すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「狂気」を失わないことこそ

2019年10月31日 | 雑記帳
 購読している新潮社『波』と筑摩書房『ちくま』の両方に連載を持っているのが、英国在住のブレイディみかこだ。『ちくま』の「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は単行本にもなった。自分の息子を巡るあれこれ。『波』の「ワイルドサイドをほっつき歩け」は「おっさん」編だ。これが最終回だった。


 今月号はこの二つが妙にリンクしたように思えた。もちろん同じ地域のことだから当然であるのだが、別れの季節になり改めて焦点化されたと言ってもいいのかもしれない。「ぼくはイエロー…」の一節に「『自分みたいになるな』と言う大人たちが住む街を、息子はどんな目で眺めながら育ってきたのだろう。」とある。


 隣家の引っ越し場面が描かれる。生活のためにその住宅地を去らざるを得なくなった事情とそこに新しく入ってくる家族を眺めながら、著者はこう書く。「この街はきっと『自分たちみたいになるな』なんて言わない大人が住む街になるのだ」。その締め括り方は希望にあふれたものではなく、日常への冷徹な眼差しだ。


 一方の「ワイルドサイドを…」で、はベトナムの女の子と恋に落ちて行きベトナム行きを決めた60代の友人を送るパーティの様子が語られる。その場で陽気に「半ケツ出して踊っているおっさんたちの姿」を見つつ、若い頃と比べて人間がいかに変化し、そして長い間変わり続ける生き物かという凄さに気づくのだ。


 「まだまだ褒めたたえられる生き方なんてしなそうなやつらだが」と言いつつ、そのおっさんたちの姿を祝福する。「自分みたいになるな」が指す格差や貧困の問題を直視しながら、突き破るバイタリティこそ肝心だと悟る。それはある面では「狂気」と名づけられるか。それが閉塞した世の中を「撃ち抜く凶器」になる。

ピンポイントなえっ!

2019年10月30日 | 雑記帳
 10月は仕事の面では特に急ぐものがなく、あれこれ準備を進めることができた。私的にもどこかへ観光したわけではなかったが、なんだか久しぶりに秋らしいひと月だった。その都度、書き留めておきたいことは綴ったつもりだ。しかし改めて振り返ってみたら、はっと驚くようなピンポイントな瞬間が何度かあった。


 その一つは十日ぐらい前、夢の話である。中身や登場した人については思い出せないが、「ハルオ」という声があまり明確に聞こえたので、えっと目が覚めた。ふだん夢を見ても「声」の印象が強く残ったことはないのに、何故だろう。実生活で下の名前で声をかけられなくなったからか。それとも異界から誰か呼んだか。


 孫とじゃれあう時間は楽しい。女の子しかいない家庭だったので、やはり「男」は違うなあと思わせられることがしばしばである。遊ぶ乗り物系もそうだし、棒切れを持った時のふるまいなどもそうである。先日、いつもやるように寝転んで組み合っていたら、突然、胸のあたりに噛みつかれた。その痕が今もくっきり。


 TVで録画していた映画を見て、えっと思ったこと。『億男』という佐藤健主演作品で、相手役となる高橋一生の演技を見て、これほど吃音の役がしっくりくる俳優を初めて見た。これは役者の持つ個性というより、放たれる「気」が相応しい。正しさを心から語ろうとする表現は、背筋を伸ばし立ち止まる姿に重なる。


 今年もハロウィンの季節が騒がしい。と言いつつちゃっかり道の駅販売では、便乗商法(笑)の宣伝をした。FBにも書いたが「ハロウィン⇒ハルオウィン⇒晴夫win」と読み替えて勝手にいい日にしようと決めた。ところがそもそもHallowが何か調べると「聖人」ではありませんか。えっというよりげぇっですよ。

失敗学の目指す心構え

2019年10月28日 | 雑記帳
 「『失敗』を直視せよ」と題されたそのインタビューは、福島第一原発事故の調査・検証委員会委員長であった畑村氏が、率直に「結果として検証をあきらめざるを得なかった」と述べる、いわば痛恨の告白である。「失敗」がいくらわかっても、それを生かすという流れの中で、結局通用しないという失敗をしたわけだ。


 事故によって「安全神話」は崩れ去ったように見えるが、氏は今もって「特有の『気』に包まれている」と語る。そしてその原因を、政策を進めた政府や業界のおかしさより前に「自分の目で見て自分でちゃんと考える国民がいなかったのが最大の要因」と言い切る。どこから手をつけるべきか途方にくれる指摘である。


 「日本社会は、失敗に向き合うことが苦手」という著者の考えは、工学的なことに限らない。事故解明を技術的な観点から行って改善されたとしても、取り扱う人間の側が徐々に「合理化」という考えのもとに、事故防止に対する認識を甘くし、例えば「裏マニュアル」的なことに染まっていく。様々な件に結びつく。


 自然災害に対する備え等は知識が少なく、思い浮かばない。しかし政治家に関する汚職や教育現場のいじめ問題など、かなり当てはまるように感じる。真摯に問題に向き合い、対策を立てる、法制化するあたりまでは行われるのだが、それらを正しく運用する流れがいつの場合も時が経ち場が離れ弱まる印象がする。


 そういう精神構造が「福島の事故も形だけ学んだことにして、忘れようとしている」という日本社会を作り上げている。その安穏さは、やはり否定しなければならない。「失敗が起きても結果が我慢できる程度に収まるように準備する」…災害、事故、事件頻発の今こそ、本当に積極的心構えをつくらなければならない。

「わかる」ための基礎事項

2019年10月27日 | 読書
 教師の常套句ランキングを作れば、いまだに「わかりましたか」は上位なのかもしれない。子どもがわかったかどうかを、どうやったら「わかる」か。常套句を禁句としている教師ならいろいろ試みているだろう。ペーパーテストもその一つだ。でもそれはごくわずかな部分に過ぎない。その点は「わかる」者は多い。


2019読了97
『畑村式「わかる」技術』(畑村洋太郎  講談社現代新書)



 第一章「『わかる』とはどういうことか」の初めに、大切なことが書かれている。「すべては、要素・構造・機能で表現できる」。言われてみればその通りで、難しくない事柄だが、一種新鮮な思いがした。何がわかるか、わからないかも、この三つに当てはめればすっきりする。目の前のどんな事象も分けることは可能だ。


 要素つまり一つ一つ、部分がわかる。構成つまり作りや組み立てがわかる。そして機能、これは働き、役割がわかる。これらがわかるレベルとも言えるし、わかる条件ともいえよう。訪問先で、りんごが皿に盛られて供された状況の意味がわかること、政治家が汚職で大臣辞任という報道をわかることも当てはまる。

 
 子どもの問題行動に関しても何をわかっているのか、明確にすればいい。可視化できる事実か、過去や周囲とのつながりか、その結果に生ずることや予想される展開か。当然本人の思いや考えも大事な要素だが、それだけでは判断できないということだ。学習に関する問題はそれ以上にわかりやすいのかもしれない。


 著者はこうも書く。人は「自分がすでに頭の中に持っている要素や構造を使って新しくテンプレートをつくることで理解しようとする」。様々に身につけた型やパターンを更新させることによって、理解が広がる。簡単に従来のテンプレートに当てはめてはいけない、つくり出す重要性を『失敗学』の権威は強調する。


 こんな基礎事項だけで十分に参考になるが、わかる訓練や積極的活用も役に立つ。特にわかるための基本として「現地・現物・現人」の現場主義を挙げていることに感銘した。その畑村氏が先週新聞のインタビューに登場し、原発事故の無罪判決に関して検証委員長としての失敗を悔いていた。興味深い。明日書きたい。

昭和人の発想では届かないか

2019年10月26日 | 雑記帳
 職場で一つのパンフレットを見た。「The LAZY PERSONS guide to SAVING the WORLD」邦題として「持続可能な社会のために ナマケモノにもできる アクション・ガイド」とある。SDGs (持続可能な開発目標)の語は目にしていたが、具体的項目についての知識は半端なままだったので、この機会に読んでみる。


 目標は「1 貧困をなくそう」に始まり、「17 パートナーシップで目標を達成しよう」まである。そのほか、飢餓、水問題、不平等、ジェンダー、エネルギー、気候変動、環境問題等々、毎日の新聞に何かしら必ず記事として登場する、私たち地球人の課題一覧と呼んでもいいだろう。むろん、それもまだ一部である。



 このパンフの面白いのは「ナマケモノ・ガイド」と名付けたように、レベルを四段階にして、実践紹介したことだ。一番低いのは「ソファに寝たままできること」。そして「家」「家の外」「職場」と広がっていく。ナマケモノだから場所がどこでも動きたがらない習性を持つ。だから、ごく単純な動作から意味づけをする。


 レベル1は電気や照明などの節約に交じって特徴的なことがある。「オンラインの活用」である。請求書が来たら銀行窓口ではなくネットで済まし、紙を節約し、森林破壊につながらないようにするという考え方だ。そう単純ではない気がするが、つまりはエネルギー消費量という面ではかなり差が出てくるのだろう。


 揚げ足取りではないが、ナマケモノが銀行へ出かけたらいい面はないかと考える。人との出会い、交流…は増える。確かにエネルギー消費に影響するが、その流れにこそ人間の活動があり、「生」の実感の一つの糧となる。ナマケモノがソファから立ち上がらないと、持続可能な世界を築く意味が少し薄れはしまいか。

後押ししてみたいこと

2019年10月25日 | 読書
 先日、身内で孫らの話題をしていると、小さい時の自分が意に添わないと「人に噛みついた」ということを亡き母が生前話していたと聞き、少し驚いた。その狂暴性(笑)は飼い馴らされ、順応したと言えるか。しかしいくつになっても注意欠如は治らない。多動性・衝動性は強くはないが、不安要素は結構あるようだ。


2019読了96
『発達障害は最強の武器である』(成毛眞 SB新書)


 著者は同齢なので少し関心を持っている。書名でなんとなく中味は想像できたし、実際予想に近かった。個性、多様性が重要であることは、今の世の中誰しもが口にする。けれど現実の社会生活や職業においては、まだまだその理解に沿ったことが実現しているかと言えば、道半ばだ。切り開くためには具体性が必要だ。


 長く教育する側にいて、どうしても身についてしまった考えをなかなか捨てきれない。ただ管理という面の呪縛が弱まると、ようやく見えてくることがある。それは一般的に喧伝されていることもあれば、依然として理解されていないこともある。この新書で記された内容で、自分に見えつつあるのは次の点と言える。


 「努力する能力より好きになる能力がはるかに大事だ」

 「とにかく直感的にパッと決めたら、迷わず行動に移してしまう。何事も『衝動性』を重要視する」


 計画性・継続性・協調性を大切にする社会で、こうした考え方が尊重されるためには、ふさわしい環境や諸条件が必要かもしれない。むろん単純に全体が舵を切ることなどできないし、それがふさわしい姿とも思えない。しかしそういう特性を持つ者がもっと認められていいし、抑え込む勢力の思想に注意を払いたい。


 この本で強調されるのは、発達障害を持つ人の適性に合った学習や仕事を見つけることである。そしてその一つにリーダー、トップランナー的な役割がある。それは「〇〇が欲しい、したい」と端的に言え、実行できる要素を持つからだ。今この国に足りないこと、元気のなさを想えば、積極的に後押ししてみたいことだ。

楽園とは場所を指さない。

2019年10月24日 | 雑記帳
 映画『楽園』を観た。宣伝の「吉田修一最高傑作『犯罪小説集』」というキャッチフレーズはどうかと思うけれど、4月に読了したときから封切りを楽しみに待っていた。映画館で観ることが本当にまれになり、今思い起こしたら『この世界の片隅に』以来、つまり一年半ぶりぐらいになる。集中して観られてよかった。


 ネタバレは本意ではないので、ごく個人的な興味だけを書くと、配役はぴったりだった。有名俳優もそれほど名の知られていない女優たちも、いいハマり方をしていた。エンドロールで驚かされたのは、主題歌を出演していない上白石萌音が歌っていたこと。関係ないがNHK「怪談牡丹灯籠」が面白かったので印象深い。


 小説を読んだ時、映画に使ってほしい台詞を勝手に書いていた。ところが、それらは映画化されない作品の方だった。ガクッ(笑)。印象的なのはごく平凡な言葉で「どこへ行っても同じ」。似た台詞を違う人物が繰り返すのは意図的だと感じた。つまり「楽園」というテーマに対応する考えだ。楽園とは場所を指さない。


 この映画のモデルの一つは、おそらく2005年栃木県小1女児殺害事件だ。裁判は最高裁へ上告中という。いずれ被害者家族の怒りや嘆きの行方は、いつの場合もやるせない。その「気」の拡散を周囲は受けとめる必要があるし、それはフィクション化された作品を観る私たちにも向けられているような気もした。


 もう一つのエピソードも、数年前の山口県の連続放火事件がモデルとされている。これは限界集落での出来事で、ある意味典型的というか、似たような筋の話はごろごろ転がっているのだ。人間性が捻じ曲げられていく狂気とはいったいどこに、誰にあるのか、考えざるを得ない。佐藤浩市はここでも魅せてくれる。

限界の実感が目的を明確にする

2019年10月23日 | 読書
 兵庫県明石市市長の「暴言問題」が取り沙汰されたのは今年だったか。
 昨年か一昨年と思うほどに、様々な事件などが出ては消えていっているのだなあとしみじみ考える。

 あの一件は、それ以前にもあったが、人を陥れるために情報が切り取られ拡散される恐ろしさに気づかされる展開だった。
 ただ、同時に「人に対する信頼の宿り方」もその後の選挙で見せつけてくれた痛快な出来事とも言える。


 『通販生活』誌の連載「人生の失敗」というインタビューに取り上げられて、その泉房穂市長がいろいろ応えているが、興味深かった。


Vol.180
 「人は他人の痛みが分かると言うけど、当事者の本当の気持ちなど分かりようもない。だから、私がよかれと思うからといって、当事者にとってよいことなのかどうかわからない。そうしたある意味『限界』を実感する体験を小学校6年生のときにできた。」


 市長の行動の原点とも言うべき、家族(弟の障害)に関わるエピソードについて語った折の一言である。

 読んでいくと、彼を奮い立たせているのは、やはり「怒り」なのだと思う。
 理不尽な目に遭い、世の中の現実と表裏を把握するなかで、強い決意を持って社会の改革へ歩みを進める。
 そのエネルギーの大きさは、幼い頃から培われた経験と精神力によると言っていいだろう。

 インタビュワーは、市長として「原体験に基づく冷徹な現実感を持ち」と表現していた。


 怒りや憤りはある意味ではリーダーとしての資質ともいえる。
 しかし今、上に立つ者は今「怒り」をうまくコントロールできないと、足元を掬われる。泉市長はその点を自覚し、トレーニングも積んでいると言う。

 何のためという目的が明確である人は、実現のための具体的な形がイメージされている。

 そしてきっと、目的の明確さは、限界を実感する体験と対応している。

ビブリオ風に書いてみました

2019年10月22日 | 読書
 ビブリオバトルのことを書きながら、改めて本の紹介は難しいと思った。このblogの「読書」で挙げているのは、形は決めつつ単に感想メモと割り切っているから、だらだら綴っていると今さらながら思う。本気を出して(笑)ビブリオ風に書くとすれば、こんな感じかと読了した二冊で試す。出だしの1分程度ということで…。


2019読了94
『アーモンド入りチョコレートのワルツ』(森絵都 角川文庫)


「〇〇のように生きていきなさい」…あなたがもし友達にそんな声かけをするとしたら、〇〇にはどんな言葉を入れますか?有名な人や憧れるスターの名前?それとも好きな花とか動物とか?この小説の主人公が、あるおじさんにささやかれた一言は、「アーモンド入りチョコレートのように生きなさい」だったのです。

「サティのおじさん」と呼ばれるそのフランス人は、通っているピアノ教室にある日突然姿を現わし、主人公と友達の君絵のレッスンに刺激的な時間を与えてくれます。週に一度のワルツ・タイム。繰り返される日常に巡ってくる特別なひとときは、何をもたらしたのでしょうか。この小説は読者に「不変」とは何かを…



2019読了95
『読んでいない絵本』(山田太一 小学館文庫)


 これは絵本ではありません。題名につけられた「絵本」がどんなものか、小説に登場する人物にもわかっていません。もちろんそれは「読んでいない」からです。ただ、そう書いているということはきっと「読みたい」のだと思いませんか。しかし、この小説は「ひるんで私はまだ読んでいない」と締め括られるのです。

 主人公の「私」が「ひるむ」ほどの出来事が話にあると予想できるでしょう。ライターである「私」は、昔間借りした家が今はどうなっているか、気まぐれにその場所を訪ねます。当時隣家に起こったある出来事を回想しながら、32年ぶりに訪れたその土地には、新しくマンションが建てられていました。そこに掲げられた名前はなんと…。



 ちょっと堅過ぎるかなあ。パフォーマンスが入れば、また違ってくるとちょっと楽しい想像をしてみる。

ビブリオバトル参観記

2019年10月21日 | 雑記帳
 隣市で開かれた中高生による「ビブリオバトル」の大会を観に行った。名前は聞いていたがその手法について意識したのは、今年になってからだ。だから生で見たのは初めてで、興味深かった。県の読書推進施策の一つとして取り上げられていて関連図書には目を通したが、やはり実際を見ると様々な考えがちらつく。


 ビブリオバトルとはもともと「書評合戦」を指す。生徒を対象にする場合は読書紹介ゲームと言っていいのかもしれない。最終的に「どの本が読みたくなったか」という基準で評価しあう。「5分間」という発表時間が決められていて、やはりここが一つのポイントだと思う。つまり5分間の表現を競うことが主である。


 マニュアル本に「なぜ5分なのか」という問いを立て、次のような説明がある。「だれにもじゃまされずに、自分の好きな本のことについて、好きなように話していい。本との出会いを語れば、発表者自身のことを語ることになる」。なるほどと納得する。しかし、準備のステップは必須である。指導?も必要になるだろう。


 「読んで面白いと思った本」を紹介する場合、「面白いと思った箇所」や「そう思った自分との関わり」が必要になる。それをどんな形にして提示することが効果的か考え、言語化する。結構骨の折れることだ。文字表現なら感想文、紹介文であるが、音声表現なのである。二つのハードルの高さの違いは決定的である。


好きなように話していい」という本質通りの楽観的な取組みでは、今のところ無理だなと感じた。だから結局は、読んだ本についての弁論大会風になってしまう。発表後に2分のディスカッションが行われるが、盛り上がりに欠ける。この「遊び」のルールを機能させるには、きっと多面的な積み上げが求められる。