すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

文月、文を見て、文を書く

2015年07月31日 | 雑記帳
 7月最初の週は、照井孝司先生をお招きして今年度最初のセミナーを実施できた。今、定められた教委訪問や学力向上に直結した研修しか持てないなかで、なんとか設定できたのは貴重だと思うし、職員の協力も頭が下がる。短い感想を集約しつつ、校内報にまとめたことも収穫。いつか紐解いてくれる日を願っている。


 休日を中心に、子どもたちの各種大会が続いた。陸上、バスケ、野球そしてホッケー。優勝し、上位の大会へ駒を進めた子たちもいるし、期待されながら惜敗したチームもある。今は結果に一喜一憂しているが、実はいろんな力を溜めている時期だ、ということを常に忘れてはいけない。そこは繰り返し語っていこう。


 かつて勤務した学区の中学校の授業研究会、それから受け持った子たちとの小宴。そんな時間があり、成長した様子を見ることができた。そういう愉しみは教師ならではだろう。しかし結局のところ、何が財産かといえば共有した時間でしかない。当然、心に沁みている記憶が一番だが、改めて記録の貴重さも知った。


 印象が強いゆえに、なんだかずっと前のように思ったが、野口先生宅の流し素麺塾も今月だった。楽しい場だった。順にスピーチしていき、今までの「幸せ」に対する感謝を述べたときに、先生があの笑顔で「嬉しいこと言ってくれるなあ」と呟かれた。これもまた忘れられない。まだ写真など整理できていないなあ…。


 空梅雨の7月。好天が続き、気温もぐんぐんと上がるなか。学期末の帳簿もあるし、ひたすらに文字を見続け、駄文を書き続けた。日刊ペースを維持するこのブログも、夏休みに入ったらアクセスが上昇して日に2000近いPVもある。いったいどうするんだ。…と今日から研修ウィーク。しばらくは喋り三昧が続くか。

読み過ごさず調べ、使う

2015年07月30日 | 雑記帳
 とある雑誌の複数の記事を読んでいて、正確に意味がわからなかった五つの言葉。
 読み過ごさず、調べてみた。
 いずれも広辞苑より。


 「落魄(らくはく)」
 おちぶれること。零落。

 「兵站(へいたん)」
 作戦軍のために、後方にあって車両・軍需品の前送、補給・修理、後方連絡線の確保などに任ずる機関。

 「誤謬(ごびゅう)」
 あやまり。まちがい。

 「義勇(ぎゆう)」
 ①正義と勇気②正義を愛する心から起きる勇気③進んで公共のために力を尽くすこと

 「愚昧(ぐまい)」
 愚かで道理が分からないこと。


 ここで自分に課題…五つの言葉を使って、できるだけ短い文章を作りなさい。


 戦時の日本軍は兵站という意識が薄く、強制された義勇に頼る誤謬を重ねたことは愚昧でしかなく、世界の列強から落魄していった。


 中途半端な文章だが、こんな言葉遣いが普通にならない世の中であってほしい。
 いったい、どんな記事を読んでいるのか、ということですよ。

また昭和を引きずって

2015年07月29日 | 雑記帳
 夏休みが始まり、保護者面談が設定された。原則として4日間という設定だったが、今年はいつも行っている前半に4日連続で取ることがなかなかできない状況だった。それで仕方なく、休みの後半に2日廻す形となった。出張業務が本当に多く、今までなんとか出来ていたことも難しくなっている。危機感を抱く。


 本来なら家庭訪問であるべきだ、というのが持論だが、結局実現できないままとなった。玄関先でいい、今こそ個々の家の持つ「におい」のようなものを担任は感じ取らなければいけない気がする。しかしそれもプライバシーやら何やらと言われるのだろうか。それ以上に実施する時間のやり繰りがひっ迫してるか。


 うまく優先順位をつけられないためであることは分かっている。さらに言えば、学校の優先順位が、行政や保護者側の優先順位とすり合っていないからだろう。立場が違えば当然なのだが、その折り合いの難しさが昨今の教育問題の根深さだし、学校現場の敗北は続いている気がする。自分の責任が重いことも承知している。


 この辺で懐古へ逃げれば…すでに20年ほど前から、保護者側の家庭訪問尻込みモードはあった。職員室でもメンドウな業務という印象を持ち始めた教員も目立ってきた。保護者にどちらを希望するか訊ね、私の娘の学級ではわずか2軒だけが家庭訪問だったという結果は今も印象深い。うち1軒が自分だったからか。


 今となっては遠い感覚だが、「家庭訪問では担任の先生と飲もう」と思ってしまう性質だったか。当然、それは教員としての自分の経験がもとになっているわけだ。「順番の最後に来てくれ」と声をかけてくれる父母の存在が嬉しかった、若かりし頃の思い出にすがっているだけだ。昭和を引きずっていると笑ってくれ。

高質な田舎へのアプローチ

2015年07月28日 | 雑記帳
 「んだ。んだ。秋田」を考えていたら、県発行のフリーマガジン『のんびり』のタイトルそのままを、キャッチコピーにしたらどうかと思った。「のんびり」気質そのものは、スピード化の世の中では否定されそうだ。しかしもう一つの意味「ノンびり」という「順位気にせず精神」こそ、我々が持つべきではないか。学力にしろ、自殺率にしろ、人口減少にしろ。


 それはさておき「のんびり」の今号では、「道の駅十文字」が取り上げられている。車で15分もかからないので、たまに立ち寄るがいつ行っても車が並んでいる。売り上げでも注目の施設だ。その原動力になる小川健吉さんの話を聞いたことがある。道の駅を立ち上げた頃だと思う。実に明朗でエネルギッシュ、リーダーかくあるべしという人物で印象づけられた。


 今回の特集名は「高質な田舎をめざして」。「高質」とはあまり使わない。本文にもこうある。「そもそも『高質』という言葉は存在しません。けれど、その意図するところは、決して『上質』でも『高品質』でもないのだという、ある種のわびさびを~~(略)」。この「高質な田舎」という表現は、なんと県知事の語った言葉だという。調べてみたら議会答弁があった。


 うーん、行政者としてはごく自然な解釈だろうな。でも、広辞苑にもないこの「高質」という言葉が、「田舎」と結びつけたことは、もう少し考えを詰めてみてもいいのではないかと思う。つまり「田舎の質」とは何か。知事答弁はもちろん間違いではないし、理想的な姿とは思うが、アプローチとしての焦点化がない。良いも悪いも田舎の現実を見据えるべきだ。


 ゆえに「道の駅十文字」が取り上げられたか。一つには、中心をなす農業の売り方、次に人の招き方や使い方、それも高齢者をどう巻き込むかが意識され、それに付随して広がりを見せていると思う。いわゆる六次産業化というのだろうが、それを「楽しくやる」「楽しませる」人的存在が大きいと分析する。モノ、コト、ヒトの掘り起こしとアピールに尽きる。

「んだ。んだ。秋田」に首傾げ

2015年07月27日 | 雑記帳
 先週、県が発表した観光キャッチコピーが、どうも気にかかる…「んだ。んだ。秋田」。コピー全てを同列には見られないかもしれないが、少し発表頻度が高いのではないだろうか。ついこの前「あんべいいな」とか「あきたびじょん」と言い出したばかりのような印象がある。そんなことをつらつら思い、ネット検索していたら一部同じように考えている人もいた。


 一つのコピーに固執しろというわけではないが、こんなふうに頻繁に出したら、結局根付かない「流行」のままに、忘れ去られていくのではないか。少なくとも5年スパン、やはり10年程度は同じでもいい。本県のような、言うなれば流行からは縁遠い?地域が、都会の真似をして次々に言葉を換えても、到底個性とは思えない。それに「んだ」だけでは弱いし…。


 さらに、このコピー?デザイン?も、前回と同じ梅原真氏の作という。経緯とかまったくわからないまま書くが、梅原氏なら「ちょっと早く変えすぎと違うか、アカンヤンカ」と言わなかったのだろうか。それとも、今までのコピーが実はあまり気に入っておらず、変えた方がいいと…。そう考えるとコピーの文言に拘れない我々県民のせいのようにも思える。


 「あきたびじょん」は、今思うとずいぶんに良い響きだ。「びじん」の写真とのインパクトが強かったが、そこだけ注目させるのではなく、「びじょん」を前面に出す工夫が必要だったのではないか。「んだ。」とは、許容、素直を表すまさに県民性そのもの。それ以上でもそれ以下でもない。何事も「んだ。んだ。」と言ってここまで来たツケが溜まっている面もある。

 
 「んだ。んだ。秋田」への「問い掛けの言葉」を考えることが「びじょん」だと積極的に位置づけてみる。確かに幅広く考えられる設定だ。とすれば、必須なのは先進的な問い掛けを放つ存在、つまりリーダー。その言葉(なかみ)と魅力が第一要素だ。そしてムーブメントを起こす主体は「んだ」と言う存在になるはず。つまり求めているのはフォロワーシップ。

重箱の隅~記事スクラップ

2015年07月26日 | 雑記帳
 新聞はめったに切り抜かないのだが、今回の整理で5つ出てきた。一つ目はたぶん教育新聞だろう。日付ははっきりしないが「心に残る講話術」というシリーズで「お釈迦様と掃除の意味」と題名がある。日本の子どもに掃除の意味を語るには、やはりこうした「教えの話」が効果的と思ったか。まだ話していない。


 2009/10/11の日付、地元紙の「古い地図でまち歩き」という歴史記事がある。近所の蕎麦屋が取り上げられている。蕎麦はわが町の名物の一つでもあるが、歴史は大阪砂場から始まる。繋ぎにふのりを使う技法は珍しい。新潟でへきそばを食べた時に共通点を感じた。北前船がもたらした流れを想像するのは楽しい。


 2013年の元旦の対談記事も残してある。赤坂憲雄×高橋源一郎の組み合わせである。当然、震災、原発のことが話題だ。その時点から2年半が過ぎ、時代が良い方向に動いているかどうか判断は個々で異なるが、高橋が挙げた大きな主張「豊かに『下りる』暮らし」と照らし合わせてみれば、自分の価値観がわかる。


 2013/2/13のなんと日経の記事がある。「イチロー惑わず」と題されたインタビュー中心の内容だ。どこが印象深かったか、すぐ思い出した。言葉の問題が複数取り上げられ、イチローのこの語りに共感した。「結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい


 2011/3/10。あの震災前日に地元紙に「養老先生のさかさま人間学」という記事が載った。養老先生は「学ぶときに、いちばん大切なのは学ぶ態度じゃないですか」と投げかけ、そしてこう言い放つ。「安全安心な環境ってそういう意味では学ぶ態度をつくりません」本気で学ぶには不利な時代という認識もまた必要だ。

重箱の隅~短歌のメモ

2015年07月25日 | 雑記帳
 小さいメモ帳が出てきた。おっこれは…とすぐに思い出せる。山あいの小さな学校に新任校長として赴任して、朝の街頭指導ということで県道前に3年間立ち続けた。現在も同じことをしているが、人数が五分の一ほどだったのでかなり余裕のある(待ち時間が長いという意味で)ひと時だった。そこでメモ帳を片手に合間に短歌のネタなどを書きつけていた。


 この学校では三年間、継続的に子どもたちにも書かせてみた。自分に素養があったわけではないが「31文字作文」といった程度でいいと思い、校内掲示をしたり、地区のお祭りにも発表したり、といろいろな展開があった。大きなテーマに「コスモス」があった。昔から道路沿いに植え付けて地域のシンボルとしていた。メモにもその頻度は圧倒的に多い。


 そういえば玄関の靴だなの側面にコーナーを設けて、写真と一緒に自作、自筆で短歌を載せていたこともあった。今考えるとずいぶんと余裕があったし、遊び心を出していたものだ。校舎からゆるく下る坂道、わずか百メートル足らずだが、豊かな時間があったんだなと懐かしい。小規模校なりの困難点は確かにあったが、比べものにならないよさが溢れていた。


 それでは駄作を承知で、メモから一応の形を整えて、三つばかり書きつけておく。
 コスモスシリーズということで。


 コスモスを帽子にさして笑ふ子よ今日のよきこと話してくれる

 コスモスの列に交じって赤い傘黄色い傘と揺れつつ来たる

 「こんなにも空が恋しい」そう歌う声が聞こえる今日のコスモス



 三つ目はつくり過ぎましたか。

重箱の隅~好きな俳句

2015年07月24日 | 雑記帳
 気まぐれとしか言いようがなく、しょうもないと笑うしかないノートが一冊見つかった。いいなあと思った(だろう)俳句を筆ペンで書き写している。そういえば、前世紀の頃にほんのちょっと続けて句作めいたことを、以前作っていたホームページに載せたことがあった。視写が一番と考えたのだろうか、その意欲はよしだが現実がこうでは情けなさだけが残る。


 それらの作品にも悪い気がする。贖罪の意味も込めて、ここにいくつか書き写してみよう。

 最初に記したのは、この句だった。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(万太郎)

 この句をいいと思ったのは確か三十代後半ではなかったか。
 この情景を感じ取ったような気がしたとき、自分は大人になったのかもしれない(いや、老けたというべきか)。


 次にあるのは、この句だった。

 山笑う杉山よりも雑木山(無着成恭)

 これは、山間部への通勤が長かった自分の実感とぴたり重なったし、何より教師としてのあり方を教えられた気がして、心に残っている。


 2ページ目全部を使って、鈴木真砂女の句を7作挙げている。
 今読んでみると、どうして共感できたのか、おぼろげであるが、この句だけはドラマだなあと感じたことは覚えていた。

 羅(うすもの)や人悲します恋をして


 3ページ目も女流俳人から始まっていた。

 ふだん着でふだんの心桃の花(細見綾子)

 これは、先の真砂女と比べて、実に明るい色彩感がある。
 あっけらかんとした笑顔や生命感が印象的だ。


 最後の句は、作者の名をつけないまま終わっている。
 なんと実にいい加減である。(当然調べたら判明した)

 一心に生きてさくらのころとなる(桂信子)


 結局3ページの俳句には、8人の俳人の句があったが、なんと5人が女性だった。
 これは自分も意外だったが、つらつら思い起こしてみるに、他の俳人も浮かんだりするのでそうかもしれないと、一つ発見をした気分だ。


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テクニックを導く思考

2015年07月23日 | 読書
 佐藤優はベストセラー作家であることは知っているが、単行本に手を出したことはない。ただ多くの雑誌で文章、対談などは目にしていて、さすがの切れ者という印象がある。時間術を特集した月刊誌に「佐藤優の手帳テクニック全公開」が載っていて興味深く読んだ。これは「テクニック」を導く思考の問題だった。


 「情報はすべて一冊のノートに」という点は、結構多くの人が語っている。デジタル管理は全盛だが、それはチームの場合有効であっても個人完結型に当てはまらない。情報検索にしてもアナログが速いと言い切る。この肝はここだ。「自分が消化できる情報容量を考えたうえで、入れる情報の取捨選択をしよう


 「スケジュールは二年手帳に」…手帳とノートの使い分けに関してはよく話題になる。この部分が実に佐藤氏らしい。「夢や目標は、基本的に自分の頭の中に刻み込まれている(略)そもそも書かなければ達成できない夢や目標は、おそらくどこかに無理やウソがある」。手帳術で成功できない者の無理やウソとは何か。


 「一日を振り返り、記録する」…ノートに一日の行動記録を記すという。意味は二つ。「情報のインデックスにする」「不要な仕事の存在や非効率な時間の使い方の把握」。なるほど。これは徹底して事実を追い求めていく姿勢の具現化といってもいい。書くことによる事実の客観視。夢を書かない理由と表裏の関係だ。


 「明日できることは今日やらない」…一般的にはのんびり型?の思考に見える。前倒しこそが仕事上手というイメージを自分も持っている。しかし、氏の考えは「その意識を持つことで仕事の緊急度を冷静に判断できる」「ギリギリの状況に追い込んだほうがいい仕事ができる」だ。修羅場をくぐりぬけた者の実感だろう。

いつまでも夢を問う

2015年07月22日 | 雑記帳
 かつて受け持った子たちに招かれて小宴を共にした。担任したのはもう20年以上前のことになる。初めての1年生、そして翌年は初めての複式学級、さらに組む学年を替えての複式と三年間持ち上がった。結果的に最後の学級担任となり、思い入れもあった。それにしても低学年時のことは記憶にあるものなのか。


 役立つかなと当時の学級通信の綴りを漁ってみた。一年生時は発刊数はなんと№244。次の年は教職でおそらく一番忙しかった年、複式で18名の人数がいた。さらに全県大会を抱える国語研の事務局だった。それでも№130の最終号だった。翌年は少し落ち着き、版を大きくして№140。やはり一つのバロメーターだ。


 授業記録や作文、そして文集的な号には親の声も多い。実に懐かしく、内容もそれなりに充実している(ように見える)。自分の思いが特徴的に表れているのは「夢」かなと考えた。きわめて一般的ではあるが、二年時、三年時はその言葉を締め括りとしている。たわいない憧れであっても、それが人を動かす源となる。


 30歳を越し、仕事を持ち、中には結婚し子どももいる現実がある。あの頃の夢は紙の中にしかないのかもしれない(一人だけ「およめさんになりたい」と書いた子は実現したが…)。しかし夢の中にこそ、その頃の自分がいるとも考えられる。とすれば、今の夢は…と問うことは、今の自分のありかを知ることになる。


 三年間のあとがきの題を「夢を叶えて」「夢を信じて」「夢を高くして」としたことは偶然ではない。そんなふうに後押しした自分にとって「30歳の子どもたち」との会話も、結局夢を問うものであった。仕事は面白いか、今何に夢中だ…と、そんな声を遮るように「先生、写真撮ろう!LINEにあげてもいいよね…」