すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

人生の幅は質である

2016年07月30日 | 読書
 Volume12

 「人生の長さは自分で決めることが出来ないようです。どうも神様が決めているらしい。でも人生の幅は自分でも決めることが出来る。」 

 障害を持ちながら20代で会社の経営者になった垣内俊哉氏の言葉。
 この文章のあとに、90年を幅1キロで生きたときと、50年を幅10キロで生きたときの「面積(内容)」の比較が記されている。

 こういう独特の発想に初めて出会った。
 難病を抱えての壮絶な人生から繰り出されたものだろう。それゆえ「障害を価値に変える」という考え方が生まれてきたか。



 「人生の幅」とは、「質」と言い換えられる部分もある。
 しかしまた、「幅」の方がよりアクティブなイメージを持つように感じる。
 おそらくは行動が規制されるゆえに、より範囲を広げようという思考になる。
 それを実現させようという強い意志が、質につながらないわけがない。

 ただただ固定した道しか歩めなかった自分を叱咤してみる。

美しさは簡素ななかにある

2016年07月29日 | 読書
 『禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本』(枡野俊明  幻冬舎)


 こうした類の本を、時々精神のデトックスといった感じで読むことがある。特に禅に関するものには禅語等が出てくるので、言語や歴史への関わりという意味でも興味深い。そもそも題にある「所作」が仏語でもある。国語大辞典には「身・口・意の三業が発動して造作する具体的な行為、能作に対していう」とある。


 当然、所作は心から発動する。それを踏まえながら、著者は「もっとも重要なところ」として、こんなふうに書く。「『心』に比べると、『所作』は整えたり、磨いたりすることが比較的やさしいということ」。この本はいわば行動論と言ってもいいのである。そんなふうに読めば、それに伴って変化する心も見えてくる。



 美しさは簡素ななかにあることが、この本を貫く一つのテーマだ。沢山のエピソードがあるが、沢庵禅師と柳生宗矩の逸話が実に印象的だ。雨のなか外に出て濡れない極意を問われ、宗矩は雨を剣で滅多切りする。それに対して沢庵はじっと雨の中に佇みずぶ濡れになる。曰く「雨とひとつになる」うーん、禅らしい。

 
 「逢茶喫茶 逢飯喫飯(おうさきっさ おうはんきっばん)」という禅の教えが書かれている。「お茶を飲むときはお茶を飲むことになりきればいい、ご飯のときは、ただ食べることになりきればいい」という意らしい。美しさとは人目や見栄えを気にすることでなく、対象とひとつになること。所作の神髄が感じられる。


 「見立て」という言葉がある。「見定める」の他に「なぞらえる」という意味があることは知っていた。芸術表現、心理学用語としても使われる。ここでは「茶の湯」の考え方として、「壊れても減っても別の何かとして使っていく」精神をそう呼ぶとあった。物の扱いの基本として心に留めたい。もしかしたら、人も同じか。

ド素人の楽しみ方

2016年07月28日 | 雑記帳
 久しぶりに県立美術館に行ってみた。今回の企画展「異界をひらく」に少し興味を覚えた。絵そのものに対してあまり関心が高い方ではないが、文化的なものに少し触れようという殊勝な?気持ちもまだ残っているようだ。さて小一時間廻った印象は、やはりというか「ちょっとちょっと」というド素人感想だった。


 「異界」。広辞苑によると「日常とは異なる世界。物の怪や霊の住む領域」。様々な告知で予想はしていたが、不気味、不可思議の世界が展開されていた。そもそも美術系の人はどこか変だ(学生時代の経験に基づく偏見であることを前持って言訳します)。そこからさらにドロドロとした世界へ足を運んだ人たちの作品だ。




 石田徹也という人の描いた絵は、写実的なタッチなのでなんとなくわかりやすいなあと思ったが、「またかっ」と口をついたのは『無題』という作品名である。よくあることは知っている。いつぞや岡山の大原美術館にいった時も、何か積んだだけの立体にそう名づけたものがあり、笑ったり嘆いたり…。どうしたものか。


 「無題」について同じように感ずる人もいて、こちらのサイトは勉強になった。いずれ、自分なりの楽しみ方があれば美術鑑賞になるのだと悟る。薄っぺらい知識から関心があったのは、奈良美智、松井冬子の二人。奈良の『コズミック』はよく見かけるが、実物は迫力があった。あの目に引き込まれそうな感覚があった。


 松井の『この疾患を治癒させるために破壊する』という、(たぶん)桜が水面に映る姿を描いた作品にも惹きつけられた。しかし、どう題名と向き合うか、これはお手上げだった。疾患とは誰のものを指すとか、治癒と破壊がどう結びつくかとか、絵からよみとれない。それでも頭はフル回転する。やはり無題よりいい。

異様と感じる目

2016年07月27日 | 読書
 Volume11

 「平和な朝のいつもの新聞のすみずみに、異様を異様と感じなくなった時代の異様が覗いている。」 


 作家高村薫の言葉。高村は、海技士の免許を持つ民間船員の有事活用の記事に目を留めて、そんなふうに連載コラムを締めくくっていた。

 人が何を「異様」と見るかは、様々であろう。
 ただ、昨今の「ポケモンGo」騒動や、昨日の障害者施設殺傷事件については、誰しもが文句なく「異様」とは感じる。
 しかし同時にいったんそうした報道がなされ、どこもかしこもといった状況になると、人の感じる異様さは薄まっていくことも確かだ。



 社会的なセンセーショナルな事件、事故であってもかくのごとくであり、人が報道というものに麻痺し、単なる消費的感覚に陥るのは、自然なのかもしれない。

 こんな状況のなかで、異様に気づき、その異様を伝えていくためには、大きく二つのことが必要だと改めて自分に言い聞かせる。

 一つは、言うまでもなく知識だ。そして、想像力。

たましいの場所を知る人

2016年07月24日 | 読書
 『たましいの場所』(早川義夫 晶文社)

 著者の公式サイトに、この本についてのコメントがある。
 
 「誰かに悩みを相談するくらいなら、この本を繰り返し読んだ方がいいとさえ思っています。これは本当にいい本」 (宮藤官九郎)

 「この本に、何回助けられたかわかんないよ」 (峯田和伸)


 出版社のホームページにアップされた文章や、雑誌、新聞等の連載コラムなどがまとめられているようだ。

 この本は、言うなれば著者の身辺雑記+書評等という形なのだが、書かれてある独白はまさしく「たましいの場所」である気がする。
  そこにまっすぐ向かって吐露していることばが、読者に物事の本質を考えさせるだけの迫力があるのだ。
 または、気づきを促す触媒の働きになったりするのではないか。

 宮藤や峯田に刺激を与えた文章はどこだろうか。
 例えば、こんな一節ではないか。

★思想も芸術も猥褻も、それらは、すべて、本の中にあるのではなく、人の心や生活の中にあるだけだ。

 共に音楽にも携わっているとすれば、こうした文章も心強く感じたに違いない。

★音楽と雑音の違いは、いったい何だろう。
 息をしているかどうかだ。その音が、心から発している音かどうかだ。感情がある。血が通っている。そしたら、うるさくない。一緒の空間にいられる。



 個人的には、著者自身が読み、引用している他の作家等の言葉にも惹かれる。
 書店を営むほどの読書好き?が選ぶ本にも興味がある。少し似ている本を選んでいることにシンパシ―を感じたりもした。
 しかし、著者の読みの姿勢は徹底している。

★僕は、僕を知るために本を読む

 それは「歌」についても、同じだろう。
 けしてBGMにならない音楽の典型として、早川義夫の歌がある。

 https://www.youtube.com/watch?v=k08cR49u0Tc

今年の大暑記

2016年07月23日 | 雑記帳
 昨日は朝から天気がよかったので、久しぶりに太平山に行ってみようと思い立ち、七曲り峠へ車を走らせてみた。ずいぶんと木の伐採が進んでいる。秋の茸採りポイントも風景が変わっていて、もう駄目かと少し悲しい。逆に中間地点は眺望が開けていて、気持ちよさが広がる。何かが無くなれば、何かが生まれる。


 山に建立されている煙岡神社を目指す。途中少しだけ草木が伸びて狭くなるが、全部舗装なので、そんなに無理なく到着する。やはりここから見る風景は素晴らしい。昔、ここに高学年の子たちとキャンプをしにきた。何の設備もない場所。水をポリタンクで運んで食事を作った。語るに語れない一こまも思い出した。


 しばし感傷にひたり、多少カメラに収めてから下って、建物がある場所へ移動する。週末は営業すると聞いているが、午前中だからかまだ無人のようだ。ここにも思い出がある。芝生の場所を借りて自前のテントを張り、友人と夜明かし飲んだ。施設の人から呆れられた。翌朝見た雲海が忘れられない。あれも夏だった。



 ベンチの脇に一輪、コスモスが花を咲かせていた。ベストショットが撮れた。さらに季節外れのワラビがここでも生えている。夕食の足しにしようかと、欲を出して採っていたら、バイクで登ってくる人あり。あれええ、春まで同職した御仁。元気そうである。しばし、歓談した。帰路にある看板がユーモア一杯だ。




 暦は大暑、そして学校では終業式だ。青空と雲の様子が今日の解放感と重なって見え、思わず車を止めてパチリ。午後、自転車を乗り回す子どもの声が遠くからして、今日一日の「らしさ」を感じる。「残念」な大相撲観戦が終わって、木苺を少し収穫していると「夕焼け小焼け」のチャイムが、空高く響いて聞こえた。

片手に三流、片手に一流

2016年07月22日 | 読書
Volume10

 「あなたが一流で、私が三流なのではない。あなたの中に一流と三流があり、私の中に一流と三流があるのだ。」 


 異端というべきか、最先端というべきか、とにかくシンガーソングライターであり続ける早川義夫の言葉。
 著書を読んだり、CDを聴いたりすると、彼の生きざまそのものがそうなんだと思わせる。

 世間的にみれば「三流」や最低に思えることでも、個人の中ではもっとも尊く価値があるということがある。
 そんな例は、世の中にごろごろある。ただほとんどの場合、それは受け入れられない。世俗的なレベルを突き抜けている時は別だけれど…。



 凡人はせめて、自分の多くを占める三流を自覚し続けること。

 そして、おそらく誰にもある一流の部分(それは他から評価というより、好きとか楽しみのなかにあるのではないか)を、手放さないこと。

 磨きをかけて、誰かに認めてもらえたら、素直に嬉しい。

「母心」を知れ

2016年07月21日 | 雑記帳
 連休最終日の月曜午後、「母心」という漫才コンビの独演会があるという。ツアーで仙台市、山形市と回り、なんとこの秋田は湯沢市が会場。何か理由があるのだろうか。県南部がお笑いレベルが高い?聞いたことがない。それでも百人以上の観客はいたようだ。田舎のお笑い評論家を自称する者として見ねばなるまい。


 2時間弱の独演会は、合間に映像などを交えながらの4部構成だった。一番得意としているネタは、ボケ役が女装し得意の歌舞伎マネで展開していくものだった。会場も一番湧いた。コンクールでも活躍しているし、なかなかの実力があると見た。もっと流行ってもいいかもしれないが、芸人の世界は容易ではない。



 「笑点」に出演したときの映像がyoutubeにあったので興味のある方はどうぞ。ネタはともかく、自称田舎の言語研究者として気になったのは「母心」というネーミング。つけた経緯はともかくこの言葉自体を久しく聞いていない。そもそも辞書にあるか。調べてみた。見出しがあったのは「新和英大辞典」のみだった。


 英訳として「motherly feelings;maternal affection」とある。ということは、欧米圏では使われている?ということか。見出し語としてないのは、日本で使う頻度が低いということだ。「親心」が一般的なのはわかるが、「母」と特定できる「心」は難しいのか。また「父心」がないから見出し化しないのか。少し謎だ。


 ところで、同世代ならこの言葉の広まった頃を覚えているだろう。そう、あの浪越徳治郎というおじさんのCM。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」だったと思う。あの「カッハッハッハ」という笑い方も印象的だった。今検索したら「セラピストの元祖」と称されている。そうか!母心とは、治療する心なのだ。

『考える人』夏号を読む

2016年07月20日 | 読書
 『考える人』2016夏号

 特集が「谷川俊太郎」だったので期待したが、思ったほどのページ数ではなかった。2篇の書き下ろし詩とポートレート、そしてインタビュー、対談。インタビューはなかなか面白かった。聞き手の着想がいい。改めて思うのは谷川は芸術家というより職人といった方がぴったりだ。出す言葉の質感を表す技が凄い。


 新連載が三つ。「地球の音」と題して細野晴臣が書いている。「苔にあこがれる」という発想に納得する。つまり「自然と一体化した生活」を意味するが、次の何げない一言がいかにも細野らしいと思ってしまった。

 持続可能な世界とか声高にいうけれど、それはかつてあったもの。縄文時代にすでに行われていたこと。



 懐古や単なる自然回帰を推奨しているわけではないが、「シフトチェンジ」は出来ることだと思う。養老孟司の新連載「森の残響を聴く」にも、同じようなことが書かれてあることに、その重みを考えさせられる。

 環境問題や里山の意義について、誰もが「持続可能性」を当たり前のように理解して唱えているのに、一向に実現しないことは不思議です。


 この号は、リニューアル第一弾の前号よりも、個人的に興味をそそられる内容が少なかった。概観してみると、上に挙げたことも含めて「森」「植樹」という記事もあるし、「自然」重視の印象をうける。糸井重里のマンガについての連載や宮沢章夫のシュール風なエッセイは、それなりに楽しめるが、インパクトが弱い。

最強の創造者たちを想う

2016年07月19日 | 読書
Volume9

 「年を取って次第に創造性が衰えてくると言われるのは、体験が増えても、意欲が低下するからでしょう。逆に言えば、高齢になっても意欲が衰えない年寄りは、最強の創造者だということになります。」

 かの脳科学者茂木健一郎の言葉。

 その例として、岡本太郎を挙げている。なんとなくイメージできる。



 しかし、また「意欲があっても行動に結びつかないことを、齢をとったと言う」との一言も聞いたことがある。

 意欲が先か、行動が先かは、にわとりと卵のような問題であり、どちらか一方の衰えは片方の減少と確実にリンクしているに違いない。


 けれど一つ俯瞰すると、行動を伴わない体験はあるはずもなく、二重の意味で創造のためには行動あるのみという気がしてくる。
 
 身の回りにいる、またかつていた「最強の創造者」たちは、みんな行動していた。