すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

仕事の見つめ方の極意

2007年02月26日 | 雑記帳
 録画していたNHK「プロフェショナル 仕事の流儀」をみた。
 庭師・北山安夫氏の回である。

 テーマは 己を出さず、自分を出す

 昨日、日本語における「私」のことを書いていたので、このテーマを見て、ああと思った。
 日本語には「己」もあれば、「自分」もあるなあ、とごく普通のことを思った。 一人称でも多種の言葉を持っている特徴は、こうした思いを表すとき、とても効果を発揮するものだ。

 それにしても、深いテーマである。
 庭師として扱う「石」や「樹木」に対しての敬意を感じる言葉である。

 切り落とす木に対して、「絶対にいいものに仕上げるから」と声をかけるという。
 並びこませる石に対して、「負けない」という信念で見つめている目が鋭い。

 どのプロフェッショナルの仕事もそうだが、挫折を経験したうえでの産みだされた言葉には重みがある。
 「己を出さず」という部分に、対象の見つめ方、緻密な生かし方、そして願いの強さをひしひしと感じることができる。
 その結果、出来上がったものに「自分」が込められている…
 なんていい仕事の見つめ方なのかと思う。

 ネット上のダイジェストには書かれていないことで、印象に残った番組冒頭の北山氏の言葉がある。
 若いスタッフに対して厳しいしつけをしているという。
 何気なく聞き逃してはいけない、信念のある一言だった。

 10回言って聞かなかったら、11回言う。それでも聞かなかったら、12回言う

 石と向き合う人に、そんなことは序の口であり、同時にまた全てなのかもしれない。

「つつしむ」の姿とは何か

2007年02月25日 | 雑記帳
 給食の時間に、隣にいた子が「Yes I do」などと言っている。
 前の時間に、英語活動でもしたのだろうか。

 「Yesってなあに?」
  向かいの子が口をはさむ。
 「はい、のことだよ」
 「じゃあ、Iって言うのは?」

 周りの二、三人は顔を見合わせる。
二年生では無理もないか…背割りパンに、ウインナーソーセージをはさみながら少し会話した。

 次の日、外山滋比古氏が書いた「むづかしい『私』」という文章を目にした。
 日本語が「私」という主語がなくても話せる言語であることは、かなり以前から意識できていたが、言語学者に改めて強調されると、また納得のいくことがあった。外山氏はこう書いている。

 たとえば「買います」は「私は買います」とは意味が違う。「買います」だけで私が買うことになり、「私は買います」すは、ほかの人はどうか知らないが、私は買う、という強い言い方になる。そういう必要もないところで「私」を出すのは、自己顕示的になって、おもしろくないのである。

 「私」という言葉を出すことだけで「私」が他の要素を上回って強調される、という、なんとも厄介な言語文化である。
 外山氏の文章には、かつての大女優である田中絹代が、渡米したあとの記者会見で「ワタシ、ワタシは…」と連発したために、アメリカかぶれとされて人気を失ったというエピソードが記されていた。

 この「私」は、最近カウンセリングの言葉として目にすることがあるが、「強い言葉」であるからこそ、取り入れられるのだなあと思った。教育の場でどういう場面で使ったら効果的か、がもっと考えられていい。

 外山氏は書いている。

 日本文化は「包む」文化であって、ムキ出しを嫌う

 自分のムキ出しが一番嫌われるわけか…。
 そう言われれば「つつしむ・つつしみ」という、いい言葉もある。
 広辞苑では「包む」と同じ語源とある。なるほど、自分の心も包んでなるべく見せないようにするのが、日本の美であるか…
 
 待てよ、と思って、念のために「つつしむ」を語源辞典で調べる。

 イツツシムルの略。五つ締むるの義という。

 えっ、さらに「五つは陰陽五行のことで、特に土を締むるの意」とあるではないか。易学では「義を行なう」の意が転じたことばとされるらしい。
 
 「つつしむ」とは、人間の行うべきことを「私」を秘して淡々と黙々としている姿であるか…

 私は、納得しました。

悲しみの心構えが作られる教室

2007年02月23日 | 雑記帳
 『COURRiER Japon』という見慣れない雑誌があった。ちょっと読んでみようかなとレジに持っていったら、店主の奥様がご推薦の雑誌だと言う。

 表紙には、特集名として

「世界に拡がる 新・格差社会 『中流(オレたち)』に明日はない!」

という刺激的な文句が書かれてあったが、そんなことよりも強く目を惹かれた言葉が、やや小さく表紙上部に書かれてある。

 オランダには先生の“棺おけ”を作る学校がある

 シュテルンというドイツのメディアが発信した記事である。

 小学校の教師をしているエリは治る見込みのない子宮頸がん。余命数ヶ月で、間もなく授業することができなくなる。学校で、4歳から11歳の子供たちが図工の授業として、彼女の棺づくりに取り組んでいるというのだ。

 棺は教室の中に置かれ、何週間もかけて作業が続いているという。

 宗教観なり、その国や地域の持つ背景なりがまったく分からぬままではあるが、想像してみたとき圧倒される気がする。
 オランダ国内では驚きがなかったが、隣国ベルギーでは反響が広がったという。こうした差も理解できないものがある。

 記事はこう続けている。

 賛成や抗議、さまざまな反応が押し寄せた。こうした反響をみれば、子供たちに死や悲しみ、哀悼を教えるのがいかに大切かということがわかる、とエリは言う。

 ここで思い出したことが二つ。
 一つは、あの浜之郷小学校の大瀬校長の実践である。末期ガンを押して「命」にかかわる授業を続けた。
 もう一つは、池田晶子氏のエッセイにあった文章である。
 戦後の教育は、(略)生きることがそれだけで素晴らしいと教え、生きることは死ぬことがあるから素晴らしいとは教えなかった。人間は死ぬものだという事実すら隠蔽した。
 
 どちらも「悲しみ」や「死」について教育の場で取り上げることに逃げ腰の現代の風潮を批判している。
 「死」を見ることもなく、「亡くす」意味を深く考えることもせずに、日々を過ごした渇いた心には、どんな感情が咲くというのだろうか、と改めて考える。

 「命の大切さを教える」などと軽々しく口にすることがあるが、それはいったいどういうことなのだという問いかけを教師自身ができているのか…

 そんなふうにゆさぶられる記事だった。

 教室の真ん中に置かれた棺に、子供たちが入り込んで遊んでいる。
 おもちゃでないことをわかっているから許されるという。

 棺という「悲しみの心構え」を作っている日々なのか。

一字に思いを込められる成長

2007年02月21日 | 教育ノート
 卒業間近い六年生に対して、このことを問い始めてからもう6年以上にはなっているはずだ。途中できなかった年もあるが、努めて担任に頼み込み発表する機会も作ってきている。
 何より考えているときの子どもたちの真剣さが印象的である。これはどこの学校でも同じことだ。


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 六年生教室の黒板に、こんな漢字を並べました。 

 「金」「戦」「帰」「虎」「災」「愛」「命」  

 「何だと思う?」と問いかけても、全然予想はつかないようです。
 漢字の下に00から06までの数字を並べました。
 まだわかりません。
 その数字の下にさらに12から18までの数字を並べたら、「あっ」という声が上がりました。
 そうです。年末によく話題となる「今年の漢字」を、2000年から順に並べたものです。

 一年間を振り返り、様々な出来事や人々の思いを、漢字一字に込めるというアイデアはなかなかだなあと思います。
 音だけでなく意味も表す漢字の奥深さを感じさせる扱い方です。

 この手法を使って、卒業が近くなった六年生に、「六年間を漢字一字で表すとしたら…」と投げかけてみました。
 忘れられないことや今の心境などを、一字に込めるなかで、今の気持ちをしっかり意識させたいと思いました。

 10名の子たちが、それぞれに頭をひねりながら、一字を決め、簡単な説明をつけて書いてくれました。さて、誰がどんなことを書いたのでしょう…。(これは3月上旬の地区全戸配布版に載せる予定です)。

 考えてみれば、ひらがなさえおぼつかなかった入学の頃から六年という月日が流れ、自分を振り返って漢字を選んだり、思いを込めたり、という抽象的な活動までこなせるようになりました。その成長ははっきりしています。一日一日の変化は見えにくくても、その積み重ねがもたらしたことは確かです。

六年生にとっては小学校生活も残りわずか。目の前の活動に精一杯力を出し切ることが、次の飛躍のバネになっていくはずです。
 見違えるように成長した姿を、卒業式で輝かせてくれることでしょう。
(2/21)
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人間関係を練習する、後押しする

2007年02月20日 | 雑記帳
 秋田大学教育文化学部附属小学校の公開研究協議会の二日目に参加した。

 二日目のテーマは、「人間関係力」というものである。

 研究推進の中心となっているだろう京野先生は、人間関係力をこのようにとらえていると話していた。

「人間関係を自覚的に改善できる力」
 
 「自覚的」ということが、学習としてのポイントになるのであろう。
 子どもは小学校に入ってくる段階で、人とのつき合い方においてすでに大きな個人差を抱えている。
 性格や個性という言葉で括られる場合もある。そういう実態を受け止めて、学校で取り立てて指導していく意味は、子どもが自ら考え、動くことを抜きには考えられない。

 総合的な学習の時間の約三分の一を充てて、年間の計画を立てているとのことであった。
 ソーシャルスキル的な活動から応用小単元、そして発展的な総合単元という流れである。
 個人的には納得のいく説明であった。
 
 スキルという言葉が多く使われたからであろうか、分科会でも全体会でもやや批判めいた意見・質問があった。

「人間関係に、スキルはあるのか」
「スキルだけ取り出して行うことに、意味があるのか」
「教科学習の中で実現すべきではないか」 等々

 正論のようにも聞こえるが、固執すればかえって子どもが見えにくくなる。
何より参加者の多くは、子供たちの「人間関係」に関心を持ち、おそらく悩みを抱いてこの場に来ているのだろう。教室の人間関係が学習に大きな影響を及ぼしていることを肌で感じているのだ。

 パネリストの先生が、いみじくも言った。

「いい教材で、いい教授過程であっても、いい授業になるとは限らなくなってきた」
 
 ここには、子供の変質があり、そのことに対して私たちはもっと意識的になり、複眼的に教育課程を構築していく必要がある。
 その一つとして、総合的な学習の時間で「人間関係」を取り上げた付属小の提案性は大きいと思う。

 「言いにくいことも言える(相手の気持ちを察しながら)」ことが人間関係力の備わった一つの姿だとすれば、そのためには、練習も必要だし、誰かの後押しも必要だ。場面設定や言葉、表情選びなどたくさんのことを見取っていけるのは、やはり担任しかいないと改めて思った。

授けてもらった幸い

2007年02月19日 | 教育ノート
 担任をしている頃、親によく言われたことがあった。
 「先生が受け持ちになると、必ず何か書かせられるから、嫌だ。」
 年度末には学級としての親子文集を作るのが常だった。
 大方の人は不満を言いながらも協力してくれた。それは私にとって一つの宝になっている。
 だから自分も、その時しかかけないことをしっかりと書きたいと、いつも思ってきた。
 
 PTA文集への原稿を依頼されたので、こんなことを書いてみた。

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 年明けの一月中旬、地区センターの方が「ヤスコサンバの話っこ」という冊子を届けてくださいました。
 高橋ヤスさんのお話を聞き書きという形でまとめた秋田市の小西さんという方から学校への寄贈です。

 昭和二十年から約四十年間、助産婦としておよそ千人もの赤ちゃんを取り上げたヤスさんの、いわば回想記と言えるでしょう。
 冊子では「ヤスさんを労う会」のことが冒頭に取り上げられていました。その会の開催こそ、まさにヤスさんとこの地域の象徴ではないか、と思いました。
 そこには、「命」の重みをしっかりと捉えた温かさのつながりがあるのです。
 ヤスさんは書いています。

 私たちの生きている間に、こんな少子化時代が訪れようとは思わなかった。そんな時代なのに、尊い人の命を産むのに「子どもを作る」とか「作った」とか言う。まるで物みたい、と思う。・・・・略・・・・「授けてもらった」。この言葉が大好きだ。

 今保護者になっておられる本校出身者のなかにも、「授かったよ」と声をかけられながらヤスさんに手を添えられた方がおられることでしょう。その幸せを思い、その命がつながって、目の前に授かった子がいることを忘れてこなかったからこそ、ここの子たちは、健やかに育ってきているのではないでしょうか。

 そうは言っても「子育て」は悩みがつきないものです。親にとってはある意味で「自分育て」でもあります。
 日々の些細なことに腹を立てたり、落ち込んでみたり…、比べてはいけないとわかってはいても、つい様々な情報に振り回されてみたり…。ただ、そうした負の感情も含めて寄り添うことがあるからこそ、我が子の成長や活躍を目に留め、笑顔を分かち合うことができるのも確かです。

 授かったものが自分にどんな幸いをもたらしてくれたのか、今は考える余裕がないかもしれません。
 そのことに本当に気づくのは、この文集が日焼けした顔で開かれるいつか、であったりするのです。
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二万二千語のあなたへ

2007年02月17日 | 教育ノート
 卒業まであとひと月。六年生が学級文集づくりに入った。担当する子どもからメッセージがほしいと依頼された。
 先日授業した辞典のことを書こうかなあ、と思いながら、ふと「あなた」という言葉が頭をよぎり、題名が決まった。そしたら、悩むことなくすらすらとキーを打つことができ、あっという間に書き上げてしまった。


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 六年生が知っている言葉の数はどのくらいだろうか。
 小学生用とされている国語辞典に載っている見出し語は、たいてい三万前後なので、仮に二万二千語ぐらいではないかと想像した。もちろん人によって多少の差はあるだろう。

 そうすれば、今の君たちはその二万二千語ぐらいの言葉を使って話をしたり聞いたり、文章を読んだり、そして物事を考えたりしていることになる。

 これまでたくさんの言葉を覚えるなかで、君たちは大切なことを学んできた。身体を動かしたり、道具を使ったりして新しい言葉を覚えてきた。それは漢字や計算、たて笛の吹き方、泳ぎ方といったものだけではない。
 この後、中学、高校へ進んでも、仕事につき家庭を持っても、いつも大事に心に留めておかなければならないことがいくつかある。それは、今知っている二万二千語の中に全て入っているのだ。
 これから学ぶことではない。

 例えば、こういうことだ。
 「自分より弱いものをいじめたりしない」
 「元気よくあいさつをしよう」
 「困っている人がいたら、助けてあげよう」

 まだまだあるだろう。しかし、数は多くなくていい。これからの生活で自分が必ず、どんな場合でも守るべきことを、今、もう一度確かめてほしい。

 さて、この後君たちはますますたくさんの言葉を知っていくにちがいない。「よねじろう文庫」として寄贈された国語辞典には、四万五千語の言葉がのっている。

 たくさんの言葉の意味や書き方を覚えることにはもちろん価値がある。しかしもっと肝心なのは、言葉に出会うことだ。出会うとは、心で、身体で、言葉をとらえることだ。

 たとえば「傾注」とは何か。意味を語るのではなく、その体験を語ることができたら、もっとすてきだ。もっと伝わるかもしれない。
 たとえば「森厳」、たとえば「摂理」…君たちには、今は知らない言葉との出会いが待っている。自ら進むことで、その出会いは実現していく。精一杯勉強に励み、精一杯身体を動かして、たくさん出会ってほしい。

 もちろん、読書も忘れたくないことだ。文の中の言葉を深く掘り下げていくことも一つの出会いにつながっていく。

 この文章のタイトルにある「あなた」。
 実は、相手を指す意味もあるが、もう一つ別の意味の言葉として使ってある。これはぜひ実際に調べてもらいたい。

 あなたに知ってほしい「あなた」の意味。
 二万二千語のあなたへ進むあなたに知ってほしい言葉だ。

 卒業おめでとう。 
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子ども任せにしてはいけないこと

2007年02月16日 | 教育ノート
 入学説明会の挨拶で「シャットダウンすることも大切」というような話をした。時間もなかったので舌足らずになってしまい、改めて思いを伝える意味で書いてみた。

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 本校の子供たちがそうだというわけではないのですが、この頃、学校現場で警戒しなければいけないと思うことの一つに、大げさな言い方ですが「精神の崩れ」があります。
 原因は多様にあるでしょうが今明確に注意する必要があるのは、メディアの怖さだと思います。インターネット、携帯メール、そしてテレビ、AV機器等々。ここから流れる有害な情報に、子供たちをさらしていいのか、という気がします。

 情報管理は、大人でも難しい時代にあります。先日の「納豆騒ぎ」を持ち出すまでもなく、私たちの知らないところで、情報操作や捏造が行われる可能性は常にあります。
 また金儲け主義に走った人たちが垂れ流している情報は、子供にとってプラスになるものはほとんどないといえるでしょう。

 子供は、様々なものに触れて自分なりの価値観を作っていきます。しかし、今はあまりにもメディアの力が強すぎて、近くにいる大人の言うことがあまり入っていかない危険性が大きくなっています。
 これではまともな価値観は作れません。どうしても消費主義、享楽主義の傾向が強くなっていくでしょう。

「自分で情報をきちんと管理できるようになるまでは、親が遮断して管理していかないと。(略)子育てが成功するかどうかはもうすべてそこですよ。情報を遮断すれば、親や先生の話がきちんと入ってきますから」…百マス計算を広めたことで著名な陰山英男氏(立命館大教授)が書いています。

 子供たちの現状から一番留意したいのは、テレビ視聴とゲーム遊びでしょうか。
 この管理が、時間の管理になり、家庭学習などにも通じていきます。何度か触れた言葉ですが、結局「早寝早起き朝ごはん」というところに落ち着きます。
 しかしこれも親の固い決意がないと、子供に実行させていくことが難しくなってきています。それは私たち大人が、メディアに揺さぶられている証拠といえば、言いすぎでしょうか。

 「子供任せにしてはいけない」ことを、ご家族でもう一度確かめていただき、学習や生活のリズムが整った学年末を迎えたいものです。
(2/15)

縷述~つながる授業 その13

2007年02月15日 | 教育ノート
 4月に行われる「全国学力・学習状況調査」についての話題が、ここにきて急に多くなったようだ。
 淡々と受けとめたい気もするが、騒がしい周囲に少し反応してしまう自分もいる。
 肝心なのは一時間の授業であり、あとひと月の今年度、もう一押しという気持ちでをチェックしてみたい。そんな気持ちで書いた。


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 「全国学力・学習状況調査」への対応は、予想される調査内容に対して傾向をつかみ「問題慣れ」も含めて復習していく、と同時に「日常の授業改善」を促すという意味合いが強いと考えられます。
 今年度の指導主事訪問等でも何度か指摘がありました。実践されていることもあるでしょう。

 今、この時期にさらなる授業改善を目指すとき、どんな点に留意して進めたらよいか考えてみます。
 国語も算数も「知識」「活用」と区分があり、その点を意識しながら「今まであまり手を付けられなかった」「これだけは取り入れたい」というものを選び、継続して実践できれば、いいまとめにもなるはずです。
 1時間の授業の中で、と限定して思いつくまま書いてみました。

  ●基礎的事項に関する活動時間が確保されているか
   →例えば音読、漢字、辞典活用、計算、ミニワークなどが一定して組み込まれているか

  ●「課題」「問題」を読みとる活動に対して配慮がなされているか
   →形を決めて安定した活動を行う 時間を確保または制限する 多様な方法で活動させる

  ●個々の考えが発表され、それが交流できる形態になっているか →効率よく、密度高く

  ●最終的に「表現」の活動に結びつけているか →授業のまとめ、感想書きなども考えられる


 考えてみるとPISAの「情報の取り出し→解釈→熟考・評価→論述」という流れにそって点検してみるとも言えそうです。
 日常の授業を振り返り、子どもたちに足りないなあと担任として実感する部分を、特に強調して継続することが効果につながっていくでしょう。
(2/7)

貧しさを重ねて、貧しさに気づくか

2007年02月14日 | 読書
 立命館小研修会の書籍販売コーナーで一冊の本を買い求めた。

 『脳の力こぶ』(集英社)  

 当日の講師である川島隆太教授と作家藤原智美氏の往復書簡と対談本である。
 藤原氏のノンフィクションを続けて読んできている自分にとっては、即、手にしまう本であった。

 この本で川島氏は、研究会での発言以上に明確な考えを述べている。
 「文科省から研究費がこなくなるか心配」と口にしながらも、言い切ったのは「英語早期教育絶対反対」と「学校教育にITを持ち込むことに大反対」である。藤原氏もそれに同調した形で論を重ねている。
 根拠として科学的な理由や情緒的な理由を挙げているが、それらを包括しているものとして、この国の歴史、現状そして未来が語られていることに説得力を感じた。

 真の国際化のために必要な「言語」とは何か、どういう段階で「身につく」と言えるのか、教育の市場化への懸念、等々が語られている。
 しかしいずれにしても大きな流れとして動き出しているこの二つの領域を、現実的に運用していく私たちがもっと勉強する必要を痛切に感じる。その意味でも、この本は貴重な提言にあふれていると思った。

 個人的に一番興味を持ったのは、藤原氏が述べた「パソコンで作文が上手になる」というくだりだった。
「脳と身体の運動量の比較」からして、当然文章の内容そのものに力を注げるパソコン書きのほうが優秀になるというものだ。
 もちろん、藤原氏はそのことを是としているわけではない。書くことに伴って当然生ずる字を調べることや手書きの抵抗によってへとへとになる過程をとばす教育への疑問を呈している。
 これもパソコンの使い方だ、要はバランスと結論づければそれでお終いだが、実は、根は結構深い気がしている。

 自分自身も筆記具としてのワープロを使うようになって十数年。時折、その習慣によって失われたものをふと考えたりする。そういう自分が子どもに向き合ったとき、何か足りないものはないのか…
 藤原氏のこの言葉はかみ締めたいと思った。

 勘のよい教師なら、教え子の字を見てその子の感情のぶれ、体調もわかるかもしれません。
 とにかく手書き文字には情報が満載です。CRT上の文章はそれに比べて非常に貧しいものです。この貧しさに気づかないのはダメですね。