すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

令和六年正月始末記

2024年01月31日 | 雑記帳
 元日夕の地震のことは、当日分に記した。いずれ私たちの生活の物質的な豊かさは常に危機と背中合わせで、表裏がそれぞれに増幅していることを思い知らされた。「いつでも どこでも だれでも」という常套句の及ぶ範囲の受け止め方こそが「生きる」本質のような気さえしてくる。心に留めなければならない年だ。


 ともあれ降雪が少なく有難かった。昨冬も難儀しなかったけれど、それ以上だろう。先週末、こども園に行くため今年初の峠越えをしたが、さすがに前日からの雪で道が狭くなっており、久しぶりに緊張し、少し肩が凝った。峠越え通勤30年のキャリアが懐かしい。雪道は路面予測が重要であると、改めて心に刻む。




 大相撲初場所は実に面白かった。番狂わせ的な要素ではなく、実力伯仲のなかで、ここ数年で一番白熱した場所ではなかったか。若い力の台頭は確かに感じるが、それを見事に受けとめた横綱の精神力の強さには舌を巻いた。それは、逆境を乗り越えてきた日々に裏打ちされている。発する言葉に、重さが宿っていた。


 ある会合に出席し政治に関わる方々の挨拶を聴き、どうしても総花的になるその内容、そして展望の暗さがこの国を象徴していると感じた。一応聴衆分析をし、参加者個々の当事者性に少しずつフィットすれば目的達成らしい。しかし聞く側も「問いを持つ」雰囲気にはならない。その現実が、国の老いを示している。


 先日あるドラマで聞いた語が、某政治家のいつもの放言でクローズアップされた。「ルッキズム」…それにしても、と昭和の男は思う。「見た目」は重要な価値であることに間違いない。「エイジズム」…「若さ」は得難いものだ。問題は、価値を価値として十分に生かしきれているか。誤魔化さずに生きる内実があるか。


正月の読み聞かせ記

2024年01月30日 | 絵本
 今月の読み聞かせは、こども園4つと小学校が1つ。こども園でのプログラムは「初読み聞かせ記」に載せた。特に『ふゆのはなさいた』が印象深い。8分超の話で年長児以上向けと思ったが、年中児も混じった園でも集中が切れずに見入ってくれた。物語の持つ強さを感じた一冊だ。作者をたどってもう一冊に出逢う。


 『星につたえて』…これはいいと一読して感じた本だ。6年生相手に読む前日に、グループの初読み会でも披露した。聞き手から「自分で読んだ時は魅力的に思えなかったが、今聴いたら…」という嬉しい感想を頂いた。多少の工夫はしたが、この話が好きという感覚がやはり一番大切だ。強調、緩急等ににじみ出る。



 少しだけその魅力を確かめてみる。ちっぽけなクラゲと夜空のほうき星の交わりから始まる物語は、その対比から「悠久の時を超えて通ずる心」をしみじみと語る。伝え継がれた声がクライマックスで明示されるのがなんとも心地よい。私達人間もその長い歴史の一部にあるということ。「命」はめぐると教えてくれる。



 6年生相手のもう一冊は、講談絵本を選んだ。「那須与一 扇の的」である。中学入学を控えた子たちに、古典の世界へ誘うといった意味合いを持って紹介した。ただ、今まで取り上げた他の講談より言い回しの難しさを感じ、迷いがあった。チャレンジ精神と呟いてやり抜いた感じだ。絵の魅力が、後押ししてくれた。

 

 読み聞かせ後に「この絵を描いた人、何歳ぐらいだと思う?」と珍しく問いかけてみた。宇野亞喜良は今年90歳になるデザイナーだと教えると、さすがに驚きの表情を見せていた。そうなると私などまだヒヨッコだ…と比較の対象にするのもおこがましい。目や声の衰えを着実に実感しつつ何で補填すべきか考える。

「ノー」に向き合う自分を

2024年01月29日 | 読書
 なんといってもこの刺激的な書名。書棚から取り出して再読してみる。Re11『仕事なんか生きがいにするな』(泉谷閑示 幻冬舎新書)。風呂場読書の一冊だったし、かなりふやけている。2年前に2回に分けて感想メモを記していたが、今回も心にフィットする箇所は同様だ。そして改めて響くのは、第一章のこの一節。

 人間は、まず「好き/嫌い」を表明することから、自我の表現を始めるものです。ただし「好き/嫌い」といっても、初めから「好き」が出てくるわけではなくて、「嫌い」、つまり「ノー」を表明することから始まるようになっているのです。P22


 これは二人の孫の様子を観察すると興味深い。個々に差があるのはもちろんだが、「いや」という反抗の意味が明確になってくる。それを著者は「自分というフィールドを確保する独立運動」だという。自我の素地ができなければ、何がしたいか、何を好きか、まして将来の希望などは、非常に薄っぺらいものになる。




 十分に「ノー」が言える状況を与えてやること。それが発達段階に即した時期に行われなかった場合に、どこかで「ノー」が形を変え、歪な現象となって現れることを、私たちはもう知り尽くしている。学齢における非社会化、反社会化現象はもちろん、悲惨な事件や事故につながった例は、連日の報道を観るまでもない。


 ただ、反抗期の語や意味を分かったとしても、実際に目の当たりにすると困惑することは多い。そこで「寄り添う」のか「壁になる」のか…単なる技術論で解決はできない。対する自分の生き様を見つめる必要がある。世の中には葛藤なくそこに向かう人もいる。しかし大方の者はそこで「共に育つ」のではないか。


 大人は、その子にとって良かれと思い指示などするが、かなりの割合で実はこちらの都合優先だ。もちろん、それが周囲と折り合う機会であると刷り込んでいくわけだが、今でなければ駄目かという検討は置き去りだ。「イエスマン」こそ、周囲に縛られている現実を俯瞰し解決の折り合いを工夫するべきと念頭に置け。

ページをめくると自分の顔が…

2024年01月28日 | 読書
 一月後半の読書記。本を読むことは、ある部分で自分を映す鏡を見る行為ではないか。そんなことも思い浮かぶ。相変わらずの雑読である。


  2024.01.26  am5:58 月


 re07『老害の人』(内館牧子 講談社)著者が続けている老人シリーズ(笑)は興味があったが読んでいなかった。一読、なかなか面白いユーモア小説だった。人間心理をうまく表現している描写が多く、どきりとする自嘲的な笑いが浮かんでくる。いくら齢をとっても「毒にも薬にもならない人生」は、やはり寂しいか。


 また、手にしてしまったこういう手合いの一冊。re08『読むだけで、運がよくなる77の方法』(R・カールソン 浅見帆帆子・訳 王様文庫)。「読むだけ」で実現するわきゃないと思いつつ、読むこと自体を運がよいと捉えれば書名に嘘なし。77番目の提言が全てではないか…「捨てるべきものを、捨てるだけでいい


 Re09『じぶんでできる浄化の本』(神人 徳間書店)。何やら宗教めいた書名、著者名で、ふだんなら手を出さない。しかし図書館へ寄贈なさった方を知っていて、特定の何かに導く内容ではないと言明されており、読んでみた。考えてみれば「浄化」は憧れでもある。その様々な方法を示した意味で興味深い一冊だった。


 この歴史学者の文章は雑誌で目にしていたが、著書は初めてである。Re10「無私の日本人」(磯田道史 文春文庫)穀田屋十三郎、中根東里、太田垣連月の三人について古文書などを基にしながら、その生涯に迫った。テーマは書名通り。歴史上の華やかな人物ではないが、この国の「美徳」を考えるに絶好の書である。


 11冊目は再読で、一応読了したが今の思いをメモしておきたいので、また改めてめくっている。

あの笑顔に訊いてみたい

2024年01月25日 | 雑記帳
 最初に誰と一緒に行ったのか、誰かに誘われて入ったのか、今となっては記憶の彼方である。黄色い看板に書かれた文字は「SATE に酔うか」「JAZZに酔うか」…長く行きつけだった店のマスターが逝った。二十代後半以降、いっぱしの常連面をして通った。彼は学校の先生嫌いを広言していたが、そこが魅力だった。




 いつも二次会、三次会での立ち寄り、それでも串揚げは腹に入った。納豆嫌いの後輩を伴い、中味を秘密にして食べさせたこともあった。美味そうに頬張る姿を見て二人で笑いあった。平成後半期はほとんど「幻」と化していたが、あのカレーは絶品。酸味が好みだった。それを別の後輩に薦めたら…酷いことになって…


 親交のあったO先生が事故で亡くなり「あいつはバカだ」と、何度も口にしながらその死を悼みあった日も忘れられない。徐々に息苦しさを増していく社会や職場等に対する考えは常に似通っていて、「ヌマさん、そうだろっ」何度も頷き合った。後年、同人誌に載ったエッセイを読み、改めて共感できたことは多い。


 学校という職場を去る日も送別会の帰りに立ち寄った。かなり話し込んだが何を喋ったのか。会で頂いた贈り物を置き忘れてしまい、翌日迷惑をかけることになった。自分にとっては、あの店も一つの学校だったと印象的な区切りになった。それ以降は通う頻度が減り、コロナ禍にも見舞われ、あの笑顔とは少し遠のいていき…。


 あれはいつだったか。小さな事件があり店を休んだ時があった。再開した後に、どんな顔でいるか覗きに行った。平然と様子を語る姿に「男」だなあと感じた。その日を生きているのだ。Jazzに縁遠かった自分が、今は「BLUE GIANT」が一番のお気に入りとなった。五郎さんならどう読むだろう。今、訊いてみたくてたまらない。
 合掌。

手放す覚悟が新しい道へ

2024年01月20日 | 雑記帳
 先週、町と商工会主催の新春祝賀会講演会に参加した。講師は大学の先生、テーマは地域活性化で、なんとなく内容が予想できてしまう。ある程度想定した形で結論を述べられたが、その過程で紹介された「保有効果」プロスペクト理論の話は、なるほどと思って聴いた。日常行動にも当てはまるかもしれない。




 コイントスをして「裏が出れば無条件でお金がもらえる。しかし表が出たら1万円払わないといけない」設定で、いくらもらえれるとすれば、そのゲームに参加するかという問いが出た。会場でもそうだったが、多くの人は2万円から2万5千円程度だそうだ。その比較は「入手済のモノの価値の高さ」を表している。


 つまり、同じ1万円であっても「損による不満足」と「利益による満足」は同程度ではない。これを行動に当てはめてみた場合、現状維持から新規への変更は、比較して2~2.5倍ほどの価値が期待できないと、躊躇うことになる。自分自身で選択できる要件において、多くの人はそんな思考をしていると言えるのか。


 今ある状況から異なる状況を選択する場合、メリット・デメリットを相殺しながら判断する。その際2倍の差がつかないと踏み切れないとは言えまい。実際には「現状に対する満足」の度合いと「新規価値」に魅力を感じるタイプかどうかが、大きく影響するのではないか。つまり性格と習慣が作用し、単純ではないと思う。


 先のコイントスの問いで「10万円ぐらい」と応えた方がいた。出典の意図を明らかにし、新しさへの変化はそんなにハードルが高いのかと笑いあった。ともあれ「入手済みのモノ」を手放す覚悟がなければ、新しい道を歩み出すことなどできない。先は短いだろうが、もう少し身軽になってもいい。まずは書棚からね(笑)。

今年初の読み聞かせは…

2024年01月18日 | 絵本
 今年初の読み聞かせは地区のこども園となった。選書はほとんど決めていたが、時間配分や内容などを考え、以下のようなラインナップにする。全部が今の時期にふさわしいかはともかく、最初の紙芝居は…。「今年は何年(干支)か知ってる?」「たつ年!」「じゃあ、辰は別の名前で言うと…」「りゅう!」とやりとりした後…


「りゅうの目のなみだ」…浜田廣介の原作をもとにした作品である。絵が外国的に描かれているので、一種のファンタジー要素を感じさせてくれる。人物の会話を中心に進む冒険物語のようにも感じるし、子どもたちを引きつけていた。年長児が相手なので「ななつのたんじょうび」という設定も、物語に同化しやすい。




 絵本一冊目は「しめしめ」という題名。十数名のうち1名が既読だった。「しめしめっていう言葉、わかるかな。どんな時使う?」と問いかけて始めた。展開は動物等が登場し重層的に「しめしめ」を繰り返していく形。最後のオチは驚きがあって楽しい。調べたら「しめ」は「しめた」の略でその畳語だ。納得した。




 最後は「ふゆのはなさいた」。これは実にいいストーリー。9分を超す話だが「もうすぐ1年生だから大丈夫だね」と少し圧(笑)をかけて読み始める。前半、二人ほど集中を欠いていたが、中盤から全員の目が惹きつけられていた。読みの工夫も必要だが、クライマックスの絵をどう見せるか、それがポイントになるだろう。




 まずはスタートを無難に乗り切った。この後同じ形で残り3つの園も語っていく予定。時間的には目一杯だが、語り前のやりとりは必要と感じる。意識するしないは別にして、「?」を頭に持ちながら聴くことは、能動的と言っていいだろう。今年も自分の好みと対象とのマッチング、つまり選書に悩む日々が続くかな。

日々新面目という精神

2024年01月14日 | 読書
 一月前半の読書記。読み返しが多くなっているが、それもまたよし。




 Re03『星月夜』(伊集院静 文藝春秋)著者のファンなのでエッセイ以外にも結構な数の小説を読んではいるが、またなぞってみたい筋だったので再読した。結末を知っているのでミステリとは呼べない。しかしサスペンスとして映像美に近い感覚に浸ることできた。人物の描き方が独特で、文体に惹かれるのだと思う。


 もう何度目なのか…と思うほどめくっているre04『大人のいない国』(鷲田清一・内田樹 文春文庫)。今回も数日、風呂場で読み続けた。自分が取り組みたいと思っていることの「芯」になる考えがそこに書かれてある。「蔑ろにしているものに注意を促し、その隠された価値を再認識させる」という文脈に連なりたい。


 早朝の覚醒読書はre05『ヒカルの卵』(森沢明夫 徳間書店)。予想通り実に読みやすいストーリーと文体。限界集落の活性化として「たまごかけご飯専門店」を開き…という筋は、発刊が10年前なので少し古さを感じた。ハッピーな展開と結末は楽観的すぎると見えるが、肝心なのはいつも「心の向き」なのは確かだ。


 re06『よみがえる力は、どこに』(城山三郎 新潮文庫)。第一章の講演録の終盤にこんなことが記されている。「古い地図で人跡未踏の地にはドラゴン、龍のマークが描いてあった」。探検とはそこに飛び込んでいくことだ。辰年初めには印象強いエピソードだ。範囲は限られていても「日々新面目」の精神が足を進ませる。

この頃のトーソー記

2024年01月11日 | 雑記帳
 現在の家を建ててから20年が経った。いろいろとガタが来るのは自然なことだ。水廻りはどの家庭でも大きなポイント。建築年度に普及していなかったのだろうが、我が家はエコキュートではなく電気温水器である。そもそも何度か修理依頼したし、昨年からの電気料金値上げもあり、そろそろ替え時だと決断した。



 本当にいい青空でしたね。(2024.1.11)


 歳末ぎりぎりに設置した。新しいのは結構だが、最新の多機能が使う人間様を支配しているような気がして心地良くない。すべて使い方次第だということを十分承知のうえだから、オートという名に身を任せるからこうなるのだ、と結論はすでに出ているのだが…。風呂に入っている時間まで管理され注意されるのだ。


 この心理はおそらく二つの面から生じる。一つは「今まで通りがいい」慣れからの安心が壊されたこと。もう一つは「機械が人を支配するな」という感情的な反発があること。しかし考えればそんなことは日常茶飯事だ。家電や車を替えたときもそうだし、環境が少し変わっただけで、似たような思いは浮かんでくる。


 ここで思い出す『スマホ脳』の著者アンデシュ・ハンセンの格言。多くのストレスに対する場合の二つの選択肢「トーソーか、トーソーか」つまり「闘争か、逃走か」。ここで「逃走」はできない。とすれば「闘争」。使いこなせば勝利、進行だ。使いこなせい状況が続くなら、それは敗北、緩やかに毎日退行していく。
 

 ぜっ、ぜったいに使いこなしてやる。何のために数十万もかけて新調したのか。いつ故障するかという不安や値上がりする電気料金への危惧に打ち勝ち、より快適な水廻りライフ(主として風呂)の実現を目指したからだろう。負けてたまるか…。取りあえずの勝負一回戦は、月半ばの電気料金の行方にかかっている。

 どうでもよくねぇ(笑)と思いつつ書いた。が、どうでもよくねぇえ(怒)

「身の程」を他者が語るな

2024年01月09日 | 雑記帳
 TVで流された北九州の成人式の様子を観ていたら、派手な衣装を扱う店の女主人が「日本ではあまり評価されないけれど…」と語っていた。ファッションショーとして成立する外国での様子も映っていた。無礼な振る舞いは、恥ずべき行為と考えるが、着飾るだけならそれも自己主張?だろうし、可愛く思えたりする。




 ふと浮かんだのが、「身の程」「程々」という語だった。そして『夜明け前(が一番暗い)』(内田樹)で読んだ一節とつながった。いつから、そうした派手な格好に身を包む様式が流行ったのかはわからない。しかし、いずれ高度成長期以降ではないか。それ以前であれば、地域差はあるにせよ、経済的に困難だったろう。

P140 高度成長期の日本というのは、国民全員が「分際を踏み越えて」「身の程をわきまえず」に、法外な野心と欲望に衝き動かされた時期だった。

 内田氏の年代また地方出身であれば60代半ばまでは、子どもの頃に「分際をわきまえろ」「身の程を知れ」といった意味のことを親や大人から教えられているはずだ。それはいつの間にかあまり口にされなくなったし、一億総中流という語が示すような意識に染まっていった。今世紀初めあたりまで続いたように思う。


 20年近く前、某ハウスメーカーが「程々の家」という広告を出した時、少し違和感を覚えた。中味はともかく、他人から「程々」と形容されることに長い間慣れていなかったからかもしれない。そして最近、知らず知らずのうちに意識が昔に戻っているような…「身の程をわきまえろ」と言いそうになる自分を感じる。

P141 「自分に割り当てられた場所から出るな」という風潮が復活したというのは、また日本が貧乏になったということだなとすぐに得心した。


 先日書いた「夢」の管理に大人が精を出しているのは、やはり体制維持のためではないか。今、教育界のトレンドは「個別最適化」という語のようだ。確かに望ましい方向なのかもしれない。しかしそれは「身の程」の圧し付けにつながらないか。地域や国のましな将来をつくろうとしたら、貧乏慣れしてはいけない。