すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

結局、成り行き次第か

2020年04月30日 | 読書
 「一貫性とは、予測可能な時のぜいたく品である」とはなかなか鋭い。
 先週金曜の新聞文化欄に、宮地尚子という精神科医の方が書いていた。

 一昨日の読書メモとも相通じるが、ブレないことは堂々とした態度に通ずるし、ずいぶん価値が高いと信じて暮らしてきた。
 だから何か問題が生じたときに、即対処する、文章化する、マニュアルをつくる…といった、いわば管理職的な発想が退職後もなかなか抜けきっていない。
 つい最近も苦笑いすることになった。

 感染拡大防止について町の方針が示され、それに沿って諸施設も動く。
 今回は実行したことのない対策、方法が示されたので、それではと示すべき手順を頭の中でシュミレーションしながら、実施マニュアルを作ってみた。
 しかし、職員とともに相談してみると、これがなかなかまとまらず、あまりピンとこないようだ。

 そうなのだ。
 つまり、前提となる感染拡大状況とそれに伴う自治体の手立ての動きが予測しにくいので、イメージが散漫になる。
 「当面の間」という語で示される期間も、まったく見えない。
 さらに、新しい手立てに取り組んでみても初めてのことであり、利用者予測も館員によってまちまちなのである。

 こうした見えない状況の中でも、「想定外」を安易に使わないことは大事だと思っている。
 従ってAの場合、Bの場合、Cの場合…といくつかの枠は立てておくべきだろう。

 しかしそこまでやって、ある程度頭に入れたら、後は「成り行き次第」ということで、その都度対応していくしかないようだ。

 非常時とはいえ、今まで培ってきたこともある。
 揺らいでいる事柄は多くとも、まったくちゃぶ台がひっくり返されたとも言い難い。
 これで駄目ならプランB、それでもうまくなかったらプランCと、次々に手を打てる心積もりさえしておけばいいだろう。

 樹木希林が書いた『いっさい成り行き』というベストセラーは未読だが、成り行き次第という発想は、無駄と思われる部分も取り込んで、予測不可能な時代を生き抜くコツなのかもしれない。

枕と共に死ねない自分に

2020年04月29日 | 雑記帳
 先週、どんな物を買ったか続けてメモしたが、実はその前週にちょっと大きな買い物をした。と言っても何十万というわけではなく、一万円超というレベルである。商品は「」。人によっては当たり前かもしれないが、自分史上(笑)一番高価となる。前から気になっていたが、某通販雑誌のベストセラー枕を注文した。


 真空パック仕様でほどなく着いた。開けてみるとフワフワと広がり、商品ページに載っている形状となる。最初、頭を乗せてみると少し硬いイメージを受けた。大丈夫かな…という思いがふと浮かぶ。その晩から新しい相棒としてベッドを共にすることになった。横の長さが十分にあるので、安心感のビジュアルだ。


 首筋をサポートする硬めのクッションがぴたりとハマり、頭頂部は柔らかめでなかなかこれは良いのではないか。寝入りはいい方なので違和感なく眠ることが出来た。夜中に目が覚めてトイレに行くは齢相応で気にならないが、自分にはその後横向き態勢で寝る習慣がある。うんっ?その向きだと、ちょっと窮屈だ。


 「10日間、使ってみてください」というチラシの同封があり、素直に9日間は使用を続けた。ごく普通に仰向けに寝ている分には何の差し障りもなく、いや今まで以上に熟睡しているのかもしれない。しかし寝返り、横向きの時の覚醒がどうにも気になる。んー決めた。返品だ。14日以内は可なので、別れを決意した。


 しかし「本当に枕のせいなのか…」と内なる声がする。先日読んだ新書の中に、「眠りは死と通ずる」という箇所があった。ぐっすり眠れるためには「よく生きたか」が問われるのではないかと、びくっとする一節を読む。そうだよなあ。十分に働き、遊び、心身が満足できれば、すうっと死ねる気もする。半端なんだよ!

今、冷え切ってはいけない

2020年04月28日 | 読書
 『この国の冷たさの正体』(和田秀樹 朝日新書)は4年前の発刊で、副題をみると、その時代感がよみがえる。曰く「一億総『自己責任』時代を生き抜く」。「一億総活躍社会」と耳障りのいいフレーズの内実は、労働力を増やし消費を拡大させることだったが、ただ格差社会を助長する流れの中で泡のように弾けた。


 結局、働かざる者食うべからずという旧時代的な道徳観に縋っているだけとも思える。むろん教職にあった頃の師の大事な教えの一つに「責任内在論」があり、目の前の現実の受け止め方として自分の言動を誤魔化さないように努めてきたつもりだ。しかし、この国を覆う「自己責任」とは視点が異なっているだろう。


 著者は「自己責任に見えることの大半は自己責任ではない事実」の例をいくつも挙げている。端的に凶悪犯罪者であっても、そこに至った責任が全て個人にあるという論理には無理がある。その点をもっと綿密に精査することの必要性を訴えている。犯人擁護ではなく、高度化した現代社会の闇をもっと照らすべきだ。


 直接的な冷たさを作りだすのは、結果的に私達個々である。従ってそれを誘導し、雰囲気で覆うような存在に早く気づき、俯瞰視できないと、いつまでも加担するばかりになってしまう。まずは政治のあり方がある。さらにマスコミが大きい。特にテレビの力は決定的だ。「正義」をふりかざす輩の多いことに閉口する。


 世界との比較はともあれ、新型コロナ感染においても、感染者へ同情が寄せられる反面、「攻撃」されている例も数多く見られる。そこにあまり根拠のない「自己責任追及」的なニュアンスを感じるのは私だけだろうか。国や自治体レベルの責任検証が全てなくとも、感染し責め立てられる個は自分であったかもしれない。


 著者は精神科医として自己責任論から逃れるためにいくつか処方箋を提示している。『「かくあるべし」思考から脱却する』『「ブレる」人のほうが強い、堂々とブレるべし』等々。宣言下の日常に弱ってきた心身に効きそうだ。生活上の制限は多くとも、日々を生きる主体は自分しかない。まずは報道に振り回されるな。

その声を聞き、その声を刻む

2020年04月26日 | 読書
 先週ネットで見た新聞記事は、さすが五味太郎だなと思った。

 記者が「休校になって、大人も子どもも心が不安定だが」という訊き方をすると、こんなふうに切り返す。

 「それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも『早く元に戻ればいい』って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。」


 五味のように「休校はチャンスだ」という捉え方をする人は、「元に戻る」という意味をしっかり捕まえているのだと思う。
 いったい自分は何をしたいのか、本当はどうあるべきか。それはもしかしたら制限された世の中でも変わらないのかもしれない。



 土曜の新聞に大きく載った女子高校生の記事『女子卓球部主将「声を聞いて…」 総体中止危機、思いつづる』に考えさせられた。

 その子がこう語ったことに、頼もしい気持ちを抱くし、希望も持ちたい。

 「自分たちが生きるこれから先の世界は、どんなときでも、決定を下す人たちがより多くの人の声を聞く世界であってほしい」

 アフターコロナと称される世の中に対する不安がある。
 多くの識者が指摘するように、独裁的な政治への傾斜が強まるのではないか。

 危機的状況回避が思うように進行しないことを理由としながら、そんなふうに権力集中される世の中にしてはいけない。
 そうなった時、少しばかりの知識しかない自分ですら、歴史がどんな道を歩んできたかを知っているから。

 まして今の政権は「より多くの声を聞く」ふりを続けてきたことは自明だし、そこに染められていく同年代や若い人々は増えているように感じる。

 「決定を下す人たち」は選ぶのは、多くの人の声である事実に向き合っていくしか手はない。

緊急事態宣言下のお買い物

2020年04月25日 | 雑記帳
4月20日(月)
 勤務日ではないので、素籠り読書用の新書等を朝のうちに購入するため隣市の古本屋へ。30分以内でさっと済ませ、頼まれた類もチェーン店で購入。自宅への帰路、ふと名物シュークリーム発売日だと思い出し、某菓子店に寄る。職場へ差し入れ、家に持ち帰る。皮とカスタードクリームのバランスよく、美味である。


4月21日(火)
 図書館はゴールデンウィーク明けまで休館だが日常業務はある。町広報の締切が近づいている。実は半分ほど仕上げたのだが、今の状況にそぐわないと考え構想を変更する。休館明けの相談も始める。退勤後100円ショップで「ヘッドライト(頭に巻く)」と電池を購入。これを使ってGWは書棚整理に取り掛かる予定。


4月22日(水)
 知事が県全体に休業要請を出した件が大きく一面に載っていた。どう展開していくか、誰も見通せない。朝のメール等チェックしていたら、メディアプレーヤーなるTV接続機器に目を惹かれた。これがあれば絵本や紙芝居のデータ化の生か方が容易になると、即購入。しかし、これを使う日がほんとにやってくるか。


 この日夕方撮った願望のような一葉

4月23日(木)
 雨が激しくなったり陽が射してみたり、と不安定な天気だ。フリーの日なので山菜採りを予定していたが、あきらめる。少し青空が出かかったので、小一時間近所の桜を撮る。いつか思い出す日のために…。今読んでいる北山修著の新書『良い加減に生きる』と同タイトルのCDアルバムをネットで見つけ購入する。


4月24日(金)
 朝は来月以降の動きについて館内の意思統一。その後、広報脱稿、図書館だより来月号下書き。午後から玄関掲示の詩文を漁る。退勤時に腰痛予防グッズを買う。帰宅すると『ちくま』5月号と、メディアプレーヤーが届いている。早速接続してみたらうまく作動しない。えええ楽しみにしていたのに…明日再挑戦。


 こう書いてみると、意識しつつ動きそのものはあまり変わらないかもしれない。
 そもそも人混みがない。と言っても距離は当面意識せねば…。

普通がいいでは病に負けるか

2020年04月24日 | 読書
 『「普通がいい」という病』という言葉だけを「今」聞けば、大半の人は病気と呼ばれてもいいから「普通がいい」と言うにちがいない。それだけ「普通」でない状況にあるわけだから。実は、これは十数年も前に出された新書の題名で、著者は泉谷閑示氏。以前『反教育論』を興味深く読んだが、こちらも面白かった。


 ここでいう「普通」とは、他者との比較である。通常の社会においては、平凡、標準的といった価値観は支配的と言っても良かった。そこに適応できない人間が増え始めた訳は、多くの心理学者などが語ってきた通りだ。この著でいえば、一個人の「心と身体」が、自らの「頭」によって独裁されているからと表現される。


 考えさせられる箇所が本当にたくさんあった。「自己形成のイメージ」という図もわかりやすかった。「あるべき自己」を考えている人は「塑造的自己形成(粘土や石膏を付けていく)」だが、もう一つ本当の自分を削りだす「彫刻的自己形成」がある。内在する自分に目を向ける、削ぐ、磨くという感覚の大切さを想った。


 「生きているもの・死んでいるもの」の章にも、ふと気づかされることが多かった。例えば「死んでいるものの背景には、機械的な反復があるのではないか」「生きているものにとっては、マニュアルではなくある種の即興性が大事です」仕事であれ趣味であれ、私達の心と身体に訴えてくる「生」の本質を見る気がした。


 と、「生きるため、感染拡大を防ぐ」ために「マニュアル」が何より求められる現況で、どんな即興性ができるのか、などと言いたくなる。しかしそう思っても、よく目を凝らせば、誰しも先が見通せない今であっても、発揮している人は発揮しているなあと分かる。「ほぼ日」エッセイの昨日の締め括りの一文はこうだ。

 「いまがいちばん頭と手が動いている、という人でありたい。」

今こそ『チームの力』を読む(了)

2020年04月23日 | 読書
 【チームの力 構造構成主義による”新”組織論】(西條剛央 ちくま新書)

 第四章「機能するチームとは」においては、まず「すべての人間に共通する心の本質とは何か」という問いが立てられ、それをこう結論付けている。

 「すべての人間は関心を充たしていきたいと欲してしまう」

 あっけないほど当たり前だが、実に納得できるし、ふだんの行動を次々に浮かべると、自分の欲望・関心を充たしたいことを見透かされるようだった。
 例えば仕事上のことにも表れてくるし、モチベーションの基点になるのはまさしくそれなのだ。

 チームがメンバーの適材適所配置によって、より機能していくことは当然だ。
 しかしそうならない現実は多い。
 多くは「才能」「能力」という点に重きを置いて配置されている。
 それは妥当とも思えるが、人間の本質からいうと「関心」が伴わないとき、それは個人を幸せにすることはできない。


 仕事だから好きなことばかりやっていられないという論理はわかるが、それに縛られては前に進めないのではないか。
 思えば、教職で担任を外れた頃から退職するまでの20年あまり、異動や昇任を重ねつつ、ほぼ似たようなことをやれた自分は幸せだった。
 早くからその点は気づいていたし「好きなこと、得意なことを生かして」と職員に繰り返し語ってきたことはなんとなく自負できる。(ただ、マネジメント面は低評価だ)。

 この本にもいくつかの例はあるが、Googleの20%ルール(本来業務以外の取り組みを認める方法)の精神は「威力」を持ち、成果をあげる。
 それは「時間でなく自由である」と語られていることに秘訣があるだろう。
 創造的な仕事にとって欠くべからざるものだ。
 そして、質量の差はあってもそういう部分はいかなる仕事にもあると考え、取り組むことが大事なのではないか。

 方法は多種多様にある。
 どんなチームにおいても、個別の目的達成への歩みと並行して意識するべきことだ。そこが、リーダーシップを発揮する重点であることは間違いない。

 なぜなら、それこそ人を幸せにするからだ。

 あとがきに『日本でいちばん大切にしたい会社』として紹介された「伊那食品工業」の「究極の目的」が記されている。

 それは「社員を幸せにし続けること」。

 ぶれずに歩むチームの共通項があるとすれば、その精神しかないような気がする。

 「チーム日本」(あくまで仮想だが)は、国民を幸せにし続けることができるか。

今こそ『チームの力』を読む②

2020年04月22日 | 読書
 【チームの力 構造構成主義による”新”組織論】(西條剛央 ちくま新書)

 当然ながらチームにはリーダーが必要であり、リーダー論はちまたにあふれている。
 この新書で述べられていることは、以前何かで読んだ内容と近いとしても、原理を起点に語られるので、気持ちがいいほど納得できる。
 例えば、次のような一節だ。

 「リーダーシップとは、(1)特定の状況下で、(2)自分を活かして、(3)チームの目的を実現するための技能ということができる。これがリーダーシップのメタ方法論というべき考え方になる」


 どんな優れた資質を持つ者も「長期間にわたり“よきリーダー”として統率できない」という。それは、リーダーが状況の変化に合わせて自分の性格を変えられないからであり、「成功体験の呪縛により自分の道を離れる気になれないから」とする。
 (今の国の現状に照らしてみると、見事に符合する気がしてならない)
 リーダーの位置にある者を、リーダーだからというだけの理由で従うことなど、少なくとも混乱のある時代には許されないことだとも思う。


 人は「果敢さ」と「慎重さ」のどちらかに偏っている、という論は納得できる。
 そこから、よく言われる「平時」と「非常時」のリーダー論が導き出されていると言えよう。
 フィクションには当然演出も多いが、「名将」の多くはいずれも去り際が鮮やかであることを思い起こす。


 ではそうした原理原則的な論理を踏まえながら、その悪条件を乗り越え、長くリーダーとして活躍できるのは、どんな人なのだろう。

 著者は、メンターや側近の存在の重さも語りつつ、決定的な点は「誠実さ」にあると述べている。

 リーダーの「関心」がどこを向いているか。
 その人の意思決定や動き方は、目的に沿ったものとなっているのか。

 美辞麗句をいくら並べても、結局のところ「心」は伝わる。その意味での誠実さが何よりチームの芯と成りえるのだと思う。


 「リーダーの人格に応じて組織の体質が決まる」

 これは、スポーツなどで脚光を浴びるチームなどが象徴的だろう。
 国や地方を統率していくべき組織の体質が、この非常時の動き方に足かせになっている例を、我々は目にしている。
 これらは、つまりリーダーの人格によると言い切ってしまうのはとても怖いけれど、一面の真実に違いない。

 未曽有の危機的状況を凌ぐのが精一杯だが、この点はしっかり頭にいれておきたい。

今こそ『チームの力』を読む①

2020年04月21日 | 読書
 学びの多い本だった。3回に分けて印象的なフレーズや考えを巡らしたことをメモしてみる。

 【チームの力 構造構成主義による”新”組織論】(西條剛央 ちくま新書)

 まず自分自身が、「チーム」という語に関して斜に構えていたことを振り返ってみたい。
 以前も書いてはいるが、この言葉が頻繁に教育界でも使われるようになったときに、何か胡散臭さを感じていた。「スピード感」という語もつきまとっていた気がする。つまり、流行語を管理に利用しているだけなのではないかという思いが強かったのだ。

 チームという名のもとに一人一人の特性を生かすことより、組織としての統制を強調する向きがあったので、だいぶ警戒していたというべきか。

 昨年「ワンチーム」という語が取り上げられたときも、あの日本代表の進撃からどんな価値を見出しているか、明確に位置づけられていなければならないと思っていた。

 その点について実に明快に語ってくれたのが本書である。
 先月読んだ『人を助けるすんごい仕組み』の理論編として位置づけられるこの本の第一章の冒頭に、その核となる考えが示されている。

 「メンバーが自律的に動くチーム」

 「タテ組織で統率する」という発想とは決定的に違うのである。


 第二章「どんなチームをつくるのか」では、まず「チームとは何か」が問われる。

 電子辞書内の明鏡国語辞典に「ある目的のために活動を同じくする人々の集まり」と記されているように、チームとは「目的」なしに存在しないものである。
 関連して使われる語彙を確かめても、「集団」は「人や物の集まり」、そして「組織」は「役割・機能を持つ集団」であり、チームはその最上位にあると考えられる。

 チームが「目的」抜きには考えられないことは自明というかもしれないが、私たちは時々それを見失う。空文化した組織は巷にあふれているのではないか。

 そこで、項目化された次のフレーズが必須の考えになる。

 「『目的』を注意深く明文化する

 著者がリーダーであった震災時の「ふんばろう」プロジェクトの目的は「被災者支援」ではなく、「自立した生活を取り戻すサポートをすること」と明記されている。
 チームの行動は、目的に忠実であることが求められる。従って「自立」へ向ける支援のあり方は多様になるし、過剰を防ぐことにもつながる。

 教職にあった時、目的の明文化に意識的であったかと振り返れば、いささか自信がない。
 目標の具体化にはずいぶん心を砕いてきたが、目的については悩みっぱなしだったかもしれない。

 今、それぞれが属する組織はチームたり得ているか。

 つづく

「なんだろう」と道徳

2020年04月20日 | 教育ノート
 職員とは言えど当然貸出規定は守るわけで、休館になる前日にいくらかまとまって本を借りてきた。新書や小説の他に孫用絵本を探すうちに、ヨシタケシンスケの新しい本が目に留まった。見過ごしていたようで去年12月発刊とある。びっくりしたのはなんと「光村図書」とあること。教科書会社が…あのヨシタケを…


 『なんだろう なんだろう』ヨシタケシンスケ(光村図書)



 帯を見ると小さくこんなふうに記されている。「道徳教科書(小1~中3光村図書)のコラムが、かき下ろしを加えて一冊に!」そうかあ、光村もなかなかやるなあと思いつつ、ページをめくってみる。学校帰りの子どもが近所のお母さんに「どう?がっこう」などといろいろ訊かれ、別れてから考えを巡らす設定だ。


 「なんだろう なんだろう 『がっこう』って なんだろう」というパターンで項目立てされ、見開きの2ページの体裁でヨシタケワールドが展開していく。『たのしい』『うそ』と続き、学校について教室で会話しながら今度は『友だち』『しあわせ』『自分』が取り上げられる。こういうスタイルならコラムにふさわしい。


 エンディングも心地よかった。光村図書を検索してみたら、サイト内にヨシタケへのインタビューページがあって、結構なボリュームだった。内容も充実していた。「道徳ってなんだろう」と題したことも洒落ている。教科書の充実が、現場の実践に結びついてほしいが、根本は教師自身の問いの深さのような気がする。

 
 ふと今ならと、浮かんだのは「自粛要請のなか、桜の名所に足を運んでいる人たちの姿」。この様子を子どもたちに見せ、どう思うか問うてみる。どんな反応が上がるか。要請に応じない者の心中を探ることになるだろう。全体のことを考慮しないという批判は出ても、それを超える想像力がなければ、道徳にはならない。