すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

身辺雑記で折り目をつける

2021年06月30日 | 雑記帳
 今年も半分が過ぎようとしている。続く激動の年月ではあるが、結局何もかも日常の積み重ねに宿っていく。



6月25日(金)
 来月のことを見通して今月は早く図書館だよりを仕上げた。役場経由で渡らない箇所があるので、午前中に届ける。午後は読み聞かせに向けての準備。退勤後、お世話になった方へ届け物をしたら、逆に地物の苺を頂く。大きくて生命力あふれる味だった。陸上日本選手権男子100M、秘かに予想した多田が勝った。


6月26日(土)
 下の孫の2歳誕生日に合わせ、久々のフォトストーリー製作にかかる。一日でできるか。10時からは図書館の「絵本とあそぼ」に参加。ブログ更新。館員から、館内での中学生らの様子を聞く。帰ってフォトV製作を再開、朝ドラの主題歌二つを使って大急ぎで仕上げる。夕方の会食前に披露する。喜んでもらえた。


6月27日(日)
 一日休養とするつもりが、その前に昨日のフォトVの若干の手直し。報道では感染者増、減らない人出の情報が続く。五輪の開催有無はもはや論外か。WHOが言えば…との声もあるが、所詮何か根回しがあると疑いたくなる。リクエストした葡萄パンが焼き上がり、夕食時、久しぶりのライ麦ビールとぴったり合う。


6月28日(月)
 朝は2歳なり立ての孫と散歩するが、連れていく方向へ足が向かない。なかなか頑固者(笑)だ。お昼は今シーズン初のそうめん。午後からコロナの予防接種一回目で会場へ出向く。受付で最初に検温したら、なんと37℃。あれっと再び測り6℃台になり、それから問診・予診・接種…と続く。ほぼ1時間で無事終了。


6月29日(火)
 副反応は軽い腕の痛み程度。通常に出勤する。10時から保育会の評議員会があり、すぐに退勤。年度の大事な会でもあるし、気づいたことは喋った。お昼から図書館へ戻り、エントランス掲示の準備などする。秋田市の小学校でクラスターが発生したり、千葉の小学生の痛ましい交通事故があったりで、大変な一日だ。


6月30日(水)
 久しぶりの自転車通勤。出勤してすぐ忘れ物に気づき引き返す。午前中にエントランス掲示を完成させ、ブログアップ。「花」の詩は実にいい。午後からは今後のPR大作戦!の準備を始める。帰宅後また二人の孫と戯れる。今年の折り返し、まずはそこそこ健康で乗り切れたことに感謝。細やかな愉しみを大切にしたい。

幸せのカタチに手を出す

2021年06月29日 | 読書
 
 夏椿…この花も「一日花」。今日この日しか咲かない

「二度寝」「番茶」という取り合わせが描く世界とは…。具体的な出来事や象徴語として、この本には言葉として出てこなかったように思う。自分なりに近づいてみれば、「幸せ」それもバリバリやウオーッという高揚感の方ではなく、ノンビリ浸っていられる感覚、このせわしない世の中を一つ俯瞰してのごろ寝だ。


『二度寝で番茶』(木皿泉  双葉文庫)


 冒頭のエッセイ「気まぐれな店」に登場する「カレー屋の主人」の行動には、最初吹き出してしまった。その後、じんわりと「フロー」とはかくあるべき精神のことかと納得する。主人はカレーをラーメンに換え、スープの味もどんどん変え、さらにスープの味を客に任せ、はてにバイトを残して、店から姿を消した。


 おそらくは放浪の旅へ向かった主人。何事にもとらわれず、目の前の興味あることだけを、心のままに追っていく…満たされた心の連続によって何に届くか、何が残るかなど眼中にはないだろう。そこには徹底的に「自分」だけを見据える姿がある。その意味では一徹にある「道」を極めるために貫く精神と似ている。


 さて夫婦二人の対談は「キニナルキ」の宝庫であった。大福(夫)の口から出てくる言葉が多いが、カッパ(妻)の受けと返しもタイミングが実にいい。さらに、引用されている小説、エッセイ、詩や詞の部分も印象に残る。それらは取り合えず省いて、対談中のフレーズからナルホドと膝をうった(実際は打っていないが)三つ。


「自由とは、選択の余地がないがんじがらめの中で獲得するものです」

「ふだん我々の日常は川のように流れていて、その下に何があるかは見えないそうです。だから、時々、川をせき止めて下に何かあるか確かめなければならない」

「ゆっくりゆっくり、後ずさりしながら見渡すものが増えていく。それが年をとるということです」



 ほとんど手を出したことはないが、夫婦のドキュメントのDVDボックスがあったので、買ってしまった。

梅雨期の読書は五月晴れ

2021年06月28日 | 読書
 今月は後半になって、結構「読める」本に出合った。まとまった感想は記せないが、メモだけはしておこう。


『願わくは、鳩のごとくに』(杉田成道  扶桑社)

 もちろん『北の国から』フリークを自認する者として、杉田演出もしくは監督映像作品は注目してきた。ただ著作は読んだことがなかった。2010年発刊の本なのでドラマ終盤そして最終回の件が実に興味深い。
 しかし、本の中心は著者自身の家族や再婚のことで、57歳にして30も年下の女性と一緒になった波乱のドラマ(笑)は面白い。結婚式の参加者へ渡したという手紙の一節が全てを物語る。
「変化するのが人の世ならば、どんな変化もお友達」



『逃亡小説集』(吉田修一  角川書店)

 「逃げろ ○○」と題された4編からなっている。いずれも読ませる。吉田作品の中でもかなり読みやすい部類だ。
 読了後ふと思い出したのが『スマホ脳』という新書に書かれてあった、私たちの現実とは大昔から「闘争か逃走か」の連続であるということ。受けとめて立ち向かわなければ逃げるしかない、ごく当たり前の選択はいつも目の前だ。
 この小説では結局「立ち向かう」機会をつぶされたり、逃したりの連続によって「逃げる」行為がクローズアップされていく。同化しそうになる自分が見え隠れした。



『二度寝で番茶』(木皿泉  双葉文庫)

 数年前、ある若い方に「意外と女性目線ですね」と褒められた(?)ことを思い出した。というのは、この文庫の「帯」の惹句(読了してから目についた)は小泉今日子、窪美澄、川上弘美と、いずれも女性であったから、そして三人が書いている文章にも共感できたからだ。
 夫婦ユニットの脚本家によるエッセイ数編と、二人による対談によって構成されている。実にぴりりとしている文章、そして言葉のキャッチボールがまた素晴らしい。
何度も読み返したくなる」はまさにその通り、現にすぐ読み返した部分もある。
 そのメモは明日へ。

手づくりの風を吹かす

2021年06月27日 | 雑記帳
 下の孫の2歳の誕生日が近づき、爺さんらしく何かプレゼントを…と思っていた。上の孫の時は、こまめにフォト&ビデオストーリーを作っていたけれど、少し余裕がないというかやや飽き気味というべきか。先日、知人のFB発信を見たら、しばらく動画編集ソフトを起動さえもしていないことにも気づかされた。
(…結局、笑顔が見たくて老体に鞭打ってVも作りました)


 書棚から風呂場読書にと思って何気なく取ったのは、あのNHK連続ドラマの時に『暮らしの手帖』が、別冊として「花森安治」の特集をした号だった。あの「とと姉ちゃん」も結構面白かった。今放送中の朝ドラ「お帰りモネ」の出演者に、その時の男優陣が多いのは偶然か。それはともかくこんな文章を見つけた。


「人間の手のわざを封じないようにしたいというのは、つまりは、人間の持っているいろんな感覚を、マヒさせてしまわないように、ひいては、自分の身のまわり、人と人とのつながり、世の中のこと、そういったことにも、なにが美しいのか、なにがみにくいのか、という美意識をつちかっていくことになるからです」


 これは、花森安治の絶筆とされる記事の中の一節だ。教育に関して述べてある文章であり、当時学校に導入された「道具」などは今見れば、まさしく「」に直結しているものばかりだが、それでもこうした杞憂を抱いていたことは、もはや我々など毒され身動きとれない状況なのか。せめて今できることをやらねば…。


 さほどに大層な考えはないが、破けた古い団扇があったので写真を貼りつけ手づくりしてみるかと思った。PCを使って印刷した後は、切り抜きや貼りつけなど存分に手を動かす。やはり少しは思いが込められたかな。乱れや曲がりの部分が手づくり感に満ちている。もう1人分もやらねばと気を遣い…完成しました。





意気地なし、また笊を持つ

2021年06月25日 | 読書
 何度読んでも心に残る文章がある。

 読み返したくなる訳は、時々そうしないと忘れそうになるからというより、そこに浸る時間が好きなんだろうと思う。
 ということは、裏を返せば、実際に行動できない意気地なしか暇人であるという、怖い現状を物語ってもいるのだか…。



 読書ファン向けの雑誌『ダヴィンチ』の、もう15年以上も前の号である。
中島みゆき特集」があり、歌の題名に合わせて詩人や作家が、詩や掌編を書くコーナーがあった。

『杏村から』という曲に対して、同名の掌編を書いたのは作家堀江敏幸

 曲ではサビが「♪杏村から便りがとどく きのう おまえの誕生日だったよと」と繰り返される。
 堀江は、その部分からインスピレーションを働かせて著したのだろう。
 幼い頃父母を亡くし、今は都会に暮らす娘に宛てて、故郷の伯母さんから毎年とどく杏のジャムと短い手紙の物語だ。娘の独白は、こう締め括られる。

この年になって、わたしにもわかってきた。大事なことは、少し遅れてやってくるんだって―――伯母さんが詰めてくれた杏のジャムみたいに、そして、だれかを想う心の疼きみたいに。


 中島みゆきと糸井重里の対談も繰り返し読む。
 
 出色は糸井が中島の質問に答える件だが、そこはさておき、今日は中島がこう語った部分を拾っておこう。

 流行りを求めて歌をつくるタイプではないことは周知なわけだが、彼女の姿勢はこの一言に尽きると思った。

私には何ができるのかと思ったとき、速さより遅さだと思い当たったんです。先を急ぐ人たちは、たいてい何かを落としてしまうものだから。笊を持って、それを拾っていこうかなと。それを磨こうかなと。

運が悪いとか運がいいとか

2021年06月24日 | 雑記帳
 先日、ラジオを聴いていたら某外国人タレントが、視聴者の声に対して「日本は運が悪い」と応えていた。オリンピックとコロナ感染をめぐる政治のあり方を問うものだった。当然、番組キャスターが「いや、どうするかという問題だと…」とフォローしたが、「運」の問題にしてしまえ…傍観者的には、それが正解か。


 報道されない、いや話題として載っても大きく取り上げられない情報は結構ある。例えば「聖火リレー」におけるスポンサーの派手な前触れPRなど、五輪開催に前向きな方々は沿道応援でどう見たのだろうか。それとも、こんな田舎には宣伝効果なしで少なかったか。そう思うと1964五輪のリレーは牧歌的だった。



 去年の始まりから時々見ている「新型コロナ感染症情報センター」というサイトの「速報」で、全国状況を見ていたらオッと思った。秋田県民なので当然そこは気にしている。ここ数日も数人出ている程度なので数値的には低いままかなと思ったら、異常に?高い数値が一項目ある。全国でダントツの高値を示している。


 「実効再生産数」つまり「1人の感染者が次に平均で何人にうつすかを示す指標」。よくTVで見聞きする。確か「1を超えない」それが基準なはず。本県は、なんと「3.83」!どういうこと?…一箇所で固まって感染する、クラスターが多い。それは逆に、その場以外の拡がりが抑えられているということ?人流の少なさか。


 ちょうど今BSで放送中の「こころ旅」は、秋田県を廻っているが、まずほとんど人の気配がない。コロナで避けている点もあろうが、本当に初夏の自然だけがクローズアップされている。現況では、こういう地方に住んで「運がいい」と思うべきなのだろうか。…関係ないな。来週に一回目の接種をする高齢者でした。

それさえあれば、中古も新しい

2021年06月23日 | 読書
 新書を購読する率が高い。風呂場読書が多いのでそれもどちらかというと中古本だ。古くて何が「新書」かという思いもあるがそれはそれ。選び方は、本屋だとやはり題名・著者・発刊時期が観点だ。ネットで購入するのは、やはり誰かのお薦めであったり何かの情報収集であったり、こちらは、やや固定化傾向か。


『先生はえらい』(内田樹 ちくまプリマ―新書)

 知人に書いてもらった図書館広報のお薦め本として挙がった。内田フリークとしては発刊当時(2004)読んだはずと書棚を探したが見つからずに注文。中高生向きとはいえ、相変わらずの内田節満載の一冊だ。書名の意味は、つまり「学ぶ」とは何事か、「先生」という存在とは何かを示す。「学ぶ」ことの入門最適書だ。


 江戸時代の有名な川柳「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」に象徴されるように、先生像とは多種多様だ。しかし「先生」の定義をこう言い切った所に、さすが内田先生と、我は呼ぶ。「先生というのは、出会う以前であれば『偶然』と思えた出会いが、出会ったら『運命的必然』としか思えなくなるような人のこと





『つながる図書館』(猪谷千香  ちくま新書)

 たまには正面きって仕事の本を…と拡げて読み進めたら、頷きとため息を繰り返すことになってしまった。副題が「コミュニティの核をめざす試み」で、全国各地の「変わりつつある図書館の最前線」が紹介されている。もちろん職業上、情報として知っていた例もあるが、手の届かないもどかしさが再燃してしまう。


 当事者の一人として言えば、政治・行政のどのレベルが「動く」かによって、図書館とコミュニティとの関連性は規定される。これは逃げではなく意識改革、業務改善の冷静な戦略を練ることに直結する。今出来ることは「無料貸本屋に留まらない」「外へ仕掛け、内へ引き込む」という二つか。手をどこまで伸ばせるか。

取り扱い注意の作家をまた読む

2021年06月21日 | 読書


 作家佐藤正午のユニークさは、ファンでなくとも文芸界?では周知のことなのかもしれない。初めて小説以外の文章を読んだが、これもまた独特さが際立っている。岩波書店の『図書』で「書く読書」として連載された文章をもとに新書化された。著名な小説家たちの名前と名作がずらりと並び、その書き方を突く。


『小説の読み書き』(佐藤正午  岩波新書)

 冒頭の「川端康成『雪国』」が典型である。有名な書き出しに注目しながらも、「難しくてぼくにはいまいちわからなかった」とも書き、川端の表現について「なぜ」を連ねていく。作家の表現の選択の理由を、読者としてどこまでも追いかけていく姿勢をみせる。現実に限界があるとしても、それが「読む」ことだ。


 小説の文章を読み、頭に思い浮かべることを「書く」「書き直す」行為と同様と著した者が他にいたろうか。佐藤はこう書く。「読者は読みながら小説を書く。読者の数だけ小説は書かれる。小説を読むことは小説を書くことに近づき、ほぼ重なる」もちろんそれは、書き手であれ読み手であれ、個の資質によるのは明白だ。


 自分はもちろん小説など書けないし、読み手としても半端だ。注意力散漫で見えていない部分の不安を抱えながら読んでいる。「開高健『夏の闇』」の章にある「登場人物たちの視力の弱い小説」という表現は著者なりの「恋愛小説の定義」だが、視力の弱い読者には、能天気な現在と未来しか見えていない意味になる。


 最終章は「佐藤正午『取り扱い注意』」で連載にはない自作が取り上げられた。編集者の当初から要望であったらしい。この作家は「ややこしいことを、ややこしく書く」のが得意であり、それが書名と通ずるか。ただ「語りでは世界最高峰」と持ち上げる人気作家もおり、またぞろ取り扱いに注意して読もうと思った。

うしのうしろ、うっしっし

2021年06月20日 | 絵本
 年明けの頃に「うし年」でもあるしその題材で何かないかと館内の本を探してみたが、今一つぴんとこなかった。ネット検索をしたら、内田麟太郎の「うし」という絵本を見つけた。Youtubeで詩人自身が読み、絵を描いた人がインタビューを公開している。これは面白いと思い、他館へ借りにいく。その後に購入した。


『うし』(内田麟太郎・詩 高畠純・絵 アリス館) 



 いわゆるナンセンス絵本と呼んでもいい内容だ。重なっていく繰り返しの結びにオチがつく。小さい子から大人まで、ニヤリとしてくれるに違いない。家庭内で一人を相手に読むときは、きっと二度目からは一緒に声を揃えたりするのも楽しいだろう。そしてもしかすれば、牛のまだら模様にも気がつくかもしれない。


 さて、集団を相手にする場合は、年齢層にもよるが二通り考えられるように思う。一つは作家が読んだように淡々、坦々と読んでいく。聞き手自身が次を予想し心が高まっていくはずだからそれが自然か。ただもう一つ、始めは平板に徐々に緩急などをつけ盛り上げることも可能だ。読み手も一緒に驚きをみせていい。


 これは詩が先に出来て、あとから絵をつけたという。しかし「絵本」として完成形になった気がする作品だ。絵本には「文でわかることは絵にしない。絵で分かることは文にしない」という大きな前提もある。しかしこの場合は詩の「文」はページをめくっていく進行役のイメージが大半だ。めくる時間にも配慮が欲しい。

「正欲」と名づけ沈黙する

2021年06月18日 | 読書
 放送局のモニター評価では観点の一つに「新しい知識や情報が得られたか」がある。メディアの見方でなくとも、個人の読書の観点も意識無意識に関わらず当てはまるだろう。その意味で、この直木賞作家の書いた新作はだった。えっ、そう…なんとなく聞いていたこととはいえ、鮮明に浮かんだ事実があった。


『正欲』(朝井リョウ 新潮社)



 著者の作家生活10周年記念と宣伝された長編小説。出版社PR誌である『波』に多くの声が寄せられていた。中に高橋源一郎の「みんなのヒミツ、暴かれた。朝井さん、やっちまったね。どうなっても知らないから」という一文があり、惹かれた。「読む前の自分にはもどれない」という評価も、あながち誇張ではない。


 私たちは簡単に「多様性」と口にするが、その範囲はあくまで想定内でしかない。自分が思ってもみなかった事象についてはどんな接し方ができるのか。私であれば、それに近い何かの範疇に入れようとするか、そうでなければ「その他」として封印し、関わりを避けるのではないか。そうやって生きてこなかったか。


 小説の語り手(登場人物)の一人でいえば、自分は寺井啓喜そのものに近い。持ち合わせた知識や思考に根本的な疑いを持たない。検事という職業上の特質とも言えるが、社会通念へのすり合わせが第一義となる。他者との比較が目を曇らせ人を丸ごと捉えられない。「多様性」を概念の理解だけに落とし込めている。


 登場してくる「事件」の当事者たちを、極端な「性癖」とみなす思考では、結局何も変わらないだろう。認めるにしても突き放すにしてもそれらを「正欲」と名づけ、しばし沈黙してみよう。内容として深く関わるわけではないが、あの『うっせえわ』という曲が時々頭の中で鳴るような、ガツンと来る小説であった。