すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

飛ばせてくれたのは千羽鶴?

2012年07月31日 | 雑記帳
 地元の中学校野球部が全県大会決勝に進み,見事に優勝を飾った。
 テレビでその決勝戦を見ていたときに,ダッグアウトに千羽鶴が飾っていることに気づいた。

 なんで千羽鶴かと思ったが,そういえば高校野球でもそんなことがあったことを思い出した。
 応援,激励のために各チームで作られた千羽鶴の束が,敗戦チームから勝者へ手渡されて,その思いを引き継いでいくといったようなエピソードだったと思う。

 いかにも日本的な習慣といってよいことだろう。そのもの自体は「教育としての野球競技」のイメージアップにつながるのかもしれない。
 それにしても最終的な処理は困るだろうなあなどと思ってしまうのは私だけだろうか。

 そんなことをつらつら考えながら,連日のオリンピック報道を見ていると,五輪に参加した選手,メダリストとして賞賛される選手の陰には,当然ながら努力しながらも参加できない選手やそのスポーツを続け,支えている数多くの競技者やスタッフがいることを改めて思う。

 競技後のコメントで「感謝」を口にする選手は多い。
 最終的な「枠」に自分が入った過程は,いわばだんだんと入口が狭くなり人数制限されていった物語と言っていい。だから,その締めくくりには相応しい言葉だ。


 さて,そこには知らず知らずのうちに,たくさんの応援,そして敗者の思いなどを抱えて重くなってしまう現実があっただろう。それを逆にパワーとして受けとめた競技者も少なくはないと思うが,どれほどいるのだろうか。
 競技者などとは縁遠い暮らしをしてきたので,想像つかない面が大きい。

 ただ,結局のところ「運」に左右される勝敗というのは,レベルが上がれば上がるほど限りなく少なくなるのだと思う。
 「運を引き寄せた」と形容されるのは,やはり磨きこまれた技術と精神力であるはずだ。
 世界王者であった水泳選手も体操選手もそのことは重々承知だろう。
 どこで物語が終わるのか,それを決めるのはあくまで自分自身だ。

 千羽鶴がいくら折られたとしても,それらが直接勝利を運んでくれるものではないし,物語を作ったりしない。

 となんだか,ローカルな球場からロンドンまで思いが飛んだ。
 飛ばせてくれたのは千羽鶴?

「できる教師」シリーズ~ステキさを真似る

2012年07月30日 | 読書
 『できる教師の ステキな言葉』(学陽書房 内田聡氏との共著)

 ここで項目づけられている「ステキな言葉」を二種類に分けてみよう。

 「教師のステキな言葉」と「ステキな教師の言葉」である。

 前者を効力が感じられ汎用性のある言葉とし,後者を個々の場面において教師の人間性から発せられた言葉と考えてみる。

 書かれた内容としては,圧倒的に後者が多いと思う。
 前者は「三つ目は…ヒミツ」など数える程度だ。

 しかしだからと言って「使えない」ということを言いたいのではない。

 野口芳宏先生がよく口になされる「言語人格」に支えられている後者の言葉である。
 それらを口にする,使ってみることによって,そのステキさは一歩でも半歩でも自分に近づけることができるのではないか。
 子どもをよく見つめ,温かさで包み込みながら,その成長をじわりじわりと後押ししていく仕事に必要な資質そのものといってもよい。

 そう考えると,下の序章冒頭の一文は,わかりすぎるほどわかっていることなのだが,その重みは格別である。

 「言葉」は「言葉」以外のものに支えられて,初めて十分に力を発揮します。

 序章で挙げられた10のポイントを,自分なりに選択しようと努めることはかなり有効だと思った。

「できる教師」シリーズを読む①

2012年07月29日 | 読書
 来月の研修会でお招きする山中先生の著書を手に取ってみた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/aea4fc0aa168d00df36fade0ab4102db


 『できる教師のすごい習慣』(学陽書房)

 「すごい習慣29 事務はなるべく教室で」の頁,「私の場合」のコーナーの末尾にこの文章があった。

 クラス全員の記録を毎日つけ始めたのも,そんな思いがきっかけでした。

 教師として様々な習慣づけを自分に課すことは,職業人として何を仕事の核ととらえ,時間をかけていくかという意識があるからこそである。
 たったこの一文だが,そこに効率化の意味と方向性を強く感じることができた。

 一つ一つの習慣は,それ単独で「すごい」と称するほどのものではないように思うが,それらがつながりどっしりとした日常が出来上がっているからこそ,「すごい」のだと思う。

 けっこう類似したことを続けてきたつもりでも,中途半端であったなあと自戒しか浮かんでこないなあ。


 『できる教師のどこでも読書術』(さくら社)

 序章にこう書かれてある。

 本を読むなら「やり方」を知ると同時に,その著者の「あり方」を学ばなくてはなりません。

 深く共感できるこの言葉を,そのままこの「読書術」の著書に当てはめればどうなるだろう。

 「できる教師」(この表現にはややセールス的な響きがあって好まないが)になるために,読書は必須である,読書は知識を得るための極めて有効な手段だし,読書習慣をつけ,自分に似合った読書法を選択してより進めようではないか,という筆者の主張は伝わってくる。

 そして,その人の「あり方」は?ともう一歩突っ込めば,少し手垢がついているが「知的生産への道」ということになろうか。
 それも広範囲だし,活用的だし,きっと教師としての山中さんも,目前の事象について幅広く,多面的なとらえをしているはずだ。その「あり方」を確かに学べる本だ。
 特に「読書をより効果的に見せる」という発想は,読書術としては斬新だと感じた。

 個人的に,教師としての読書の取りかかりが,かの名著『齋藤喜博を追って』(向山洋一・昌平社)であったことに同時代を生きた感覚を強くした。

感情はきまって悪いものである

2012年07月26日 | 読書
 以前,野中信行先生がアランの「幸福論」を薦めていらした。雑誌記事でも取り上げられるなどちょっとしたブームらしい。休み中の手初めとして,手頃なダイジェスト版を読んでみた。

 『アランの幸福論』(齋藤慎子訳 ディスカバー)

 「不安と感情について」を皮切りに「自分自身」「人生」「行動」「人とのかかわり」「仕事」「幸せ」の七章,全200項目の名言が並んでいる。

 一読してすううっと入ってくる文章,またそうでないものといろいろあるが,確かに現代に通用する要素は満載されている(編集の意図もそうだろう)。

 ちょうど職場の一学期の慰労会があったので,「051 機嫌のいい考え方をする」を挨拶で紹介した。このような出だしである。

 経験にはふたとおりあって,気が滅入るものと,気持ちが明るくなるものがある。ハンターにも機嫌のいい人と嘆いてばかりの人がいるのと同じである。
 
 一学期のお疲れ様を「ハンター」に擬えるのも一興と思いながら少し話した。

 この著書のキーワードをピックアップしようとしたとき,間違いなく挙げられる一つはこの「上機嫌」だろう。
 その他に,たとえば「体」があり「ほほえむ」があり,「見る」も入るのかな…などと終わり間近まで読み進めたとき,この項目「199 意志をもって幸せになる」の太字になっている冒頭の一文が,ぐんと心に迫ってきた。

 悲観主義は感情からくるもの,楽観主義は意志からくるもの。

 その後に続く「結局のところ,よい感情というものはない。感情は,正確に言うと,きまって悪いものである。」と断定したこの言葉も,新鮮だった。

 この4月,雑誌の引用から「感情労働者としての教師」というキーワードを職員に示した。数年前に書いておいた文章だった。感情を酷使する職業であることは否めない事実だし,子どもを育てるためにどのような感情が必要か,といった文脈で語ったものだ。

 しかし,今この論を知り改めて読み直すと,一番必要とした「タフさ」はやはり「意志」と言い換えてもいいようだ。
 ぴんと張り巡らすのは,やはり意志なのだ。
 まとわりつく感情に身を委ねていいのは,ひとときですよ…そんなふうに笑いながら口にできたら素晴らしい。

研究会のご案内です

2012年07月24日 | 雑記帳
 ご案内,宣伝です。

 私の所属する湯沢雄勝国語研究会で,お二人の講師をお招きして夏の講座を開きます。
 関心があり,ご都合がつく方はぜひお申し込みください。

 下記宛にメールをくだされば,事務局へ転送いたします。
 h-numazawa★nifty.com (★を@に替えて)

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 期 日 8月10日(金)

 場 所 羽後町文化交流施設「美里音」  
  http://www12.plala.or.jp/ugo-million/

 テーマ 言語能力を高める国語科授業のあり方

 日 程 
       9:50~  開会行事
      10:00~  あすの授業に役立つミニ講座
          (会員5名による提案等)
      13:20~  講座「読解力・聴解力を高める」
         ・山中伸之先生による講座
         ・佐藤康子先生による講座
         ・講師のお二人のトーク(聞き手は沼澤)
      16:20~  閉会行事
     
  (18:00より講師を囲んでの懇親会を湯沢市で開催)

会 費 1000円

講師の方々の紹介です。

 佐藤康子先生(青森明の星短期大学教授)
 主に青森市内の学校に勤務後,県教育委員会指導主事,同指導課長補佐等を歴任し,校長職を務められた。定年退職後に弘前大学の講師,客員教授を経て,その後現職となる。
大内善一先生(現茨城キリスト教大学教授)が絶賛した実践記録をもとに著した『子どもが語り合い,聴き合う国語の授業』『子どもの「学び方」を鍛える』(共に明治図書)という書籍がある。現在も他県大学に招かれて実践研究会等の講師になるなど精力的なご活躍をされている。

 山中伸之先生(栃木県公立小学校教諭)
 栃木県内の小・中学校に勤務している。現在,実感道徳研究会会長、日本群読教育の会常任委員、メールマガジン『kyositu.comニュース』編集長など広範囲にわたってお仕事を続けられている。また,長年にわたって,地元の教育サークルのリーダーとしてご活躍なさり,『「聴解力」を鍛える三段階指導』(明治図書)、『返事・挨拶の上手な子に育てる10のポイント50の技術』(ひまわり社),『できる教師のすごい習慣』(学陽書房)などの他にも多数の著書を発刊している。

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 多くの方に参加していただければと思います。
 じっくりと学ぶ機会にしたいと準備中です。

いつだって「過程」を生きている

2012年07月23日 | 読書
 映画「亡国のイージス」は印象深い。配役も自分好みだったし,この国の危機に対する脆弱さをエンターテイメントとして見事に描いた作品だと思っている。

 福井晴敏という作家の名前はそのことで記憶にとどまっていたが,小説そのものは読んだことがなかった。
 ただ震災後に,あまり時間を置かず「小説・震災後」という小説を週刊誌に連載していたことは知っていた。連載を楽しみに読むという習慣はないので,いつかまとまったらと思っていたが,文庫本になったので,どれどれと手にとってみた。

 『小説・震災後』(福井晴敏 小学館文庫)

 いわば「震災前のある象徴」として描かれる主人公の父親のことばが,どうにも深い。

 人間はいつだって‶結果‶を生きているのではなく,‶過程‶を生きている

 ここ数十年のこの国においては,大衆に見えにくかった危機(隠されたと言ってよいか)はきっと多くあった。
 それにいち早く対応した階層がいて,職域があって,平安が守られてきたことはある程度予想できる。

 そのシステムについて何も語るべきものはないが,少なくともこの震災が見せつけてくれたものは大きい。

 そこからどう歩みだすか,作者がこの話に載せて提案しようとしたことはいくつかあるだろうが,自分なりに強く思うのは「無辜の民にならぬ」ということだろうか。
 幼き子どもたちを除けば,この世界に無辜の民などいない。いや無辜の民などと称されること自体,そう呼ぶ人種を作り出した責任があることだ。
 それは歴史の常であると,思考停止させてはいけない。

 混乱のなかでネット犯罪に加担した主人公の息子が,自分の生の過程を,この国のこの地球の過程にどんなふうに乗せられるものなのか,これは結構渋い教育小説なのかもしれない。

学期末の短歌づくり③

2012年07月22日 | 教育ノート
 終業式前日となった6年生の授業。
 時間的に余裕(70分ぐらい)があったので,導入で「喜怒哀楽」という人間の代表的な感情について,ちょっとやりとりしながらおしゃべりをする。
 ここはストレートに「一学期の忘れられない思い出」として,楽しいだけでなくくやしいことなども含めてみようということで書かせてみた。

 結果,題材としてはやはり修学旅行が多く,次は部活動関係だった。
 それは無理のないことだろう。子どもからは家庭内のことでもいいかといった質問もあったのだが,なんとなく横並びになってしまった。

 今回は,書くための材料として,メモさせてから作品に仕上げる形式をとった。時間がなければできないことだが,やはり,メモを見ながらこちらで助言してやると,スムーズに進むようだ。
 六年生ということもあるが,やはり取りかかりとなるいい言葉を見つけ出して,薦めてやることが,イメージをつくるのに役立つようだ。

 部屋の中まくら投げして大暴れおらあとったぞどこまで続く

 Kスタで大きな声で応援し夜空に飛んだジェット風船

 パイラット一番後ろに乗ったとき高い景色に風が聞こえる
 

 試合後にチームメートが泣き叫ぶまだやりたいよみんなで野球

 あともう一歩の作品が続く。

 久々にやってみて,改めて短歌づくりの構想を練ってみようかという気になっている。
 また自分も作ってよいのかな…そんな新芽も出てくる。

学期末の短歌づくり②

2012年07月21日 | 教育ノート
 翌日は5年生。
 ネタ開発という意味も含めて,テーマを変えることにした。
 「家族(の中の誰か一人)」をテーマに,ふだんの様子を書かせようと考えた。家の人の様子に目を向けさせることも価値あるだろうと思った。

 シートの大枠ができてから,少し限定しないと1時間では無理かなと考えて,次の二つのことを追加した。
 「かっこいい時」「不思議な時」
 つまり,「家族の(中の誰か一人の)△△なとき」というテーマでやってみることにした。

 前時の地区児童会がのびるというアクシデントがあり,実質三十分しかないなかで,説明を省いたりしながら,なんとか書き終えたのが28人中25人。内容もレベルもまちまちだった。

 選んだ中身をみると,勉強やゲームの場が出てくるのは仕方ないが,やはり家族との交わりでは物足りなさを感じてしまう。
 まあ,この程度で決めつけができないのも承知だが。

 もちろん推敲の余地は多分にあるが,ここでもなかなか心温まる歌を書く子もいて,少し嬉しくなる。

 電話なり受話器を手に取り注文をメモ帳に書き仕事する父

 真剣に写真撮ってる父を見た客の前ではとぎれぬ笑顔

 くつづくりひと手間ひと手間仕事しておばあちゃんの愛情ぐつだ


 家族との関わりをみるのに「かっこいい」「ふしぎ」という限定は,結構いい観点なのかもしれない。

学期末の短歌づくり①

2012年07月20日 | 教育ノート
 封印などと大げさなことは言えないが,前任校での三年間に一度も「短歌づくり」に手をかけなかった。
 その前の学校ではかなりの頻度で,様々な学年の子を対象に続けた。
 三年前の転任を機に少し間を空けてみようと意識したことは確かだ。

 その間になんと,光村版の6年教科書には「短歌を作ろう」という教材が登場した。
 「『たのしみは』で始まり,『時』で結ぶ短歌」は,江戸時代の歌人橘曙覧の作った短歌形式にそったもので,これを見たとき,かなり考えられているなあと思った。

 一種のスピード感というか,瞬間を切り取るにふさわしい設定になっているので,子どもたちには取り組みやすいだろう。また「楽しさ」ということも当然焦点化しやすい。

 句の一部指定は自分もやるにはやってきたが,正直この部分は思いつかなかった。短歌への素養のなさということもあるのだろうなあ。さすが教科書である。

 さて,それはともかく,久々の短歌づくりを行った。
 外部からの応募要請に応えて,進度に影響の少ないこの時期を選び,4年以上の教室で各1時間実施することになった。

 俳句づくりはしていたようだが,短歌について4,5年は初めてのようである。
 言葉遊びの感覚も必要かと思って,最初の4年生では自慢の持ちネタ?である「夏休み思い出先取り短歌」をやってみた。

 どうにか全員が作るには作ったが,初めての「七七」に悩む子はいるし,フィクションには慣れが必要なのだと思った。
 それでも,なかなかいい歌も出てきて,やはり楽しいなあと感じた。

 バーベキューお肉のとりあいゆずらないぽつりとのこるさみしい野菜

 暗い夜せんこう花火の赤いたまパチパチパチパチひびきわたるね

 せんぷう機たくさんあたってかぜひいたふとんにくるまりただねむるだけ


また遅ればせの読書からふりかえる

2012年07月18日 | 読書
 自分が担任をしていた頃に,学級経営や授業を考え,組み立てていくとき,いくつかのキーフレーズを持っていた。
 90年代以降,「システムとレパートリー」が大きな位置を占めていた。
 藤岡信勝先生の言葉だったと記憶している。

 今でもその言葉を引きずっているような仕事をしているが,堀裕嗣さんの著書に触れると,つくづく自分の抱えているスタイルの古さということを思い知らされる。

 『教室ファシリテーション 10のアイテム 100のステップ』(堀裕嗣 学事出版)

 題名だけを取り上げても見えてくるものがある。
 語義として正確とは言えないだろうが,システムは固定的なイメージが強いし,アイテムは流動的・選択的ととらえられる。
 その意味で難易度や目標に段階はあるけれど,アイテムという提示の仕方はやはり新しい。汎用性が高い。
 そしてレパートリーは単発で羅列的だが,ステップは段階であり関連が強い。


 実は昨年9月,新潟十日町の研修会で「毎時間に8分以上のグループの話し合いを入れる」ということを語った堀さんの意図を理解はできたが,少しイメージできない部分が残っていて,これらのアイテムによってすっと入った気がする。

 さて,小学校教員の立場から,これらのファシリテーションのいくつの取り込みが有効かという点がどうしても頭をもたげる。
 高学年で意欲的に導入を企てれば半分程度はそんなに困難なことではないだろう。
 個人的には,それよりもこうしたファシリテーションをこなしていくために素地になる力を,どんなふうに教育課程や実際の学習活動として組織するかという点に興味がある。
 堀さんは,その点に関しても新潟十日町の六年生相手に授業提示してみせたとも言えるだろう。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/a9d65af11cd1a3655eb0c9627d624f94

 読むこと,書くこと,聴くこと…それらの活動で培う力を生かしながら話し合いに入り,そしてまた読み,書き…そのスパイラルが子どもたちを鍛えていく。
 グループの話し合いを8分と言ってみせたところに,100のステップの揺るぎなさが詰まっていると予想がつく。