と評している。
(ウィキペディアより)


 この自己分析の周到さが、今の地位を築かせたといっていいだろう。
 そして、幅広く実業家として経営に乗り出していることもあるので、やはり衆目を集める才覚があるに違いない。

 芸能やマスメディアの渦中にいて、自分を知り、自分を売り込む…その過程の中でどんな「筋」が必要なのか、我々「素人」にはわからないが、どこかで危ない橋を渡らなければならないのは宿命か。
 あっさりすっきり辞めたように見えるが、内実はどんなものだろう。他人事ながら気になる。

 さて、あっ触れようと思ったのは、いわゆる司会者のタイプで、テレビでもいくつかのタイプに分かれる気がすること。
 リードし突っ込むタイプ。受け入れ返しながら引き出すタイプ、いろいろと分担しながらまとめていくタイプ…たぶん放送の世界でも使い分けされていると思う。
 自分がどんなタイプか早く知り、そこからの道を探っていくのは、学校そして授業づくりとて同じことではないか。

定番?への挑戦を続ける

2011年08月23日 | 雑記帳
 ぐんと涼しくなった。
 夏季休業もあと二日となり、そろそろ学期モードに切り替えが必要となっている。
 

 この夏は研修のための遠征が出来なかったことが少し心残りだが、それなりに公私共に充実していたように思う。

 参加した研修会はそれぞれ学びが大きかった。
 このブログを中心に感想メモを残しながら、それをどう現状とつなぎ合わせるか、あれこれ思考は続いている。
 校内のことでは担任の先生方と全て面談を行い、一定の情報収集と今後について意見交換を終えた。課題となることは少なくないが、一つ一つあせらず、いい方向を目指して、よくなると信じて歩んでいきたいと素直に思う。

 私的にも休暇は有効に使えたように思う。
 愛機α55にもう少し慣れたいなという計画もあったが、猛暑が続いたことやアクティブな性質ではないことを言い訳にして、あまりいい写真は残せなかったなあ。
 一応、休み初めに撮ったものと、最近撮ったものを、フォトの方にアップして記録とした。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/

 それにしても風景などの「定番」?を撮ることの難しさよ、ポスターなどのプロの仕事の偉大さを改めて感じた次第。

 
 さて、先週半日を使い、部屋の整理をした。
 何度となく整理整頓の苦手さを書いてはいるが、典型的なのがデスクの上だ。片付けた翌日には一冊の本が載り、次の日には何かの資料が重ねられ、あとはCDやら雑誌やらが徐々に高さを増していく…これが今までのパターンである。

 ところが、今回はこの一週間、非常に見晴らしがよい。これは自分にとっては画期的である。
 ただ「ここには置かない」と決め、それを守っているだけ。それでも妙に気分がいい。何もない机上を見て、思わず微笑むほどだ。
 これが学期が始まってどうなることか。
 
 一つの挑戦!となるが、ポイントは心のゆとりだろうか、と自分に言い聞かせるつもりで確かめてみた。
 これもまた、定番への挑戦か。

 読書のことは読みかけの本もあるし、整理と記録はまた後日。

渋滞を解消するアプローチ

2011年08月22日 | 読書
 以前『渋滞学』という新書があるのを、書籍紹介などで見かけて、世の中には様々なことを研究する人がいるものだなあと、妙にその命名が気になっていた。
 でもなあちょっと難しそうだし…と進んで手を出すことはなかったが、先日書店で「知りたい!サイエンス」シリーズと銘打って、次のような本を見かけたので、これならと思い購読した。

 『クルマの渋滞 アリの行列』(西成活裕 技術評論社)

 筆者は『渋滞学』と同人物だし、図解なども豊富にあってわかりやすそうだ…と思ったが…まあ、多少難しいところもあり、理解度は半端なままに読了した。
 
 それでも、人に言ってみたくなるような雑学的な知識も多く、楽しめた本である。
 特に自分がかなり以前から抱いていた思い「踏み切り前で車が一時停止するのは無駄な行為ではないか」という事柄を取り上げてくれたのには、そうそうと肯きながら読み進めた。

 一時停止をして失った走行損失時間は約7秒であり、これは時価価値計算すると、日本全体で約1800億円になる。

 さらに二酸化炭素排出量も減り、省エネ効果も莫大なものになるという。事故分析も書かれているので実に納得できた。この交通法を定めている側にも言い分はあるのだろうが、海外ではノンストップが常識となっているというし、なんとかいい方向は見いだせないものか。

 とまあ、これ以外にも「フォーク待ち」や「しきい値」のことなど、なんとなく薀蓄にしたい事項がいくつもあり、感心させられた。

 ただそれ以上に興味を持った部分がある。

 筆者は都市交通などの分野において、全体的な統制によって渋滞を回避するのは限界があると考えている。いわゆるトップダウン型から部分的にもボトムアップ型を取り上げたほうがいいと提言している。
 具体的な方式は複雑だが、キーワードは「創発的アプローチ」。

 「創発」とは社会心理学の用語で、定義は以下の通りである。

 創発とは、部分が集まってできた全体が、単なる部分の総和とは質的に異なる高度なシステムになる現象のこと

 ここを読んでどうしても職業意識がでてくる。つまりは学校づくりや授業づくりにもつながる発想のように考えてしまうわけだ。

 渋滞学では、車や生物のことを「自己駆動粒子」と呼ぶ。
 自己駆動粒子の創発的なアプローチによって、渋滞(課題)を解消したり、渋滞ストレス(否定的な考え等)が緩和できたりするとしたら、これに勝るものはない。

 この本にある創発的アプローチができるようになるための条件を、教育の現状と照らし合わせてみたら…そんな読み方も興味深い。

人はモノで動く

2011年08月20日 | 読書
 8月4日に本校で算数授業研修会を開いたことは、その翌日にここにも書き残しておいた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20110805

 その折の授業(教育専門監の先生が本校5年生を対象に、連立方程式につながる思考を養うことをテーマに行った)を見ていて、私なりに改めて感じたことの一つに「人はモノで動く」という、ごく当たり前のことがあった。

 クッキーとポテトの値段を求めるために、子どもたちの思考を動かすとしたら記号・略号を使うのではなく、実物や空き袋を利用したらいいのになあという思いを持ったからだ。
 協議の中で、算数専門の方々からもそれに近い発言があったので、そこはやはり妥当なことなのだと思う。
 
 そんなことをまた思い出したのは、次の本を読んで連想が働いたからだ。

 『親が子に語る「働く」意味』(鳥居徹也 WAVE出版)

 以前、キャリア教育関連の研究会で筆者の名前を見かけたことがあったので手にとってみた。
 内容としては「わが子をニート・フリーターにしない」ということを主眼に、様々なデータや人生訓的なことが書かれてある。
 肝心のそれらのことより、中にあった「ゴール(夢)」を見つけるために有効として紹介された方法が面白かった。こんなふうに書き出している。

 必要なのは三つの質問。
 それからペンでも消しゴムでも構いません。三つのモノを用意してください。

 質問は「A理想とする仕事、夢」「B死んでも嫌だという仕事」「Cこんな仕事だったらまあいいかという仕事」を訊く。
 そして、それぞれをモノに置き換えて、場所に置かせるところがミソだ。
 Aの対極にBを置くのはわかる。そして、Cの位置をどのあたりにするか、迷いもでるだろう。
 しかし具体的なモノを置くという行為によって、思考が動き出す。

 思考をモノに転化するのです。
 AとBとCの位置関係が視覚情報で目に飛び込んできます。
 そのモノを置く時の指先の触感。
 そうした情報も迷っている本人を刺激します。


 今の自分は、思考に詰まっていたり、半分あきらめて概念だけであれこれ考えたりすることが多くなっているなあと反省。

 書きなぐりのメモなどはたまに使うが、それ以上に半具体物や何かを見立てて思考してみなければと、リハビリ感覚で「人はモノで動く」と再度念じてみる。