すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

やさしさとたくましさの同居

2008年05月30日 | 読書
 「優劣をつけないための懸命な教育的配慮」は無駄な努力である。ここからは子どもが育つうえで有益なものは生まれない。
 『人は人によりて人になる』(角田明著 MOKU出版)

 長い間、頭にこびりついているかつての同僚の言葉がある。

 「人は生まれながらにして差別されている。学校は、その差別を狭めようとする場所か。それとも広げようとするのか」

 本当の差別とは何か、優劣とは何か、深く自分に問うてみなければならない。
 そして、肝心なことは、学校(における様々な活動)によって子ども一人ひとりが何をつかみ得るか。その活動の中で教師はどんな対応を見せるか、である。

 差別に負けない心、優劣を見きわめ現実に向かう力…育みたいのはいつもそれらだ。
 実践に優しさとたくましさを同居させているか、ということになる。

邂逅できる場

2008年05月28日 | 読書
 「俺は、何も法律のことば語っているんでねえ。人間が作った法律よりも先にある、自然の掟のことば語っているのしゃ」
  『邂逅の森』(熊谷達也 文春文庫)

 数年前の直木賞作品であるこの小説を、休日に都会へ向かう列車の中で読み入った。
 生身の人間の息遣いにあふれている作品だと感じた。「マタギ」の世界を通して、自然と対峙することの意味を考えさせてくれる。

 題が秀逸だと思った。
 「邂逅」できる場は、やはり自然がふさわしい。森であったり、海であったり、崖であったり…。
 仮にビルや電車という言葉に置き換えたとしても成り立つのだろうが、結局そこで想像されるストーリーであっても、作り物でないものとの邂逅となる。

 自然を対象とした趣味など持たない自分だが、目や足を向ければ自然だらけ、そこにも邂逅はあるはずだ。

同じ内容を別の表現で

2008年05月22日 | 読書
 同じ内容を別の表現で行う訓練をつんでおくと、言いづらい問題を指摘することに応用可能となる。

 佐藤 優『プレジデント』(2008.6.2号)

 「『ワルの殺し文句』辞典」というなんとも、あの佐藤優にふさわしい?タイトルであるが、実に楽しく読めた。
 人心掌握術という意味合いで書かれたものだろうが、単純なコミュニケーションで済まない仕事が拡がるなかでは、かなり意識的にそうした言い回しを覚えておく必要があるし、それを「訓練」して遣えるようにするという自覚も大切だ。

 自分にとっては抜け落ちていた視点だったと思う。自己表現の振り返りを迫られたような気がする。

道徳のチカラ

2008年05月20日 | 読書
 道徳授業によって、教室は、安心して自分の経験を語れる居心地のいい場所になっていく。それが、道徳のチカラである。友達の発言を聞いて「退屈だ」などと感じる子を育ててはならない
 佐藤幸司『道徳教育改革 第6号』(道徳教育改革集団)

 道徳授業を行う学級担任の目指すべき姿が書かれてある。
 子どもにとって「居心地のいい」教室にするためには、「安心して自分の経験を語れる」ことが必要だ。
 しかしそれは心がけだけではできない。経験を伝える術、聞き取る術を教え、さらにその上で語る者に注目するという姿勢、かかわり合っていこうとする気持ちを育てなくてはならない。

 そして、担任がそうした毎日の積み重ねをしているかどうかだけが、「退屈だなどと感じる」心に対して有効に働く。

規範意識を持ち出す人

2008年05月19日 | 読書
「子どもの規範意識低下」は、教育基本法がらみの嘘のなかでもっとも許せない大嘘です。この嘘を、子どもたち自身が信じてしまっているからです
池田香代子『黙っていられない』(池田香代子・鎌田實 マガジンハウス)

 規範意識の低下や上昇を何で測るかと問われれば、答に窮する。
 確かにアンケートなどによる調査もあるだろうが、返答する個々の意識が問題なのだ。
 犯罪率?それは結びつくことかもしれないが、そんなに極端でないことは予想できる。

 はっきり言えるのは、子どもの問題ではなく大人の問題だということである。

 範そのものが大きくゆれているという現状であるときに、それを言う人はおそらく二通り。
 本当にこの国と子どもたちの将来を憂う人、そして自論の何かのためにそれを利用する人。

線の可動範囲

2008年05月18日 | 読書
 統治教育とサービス教育のあいだに明確な線は引けないにせよ、原理的に異なる二つの教育が現在の制度のなかに組み込まれていることを忘れてはならない
『文明としての教育』(山崎正和著 新潮新書)

 バランスをとりながら義務教育を進めていくことは非常に困難なことだと思う。
 その地域や学校における個別の姿を作り出していく視点で進むしかないだろう。 「特殊解」という言葉を聞いたことがあるが、二つの教育についての認識を今いる場で刷りあわせていくことが必要だ。

 大きな流れを見据えることは大切だが、明確な線の可動範囲をそんなに大きくしてはいけない。

知識についての知識の段階

2008年05月14日 | 雑記帳
 参加しているMLで、管理者の方がいい情報を流してくれた。

 先月、鍵山秀三郎先生のご講演を伺う機会に恵まれたのですが、
その中で、知識の理解度には4段階有ると言われていました。
1.「分かった」
2.人に話をする
3.書いてみる
4.実践する

 シンプルでわかりやすい。
 この話も一つの知識とするならば、このブログに載せていること自体を2の段階ととらえてみる。
 そして、3はやはり自分の手で書き、そして考えることも必要になると思う。それは自分が今まで持っている知識との重ね合わせという意味も持つのではないか。
 それなしに4には進めない気がする。
 そして4を経て、また新しい知識を得るも良し、それがまた一つ高いレベルで繰りかえされるも良し…。

ねばり強い子は幻想か

2008年05月13日 | 読書
 『「捨てる力」がストレスに勝つ』(斎藤茂太著 集英社文庫)
の冒頭に、エジソンの6000回の失敗例を挙げてこんなことを書かれている。

 ねばり強さというのは、試練に「耐える力」から生まれるものではない。・・・(略)・・・・ねばり強さのヒケツは「気にしない力」「捨てる力」にある。

 確かに…。そういう見方もあるなあと考えていて、何気なく目に入った書棚の一冊の教育雑誌の背表紙。
 『児童心理 特集 あきっぽい子・ねばり強い子』(金子書房)
 なんと1999年の3月号である。

 ぺらぺらめくってみたら、巻頭論文が実に骨っぽい。
 のっけから特集に疑問を呈する内容だ。

 「あきっぽい子・ねばり強い子は幻想」

 和光大学教授(当時)の岸田秀という人が書いている。

 「あきっぽい・ねばり強い」は教師や親の価値判断だけではないかと斬り捨て、そんな「操作」はやめるべきと、ばっさりである。そこまで書かれてしまうと、公教育のあり方が全否定されているようであまりいい気持ちはしない。
 子どもの見方をもっと複眼的にということは賛成だが、好きなことだけ興味のあることだけに向かわせれば良しとする考え方は、まさに「幻想」ではないのか。

 自分に対しても、子どもに対しても、安易なラベリングは避けるべきではあるが、現実に立ち向かうには直截な言葉で括ってしまうことも必要だろう。

徒手空拳の強さ

2008年05月11日 | 読書
 徒手空拳の強さ
 『懐郷』(熊谷達也著 新潮文庫)

 昭和30年代を生きた男女が主人公になっている短編集である。
 奇抜なストーリーや大袈裟な事件などを扱っているわけではないが、妙に心に沁みる物語ばかりである。
 東北が舞台になっているものが多いせいもあるだろう。ノスタルジーというのではないが、その時代の背景についてはほんのわずかな体験めいたものもある。
 描かれる人物の心にすっと入っていけるような感覚で、その世界に浸ることができた。

 きっとその時代から、この国に住む人々はたくさんのものを抱えるようになった。
 そしてそれらの価値もあまり考えないまま、手離せない状態になっており、持つことだけに力を使って、自分自身の力を弱めていったのではないか。

 何も持たない強さ…言うには容易いが、手遅れであることは意識せねばならない。
 今あるものをただ捨てていったとしても、その手に力がどれだけ残っていることか。

自分が滲み出る言葉

2008年05月09日 | 読書
 また先生は、
「自分の字は一生書かなくていい。すぐれた手本に学び続けていく心がけが肝心だ」
ともおっしゃっていました。

 野口芳宏 『野口流 授業の作法』(学陽書房)

 野口先生の書道の師のあたる方の言葉である。
 そうした対象には生半可な気持ちではめぐり合えないだろうし、また一つのことを究めようとする者だけが語れる言葉のように思う。

 それゆえ実際の言葉とは裏腹に、おそらく仕事にも生き方にも色濃く「自分」が滲み出てくるのではないか、そんなふうに想像できる。