すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ちきゅうちゃん。」を読む

2022年09月25日 | 絵本
 いつか読み聞かせに取り上げたいと思っていた一冊。どんなタイミングがいいのか迷っていて、『海のおっちゃんになったぼく』が、「飼う」「世話をする」と結びつくので、その流れでどうかなと思いついた。どちらも動物を飼うわけではなく、いわば「実は人間が世話になっている存在」と向き合うのがテーマだ。


『ちきゅうちゃん。』(糸井重里・キューライス   小学館)




 ある日、お父さんが持ち帰った「ちきゅうちゃん」。どんなふうに飼うのか迷いがあり、よく見ると様々な発見があり、誰からも好かれる存在。宇宙の知識がある子には喩えだと分かるし、まだわからない子は一つの物語として見るのだろう。深く考えれば環境問題につながっていく。解釈は聞き手の年代によって違う。


 絵は漫画的で親しみやすい。地球を擬人化(擬動物化?)しているわけだから、月や他の天体も、同様に描かれる。幼い子には馴染みやすいイメージだ。地球とそこに住む者の関係を等しく考えていることが下地にある。「すきで いれば いいんじゃない?」が見開きで絵のないページで示されている。明らかにポイントだ。


 読み手として留意すべきことを考えてみる。「ぼく」の一人称だから、小学生(たぶん)の気持ちになって素直に読んでいく。そして、初めは珍しいだけだったものが、いつの間にか親しさを増し、また常に受け入れてくれる存在であることに気づく。情愛が深くなっていく…そんな調子を出そう。最後のオチはゆっくりと。

また一人、彼岸へと…

2022年09月23日 | 雑記帳
 どんなジャンルであっても「本物」には触れたいと思い始めたのは、五十歳近くなってからだった。正直、遅きに失した。行動力の無さを嘆いても仕方ない。例えば先日『日本の芸能』で放送された、第十八世中村勘三郎の舞台も見逃した一つだ。同齢である思い入れもあり、つくづく残念だ。そしてまた一人旅立ち…。


 宮沢章夫が亡くなった。齢は違うが同年生まれである。十数年前からその独特のエッセイに惹かれて興味を持った。いつか演出した演劇を観たいと思っていたが…。チャンスはあったはずだ。しかし、この十数年は芸能といえば落語などが中心になり、情報収集もしなかったし、コロナも…これは言い訳にならない。



 宮沢の本を読んだ感想メモ(特に印象深いのは「茫然とする技術」「牛への道」など)を読み直すと、なんだか自分でも面白い。そして密かに名づけている「素振り」という語は、宮沢の文章から引いていたのだと思い出した。素振りというのは、実はこのブログのことである。漫然とした文章になっている自覚はあるが、繰り返して振り続けることに意味を見い出している。



 この頃更新の頻度が落ちたのは、明らかに体力不足、集中力低下。何かこの先のめあてが明確な訳ではないが、甲子園大会を目指す球児のように(笑)連日振り続けていたら力はつくと漫然と続けたツケが出始めた。宮沢ならさしずめ「素振りのふり」と切り捨てるかもしれない。それでも振らないよりはましか。


 TVで勘三郎の「平成中村座」の様子を見て、大学に入った頃、初めて観たアングラ演劇の舞台が蘇る。客席後方から「つかまらせてください」と歩んでくる複数の出演者たち。その声は今も耳と目に残っている。あれは宮沢本人ではなかったが確かに同時代を生きた者たちだ。その手を離してから長い時間が経った。

遠く「荒野」は見えているか

2022年09月20日 | 読書
 著者の本は2冊読んでいた。常に真剣で真っ向勝負を挑む、そんなイメージがある。TV等で観た印象も混じっているのかもしれない。この文庫も書名や表紙写真が示すように、まさしくそんな一冊だ。「はじめに」の見出しとして書かれた下の一文が全てを表しているし、人生を賭けてそれを全うしている姿が熱い。

読書とは「何が書かれている」ではなく「自分がどう感じるか」だ


『読書という荒野』(見城徹 幻冬舎文庫)




 著者は「自己検証」「自己嫌悪」「自己否定」の三つがなければ人間は進歩しないという信念を持ち、それを洗いざらい語っている。「僕は今でも、毎日のように自己嫌悪を繰り返している」と書き、他から見ると取るに足らない些末なエピソードを記している文章に感じ入った。「本物」しか相手にしない生き方である。


 「表現とは結局自己救済なのだから、自己救済の必要がない中途半端に生きている人の元には優れた表現は生まれない。」…この一節は著者が編集者として目を付けた様々な作家や芸能人らにそっくり当てはまる。曰く「圧倒的に持つ者と、圧倒的に持たざる者」。誰しも表現できる世の中だからこそ、核心に見える。


 自分の読書遍歴を振り返るに最初は愉しみから始まり、仕事上で欲した時期が結構あり、今また愉悦的な要素が強くなっている。「困難は読書でしか突破できない」と書く著者に見えている「荒野」からは、遠くかけ離れているだろう。しかし、最終的に「自己対話」が可能なメディアは本しかない、という諦念もある。


 面白いエピソードを一つ。著者が以前勤めていた某出版社で団鬼六の作品を出していた時のことで、こんな記述があった。「しかし(略)当時の▢川▢彦専務から『こんな品がないものを出すのは許さない』と団さんの作品の文庫化中止を言い渡された。」…今、五輪を巡って嫌疑がかかる話題の主の「品」はどうかな。


彼岸まで、ほぼ晴れ日記

2022年09月19日 | 雑記帳
9月12日(月)
 休館日。館から借りてきた『いのちの停車場』を読み出す。映画化され本の帯に載っていると、俳優のイメージがついてしまうが少し違うような気がする。大相撲が始まり、毎日の楽しみが増える。取組後半は孫が帰ってくるので、なんとかTVを見続けるように工夫(笑)しなければいけない。今場所も波乱の予感

9月13日(火)
 金曜日に中学校のビブリオバトルを参観する予定で、紹介本一覧の連絡がある。今どきの選書だ。「ナミヤ雑貨店の奇蹟」は映画で観て粗筋は知っていたが、改めて読み出したら止まらない。久々に文集詩作品をブログアップした。ところが年度間違いをするミス。退勤時刻近くなってからあわてて修正。理髪店へ向かう。

9月14日(水)
 紹介文コンクール作品の一次審査を終了。審査会の段取りなどを確認する。「コスモスの日」ということで関連図書紹介をブログにアップ。学級担任の頃、ずいぶんと取り扱った今西祐行作の「一つの花」を思い出す。発問研究が懐かしい。今日は久々の自転車通勤。4時半になり、そのままこども園へ孫迎えをする。

9月15日(木)
 昔だったら「敬老の日」だったが、現在は「老人の日」と名づけられている。そのことを含めて、館内展示でコーナー紹介をブログアップする。いつもの年なら茸採りなどを始める時期だが、今秋は自重する。来週火曜日の読み聞かせの下読みを少しする。台風の予報が出始め、ずいぶん大型で進路にならぬといいが…。

9月16日(金)
 午前中にはいろいろと事務処理。午後から中学校へ。コロナ禍の影響もあり、リモート開催のビブリオバトル。ある意味新鮮だが、正直カメラに向かっての講評は少しきつい。図書館へ帰って、様子をブログアップ。帰宅して大相撲中継を見る。横綱が連敗しているし、大関陣は不甲斐なく、混戦を楽しむしかない。



9月17日(土)
 午前中、羽後中グラウンドでこども園の運動会。少し暑いが絶好の天気となった。上の孫が参加するので、遠まきに見学する。子どもは少なくなっているが、やはり活力がある。こういう状況で活動する職員の方々には頭が下がる思い。帰って「〇〇の秋」と称して図書館ブログアップ。午後からは、孫たちと夕食会。

9月18日(日)
 昨夜はアルコール摂取過多であり、だらりと過ごす一日となった。録画していたNHK「東北ココから」で仙台育英高の話題があり見入ってしまった。須江監督の部員に掛ける言葉が実にいい。優勝した当夜に「次の目標を早く見つけろ」と並の指導者には言えない。一人一人は今、どんな充実の秋を迎えているのか。

やや落ち着いて秋読書

2022年09月17日 | 読書
 小説を続けて読むことは少ないが、珍しく2冊続けて目を通した。沁みる言葉が多かった。


『いのちの停車場』(南杏子 幻冬舎)

 昨年映画化されている。吉永小百合のイメージに合うのかどうか微妙だが、まあ佳作ではある。診療所の面々が行きつけにするSTATIONというバーのバーテンダー柳瀬の存在がピリッとしている、若い頃モンゴルを放浪していた経歴があり、医師やスタッフたちにかける言葉が味わい深い。現実には少なくなったなあ。

 一日を終えて飲む場にふさわしく、安堵感と希望をしみ込ませるような一言。例えば「明日のことは、明日案じよ…」という諺がある。そして、最も印象深いのは、苦しくてどうしようもない時どうするかという主人公が訊いたとき、発せられたモンゴルの格言…「思って行けば実現する、ゆっくり行けば到着する




『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(東野圭吾 角川書店)

 映画化された作品を観ていた。ただ、中学校から依頼された集会でこの本について語る子がいるというので、ざっとでも目を通すかと気持ちで図書館に並んだものを借りページを開いた。最初は映画のシーンなど思い出しながら、やや雑に読んでいたのだが、いやいやさすがは東野圭吾と舌を巻く。読み手を引き込む。

 フィクションだから当然とはいえ、「奇蹟」と名づけられるエピソードの組み立ての素晴らしさ。映画には登場しない物語も、時代の空気を上手く織り込みつつ、人の成長・変化に寄り添っている。映画とは強弱のつけ方が異なるが、ラストシーンで読まれる白紙の手紙への回答は、若者に向けるメッセージが鮮やかだ。

地図は白紙では困って当然です。誰だって途方に暮れます。だけど見方を変えてみてください。白紙なのだから、どんな地図だって描けます。すべてがあなた次第なのです。

秋乱れて、読書の無用

2022年09月12日 | 読書
 知人のブログで紹介されていた『「賢い子」に育てる究極のコツ』(瀧靖之 交響社)という本を、孫育て(笑)のために勉強しようと思って読んだら、図鑑と音楽の効用について書かれてあった。環境作りは爺の仕事と思っているので、三か月ぶりぐらいに隣市の中古書店へ出かける。しかし、お目当ての図鑑類は少ない。


 それでも動物や工作系を4冊ほど買い求めた。それから、これは自分で読みたいと思い手を出したのが、『雲の大研究』(岩槻秀明 PHP研究所)。小学生用だろうが、よく雲を撮影する者として名前ぐらいは言えるようになりたい。「類」「種」「変種」「副変種」という4つの分類があることは、習った記憶がなく新鮮だ。


 いったい何種類の雲があるのかと見上げた土曜の空

 さて、残った時間で風呂場読書のための新書・文庫を漁りにいって、3冊購入する。岩波ジュニア新書のコーナーで『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』(豊島ミホ)を見つける。小説家をやめライターになった近隣出身のこの著者は今、どんな文章を書いているのか、少し興味がわいて手に取った。


 「イタイ」一冊だった。暗黒の高校生活そして大学からの作家生活、帰郷、再上京と自らの体験を赤裸々に語るが、独特の感受性はある意味ツッコミどころ満載だ。しかし文学は過剰と欠落から生まれる。書名に惹かれ開いた中高生はどう受け止める。客観視できる俯瞰性をどのレベルで捉えられるかが問われそうだ。


 『無用のかがやき』(実業之日本社文庫)は、「谷郁雄・リリーフランキー」という名がある。「言葉」が谷で、「写真」がリリーと記されていた。写真はほとんどがくすんだ色彩の風景。目を凝らしても見通せない社会の描写か。しかし粗いドットの活字を使った「詩」は単なる厭世観とは違うしたたかさも感じさせる。

 駐車場で「踏みつぶされたまま」の飲料アルミ缶を、こう視ている。

 無用の物のみが持つ
 気楽さで
 有用を批判し
 その輝きで
 他のすべてを圧倒し続ける


名月や繰り言嗤ひ夜は更ける

2022年09月10日 | 雑記帳
 元首相の「国葬」についての話題が喧しい。様々な観点があるものだなと驚くほどだ。個人の死が個人の死に留まらず、それぞれの立場から「利用」されている現実を、故人を心から慕ってきた方々ならどう受け止めるのか。死を悼むとはどういう心情か。胸中に不純な要素が感じられたら、右も左も皆、同レベルだ。


 16億を「この程度」と言い放った某院長の発言を、小気味いいととらえる者もいた。庶民は「そんな金があったら」とつい考える。結局、弔意の示し方も金銭で測られるか。いや今の対立は「内心の自由」への危機だな。それにしても、この金銭感覚は、故人が明らかに浪費した政策等も「たかが」と思うのだろうなあ。



 NHK連続ドラマ「ちむどんどん」の酷さについては6月に書いたことがある。それがネット上で「反省会」と称して、批判などが展開され、逆に視聴率が上がっているということもあったりして、なかなか世の中はわからないものだ。しかし、明らかに「便乗」のようで、しかも「ピント外れ」に思えることがある。


 某政治家が口を出したことは、個別の表現手法(セリフ、道具など)を狭める観点だ。現実社会の極めて常識的な慣習を持ち出して、創作における風刺、諧謔、ユーモアなどの自由を侵害していないか。どういう方か知らないが政治家の公的な場での発言は庶民の悪態とは違う。ウケようなんていう考えなら、最悪だ。

その勇気も力も覚悟も…

2022年09月09日 | 読書
 九月に入ってから読み始めた単行本二つ。手練れの作家ではあるが、正直どちらも少し頼りなさを感じた著書だなあ。


『夏の騎士』(百田尚樹 新潮社)

 本の帯には、百田版「スタンド・バイ・ミー」というフレーズが…。題名からしてそんなイメージだ。まあ「稀代のストーリーテラー」という評価は確かにあろうし、読ませ方は上手だ。ただし、百田小説にしては今回いささかダイナミズムに欠けるように思えた。著者はエピローグに、いわばこの話の核をこう記す。

「勇気は決して天から舞い降りてきたものではない。幸運に恵まれて道端で拾ったものでもない。(略)人はみな勇気の種を持っている。それを大きな木に育てるのは、その人自身だ。そして勇気こそ、人生で最も大切なもののひとつだ。」

 確かにその通り…ただこの著者がこう語れば、なんとなくその「勇気」の使い方に方向性が定められる気もしてくる。「何を語るか」が肝心だけれど「誰が語るか」によって左右されるのが、今の日本だ。それは「丁寧に説明」と言ったきりで自分たちの思う通りに物事を進めてきた、ここ10年の政権の責任が大きい。




『もう一度歩き出すために』(伊集院静 講談社)

 週刊誌連載コラムをまとめた「大人の流儀」シリーズ。第11巻は著者が病から復帰した後に長年連れ添った愛犬を亡くし、いわばペットロスのような心境でコロナ禍の社会を語っている。お気に入り(今回はゴルフの松山選手など)について書く文より、やはり家族のエピソードの方が著者らしい味わいが出ているなあ。

「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだとおもつていなさい。倒れれば、打ちのめされたら、起きればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度、歩き出す力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」

 おそらく「書名」が選ばれた訳になる。この父の一言の強さは生半可には培われない。人が経験できることは限られているし、それぞれの生涯も大きく違う。ただ、自ら選び進んだ道で、愚直に物事に対する精神こそが「力と覚悟」をつくる糧であるのは確かだろう。この国の道が薄暗くなっている今こそ、意識したい。

長月始まり日記

2022年09月08日 | 雑記帳
9月1日(木)
 昨日は少し早めに退勤して4回目の予防接種。初モデルナであるが、注射した左腕が痛むだけで大丈夫のようだ。勤務日ではないので安静にしながら、『母の待つ里』を読了する。夕食に「生さんま」(北海道水揚げ)が登場したがこれが本当にスマートだ。秋の味覚とまでは言えない。ともあれ長月スタート、無事であれ。



9月2日(金)
 午前中は小学校から応募のあった紹介文が揃ったので、仕分け作業に取り掛かる。この週末で終わるイベントPRをブログにアップする。午後からは役場に出向いて教育行政評価の内部会議。3時間以上かかった。評価とはつくづく…。帰館してからコンクール審査会までの段取りを整え、退勤する。久々の「もんじゃ焼」。


9月3日(土)
 今日明日は何もないので、比較的ゆっくりできる週末だ。新着本案内の三回目をブログアップしてから、依頼されているカード印刷。午後からは隣市の文化会館で図書館講座「楽しい古典落語の世界」を楽しむ。二人いたが地元出身者の方が上手だった。平成元年生まれだから我が娘と同齢。頑張ってほしい世代だ。



9月4日(日)
 昨夜放送された「消滅集落の家族」を視聴する。以前にも観たが、新しく編集し直されている。理想と現実の擦り合わせということを考えさせられる。明日から読み聞かせが続くので、声出しの練習をする。初めての絵本もあるしリベンジ(笑)本もあるし、とにかく実施できればよし。夕餉のすき焼きの締めはうどん。



9月5日(月)
 午前、隣市へ買い物。午後から小学校での読み聞かせ。4年生を相手に3冊。初読みは『ちきゅうちゃん。』という糸井重里作品。「地球」がペットになる話だがなかなかポップで面白い。『海のおっちゃんになったぼく』は難しいと感じた子もいるかもしれない。もう一度語ってみたい。借りていた『夏の騎士』読了する。



9月6日(火)
 図書館の玄関花をコスモスに換えて、新コーナーについてもブログアップする。午前にこども園の読み聞かせ。まずは実施できることがいい。大型絵本『へんしんトンネル』や、PPT作成した『こどもかいぎ』等々、楽しんでくれたようだ。午後は今後の選書などをしつつ事務仕事。台風の影響か、強い風が吹いている。



9月7日(水)
 今日もこども園での読み聞かせ。とにかくやれることが嬉しい。紹介文コンクール中学生作品が届き、一次審査で見始める。筆圧の弱い子が目立ち、薄い文字が眼に厳しい。4時過ぎ問い合わせが一件、かの岡本太郎が盆踊りを観に来ているという文献がないかとのこと。10分ほどで見つける。やや充実感があり終了。

「与太郎」極私的解釈

2022年09月04日 | 雑記帳
 土曜日午後、隣市図書館主催の「楽しい古典落語の世界」という講座に参加した。実際は講座ではなく高座で、地元出身の二つ目落語家にもう一人ゲストがきて、計四席の噺を聴いた。今年になって落語会を二度キャンセルせざるを得なかったので久々に楽しかった。出来具合は二つ目相応…と生意気にも評価しよう。



 さて「講座」なので、最後に質疑応答があった。落語家相手に手が挙がるかなあと思っていたら、即元気よく訊いた方がいた。その質問が面白い。「与太郎ってどういう人ですか?」。これには壇上の噺家さんもやや戸惑いを見せたようだ。長屋噺などによく登場する与太郎…単純に言えば「馬鹿者」を指しているわけだ。

 
 噺家も「立川談志は独特の解釈もしているが、ふつうはバカということで…」と説明した。聞いていて「与太郎」と言えば…我が町内にある「S田家」が思い浮かんだ。かつて県内一の高額納税者だったその家は「与之助」で通っているが「与太郎」という当主もいた。意味は違えど、俄かにその語が気になってきた。


 電子辞書には「よたろう【与太郎】 ①知恵の足りない者、おろか者…②うそつき、でたらめを言う者…」と三つともほぼ同様だ。しかしなぜ「与」なのか。これは「あたえる」という意味の他に「くみする」があるから、そちらのイメージか。そうすれば、政権「与党」などとはまさしく「与して太くする」党だろう。


 と勝手に妄想したが、実は「よた」が「でたらめ」を意味していて、「よたる」という動詞があり「よた者」「よた郎」となる。辞書を調べると「新明解国語」に唯一「与太は借字」とある。何故その字か。落語愛好者として極私的に解釈すれば「周囲にでたらめ、いいかげんさを与え、生を太くする」と見立てたい。