すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スタイルへの憧れこそ

2008年03月27日 | 読書
 『子どもの集中力を育てる』(斎藤孝著)の「まとめ」に、納得の文章が書かれている。

 幼児教育にも、学校教育にも、それぞれの潮流があり、スタイルがあり、それを肯定した上で、それぞれのスタイルにおいて一流かそうでないかというふうに考えていかないと、不毛な原理原則的な議論に終始してしまいます。

 様々なスタイルを認め、スタイルの本質を見極めた実践が行われているかどうかで判断していくことが重要になる。
 そうすればそのために、まずそのスタイルに没頭してみることが必要といえるだろう。

 今、普通の公立学校においても様々な目配り、気配りが求められ、複眼的な思考は必須である。しかしそれは、たとえば「授業のスタイル」まで総花的にすることとは違うだろう。
 自分の惚れるスタイルを突き詰めてみることでしか、一流に近づけないのは、様々な仕事、研究などにおいてもはや自明のことではないか。

 斎藤氏は「型やシステム」を重視するスタイルを持っている。
 そしてそれが効果を上げるためにセットされるべきものとして「教師の生き生きとした身体性」を挙げている。
 教材や呼吸法の具体的な手立てももちろんそうなのだが、その生き生きさを産みだしていくものは、やはりスタイルに対する、もしくはスタイルを具現化している人への「憧れ」なのだと思う。

 道を見出すためには、もっと強く意識してみることだ。

センスとエネルギー

2008年03月24日 | 読書
 久しぶりに齋藤孝氏の本を読んでいる。

  『子どもの集中力を育てる』(文藝春秋)

 氏の本はずいぶんと読み込んでいるので、この本自体にことさら目新しい主張が発見できたわけではないが、読み直しの感覚でいくつか響いてくることばがあった。

 センスとは何となくの感覚ではなく、認識力です。
 
 スポーツのセンス、音楽的なセンス…結構簡単に言い切ってしまいがちなことばだが、教育の用語としてとらえると突っ込みどころのある言葉だ。

 環境が凝縮されると、エネルギーが逃げません

 場の広さや設定に気を使うのはなんのためか、子どもに対応する教師の動きはどうあるべきか、それらを子どものエネルギーの流れという意識でとらえることは興味深い。

 学校の目的は、上達の普遍的な論理を身につけさせることに尽きます

 どの段階で何をすべきか、「上達」と言い換えて考えてみたいことはたくさんある。

 などなど、新学期に向けて貴重な刺激となっている。
 引用した箇所は、齋藤氏得意?の太字体になっていないが、それも自分のセンスなのかなあなどと思ってみる。

しっかりした玉止めの終り方

2008年03月19日 | 教育ノート
 「玉結び・玉止め」を習ったのは、たぶん小学5年生だと思う。
 指で糸をねじり慎重に引いていく…初めの頃ははりつめたような心でやっていたような気がする。うまく形ができた時の嬉しさも確かにあった。
 その形から「終」が出来たなんて思いもしなかったが、考えてみればナルホドである。句点、ピリオドにも似ているし。
 校報には糸玉の方を取り上げてみたが、自分に言い聞かせるのはしっかりした玉止めの終わり方だろう。
 今日は卒業式。
 
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 「糸」と「冬」の組み合わせ。
 「冬」は成り立ちに様々な説のある漢字です。糸の末端を結びとめる形からできたとされ、そのように糸を結んですべて終わるという意味から「終」になった説があります。
 また、冬は「たくさんの収穫物を貯えた一年の終わりの季節」という捉え方もあり、糸巻きの終わりまでたくさん糸を巻きつけた玉が「終」であるという説もありました。
 
 学校にとっての「終」も後者の意味のようにありたいものです。一年間の行きついた先は、やっぱり多くの収穫があってほしいし、新しい季節に向かってのエネルギーになる力が十分に蓄えられてほしいと思います。
 本校の19年度もそういう終わり方だと信じたいものです。
(3/18)
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週末に見識を

2008年03月17日 | 雑記帳
 久々に何の予定もない週末。
 花粉もひどくなってきたので、ひたすらに篭った二日間だった。おかげで十分に充電?できた。教育書2冊、新書が1冊。録って置いたテレビ番組3(うち映画が2)、その他雑誌もろもろに目を通すことができた。

 『大人の見識』(阿川弘之著)。
 戦争前後の人物エピソード集としてなかなか面白いと感じた。流行語ともいえる「品格」は、そこへ到達するために具体的な手立てがあるのかどうか少し難しい気もするが、この「見識」ならば、一定の学習があれば備わるようにも思えた。そのためのキーワードは「温故知新」であり、いつも口にしながら「温」の意味を考えたことのない自分の見識を改めて疑わせてくれた本である。

 NHKのプロフェッショナル仕事の流儀は、サッカーゼネラルマネージャー祖母井秀隆の回を視た。
 細かい点で納得できることがたんさんあったが、一番感じ入ったのはオシム監督の招聘に関わる場面である。「人を動かす」のは人であり、熱意であることを改めて思う。熱意とは何かと考えたときに、目的を目指す強さと言い換えることができるかもしれないが、そこに「筋」や「信念」があるかないか、問われるのはその点のような気がする。

 テレビのワイドショーで痴漢冤罪のことが繰り返し取り上げられていたが 「それでもボクはやってない」は、裁判に関して知るには絶好の映画だと思った。最終的に国家権力につながるものの巨大さや暗黒さを感じてしまうが、同時に「心証」という点の大きさも浮かび上がっている。
 それにしても、二人目の裁判官役の小日向文世の上手さはなかなかだ。最近主演ドラマもあるが、名バイプレーヤーと言い切ってもいいほどだ。翌週の「UDON」と比較してみたので、強く印象に残った。

結果をつなげる楽しみが

2008年03月15日 | 教育ノート
 今年度の研究テーマに直接結びついたものではなかったが、辞書引きは去年の三学期からの一つのポイントととらえていた。三月になって集約として、2年生以上の記録を測ってみた。
 好記録続出。素直にうれしい。
 ここから、来年度へどうつなげていくか。楽しみが湧いてきた。
 

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縷述 「つながる授業」34

 自ら積極的に課題や問題を読み取り、解決していこうという姿勢…本校児童に身につけさせたい点ですが、それを考えたとき「わからない言葉などを指示されなくても自分から進んで辞典で調べる姿」は、まさしく一つのポイントだと思うのです。そこを目指すためには、どんなことが必要か、新学年を前にもう一度振り返ってみてもいいのではないでしょうか。
 むろん、国語辞典は一つの技能でしかありません。しかし特化した何かを持つことは、他の活動にも波及しますし、子どもの自信にもつながります。あれもこれもが小学校の仕事ですが、ある程度焦点を定め、必達ラインを設定して実践することは、きっと「強さ」につながるはずです。(つながる授業14より)

 これは昨年の同時期に書いたことですが、今もまったく同感です。
 さて、今年度の「辞典早引き調査」を終えて、改めて次のように総括してみます。

 ①全体的なレベルアップは順調であり、学年による差もあるが妥当な範囲と考えられる
 ②上位の意欲的な子たちは、探すための読み書きの速さも優れていることがわかる
 ③記録の伸びが今ひとつの子は、単に辞書引き技能面だけでない問題を抱えているようだ

 この後も全校的な調査を継続していくかは検討の余地がありますが、例えば学年によって「全員○分以内」といった到達目標を掲げて取り組むことも可能ではないでしょうか。高レベルを目指せると思います。

 野口芳宏先生が何かの機会にたしか「言葉へのアタック力」ということを口にされたと記憶しています。もちろん辞書引きの速さだけではないのですが、言葉を追究しようとするときの大きな下地にはなっていくでしょう。

 社会科の名人である有田和正先生は、遠足に辞書を持たせたと言います。行く前に「遠足」を調べさせ、学校を出れば「校門」を調べさせ…、こうした徹底さも追究力を高めるきっかけになるはずです。

 語彙力のことはどこの学校でも課題としてあがりますが、「読書」以外にはあまり有効な手立てもないのが現状のような気がします。その読書の一分野として辞典類をとらえることもできますし、応用・活用という面ではこれほど可能性が大きいものは他にないでしょう。
 教室に多種類の辞典・事典を入れようと考えています。
(3/14)
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感情労働者の戯れ言

2008年03月14日 | 雑記帳
 感情労働者としての教師

 実に興味深いタイトルだなと思って、その連載を読み始めた。
 心理学の専門家として著名な深谷和子氏の文章である。

 ホックシールドという社会学者の主張により、以下の定義づけがされている。

 肉体労働者と頭脳労働者の言葉はあるが、それと並ぶ言葉が、感情を酷使する「感情労働者」の概念である

 客室乗務員や集金人がその例として挙がっているが、深谷氏はサービス業全般を指しているとし、看護師や教員、保育士も該当するだろうという。
 自己主張する子ども、そして背後の親に対する「感情」を意識しながらの仕事であることは確かだ。むろん教員は頭脳、肉体どちらも酷使している気がするが、感情という言葉が出てくると、もしかしたら最上位はそれかな、とふと思ってしまう。

 それにしても「肉体労働者」「頭脳労働者」と比較してみると、実におもしろい。
 「肉体や頭脳(の酷使)」と引き換えに報酬を得るとすれば、「感情労働者」は「感情」を引き換えにしなければいけない。教員が報酬と引き換えにする感情とは、対象にいい印象を持たれるためだけのものではないだろう。対象が「育つ」感情である。それは、果たしてどんなものか。

 ごく単純に「喜怒哀楽」と限定したとき、そのバランスは「喜」「楽」を多めに、「怒」を随時、「哀」はまれにというようなものだろうか。
 教員のタイプは様々であっていい。しかし、やはりシンプルに「やさしいけれど、厳しい」という形容詞が、対象へ向かう性格としてはふさわしいだろうし、それを基にした感情の発露でありたい。
 それにしても、学級担任であれば、以前よりそれらの感情をストレートにぶつけにくくなっている現実があることは自明であろう。

 あれこれ考えてくると「労働者」にとって、最も大切なことは「タフさ」だと気づく。肉体しかり、頭脳しかり、そして「感情」も。
 では、どんなふうに鍛えていくというのだ。
 そもそも、肉体と同じように鍛えられるものなのか。
 頭脳はなんとなく鍛えられるイメージがあるのだが、感情となると難しい。

 ただ、感情の出し方なら鍛えられるだろうし、そのコントロールの強さをタフさと言い換えることはできるのかもしれない。

その先を根から見据えてみる

2008年03月13日 | 教育ノート
 新学習指導要領案について考えてみることは、改めて自分の構えを問い直すことである。
 今取り組んでいることの意味づけを明確にすることでもある。ただ、性急にならずじっくりと咀嚼する必要があると思う。
 慌しい年度末だからこそ、よけいにそんなことを思う。

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 先日参加したある研究会の話し合いで、進行役の教育雑誌編集長が「インターネットが使えない人はどんどんと遅れていきますよね」とやや皮肉っぽい口ぶりで、論者の一人に問いかけました。ご高齢であるその大学教授は「いや、私はゆっくりゆっくり行くのです」と返答し、会場の笑いを誘いました。
 この会が先日発表された新学習指導要領案の是非を話題にしたことを考えると、なかなか象徴的な場面であったと振り返ることができます。
            
 4日に行われた最後の全校PTAの折、全体会で少しだけ「情報に強くなる」という話をさせていただきました。今年度ずいぶん話題となった「全国学力調査」の6年国語の問題を例に出しながら、情報を読みとり、考え、表す(伝える)といった学力がずいぶんと強調されていることなどを切り口にしながら話しました。
 同時に「ネット社会」と称される現代の怖さや身近にあったトラブルなどにも触れました。子どもを育てていくうえで、情報社会とのつき合い方がかなり重要になっている現実を確認したかったのです。                      

 パソコンが使える、英語を話せる…子供たちの未来にとって大事なことです。しかし、それ以上に重要なのは「機器を使って何を表すか」「英語で何を伝えるのか」であり、内容の浅いコミュニケーションや独善的な表現活動だけであったら、まさに本末転倒と言えるでしょう。
 今この時期にどういう力を育むのか、私たちにも冷静な目が要求されています。
                  
 今年度本校では「音読」や「国語辞典」に力を入れ、声を響かせ、言葉に迫る時間を大切にしてきました。様々な体験活動とともに心と体を耕しているなあ、と思わされることがしばしばありました。こうした土壌作りこそまさしく小学校の使命でしょう。
 そこに何を植え、伸ばしていくか…その見通しは学校だけでは語れません。
 ともあれ、今年度も地域の皆様よりたくさんのご理解、ご支援をいただきました。本当にありがとうございました。
(3/15予定)
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稽古の時間の問題

2008年03月11日 | 雑記帳
 休日、BSで長時間にわたって立川談志の特集をやっていた。談志ファンではないが、その「毒」が妙に魅力的に感ずるときもある。
 昨年秋に視た番組がその中で取り上げられていて、その折も少し書いたが、またぞろ見入ってしまった。
 あの審査の場面は何度見ても凄い。
 特に、談志がある前座に問い、指示する場面。正確ではないがこんなやりとりである。

「いくつ、落語が話せる」
 「50は話せます」
「じゃあ、その50の演目を言ってみろ」
 「○○、△△、□□、◇◇、…」
「その◇◇を話してみろ」
 「・・・おいっ、~~」

 職業柄?すぐにこれを教員の場に当てはめるとどうなるかと思ってしまう。

「いくつ、漢字指導の方法を知っている」
 「15くらいは知っています」
「じゃあ、その15を言ってみろ」
 「空書きによる指導、口唱法、あわせ漢字、画数を足す…」
「その画数を足すっていうのをやってみろ」
 「はい、まず黒板に『口』という字を十個書きます~~」

 こんなやりとりは到底できないと思うが、どこか憧れを持ってしまう。
 一方的な表現の場ではないし、対象によって大きく方法や言葉遣いが違う、何より莫大な内容がある…等々
 様々な条件はあるのだが、極力限定した形であってもなかなか実現できないでいるではないか。

 現実として、何が足りないのか。
 落語家との違いは何か。
 それは、言うまでもなく「稽古」である。
 稽古の時間をどううみ出すか、それが問題なのである。

自分を送り出す季節

2008年03月06日 | 教育ノート
 六年生を送る会が催されると、いよいよ大詰めの近さを感じる。
 今年の雪の高さはまた格別だけれど、ちょうどその日から少し雪がやさしくなり、温かく見えるほど、ゆっくりと舞い落ちるようになった。
 大切なものを送り出す季節がやってきた。

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 (しんにょう)は「すすむ」ということ、(旁部分のそう)は両手で物をささげ持つ様子であり、組み合わさって「物をそろえて他の場所へもって行く、とどける」という意味になりました。
 それが第一義ですが、春の季節によく使われる「送別」「送迎」という言葉が示す「去る人となごりを惜しんで別れる」という意味もあります。この場合の送るは物だけではなく、気持ちも届けるということになるでしょうか。

 昨日の「送る会」では感謝の心がきちんと六年生に届けられたはずです。
 さて、卒業式まであと二週間。六年生19名には,その日までいろいろと送られるモノ、コトをしっかり受け止め、前向きの心で自分自身を新しい場所へ送り出してほしいものです。
(3/5)
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言語技術教育学会参観記…2

2008年03月04日 | 雑記帳
 大会テーマ「論理的な『言語力』を育てる国語科の授業~『新学習指導要領(案)』の検討~」をめぐる協議・検討は、6名の指定討論者によって行われた。

 「新学習指導要領(案)」については新聞等によるポイント解説程度しか目をとおしていなかったし、一部が資料としてあり一流の講師の面々の評価を聞くことができるのは、それだけで勉強にはなる。それにしても、学校現場では本来ならば十分に研修を積むべきことであろう。そうした余裕を持てない、作り出せないのは学校を預かる身として反省しなければならない。
 大森修氏は、今回もそのあたりをついた。

 通知表の項目が学習指導要領のどこにあたるのか指摘できない、まったく関係ない内容を挙げているようないい加減な教師がいる

 まず自分に引き寄せて、学習指導要領に関心を持つ、持たせる工夫が求められることを再確認した。
 私たちの中にある現場感覚とずれているとすれば、それはどこなのか、なぜなのか、もう少し整理を加えていくことだろうと考えた。

 さて肝心の協議は、確かに刺激的だった。
 学習指導要領に関して、「論理的な言語力」「伝統的な言語文化」「活動領域と能力領域」「道徳性」「教科書」…このあたりがキーワードだったと言える。
 今回は小森茂氏が「『水』と『油』」と比喩したことが印象的だった。
 グローバルな社会への対応と伝統文化の尊重が、どういう形で実現していくか。
 小森氏は最後にこう語った。

 今回の学習指導要領には、いろいろな思いをもった人が入り込めるようなしかけがある

 ということは、様々な人によって振りまわされる危険性もあるということではないか。
 かなり注意深く、複眼的に思考することが求められる。

 といろいろ学んだのだが、今回の指定討論は、正直今までよりもずっと物足りなかった。
 高橋俊三氏風に、点数をつけると50点ぐらい。
 進行の歯切れが悪かったことがマイナス15点。発言者の時間厳守についてもアバウトだった。フロアにも意見を求めない。
 さらに指定討論者のメンバー不足でマイナス35点(個人的にはそのうち25点は野口先生がいないこと。いれば絶対議論は盛り上がった)。常連である何人かの理事の先生方がいないことがさみしかった。

 唯一所属しているこの学会に、一番開かれてほしいと願っているのだが、このままでは「検討」の仕方が多面的と言えなくなる。