購読している新潮社『波』と筑摩書房『ちくま』の両方に連載を持っているのが、英国在住のブレイディみかこだ。『ちくま』の「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は単行本にもなった。自分の息子を巡るあれこれ。『波』の「ワイルドサイドをほっつき歩け」は「おっさん」編だ。これが最終回だった。
今月号はこの二つが妙にリンクしたように思えた。もちろん同じ地域のことだから当然であるのだが、別れの季節になり改めて焦点化されたと言ってもいいのかもしれない。「ぼくはイエロー…」の一節に「『自分みたいになるな』と言う大人たちが住む街を、息子はどんな目で眺めながら育ってきたのだろう。」とある。
隣家の引っ越し場面が描かれる。生活のためにその住宅地を去らざるを得なくなった事情とそこに新しく入ってくる家族を眺めながら、著者はこう書く。「この街はきっと『自分たちみたいになるな』なんて言わない大人が住む街になるのだ」。その締め括り方は希望にあふれたものではなく、日常への冷徹な眼差しだ。
一方の「ワイルドサイドを…」で、はベトナムの女の子と恋に落ちて行きベトナム行きを決めた60代の友人を送るパーティの様子が語られる。その場で陽気に「半ケツ出して踊っているおっさんたちの姿」を見つつ、若い頃と比べて人間がいかに変化し、そして長い間変わり続ける生き物かという凄さに気づくのだ。
「まだまだ褒めたたえられる生き方なんてしなそうなやつらだが」と言いつつ、そのおっさんたちの姿を祝福する。「自分みたいになるな」が指す格差や貧困の問題を直視しながら、突き破るバイタリティこそ肝心だと悟る。それはある面では「狂気」と名づけられるか。それが閉塞した世の中を「撃ち抜く凶器」になる。
今月号はこの二つが妙にリンクしたように思えた。もちろん同じ地域のことだから当然であるのだが、別れの季節になり改めて焦点化されたと言ってもいいのかもしれない。「ぼくはイエロー…」の一節に「『自分みたいになるな』と言う大人たちが住む街を、息子はどんな目で眺めながら育ってきたのだろう。」とある。
隣家の引っ越し場面が描かれる。生活のためにその住宅地を去らざるを得なくなった事情とそこに新しく入ってくる家族を眺めながら、著者はこう書く。「この街はきっと『自分たちみたいになるな』なんて言わない大人が住む街になるのだ」。その締め括り方は希望にあふれたものではなく、日常への冷徹な眼差しだ。
一方の「ワイルドサイドを…」で、はベトナムの女の子と恋に落ちて行きベトナム行きを決めた60代の友人を送るパーティの様子が語られる。その場で陽気に「半ケツ出して踊っているおっさんたちの姿」を見つつ、若い頃と比べて人間がいかに変化し、そして長い間変わり続ける生き物かという凄さに気づくのだ。
「まだまだ褒めたたえられる生き方なんてしなそうなやつらだが」と言いつつ、そのおっさんたちの姿を祝福する。「自分みたいになるな」が指す格差や貧困の問題を直視しながら、突き破るバイタリティこそ肝心だと悟る。それはある面では「狂気」と名づけられるか。それが閉塞した世の中を「撃ち抜く凶器」になる。