すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

生きる力の衰えに嘆く日

2023年02月28日 | 雑記帳
 今時、教育界では「生きる力」など口にしないだろう。90年代後半から繰り返し聞かされてきたはずだが、内容が一体何だったかは忘却の彼方にある。今そう問われて(いや以前から)一番ピッタリするのはかのウチダ氏が語る「何でも食べられる」「どこでも寝られる」そして「誰とでも仲よくなれる」だと思ってきた。


 別に教育のことを語りたいわけでなく、つくづく「自分」の生きる力の衰えを感じる出来事があったので書き出した。コロナ感染対策絡みの全国旅行割は終了が近いということで、前から一度はと思っていた隣県のある温泉旅館に泊まりに出かけた。「食べる宿」を標榜し、売り物は「すっぽん」のフルコースである。


 すっぽん料理の店は以前は町内にも2軒あり、飲み歩いていた30代に何度か食した記憶がある。それ以来ご無沙汰であり「羽後のたべびと」を自認していた者としては久しぶりに満喫したいと考え、先週末に出かけた。見事なラインナップで並べられた美味珍味をたいらげ、一つ「何でも食べられる」面目は保てた。



 満腹を少し収めてから、源泉かけ流しの風呂に入り、さて寝ようと床につく。しか…枕が気になってなかなか寝付かれない。自宅でも確かに夜半覚醒はあるが、最初から寝入られない。若い頃はバンド練習していて、騒音の中でもごろりと眠り続けていたのに、明らかに生きる力の衰退ではないか。そうしているうちに…。


 何だかお腹に鈍い痛みが出てきたぞ。えっ、もしかしてすっぽんのせい…。養殖モノだしそれなりに加熱した料理が多いはずなのに…と首を傾げながら夜中のトイレに2回通う羽目になった。腸の強い方ではないが、海、山厭わず何でも口にできたことが自慢の一つだったのに…ここでも生きる力が次第に弱まって…。


 最後の「誰とでも仲よく…」と言っても山奥の小さな旅館。限られた人しかおらずチャンスを試す機会もない。ふと横では、家人が部屋の天井に細かい黒い虫を目にしたよう…カメムシか。大きな紙を手にし、内窓枠に上がり叩き落とし淡々と処理していく。親睦の意はないがそこに見える生きる力には及ばないと嘆く。

読み聞かせの後先で…

2023年02月26日 | 雑記帳
 先週は月曜の小学校3年生に始まり、火、金とこども園二つへ。小学校は今月で終了であり、総決算(笑)として『おぼえていろよ、おおきな木』をメインとする。何度か読み込むうちに、ポイントはおじさんが泣く場面だと把握し、ページをめくる前に冒頭部を語る演出としたが、本番でその接続詞を間違ってしまう。ああ。


 なんと、読み込み不足を反省しながら「おぼえていろよ」と密かに思う。どこかでリベンジしたい。こども園では、紙芝居『とりのみじっちゃ』を初めに行い、後は絵本をTVに写す形で行う。紙芝居の筋はよくある隣家の爺婆もので、ユーモラスな絵と、オナラの出てくる筋が楽しい。そこにある泥臭さがいいのだ。


 読み聞かせを終え館の前へ帰ってきたら、ちょうど目の前を一人の老女が大きな段ボールを抱えて通る。向う側から知り合いが来て陽気に話し始める。「そんなに大きな段ボール持って、何すなよ?」「家出だ、家出」「あらあっ、それなばパンツ30枚も入るな」「んだんだ、パンツ30枚入れて行ぐ」。この泥臭さにも味がある。


 金曜日は山間部の園だったので峠道を行く。雪が少なく道路状況はいい。ただ雪崩の心配も出てきた斜面だ。それに予報はまだだが花粉の「気配」を感じる。それでもあと二月もしないうち「春山だ」と少し気分は高まる。そんなテンションで語る読み聞かせも順調。翌日のイベントPRしたら家族連れで館へ来ていた




 そこからの帰り道。久しぶりに七曲峠を通った。交通量の少ない道なのでさほど頻繁に除雪車は入っていない。ちょうどひと月前のイベントは3年ぶりの開催ということで盛り上がった。思えば三十数年に始まった時は峠道を使いスキー大会も開催した。往時の賑わいは懐かしく、峠の歴史に重なると感慨に耽った。


能率、効率いつも度外視

2023年02月23日 | 雑記帳
 「能率」と「効率」の違いなんて意識したことがなかったと思う。ごく普通の類義語であり、例えば広辞苑の語義②が示すように「効率」は「一般に、仕事の能率。」と捉えていた。しかし、ある雑誌に環境倫理の研究者が寄せている文章を見て、んっと興味が湧いてきた。曰く「この二つ(能率と効率)は反比例の関係にある


 能率とは「時間当たりの仕事量」であり、効率とは「資源当たりの仕事量」という解釈だ。「環境」を基に考えてみると、そういった使い方となるのか。「回覧板」の例が出されている。それは情報を周知させるための手段として時間がかかり能率は悪い。しかし紙1枚で足りることを考えれば、効率はいいと言える。




 「資源」の設定がポイントか。時間も資源に含めれば一般的な使われ方だろうと思考を止めることができる。しかしひとまず、それはさておく。人は有限な時間を意識するために、能率を上げようとする。そのために多くの資源を使う傾向にあるのではないか。回覧板よりは文書一斉配布のように。それは効率が悪い。


 テクノロジーの普及は、その能率と効率のギャップを埋めるためにあると考えられる。情報に関してはもはや言うまでもなく、周知させるためのメール一斉配信など常識となり、能率、効率ともに進んでいる印象さえある。ポイントは「仕事」なのだ。もちろん、単純な物理的な「量」としてみた場合は問題は生じない。


 何かを伝える時、確認や連絡であれば効率的な手段はいくらでもある。今は時間も掛からない。しかし共感や啓発に重きを置く場合、極端にいえば能率、効率ともに度外視する発想もある。もちろん伝える対象のリサーチは前提になり、そのうえで時間と資源をどう組み立てるかが、仕事の質を決定づけると言えそうだ。


 時間は有限。誰しも納得できる。ただ、資源も有限が論理としてわかっていても、能率を上げるために多くを求めている現実がある。思い出に結び付ければ「チョーク一本、口一つ」で授業できる教師の姿は、ある意味理想だった。全うすれば効率はいいなあ…はははっ、また何のための仕事か置き去りにして…。

新聞連載に立ち止まる

2023年02月21日 | 雑記帳
 朝刊の日曜連載「明日も花まるっ!」で久々に(笑)内館牧子さんが良いことを書いていた。「政略結婚の深意」と題したその文章は、作家永井路子の著書『山霧 毛利元就の妻』に描かれている戦国時代大名でよくあった家同士の結びつきを取り上げている。そこにあるのは決して「負」や「暗」だけではなかったとする。

・・・・・周囲の人たちをステレオタイプで、つまり固定観念で見てはならない。・・・(略)・・・世の固定観念では測れない「陽」の一面が、あらゆる事象にある。当事者は周囲が期待するほど淋しくもなく暗くもなく、むしろ幸せに思ったり、力が湧く場合さえあるのだ。・・・・・

 なるほど。60代夫婦の会話に時々登場する巷の噂話にもそうした要素がいっぱい詰まっているとギクリとする。子ども相手の仕事をしていた時に、家庭環境に絡んだことで、その子を不幸と決めつけたりしたことがなかったか。気持ちとはそう単純でないと飲み込めるようになったのは、結構キャリアを踏んでからだ。



 さて、月曜連載の鎌田實さんの「健康長寿県秋田という夢」も含蓄があった。もの忘れが気になるお年頃にはぴったりの話題。「『忘れる力』鍛えよう」という、これも日常感覚からすれば逆説的な提言である。働きアリの例で有名な「パレートの法則」で、全体の中の2割の重要性を「記憶」にも当てはめているのだ。

・・・人生の膨大な記憶も大切なのは2割程度で、・・・(略)・・・8割を上手に忘れられれば、埋もれていた大事な2割を確認できるのです。


 「幸せを心の側面から探すことを忘れ、軽く体を動かして…」や「つらい出来事に出会ったときも、向き合っているばかりいるのではなく…」という具体例も挙げている。長いスパンで将来を想うことは正直まだあるが、目の前の些細な出来事、周囲にある嬉しさ懐かしさを愛でてみる日々、2割はきっとそこにある。

如月雨水の頃

2023年02月19日 | 雑記帳
 先週は、通常休館の月曜から図書館の蔵書点検が始まった。この作業も三度目となり、だいぶ慣れはした。専用のハンディでバーコードを読み取っていく作業は、担当した絵本や郷土関係の版型が様々なので書籍をひっくり返したりするのが、量的に多いとなかなか辛い。手首への負担に気づいたのは最初の年だった。


 その後結構痛みが長引いたので昨年はかなり警戒し、サポーターを装着したのであまり感じなかった。ところがその学習が定着せず、今年はスタートでそのケアを忘れ、若干痛みが走った。翌日からがっちり固定したが、今度は右手の方も繰り返す単純作業で気になっている。結局老化なんです…としごく当然の結論。


 作業の方は熟練の館員たちがいるので、無事終了。私は勤務シフト通り休みに入ることができた。そして家では、4年目を向かえる確定申告でPCと向き合う。今年はしごく順調で還付もあると喜んでいたら、へまをしてデータ消しをしてしまい、やり直しという顛末。シンコクはいつもシンコクなことが起きると…


 少し休んだら天気予報の「雨」マークが気になり、今シーズン一度も雪を下ろしていないカーポートの屋根が目に付いてきた。一時間は掛らないだろうと初めて梯子をかけてみる。積雪は約80㎝というところか。かなり重いのは予想通り。足を乗せても15㎝ほどしか沈まずミルフィーユ状態が何層にもなっていた。




 疲労困憊でどうにか予定通り終了。後は何でも来やがれ!!と言いたいが、寒波は困る。なんせ異常に値上がりした電気料。使用機器や設定プランによると我が家は最高値の部類なのだ。具体的な節電を心掛け、降雪の少ないひと月だったとはいえ1割しか使用量は減らない。古い語だが「文化生活」とはつくづく脆弱だ。

大変な時代に覚悟を持つ

2023年02月17日 | 読書
 「いま現在がそうであるように、大変な時代というのはしばしば予告もなしに、われわれに襲いかかってくるものです。それは容赦もなく、あっという間に、あるいはじわじわと、呑気に暮らしていたわれわれを、非常に困難な状況へと突き落とします。」城山三郎は1980年代の講演で冒頭こんなふうに切り出している。

『よみがえる力は、どこに』(城山三郎  新潮文庫)

 今思えば、呑気にみえた昭和終期であってもそうした認識が主流だったわけで「大変な時代」の基準などないと考えさせられる。「最後の戦中派」世代と呼べる城山が語るからこそ重みがあり、続けられた一言「でも、そんなことは珍しいことではありません」は、「覚悟を持つ」重要さに置き換わると言ってよいだろう。



 この文庫は表題となった講演記録、そして亡き妻に捧げた著『そうか、もう君はいないのか』の補遺、さらに「同い齢の戦友と語る」と題し作家吉村昭との対談で構成されている。城山の様々な面が垣間見ることができて興味深く読んだ。経済小説を切り開いた作家ではあるが、語った核は自分の矜持であったと思う。


 戦争末期に志願入隊した経験をもとに、敗戦後の国や人々の変貌を冷静な目で見ているし、何より個々の内実に深く迫るエネルギーが真骨頂と感じる。好き嫌いが明確で時流に流されない姿勢も合わせて、ビシッと芯が立っているイメージを持つのは私だけではない。それゆえ対談でのざっくばらんさも印象深い。


 吉村との対談で共感するのは、時代が変わってもぶれない人間の強靭さだ。対談で挙がった作家たちのエビソードからの学びも大きい。「大変な時代」に心が揺らいでも、「守るべきは何か」を繰り返し意識する、そして具体的な言動で示す。それが、他からのどんな評価も受け止める「覚悟」を持つ生き方と教えられる。

参冊参校参稽(七)

2023年02月16日 | 読書
 新刊やら昔の本やら、いろいろ読む如月となっています。


『審議官 隠蔽捜査9.5』(今野 敏  新潮社)

 単行本一気読み。年に二、三冊あるだろうか。やはりこのシリーズだからだろうか。ここ3,4年の文芸誌に掲載したスピンオフ作品+一本という構成だった。大森署の残った者たちが竜崎にアドバイスを求める展開が複数あり、結局そうかと思うのも仕方ない。今回際立ったように思う言い方は「放っておけ」だろうか。結局、つまらぬことに神経を砕いている人物(それは読者も似ている)がいかに優先順位を組み立てられないものかを痛感する。そして、自らの経験則を信じることも大切だ。最後の書下ろし「信号」で語る竜崎の「屁理屈」はさすがだ。




『荒地の家族』(佐藤厚志  新潮社)

 めったに読まない芥川賞受賞作品。いつ以来かというと『おらおらでひとりえぐも』だから5年ぶり。なかなか読みきれない、しっくり来ないだろうと思ってはいたが予想通りだ。正直、落ち込みそうになる。「亘理」という地名に、遠いけれど沁みついている思い出があり、手に取ってみた。震災が揺さぶり奪い去ったことの本質が問われる。描かれているのは文字通りの荒地の風景であり、当然人生に重ねられている。それは天災によってもたらされたというより、土地や時代の宿命も底にある。「荒浜」という地名と響き合うようにつけられた書名の果てしなさを想う。



『ふかいことをおもしろく』(井上ひさし PHP研究所)

 かつてNHKで放送していた100年インタビューという番組の話がまとめられた一冊。井上の本にあまり馴染みはないが、かつて山形の遅筆堂文庫を訪れた経験もあるので一応のことは知っている。幅広い活躍の芯は何にあるのか。たどり着いた考えは「笑いとは何か」に表れているように思った。次の言葉は深い。「どういう生き方をしようが、恐ろしさや悲しさ、わびしさや寂しさというのは必ずやってきます。でも、笑いは人の内側にないものなので、人が外と関わって作らないと生まれないものなのです」…創作の意味をより深く考えてこの境地に達した気がする。笑いの生まれる関わりを持ちたい。




気球とマスクと

2023年02月15日 | 雑記帳
 ♪ 時にはなぜか 大空に旅してみたく なるものさ 気球に乗って どこまでいこう♪教員になった1970年代後半から90年代頃までずいぶんとこの歌は歌われた。教科書にもあったし、明るい曲調とハミングは当時の小学生にはぴったりだったと思う。何より「気球」の持つイメージが希望とつながっていた。


 空を飛ぶ乗り物といっても飛行機やロケット、まして軍用機とは大きく異なるし、どちらかと言えば平和な世界の象徴のように感じる部分もあったのではないか。それが今はどうだ。「気球」といったときに何を思い浮かべるのか。数多くのニュースが報じる、情報収集のため?の飛行体か、安全を妨げる危険な飛来物か。




 もちろん、宇宙への夢を乗せた人工衛星であっても大型ミサイルとの区別がないこの世界情勢であれば、そうした従来からあった感覚は塗り変えられている。話は一気に縮小するが、現在議論?されている「マスク」の是非もそうだ。そんな遠くない昔、卒業式にあえてマスクをしてくる中学生たちの姿を見た事がある。


 あれは何か理由つけをしながらも一種の「反抗」の姿勢だった。個別的な出来事ではないと思う。マスクをつけること自体が重要な会合等において失礼にあたる雰囲気は確かにあった。コロナ禍前に新型インフルエンザ流行で、その感覚は緩くなったが、3年前からは明らかに逆転現象とも言える状況になっている。


 「マスクを外しますか」と訊かれた女子学生の「恥かしい」という声の多さに「顔は恥部になってしまったか」という気すらする。自分を晒すことの萎縮の進行が止まらない。一方で、空や海は伸びやかで広がりを持つ世界であったはずが、地上同様に支配をせめぎ合う場となっている。人間の夢はどこまで汚れるか。

参冊参校参稽(六)

2023年02月13日 | 読書
 まさに軽読書の見本のような参冊だった。でもそれぞれに味わいもある。


『上野千鶴子のサバイバル語録』(上野千鶴子  文春文庫)

 編集者が選んだ語録とはいえ、まえがきに書くように「女であることを愛してもらいたい、女でよかったな、と思ってもらいたい」と意図して発信してきた著者が、鉄砲でも撃ち込むようなテンポに仕上がっている。撃ち込まれる相手であろう男の一人としては、やられっぱなしだ。14「男はどちらかと言えば、自分を実力以上にかさばらせて見せたい動物だ」はお見事。15で「男性のすてきな年齢の取り方」とあり、それは「おばさん化」だと記す。いつぞや知り合いに「女性目線」と称されたことがある自分としては、少し救いがあるかな。その他、「家族」「親」という視点はまさに実弾だった。




『死ぬまでボケない1分間“脳活”法』(帯津良一×鳴海周平  ワニブックスPLUS新書)

 健康オタク自認者としては数か月に一度はこの類を読む。どうでもいい内容の本も多いが、これはなかなかお薦めである。医師とエッセイストの対談を進めながら、「からだ」「食」「心」それぞれの「調え方」として、具体的な方法を27項目挙げていく。齢相応に冒頭にある「末端を意識する」が参考になった。現実に数日前から始めている。そしていくらか睡眠に好影響も感じている。まあ、こういう思いこみがとても大事で、いいと感じ、信じて続けていく…これが諸々の健康を自分に活かす原則ではないか。だから飽きて換えてもよしとしながら、またぞろ健康本を買い、ピピッとくる方法を見つけよう。


『すべての神様の十月』(小路幸也  PHP文芸文庫)

 十月という設定があるのかなと思ったが読み取れなかった。神無月と掛け合わせたのだろうか。内容はそれなりに楽しめ、「動かない道祖神」の正体やお釜に宿る九十九神など短編ドラマにもなりそうに思えた。単行本では載っていない最終章の「迷う山の神」を書き下ろして文庫にした形だが、これがなかったらさぞかし中途半端だったろうなと感じた。冒頭で登場し、それぞれの章で話題になったりする「幸せな死神」の行方が落ち着かないからだ。それにしても「おまけ」に当てた「御蒔け」の字は見事。神様はかくあるべしということを、一言で言い切った。

想像の汚れた翼が…

2023年02月11日 | 雑記帳
 先月、隣市の宝くじ売り場で10億円!!という話題があった。その折も「もし自分だったら…」などと語りあったし、誰しも似たようなことを考えがちだと思うのだが…。今回またその件についてある噂(あくまでも噂と強調しておこう)を聞き、再び夫婦で話題にした時、改めて「とんでもない」ことだと思い浮かべる。


 当ったらどこ(誰)まで知らせるかが非常に難しい。一人の胸に秘めておくことなど到底無理だろうし、仮に家族以外に知らせた時「秘密」保持が成り立つのか。周囲に福をもたらしたい気持ちがあっても安易にしてもいいのか。話に聞くと様々な団体から寄付要請が続くらしい。連続する訪問・詰問に耐えられるか。





 知れ渡った時点で警備員など雇ったときに、その警備員が悪に手を染めている可能性だって十分あるのではないか。お金はおろか、命さえも狙われる危険がありはしないか。そう言えば、連日報道されている窃盗団?強盗団の話題。4人の名前が、いかにもどこにでもありそうだ。当然ながらそれぞれに出自がある。


 生まれた家があり、入った学校があり、友達がいて、仕事に就いていた時期の知り合いもいる。TV画面で思い出などを語っていた人もいた。一人同姓同名者を知っているので、さぞかし迷惑だろう。それはともかく、現実に身内があのような犯罪に手を染め顔と名前が放送されつづけたら、どんな心持ちになるものか。


 単なる顔見知りであれば、関係性を問われない。しかし家族、親族や深い付き合いがある者であれば、一体何故…と考える。個の弱さ、醜さと割り切り、関わりなしにしてしまうか。それにしたって、関係が深ければこの後ずっと付きまとい、憤りや憎しみを抱き続けていくのか…。あっ、汚れた想像しかできない。