すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

五年先を褒める先生

2009年05月31日 | 読書
 『お母さんは勉強を教えないで』(見尾三保子著 新潮文庫)を読む。

 帯に書かれてあった「驚きの指導法」という言葉や、解説が左巻健男氏だということに惹かれて、購入した本だった。

 最初のうちは、へええなるほどとは思いながら「やはり塾だから出来ること」といったイメージでとらえていた自分が、そのうちに「これは個別指導として究極のことではないか」と思い始め、終盤に著者の高校教諭時代のエピソードを知る頃は「ううむ」と唸らされる感じとなった。

 「引き出し」教育

 これが全篇を貫くキーワードである。その言葉からイメージするのは、私にとっていいことばかりではない。
 かつて野口芳宏先生に、「education」の語義が「引き出す」から来ていて、結局それは西洋のものであり、東洋の「教育」はまた違うというようなお話をうかがったことがあった。その意味で、子どもへの対し方について異質な部分を抱えていることも確かだ。
 しかしその違いを越えてなお心に響く、熱く強い願いが伝わってくる。

 教育においていちばん大事なのは、子どもを「わがことのように思う心」であると確信するようになった。

 著者と接した多くの塾生、生徒のエピソードが語りかけてくるものは大きい。そして、その一つ一つを全て飲み込んで、教育の哲学を語る著者の姿も大きい。

 例えば、著者と電話で話した塾生の母親は、電話の後、その我が子に対してこんな言葉を言いながら泣いたという。

 「今を褒める先生はいるけれど、五年先を褒める先生はいない」

 心の芯の部分で触れ合ったからこその言葉であり、テクニックでは語れない重みを感じた。


何を羨ましがってそんな言葉を

2009年05月30日 | 雑記帳
 昨日は2年生の遠足の引率。
 JRの切符を買ったり、乗車したりする活動もあるので、近くの駅から子どもたちと一緒に乗り込む。
 シーズンでもあるので他校の低学年の子も多かった。

 その同じ電車に乗り合わせた、数人の女子高生。
 本校の子どもたちを見ながら、盛んに「かわいい~」を連発している。
 制服を着て平日のこの時間帯に連れ合って乗るということは、何かの試験でもあるのだろうか。
 言葉そのものは、まあよくあることで、きっと自分たちもそういう時を過ごした頃を懐かしみ、今の境遇を慰めて?いる、そんな感じだろうか。

 四つほどの駅を通過して、到着駅についたとき、降りる子どもたちを見て、一人の女子高生はこう言い放ったものである(もちろん、笑顔)。

「かわいいぞ、このやろう。」

 なるほどね、罵倒する言葉を使ったかと思いながら、そこまで羨ましがるほどの齢でもないのになあ、と一人微笑んでいたら、前をいく本校の子どもたちが、ホームの階段を上りながら、こんな会話をする。

「かわいいぞ、このやろうって、どういうことかな」

「へんだよねえ」

「そうだよねえ、おかしいねえ」

 わかるまではちょっと時間がかかるかなあ。
 なお「このやろう」たちの写真は、学校ブログで。

自然の音が景色を濃くする

2009年05月27日 | 雑記帳
 三週ほど続けて休日の朝に近くの山林へ出かけた。
 今が盛りの山菜を採りに、ということである。もっとも小一時間で回り、その日の食卓に添えるという程度である。

 秋のキノコの時期と今頃しか出掛けないということもあるからだろうが、草むら、草藪、それらに分け入りながら耳に入ってくる鳥の鳴き声がとても心地よい。
 ウグイスやホトトギスぐらいしか判別できないが、まだ数種類いることは確かで、それが時に強く響いたり、また遠くから長く響いたり、と腰を伸すタイミングでうまく聞こえてくる。
 それでまた少し景色が新鮮に感じられる。

 こういうのを「自然音」というのだと改めて思う。
 「人工音」に染まっているなどと今さら口にするのも変だが、私たちの暮らしに聞こえる音は、ほとんど全てといってもいいほど人工なのだと思う。
 音の総量もきっと数十年前とは比べものにならないほどに増えているのだろう。そして、よく考えると、自然の音があってもそれらはみんな人工の音にかき消されているのだ、という現実に気づく。

 人工音の増大は文明、文化の発達に伴っていることに違いないだろう。それは物体の視点でも同じである。しかし自然のものが全くなくなったのか、あるのだけれどかき消されているのか、と考えると、ほんの少しだけれど音には可能性があるように思う。

 自然の音を拾ってみようとすると、水を張られた田んぼから聞こえる蛙の合唱も貴重な音源であり、少し景色を色濃くしてくれることに気づく。

現場を「走り」抜く

2009年05月26日 | 読書
 『野中信行のブログ教師塾~「現場」を生き抜くということ~』(学事出版)を著者の野中先生より送っていただいた。感激である。

 昨年3月までのブログファンとして(もちろん今も)、ほとんど目にした文章ではあるのだが、改めて今読み直してみて痛感することのなんと多いことか。
 そしてまた、自分の薄っぺらな読みで見逃していたことも結構あるなあ、とそんなことを感じた。

 「野中先生はやはりマラソンランナーだ」…そういう断定をしてみると、いろいろな言葉と辻褄があってくるなあと感じた。安易な比喩とは言えないだろう。

 「目標をもつこと」、そして営みに関して「勘所を逃さない」ことの大切さがまず強調されている。
 スタートしたら、とにかく「迷うことなく走りだす」こと。
 そして「一定の長さ(期間)を走りきる」ことが当面のねらいとなる。
 ただし「無理はしない」「気分転換を大切にする」ことが長続きさせるためのポイントといえよう。
 長い道のりの争いと見れば、「タイミングを逃さない」ということもとても大切になる。
 レース全体を俯瞰して「往路」と「復路」の意味づけをしっかり持っていなければならない。定めた目標に向かっての「往路」のスピードと歩幅は、「復路」のそれとは明らかに違うことも自覚しなくてはならない。

 もちろんマラソンを走りぬく心肺能力の高さや持久力は、手を抜かず誤魔化さずに努力した者しか得られないだろう。そう考えると私など本当に恥じ入るばかりである。
 現役にこだわる工藤公康投手のインタビュー記事が思い出された。
 「パズルを完成させるための大事なピース」…それに早く気づく投手は長続きするという。
 鍵をにぎるピースは何か、それをどこで身につけたか…野中先生の世代が持ち得た感覚、そして走ることを続けてきたことと無縁とはいえまい。

 常に「現場」にいて目の前の子どもに正対してきたからこその文章が満載だ。そして、絶えず「周囲」…それは自分の身の回りから国の動向まで含めてのことだ…と照らしあわせ考えを紡いできた跡がくっきりとわかる。

 力みなくバランスのとれたフォームで駆けている野中先生の姿がイメージできる、いい本だ。

議論の余地から教えられる

2009年05月24日 | 読書
 『議論の余地しかない』(森博嗣著 講談社文庫)

 森博嗣という人の本は初めて手にした。
 フォトエッセイと記されているが、フォトはその通りにしても、文章はエッセイではなく箴言といおうか語録といおうか、今までの著書の中から切り取った短い文章を組み合わせている形である。そして説明、補足めいた一言もさらに添えられて一項が成り立っている。

 某大学工学部の先生らしいが「まさに哲学」とそんな感じのする本だ。小説の登場人物に語らせている様々な言葉、なかには理解できないものもある。おそらく物語の文脈の中では光放つのかもしれないが、唐突に提示されても、さあて?と飲み込めないものも確かにあった。
 しかし、それ以上にはっとさせられたり、深いところにすとんと落ちたりした部分も多い。

 だいたいにおいて、正念場の実体は、本当の正念場よりずっと前にある。

 仕事でも家庭生活でも、いろいろな場にあてはまる警句だと思った。

 形とは、動こうとする意志なのである。

 形と動きは、反対の概念ではなく同一の方向を持っているということだ。
 そして、これ。本当にその通り、その通り。

 Time is money なんて言葉があるが、それは時間を甘く見た言い方である。


起こったことしかわからない

2009年05月23日 | 雑記帳
 昨日出席したある会で、知り合いと雑談をしていたとき、齢相応に健康のことなどが話題になった。

 脳ドッグに行く予定があることを話したら、その方がこんなことを云う。

 「私の知っている医者は、脳ドックなんて何もならないと言っていた」

 それはまたどうして?と問うと、このようなことを。

 「脳ドックは起こったことしかわからない。血管が詰まったあとならわかるけど。」

 医学的にどうなのか全くわからないままだが、それにしても少し変な感じもする。
 すべての検査だって起こったことしかわからないのではないか。分析の精度とか信頼性とか検査の種類によって異なるものなのだろうが、結局いずれにしても見えるのは、起こったことでしかない。
 
 その見えるものから傾向、兆候、前兆といったものを読み取る…それが医者や技士の技能だろうし、仕事そのものだろう。
 とごく当たり前のことを考える。
 
 「何もならない」と話した医師は、脳ドッグ検査の限界や費用対効果を語ったのもしれない。その意味でそれが大勢ならばなぜ常識にならない…そんなことも思い浮かぶ。
 しかしそう考えてくると、私自身も自分の仕事に対して安易な言葉や決めつけを言っていないだろうか、という気になる。

 どれだけの尺度で「起こったことしかわからない」と言うのか、いつもいつも問われている。

子どもや学校のいい表情を

2009年05月21日 | 教育ノート
 転任してひと月半。
 まだまだやるべきことはあるのだが、若干のゆとりも感じられるようになってきた。
 
 そこで、ここでも取り組むぞと秘かに決めていた学校ブログを、先週作り始めた。
 自分としては少し不完全な部分も残っているが、保護者にも昨日知らせ、全面公開である。
 
 紙版の学校報の名前をつかい、「三つの輪Web」と名づける。

 風景や植物、静物をテーマにある程度の写真を撮りためているが、やはり面白いのは子どもの顔、動きだ。学校ブログとしての制限はあるが、ちょっとずつでも腕を上げて、子どもや学校のいい表情を見ていただきたいものだ。

 「先生、アドレスを入れてもつながりませんでした」とある六年生の声。
 検索方法なども教えた。
 そう、確かに子どもも訪問者の大きな対象だなと改めて思う。

ローカルラジオにツッコミ

2009年05月19日 | 雑記帳
 ローカルネットのラジオ番組をまた聞きだした。
 といっても通勤時間のわずか五分ほど。
 半端な時間なので聞き流している感じだが、時々ツッコミを入れたくなる。

 以前、滑舌に難のあったパーソナリティCちゃんのことを連載?したのは、別ブログだったろうか。
 Cちゃんの去った後、あまり聴かなくなっていたのは、ツッコミを入れる要素がなくなったからだったろうか。
 しかしどうしてどっこい、まだまだいいボケをかましてくれる。

 朝の番組は「今日は何の日」といった、おそらくネット検索したページを読んでいるのだが、これは下読みをしているのか非常に疑わしい。
 例えば今日はこうだ。

 「水泳で世界新記録をつくった、フルハタヒロノシンさんが・・・・」

 おいおい、刑事ドラマじゃないんだから。田村正和が泳いだわけではないだろう。「古橋」ときちんと読めよ。

 先月だったろうか。

 「黒澤明監督作品に出ている俳優の、センシュウミノルさんが今日・・・・」
 
 えっ、と一瞬とまどったが、あ「千秋」か。
 名優「チアキミノル」も草葉の陰で穏やかに笑ってばかりはいられないだろう。

 名前の間違いならまだましか、と思わせたのは、このフレーズ。

 「○月○日。はい、今日は何の日かというと、『大阪夏の陣』がカイサイされた日で…」 

 おいおい、「開催」かよ。
 何か楽しい週末のイベントみたいじゃないか。
 地域おこしのための陣取りゲーム拡大版じゃないだろ。

 そばに誰かもう一人いて突っ込めば、ナイツの漫才みたいで面白いのかな。
 
 いや、知っていてリスナーを巻き込む作戦か。巧妙だ。

私と私達、私から私達

2009年05月16日 | 雑記帳
 ある教育雑誌を読んでいて、ちょっと面白い文章を目にした。

 「私」と「私達」
 
 「Yes, We can」が流行語のようにもてはやされたこともあって、「私達」という言葉の持つ強さ?を改めて感じたが、そんな風潮に対して安易に使いすぎていないか、と筆者は訝っている。
 確かに、反戦運動、学生運動で使われたイメージと比べれば、その重みは大きく違うのかもしれない。

 個人的には、どうしても岡林信康の歌が思い出される。
  
 歌詞

 youtube

 それはさておき、筆者が大学生相手のスピーチの授業で面白い試みをしている。「私」と「私達」の使い分けを意識させるための手立てと言っていいだろう。
 最初「私の夢」といったテーマでスピーチさせ、そこでは「私達」を禁句とし、スピーチ後の討論を経て、再構成させる。そこで「私達」を使う場を取り入れていくというような概要だ。

 これは流れのすっきりした、それでいて十分に思考を伴う組み立てだと感じた。
 結局、個から出発するしかない、ということを強く意識づけるだろうし、討論の中で、私と私達とのかかわりや、私達とは何か、複数形を使うことの意味づけは何か、といったことに気づく要素が生まれてくるだろう。

 小学生では無理かもしれないが、言葉にこだわって教材を組み立てるいい例だと思った。このパターンで何かできないかと考えている。

名づけられていない価値だから

2009年05月14日 | 雑記帳
 愛読している穂村弘が「天然」と題した文章でこんなことを書いている。

 間違え方自体に、まだ名づけられていない価値が含まれているのではないか

 いわゆる「天然タイプ」の人が、ドッペルゲンガーのことをトーテムポールと云ったことからの展開だった。

 唐突に、先月のある日、居間での会話が思い出される。
 テレビでバラエティーを見ていたら、昔ヒットした歌謡曲が流され歌っていた歌手名を当てるクイズだったように思う。

 流れてきたのは『人形の家』。
 あっと一瞬戸惑ったが、すぐに「弘田三枝子(ヒロタミエコ)」だなと思い出すことができた。
 ところが、一緒に見ていた連れ合いが思い出せないらしい。

 「ミ、ミ…ミタ、…ヒロ、ヒロ」
とつぶやく。
 「ああ、いいところにいっている」
と励ます。


 「ミタ、ヒロコ!」
 それは、ずいぶん時代が違うでしょ。
 「ミ、ヒロ、…わかった。ミタ、ヒロミ!」
 なかなかいい名前なんだけど、違うなあ。
 「ヒロミ…ヒロエ…ミエ…」
 そう、そう、近づいてきた。
 「ミエ、ミエ…タ、タミエ!ヒロ」
 ああ!

 とまあこんなくだりで数分間。
 (顔も見たくないほど嫌われないように、注意しながら)
 単なる度忘れということなのだが、記憶がそのまま取り出せないいい例か。

 自分も最近ある歌い手の名前をずいぶんと思い出せず(しかも何度も)、どうしてかなあと一人で笑いながら苦悶していることがある。

 エレファント・カシマシ

 その顔も歌声もはっきりわかるのだが、名前が出てこない。それが4回続いた。
そしてその度に候補?として出てくるのがこの名前だ。

 ガダルカナル・タカ

 何か、名づけられていない価値があるのでしょうか。