すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

リーダー性を育てること

2010年08月31日 | 雑記帳
 『児童心理』の臨時増刊号が、“「リーダー性」を育てる”という特集をしていた。最近、職場の中でもそんなことを話す機会があったので興味深く読んだ。

 http://www.kanekoshobo.co.jp/np/rinzou.html

 この辺りの小学校ではまだ80年代の初めの頃は「児童会長」という役があったと記憶している。受け持った学年でも隣の学級と互いに競い合って選挙運動?をしたことははっきり覚えている。
 詳しい経緯については勉強不足だが、いずれ学習指導要領改訂に伴い、特別活動において特定の子どもが活動の中心を担うようなことは好ましくない(多くの子に体験させようという言い方で)となり、現在に到る流れが出てきたのではないだろうか。

 問題を矮小化させれば、学級会の司会一つとっても固定化か輪番制かで議論されたことがあった。学年、発達段階に応じてふさわしい方法でといった折衷的なまとめとなったように思うが、そういう傾向の中で、結局、司会の上手な子はあまり居なくなった。
 司会は言語技術という面も大きいが、やはりリーダー性が強く求められる立場である。その場が均等になったことで、リーダーを育てる機会が少なくなったということは否めないだろう。

 さて、ここで改めて問題なのは「リーダー」を育てるのか、「リーダー性」を育てるのか、という点である。
 つまり、リーダーになる子の養成か、どの子にもリーダー性を身につけさせるのか、という二つの視点である。もちろんこれは相反するものとは言えない。小学校であれば、後者を下地にしながら徐々にリーダーとなる子が輩出できればいいということである。

 しかし現実問題としてどうか。特別活動の時数は圧倒的に少ないことは自明だし、学級経営として担任が裁量を持って実践できる時間もたかがしれている。これでは、いくら計画的に進めようとプランを練ったとしても、まさに絵に描いた餅である。

 さらに、児童心理誌に執筆している多くの方が指摘するように、フラットな世の中で「出る杭は打たれる」意識は一層強まっているから、出来るだけ目立たないことが生きる知恵のように身についている子どものなんと多いことか。

 打開策というほどのものではないか、やはり小学校低・中学年における意図的な取り組みが求められるのではないかと感じる。
 この時期までに集団活動に向かう姿勢、積極性、団結力などを培っておくことが、かなりリーダー性発揮の素地になってくる。
 経験的には確信に近いポイントである。

 では、どんなことを体験させるべきなのか…。

背筋を伸ばして語る言葉

2010年08月30日 | 読書
 『利他の教育実践哲学~魂の教師塾』(野口芳宏著 小学館)
 
 先月発刊されたばかりの本である。内容は『総合教育技術』誌の連載と講演記録1本ということで構成されている。

 この著書にも、そして先生の講演の度に、かなりの頻度で登場するのが次の言葉である。

 「根本 本質 原点」
 
 自分のやっていることが本当に子どもの教育としてふさわしいのか、時折疑問が渦巻くことがある。その度に「この現状でいいという理由づけ」をどこかに求めようとしている自分に気づく。
 曰く「今までやってきた価値があるはずだから踏襲するのが自然」「周囲の状況を考えたときに妥当な線」「様々な影響を考えたときにこれが無難」といった思考で…。

 語義として全て否定的な意味だと思わないが「踏襲 妥当 無難」という言葉は、日常に汲々としている自分の形容かもしれない。

 根本は何だと力んでみても今の立場では出来やしない、たかが知れている、といった具合に投げ出していないだろうか。
 本質を探ろうとしても、時間が少ない、周囲が求めていることは体裁だから形を作ればよい、などという思考に陥っていないだろうか。

 だからと言ってそもそも器の小さい者が、多くを抱えていこうなど大それたことを考えているわけではない。
 出来るだけのことを、ねらいを絞って、しかしこの線だけは譲れないと、小さい声でも明確に言うべきことはあるはずだろうと思う。

 その姿が人の眼には奇異に見えたり、無謀に思えたりすることは避けられないのかもしれない。
 いや、そうでなければ、今「根本 本質 原点」を考えているとは言い難い。それだけ奇妙な空気と思考が充満している世の中だと思う。
 しかし卑屈にならず、進んでいきたいと願う。
 そのためにはまず目線を上げて、姿勢をよくすることだなと一人納得する。

 だって「根本 本質 原点」を語る師匠の背筋はいつだってぴんと伸びているではないか。

今になって『長い散歩』

2010年08月29日 | 雑記帳
 今さらではあるが、BSで放送された映画『長い散歩』を観た。

 公式サイトは→http://eiga.com/official/nagaisanpo/story.html

 例の鬼太郎映画はあったが、実際には映画として緒形拳の遺作と呼んでもいいのではないだろうか。監督の奥田瑛二が緒形の主演をイメージして何年も前から構想していたという。

 児童虐待から幼い子を救い出すことは、自らが招いた家族崩壊の贖罪の旅でもあった。大まかにそんなふうに括ることはできる。
 それを「長い散歩」と名づけ、あまり多くない台詞まわしで表情を静かに描いていく好作品だった。

 主演の緒形はもちろん、抜群の存在感を見せた子役の杉浦花菜、そして重さと軽さのバランスの妙を感じさせた松田翔太が素晴らしかった。
 少女が背負ったぼろぼろの天使の羽根が、最終シーンでも片方とれたままで背負おわれていたことは、将来の暗示か。哀しみの象徴をいつか誰かが外してあげるのだろうか。エンドロールの「傘がない」(歌唱はUA)もぴったりである。

 ところで、以前何かの雑誌で読んだ記憶があることだが、演技について細かい注文をつける監督の奥田が、緒形から反感を持たれ?文句をつけられたことがあったそうだ。その点を奥田は実際に演技で見せたら、緒形は何も言わなくなり従った、という。

 詳細は知らないが、演技者同士としてそういう場で理解できるためのいい例なのかもしれない。映画監督にも様々なタイプがいるが、それが奥田の持ち味ともいえるかもしれない。ただ奥田自身の演ずる役は私が見ているところではあまり多くのパターンがなくて、その点は残念だが。

 考えてみると、テレビでの遺作『風のガーデン』でも共演していた二人だったことを今思い出した。

上の上の教師の言葉

2010年08月27日 | 読書
 『野口芳宏の国語授業のつくり方』(東洋館出版)
 
 教師の“知恵”netという団体が主催した講座の記録である。
 講座は全部で4つ。「授業づくりの極意~文学教材」「説明文指導の奥義」「音声言語指導のコツ」「『伝統的な言語文化』を教えるポイント」というなかなか贅沢な内容となっている。

 講義とQ&Aがあり、さらにコンパクトに語録をまとめたりと構成も工夫されている。その意味では、野口先生をあまり知らない人向けの入門編としても有効かなという気もするが、講座ベースの記録はやはり中級者?以上が向きかもしれない。

 所々に先生のピリッした至言、警句がはさまれていて、読んでいて心地よくなる。何度もお聴きしたことがある事柄であっても、また何か自分の中で新鮮に響いてくることが今回もいくつかあった。

 指導法としては「二分法」について考えさせられた。これは岩下修先生の実践にも見られることなのだが、原則としての二分法はかなり使い回しも良く、それでいて奥が深いと納得できた。

 「教科内容と教材内容の違い」については重々承知しているつもりだ。ふと、遠い昔自分が新任でどうして国語の授業があまり好きになれなかったか、改めて文学教材による指導の曖昧さだったことを思い出した。その頃からやはり私は教科内容を教えたかったのだ。

 「上の上の教師」…似たようなことで教師のレベルを象徴するいくつかの文言は知っている。つまりは学習意欲に関わることである。 
 そして、それは授業中はもちろんのことだが、授業終了の時点で色濃く見えるものであることを教えていただいた。
 文章ではその一文前がゴシックで太字になっているが、私はここを引用したい。

 この授業を受けてからもっといろいろなものを調べたくなった。授業が終わってからその日の授業を振り返り、自分でも先を読んでみよう。こうさせるのが上の上の教師です。
 

困難な時も生きながらえろ

2010年08月26日 | 雑記帳
 なんとか生きながらえねば、と思った。

 どうも動きが重く、何をするにも時間がかかるし、気持ちだけがあせってしまう。

 もう時代に合わないのだから、去りゆくのみなのか…。


 自宅のパソコンのことである。

 購入したのは2004年8月なので、もう(まだと言うべきか?)6年経過。XPだし、Officeは2003。確か14年にはサポート終了予定と聞いている。
 とにかく起動して最初の10分ぐらいはいいが、いつも突然のように重くなり始め、動作がままならなくなる。おそらく何かネット更新を始めていて、そのせいだろうと思うが、特定できないし、特定しても影響があるのかどうか見当がつかない、その程度の知識しかないからである。

 以前はこうしたことはなかったが、きっと環境が次々に新しくなっていくので、この富士通FMVは時代遅れになっているのだろうか。
 しかし、(新しいのが欲しいという気持ちを押し込めて)メモリを増やせばいいのではないか、その程度の知識はあるので、要は実行するかどうかだ。

 実行した。

 正価だと6000円以上かかりそうだが、ネットだと3000円以下なので、それなら悪くないじゃないか。
 現在512Mで、もう一つ512Mをセットすれば結構よくなるのではと考え、早速アマゾンに注文し、三日後に届く。
 裏蓋を空けてみる。そしたらなんと、256×2という形の512Mではないか。
 きちんと説明書を読むべきだったなと、後悔しても後の祭り。

 もう一つ512Mを購入しなければならない。すぐに再びアマゾンで注文。これは即届いた。ところが…。
 急いでパッケージを開けてみると、256という数字が。ええええっ、なんでだ。どうやら急ぎすぎたための自分の注文ミスらしい。
 なんだよう、といらいらしても始まらない。三度目の注文。今度は楽天を使ってみた。エコケースということで少し安くなるらしい。型番を間違えないように慎重にクリックしていく。
 そして二日後。待ちかねたメモリ到着。
 
 再び蓋を開けて内部のメモリを外し、新しいものを取り付ける。無事に512M×2という形になりました。プロパティで確かめてOK。

 おおう、なんかサクサクしているではないか。問題の起動10分過ぎもほとんどストレスを感ぜずに処理できる。
 生きながらえたなあ。FMV君。

 ここからの教訓は「メモリを増やせばサクサク動くぞ、きっと人間も。」というところだろうか。

 度量の大小にかかわりなく、通る道を整備してやれば、流れが良くなり、仕事もはかどるぞ。
 ううん、暗示的だ。

イチャモンに正対する力

2010年08月25日 | 読書
 『悲鳴をあげる学校』(小野田正利著 旬報社) 

 「イチャモン研究」の本である。
 素直に、わかりやすく前向きな内容だと思った。

 イチャモンの頻度はきわめて少なく安定した地域に務めている自分ではあるが、皆無ということではなく、本に書かれた事例と似かよったことを周辺から聞いたこともある。振り返れば、山間部の小さい学校でもイチャモンがなかったわけではない。
 そんなことを思い出しながら読み進めてみると、学校の置かれた立場の歴史的変移など実に納得のできるものだった。

 アメリカ型契約社会の浸透という面だけでなく、責任外在論が念頭にある人々(それはもしかしたら自分も含めて)は、不機嫌な感情のはけ口を常に求めていて、学校もその格好の対象になっているように思う。
 著者はそうした社会現象について、教育制度や政策にふれながら原因を探りあてているし、現状のいわゆる教育改革策についても深い疑念を抱いている。

 「子どもたちのために全力を尽くすべき存在としての学校」「機能不全に陥っていて構造改革を行うべき存在としての学校」という二つの論を「学校神話」と言い切り、それゆえ実像から離れ過ぎていて見えにくくなっているという指摘も納得である。

 そうしたいわば複合的構造を抱える中で提示されるイチャモン。それにどう対応するか、その理解の仕方、様々なアイデアや事例も出され、参考になる。
 ただ、次の文章の意味はかなり重い。

 問題は、そういった冷静さを持ちえるだけの「ゆとり」と「体力」そして粘り強い「気力」が、学校や教育の現場当事者にあるかどうかです。
 
 現実にそうした事例があまりないとしても、いつどんなことが起こってもおかしくない世相であることだけは確かだろう。

 来てはほしくないそのことが、いつ来ても身構えられるように養っておくべきことはたくさんある。

 日常の仕事の中に、子どもや保護者との接し方の中に、相手の心情を察する想像力を駆使できるよう努める。地味だけれど、そうしたことに尽きるのではないか。

さあ、教育書を読もう

2010年08月24日 | 雑記帳
 実質的な夏休みは15日で終わり、先週は連日出勤した。
 今週も全て勤務ではあるが、まだ子どもたちが登校していないので気分的にはゆとりがある。
 二学期開始は明後日から。そろそろ教育モードに入らねば…。
 こういう時は教育書を読むに限る。

 そういえば、休み中の研修会に招いた講師のお一人は「教育書は読まない」と宣言?していたが、教育書というジャンルはどこまでなのか、考えてみると結構難しいのかもしれない。

 担任をしている頃ならば、やはり実践に結びつくものを求めがちだった。そこに書かれていることを使ったり、真似したり、アレンジしたりすることで得ることは多かったはずだ。
 徐々にそうした類のものではなく、教育論や仕事術的な内容にも手を出してきたように思う。
 ただ、教育技術的な内容にも依然として興味があり、それは今継続的に授業をしていない自分にとって、ある意味の支えになったり、視点になったりすることがある。

 本から得られるものには限界があるが、広がりや深まりを求めるためのきっかけにはなるはずだ。最近でいうと「学び合い」はやはり、それがスタートだった。

 などと言いながら、ここひと月ほどの読書記録を振り返ってみたら、な、なんと読み終えた本の中に教育書と呼べるものは一つもないじゃありませんか。
 『イッセー尾形とステキな先生たち』というDVD付きの脚本集はあるにはあるが、教育書と呼ぶにはちょいと恥ずかしい。
 弘前の講座で買ってきた野口先生の本もまだ読みかけだし、いやいやこれは、と何故か慌て始める自分。

 さあ、教育書を読もう。

 少なくても4冊ほどは「積ん読」状態になって書棚で寝ている。
 と、最初に取り出したのは『悲鳴をあげる学校』(小野田正利著 旬報社)。 

 二学期スタートを控え、まずはこんなふうにしたくない、なりたくないなあという後ろ向きの読書になるのかな。

甲子園は終わっていた

2010年08月23日 | 読書
 それほどの高校野球通でもなくファンとも言えない。
 この夏も甲子園では県代表が一回戦で大敗したので、興味はほとんどなくし、テレビでもニュース程度しか視ていなかった。
 そんな時、いつもの書店で見かけた文庫本の表紙に目が留まる。

 『甲子園が割れた日』(中村 計著 新潮文庫)
 
 高校当時の松井秀喜がバットを構える写真があり、次の副題が記されている。

 松井秀喜5連続敬遠の真実
 
 1992年。その夏も対戦をリアルタイムで視ていたわけではないが、その出来事は印象的だった。
 まだ仲間とサークルを続けていた頃で、「道徳で扱ったらどうかな」と話題にしたことがある。自分の周囲でそのことは実現しなかったが、全国的には当然取り上げた実践もあることだろう。

 この本は、その1992年夏の出来事について、当時浪人生だった筆者が強く心に引っかかりを覚えながらも「(関係者の話を聴くことを)10年待とう」と決意し、スポーツジャーナリストとして自立した時期にそれを実現させたものである。

 読み進んですぐに、自分がいかにも教員的な発想で「道徳で扱ったら」と考えたことが何かひどく浅いように思われてきた。
 それだけ広範囲の取材があり、関係者から興味深い証言、思いを引き出している書物だった。

 少なくとも、直接対戦した松井と河野(明徳の投手)、また山下と馬渕(両校の監督)という問題ではない。チームに所属した全員と両校を取り巻く環境、そしてその「敬遠問題」を実況し、報道した者や機関…様々な要素が絡み合って、一つの流れを作っているように見える。
 そしてその流れも立っている場所によって、かなり景色が違って見える。

 また、その流れを形づくる一人一人の「出演者」の感情が微妙に揺れ動いてることに、時間の重みや言葉の持つ曖昧さについて考えさせられ、すっぽりと入り込んで読むことができた。
 筆者の追究姿勢や筆力が大きいとも感じた。

 この「敬遠問題」は、様々な「違い」でとらえることができる。
 「監督の指導観」、「野球と高校野球」、「学校や地域による甲子園の持つ意義の位置づけ」…そんなふうに、両端にある正解や信念に対して、当事者たちがいかに自分を近づけて考えられるか(もしくは、その距離感を受けとめながら生きているか)、この本のテーマはそこにあるような気がしてきた。

 その意味で小学生では無理だと思うが、中学生以上ならば恰好の道徳教材となり得るのでは…そんな考えもまたぞろ浮かぶ。

 ほんの一試合の攻防であっても、掘り下げていけばそれぞれの人生のどこかにかかわり合っている、そんな見方もできるだろう。
 読み終えたときに、残念ながら今年の甲子園は終わっていた。

夏休み読書メモその5

2010年08月20日 | 読書
 最近、こんなにページの端を折った本はない。

 『街場のアメリカ論』(内田樹著 文春文庫)
 
 教授独特の言い回しが、まえがきから全開している。

 記号とは「それが何であるか」を言うものではなく、もっぱら「それが何でないか」を言うものである。
 
 えっ、なになに!と目を見張ってしまうが、読み進めるとなんだか見事に納得させられてしまう。それは記号だけのことでなく、自分のアイデンティティーについても同様だと知ると、実に深いことなのである。
 疑いもしなかった、いや考えてもみなかった表現に溢れていて、なかなか読む速さが上がらなかった。

 第一章は「歴史学と系譜学」。ここでも南北戦争や明治維新のことを引き合いにして、私たちのありがちな思考を、ぐらぐらと揺すぶり続けてくれる。

 誰がいても誰がやっても「同じ政策」が採択され、今ここにあるような日本になっていただろうと決めつけるのは、ずいぶん自己中心的な発想だし、今ある日本の状態を固定化する考え方につながるんじゃないかと思います。
 
 「歴史に『もしも』はない」という言い回しは、誰に向かってどういう場面で言うべきことなのか注意しなければならない。
 それはある意味で、観察も、決断も、希望も封じ込める表現であり、現実を生きる者にとって意味を為さない、いや有害だと言うべきか。

 二章以降も、ジャンクやコミック、統治システムなどそれぞれに面白かったが、なんといっても第六章「子供嫌いの文化~児童虐待の話」は、目からウロコであった。

 つまりは、子ども観の違い。
 アメリカでの児童虐待の現状など不勉強で知ることもなく、またその歴史的背景など及びもしなかった。
 そういえば、ヨーロッパにおける児童の不当就労の実態もマルクスが革命を志した一因だったことは以前にも読んだ気がする。

 当時の子供という概念、その存在に対する親や大人の心性は、今の私たちとはかけ離れたものである…そうした認識を持つと、「文明」的な装置として、子どもの無垢性の神話が語られたり、子どもの人権について叫ばれたりしているのではないか、という教授の話も納得がいくのであります。

夏休み読書メモその4

2010年08月19日 | 読書
 行きつけの書店で平積みされていたのが『雪国昭和少年記』(小坂太郎著 萌芽社) 。
 自分の口調で言うならば「タローセンセ」の本である。
 今まで書いたエッセイ等を10篇集約している。読んだことがないものが多かったので買い求めた。

 70年代後半に発刊された『村の子たちの詩』(小坂太郎著 たいまつ社)は私にとっては大事な一冊である。此処で教師をやっていこうと決めた時に出会った本だった。
 それには戦後務めた学校での記録があったのだが、今回収録されているのはそれより前、先生自身が小学生の頃のエピソードや、戦時、終戦直後の様子が中心となって取り上げられている。「創作」と記した文章もあるが、実話が下地になっているのは間違いないようだ。

 自分の近所にいる人が、身近に感じていた人が、こんな暮らしをしてきたのだ、ということを想像したのは久しぶりな気がする。
 みんな昔話をしなくなった。老いて語る機会も気力もなくなっているのかもしれない。
 もっとも、こちらから積極的にそういう話を収集しようという気持ちが強いかと言えばそうでもないわけだが。
 その意味では「本」という形で、いくらかの時間その時代に浸れることは実に楽しいことではないか。読書バンザイである。

 さて、内容として興味を覚えたのは、終戦直後の学校の様子が書かれた部分だった。教科書的な歴史知識として、進駐軍や墨塗りのことなどは知っていたが、さてこの町ではどうだったんだろうかと想像してみると、どうも具体的な姿が思い浮かばない。しかし、このような記述に接すると本当によく見えてくる。
 
 私の住む橋場町内でも、誰かがジープに乗って進駐軍が来るなどと噂を持ちこむと、各家々の主婦たちは弁当を持って野外運動場のある原狐山方面へ避難した。
 地味で黒っぽく汚れた衣服を覆い、身を隠す女たちの一団のなかには、婆様も混じっていた。
 
 「鬼畜米兵」という言葉があったが、その印象の強度を物語っていると思う。進駐軍は結局学校に一回しか来なかったらしい。その時には若い教員たちと体育館でバスケットボールに興じたとあるのも、当時の田舎らしさを伝えていて面白い。

 もう一つ、「餌付けする母親たち」と小見出しをつけられた箇所がある。
 実に奇抜な表現であるが、確かに、物資がない時代に「ママケー(ご飯食べなさい)」と叫ばれ、猛然とダッシュして帰る子ども。そしてその時間帯になったら周辺に居ただろう状態は、餌付けそのものかもしれない。

 餌付けをした母親は、乏しい食物を与えながらしっかり勉強してきちんと大きくなれと口にしていた。餌付けされる側もそれが「幸せ」への道だと何も信じて疑わなかった。
 これは昭和30年代に育った自分にとっても原風景の一つなのかもしれない。
 そしていつの間にか…親による餌付けができなくなり、違う形で餌付けを展開している企業や集団がいる…そんなふうにも解釈できそうだ。

 自分がこうした類の本を読むのは、単純に言えば、そこに見知っている人の名を発見し、鮮やかに情景が展開するのが楽しいと思うからだろう。
 しかし同時に、時代と地域の位置づけを確かめたい思いもある。

 タローセンセは詩人であり、土着の教師であった。
 もはや自分も土着と形容していい時間が流れたが、観察はさっぱりであり、表現も空回りしている。