すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「はてな」を連鎖させていく

2011年09月29日 | 読書
 本県教育の今年度の重点『「問い」を発する子ども』については、以前から書いてきた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/s/%CC%E4%A4%A4%A4%F2%C8%AF%A4%B9%A4%EB%BB%D2%A4%C9%A4%E2

 この言葉を初めに見たとき、思い浮かんだ実践家は、有田和正先生だった。同様の方もいたのではないかと思う。

 「はてな」や「追究の鬼」というキーワードや数々の実践に魅せられてきた一人として、今「問いを発する」と言われたなら、もう一度有田先生の考えに学んでみることも大事ではないかと思ったので、以前の本などを読み直している。

 「はてな?」で総合学習を創る先生(図書文化)

 平成12年刊であるから、総合が走り出した頃か。少し懐かしい。
 いくつか拾い上げてみたい。

 「学び方教育」の柴田義松先生の文章から『問い心』というフレーズを引用されていた。印象深い言葉である。有田先生流だと「はてな?心」となる。
 しかし、これは単なる思いつきの「はてな」から、本質的なものまでかなり緻密に組み立てられていって育つものだし、その過程が重要視されなければならない。
 それはおそらく、技術の連続、連鎖によって成り立つ。
 例えば導入である。

 遊びのような雰囲気で、きちんと「はてな?」を引きだすのが技術である。いい目をした教師にしかみえない技術である。

 たとえば、実物、本物志向である。

 教えるより、現場へつれて行きたい。そして、本物を見せたい。これが子どもに対する最大の援助である。

 調べ方の発達段階は、実際の活動を考えるうえでの貴重な指針となる。以前目にしていることだが、改めてこの原則をかみしめたい。

 一、二年生には手に目がある。
 三、四年生には足に目がある。
 五、六年生には頭に目がある


 少し考えさせられた箇所がある。
 それは「教師の支援七箇条」の第一条である。

 「ねらい」をソフトに考え、子どもの動きに応じて変えられる先生

 として、「ねらいを動かす」ことの意味について書いてある。子どもの状態をみて「ねらい」を変えることの正当性について述べているのだが、確かにそうだと思いながら実際挙げられている例など読みながら考えると、ちょっとイメージが異なる。

 授業本番でねらいを変えることはかなり勇気がいる。しかし、それはねらいが構造的に考えられていなかったり、単層的なままに教材をとらえたりしているのではないか。

 ねらいの括り方、広がりなどについてもっと考えたほうがいい。
 あっ、先日意味のわからないまま読み終えたあの「ノート術」の本も関係あるなあ、とちょっとだけ一部がつながった気がして楽しかった。

秋に、深まる言葉たち

2011年09月28日 | 読書
 ちょっと書き留めておきたい言葉シリーズ。

 新潮社の『波』に連載されている「高峰秀子の言葉」がなかなか面白い。養子である斎藤明美という人が書いている。
 高峰秀子は某週刊誌が企画した「昭和の名花」という女優でトップを飾ったが、やはり知性的なイメージが深く見せるのではないか。
 紹介されたこの言葉は、うーんと唸った。

 「言ってわかる人は言わなくてもわかる。言わなきゃいけない人は言ってもわからない」

 まさしく言い得ている。
 毎日の出来事をこの一言で解説できるようなものである。
 しかしまた、乗り越えなければならないし、「言う」以外の方法だってあると頭を切り換えなければならないと思わせられる極言でもある。

 
 「ハゲは、病気ではなく男の主張」

 某ビジネス誌に載っていた、孫正義の自虐ネタ。
 初めて知ったことだが、孫は様々な場で自虐ネタを披露する人らしい。
 しかし、この言葉がまた力強く聞こえるのは、やはりそこにエネルギーを感じるからか。自虐が合うキャラクターかどうかという見方もあるが、少なくとも俯瞰力あっての導き方だなあと改めて思ってしまう。


 この頃読了した小説。
 『かなしぃ』(蓮見圭一 新潮社)

 やはり、この人はなかなか読ませる。
 それに、博学で魅力的な人物を登場させるので、うん勉強になるなあという気にさせられる。
 今回の短編集も、本のページ数とコストの関係、社会党の没落、セレンディピティの由来…かなり興味深かった。
 しかし、最も「ああ」と思ったのは、次の一言。(ページを探せずやや不正確ながら)。

 深まるのは、秋だけである。春も夏も深まらない。

 まだ少し早いけれど、それを実感する季節になっている。 

知った自分をどう描いているか

2011年09月26日 | 雑記帳
 県立近代美術館で開催されていた「藤城清治の世界展」が昨日閉じられた。

 およそ二カ月で、入場者8万人という数がどれほどの反響か私にはわかりかねるが、少なくとも本県における美術展としてはかなりであることは確かだろう。

 影絵の第一人者であることは知っていた。しかしあの「ケロヨン」の作者だったことは今回初めて知り、その話を聞いたときは不思議な感じがした。
 あの独特な影絵のイメージと、ケロヨン自体が結びつかなかったからだ。
 しかし、実際に展示会へ足を運んでみると、その範疇の広さに思わず驚いてしまい、納得してしまう。

 絵本仕立てのものは興味深く入り込めたし、大がかりな影絵の素晴らしさ…特に秋田の祭りを描いたものは、光と影という意味ではしっくりくるなあと感じた。ぜひ、我が地元の盆踊りも取り上げてほしいと感じた。

 さて、個人的に目を惹いたものの一つに、影絵でなく、描画がある。それも自画像である。
 写真は撮られなかったが、別のところで撮ってアップしている方もおられた。
 http://photozou.jp/photo/show/996146/83012754

 そして、絵よりもそこに添えられた文章(詩?)に、また惹きつけられてしまった。


 生きている上で一番大切な事。
 それは自分をよく知る事。
 自分は顔の中に凝縮されている。
 ・・・・・・中略・・・・・・・・
 ほんとうの自分を求めて自分をデッサンする。
 ・・・・・・中略・・・・・・・
 自分が描けずに他が描けるはずがない。
 自画像は全ての表現の原点だ!


 芸術家とは、まっすぐ自分に向かう心を持った人のことを言うのかもしれない。
 表現手段を持ったか持たないかによって、大きく方向は違うだろうが、表面の姿のみで判断することに何の意味があるのだろう。

 ごく普通の仕事に就いている人間でも、基本はやはり「自分を知る」ことなのだ。
 そして、知った自分をどう描いているのか。
 そこに満足を感じていれば、日々は充実しているはず。

 これは美術の問題ではないなあ、と感じいってしまった。

ほっとほどける語りを目指す

2011年09月25日 | 教育ノート
 来月末の学習発表会は、昨年同様フィナーレを全校群読&合唱で締めたいと考えている。
 そのための台本は常に言いだしっぺの自分であり、数年続けているのでこの時期は少し頭を悩ませる。

 私の下手な構成詩?と既存の朗読集などから選んだ詩を合わせて作り上げていく。
 素案を練っていて以前の実践を見直していたら、今年はひとつ『八郎』の冒頭部を取り入れたら、という考えが浮かんだ。

 限られた量ではあるが、方言を使った語りも全体に変化を与えるし、『八郎』なら力強さが表現できて、流れの中でしっくりくるのではないか。

 パートは5年に割り振ってみたい。
 ちょうど来週、担任が出張があるようなので、補充として絵本を読み聞かせし冒頭部を一緒に音読するのも楽しいだろう。
 …そんなことを考えながら、絵本を少し読んでいるうちに思い出した本があった。

 『声に出して読みたい方言』(齋藤孝 草思社)

 2004年の発刊のこの本はCDつきであり、「秋田弁」は最終章にある。そこで民話「八郎」を語っているのは女優浅利香津代。もはやスペシャリストといっていい人だ。

 ひと通り聞いてみた。確かに上手い。情感たっぷりの口調はさすがにプロだ。しかし、やはり仙北弁なので(私の住む地域は同じ県南部であっても、若干違う)多少、身体に馴染まない箇所もいくらかあるようだ。

 これは、やはり自分なりの秋田弁か。もう少し読みこまないとなあ。

 著者による解説では、「秋田弁の効能」は以下の通り。

 ほっとほどけて温かい身体になる

 なるほど。これは八郎の力強さ、たくましさを描きながらも、芯は温かさということになるかもしれない。

 語るなまりの持つ響きとは大きいなあとつくづく思う。これが、津軽弁などで語られてしまったら、どこかぎすぎすしてしまう印象になるだろうからね。
 さあ、読もう。

オレ流を自己流に解釈する

2011年09月24日 | 雑記帳
 落合博満中日監督の今季限りの辞任が、大きく報道された。
 
 本県出身のプロ野球人として一番有名であり力も抜きん出ていることは誰しも認めるが、今一つ人気がないのは、数々の個性的なエピソードゆえか。

 まあ、そんな話題は検索すればいくらでも出てくるだろうから、私なりに辞任記念!として取り上げたいのは、やはり言葉のことだ。

 そう、「オレ流」。

 オレ流が落合の代名詞であることは知っていたが、なんとなく単純なこのことば、本当に落合が最初なの?と疑問が浮かんだ。

 さすがにウィキペディアにはなかったが、「はてなキーワード」にはしっかりとこう記されている。

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EC%CE%AE

 「オレ流」に近い一般的な言葉として「自己流」がある。さらに固有名詞をつけた「○○流」(ここでは「落合流」ということ)が考えられる。
 この三つの違いはどうなるだろうか。

 「自己流」は少し弱いイメージがある。あまり評価されていなくともその言葉は使える。「我流」も同じだろう。
 「落合流」は、他の人と比べられながらも並立しているイメージが少し強い。「野村流」「原流」…いろいろなやり方があるからね、といった具合に。当然良さは認められ個性的でありながら、これもどこか普通だ。

 「オレ流」となると、これはかなり強いイメージがある。
 いわば「オレにはオレのやり方がある」と通したうえで、かなり実績を残したり、存在を大きく示したり、ということになる。
 唯我独尊とまではいかないかもしれないが、「オレ流」は「オレ様」を連想させることが、一つのポイントだろう。

 結局、他人とのコミュニケーションのとり方、まあ端的に言えばファンサービスの悪さ?が、この言葉の背景にはあるのだろう。この形容に近い人物としては大リーグの某選手も少し当てはまるが、それゆえの「超一流」という見方もできないわけではない。

 我々凡人が使うときは要注意だろう。
 他と何か変わったことをして評価されたとしても、「いやあ自己流ですからあ」と謙遜しておくのがいい。
 もうちょっといい気になりたくなっても「たかが○○流ですよ」程度で止めておくのがいい。

 「これがオレ流なんで…」などと言おうものなら、「何様よ」とそっぽ向かれるだろう。

 オレ流の人は、あまり愛されなくとも実績から多くに認められているだろうが、そうでない人はせめて可愛がられなくてはね。

ミヤケンタイムズ、その後

2011年09月23日 | 教育ノート
 ミニ通信「ミヤケンタイムズ」のその後を、メモしておく。

 21日に第8号を持って完了。(もしかすれば、修学旅行で記念館を訪問した後に出したくなるかもしれないが)

(4号)・「もし…」を使って理由づけしよう
    ・クラムボンの正体、「○○説」を「もし…」で考える
    ・「五月」のかにの心を変えたのは…

(5号)・役割読み、兄と弟、どんなふうに…
    ・畳語の世界

(6号)・対比は強いミカタです
    ・こんな楽しみ方も…イメージ視写

(7号)・はがき新聞づくりへチャレンジ
    「タイトルはこうつける」「見出しはこうつける」

(8号)・九月二十一日は…
    ・「賢治さんに聞きたい!」を読んで
    ・なんだと思う?(花壇設計図)

 4~6号までは、授業の補足説明的なことを含めて、自学などで取り上げてもらえばいいなあと思って、ネタ紹介のような形となった。
 やはり、突っ込みどころ満載というか、自分の教えたい、考えたい気持ちが有り過ぎ!といった点を解消しているだけに過ぎないか、と軽く反省した。

 7号は、「やまなし」後の「資料(伝記)」をはがき新聞でエピソード紹介的に構成するので、その補足をした。
 そして8号は命日にちなんで?発行。
 まとめとして「宮沢賢治とやまなし」を少し問いかけてみた。それから、例の花壇設計図をクイズとして紹介し、記念館見学の多少の意欲付けになればと考えた。

 それにしても、賢治という存在は掘っても掘ってもという感じがある。
 しかしそれは、多くの先達がどこまでも掘っていく姿が見え、自分として実は全然掘れていないのに、そんなふうな感覚に陥っているだけなのかもしれない。

 今回、手元に置いていた参考書?は、なんと『サライ』。
 昨年の7月号に特集が組まれた。
 吉本隆明、天沢退二郎、山折哲雄…ビックネームが並ぶ。
 
 ミヤケンなどと名前を弄んでいる場合ではないと思いつつ、吉本氏が語った、次の言葉を勝手に解釈して許してもらおう。

 宮沢賢治という人は、ひとつの考え方に拘泥はしません。

感化されて感化する側へ

2011年09月22日 | 読書
 『響きあう脳と身体』(甲野善紀・茂木健一郎 新潮文庫)

 この本からもう一回書き留めておきたい。

 第三章は「身体を通した教育」。
 最初のキーワードは「感化」だが、これもなるほどと深く納得できる文章で出合った。
 研修の場で何度か聴き馴染んだ「感化」という言葉であり、そして自分も、何人かの先達に感化されてきたという実感がある。
 茂木は、次のことを重要なポイントと挙げている。

 人が人を感化する時、実は感化する側がその何たるかを把握していない、気づいていない時のほうが、どうも感化力が大きいような気がする・・・・(中略)・・・・教える側が気づいていないような「何か」が最も強く弟子のほうに伝わっていくような気がするのです。

 ここには大事なその先が示唆されていると言っていい。
 甲野が受けて語った言葉である。

 生身の人間同士のやりとりには、言語化できない、ものすごく多くの量の情報が行き来しているからです。

 人と人のつながり、と簡単に言う。
 しかしそれは言葉だけ見ていては、実は見えてこない。

 自分が学ぶ時に大事にしている「生身で会う」ことは間違っていなかったと改めて思う。

 学校の授業をつくるときも同じことが言える、と思う。
 私たちがゲストティーチャーを招いたり、人に会う体験活動を見学先に選んだりする基準は様々あろう。
 知識、技能を直接伝えてもらうメリットはもちろんながら、やはり「その人」に伝えてほしいと教師自身が魅力を感ずることも大きな要素ではないか。またそうあるべきだ。


 さて、茂木はこんなことも語っている。

 今行われている受験戦争を前提とした教育システムの中では、そういったコラボレーション能力を高める方向性は構造的に排除されているわけです。

 その認識が百パーセント正しいとは思わないにしろ、全体像を見れば「個人としての有能さ」を求める向きにあることは間違いない。そして、その果てに行き詰まっていた社会はとうに見えているのだが、なかなかみんな足を踏み変えようとはしなかった、ということだ。

 一歩、半歩、変えるということは、とにかく自分が心底いいと思う人を持ち込むこと、いやそれはモノでもコトでもいい。そこに言葉を超えたその先が広がる可能性がある。

 結局、昨日のこととつながってしまった。

その先にある大きな世界を

2011年09月21日 | 読書
 この頃あまり「対談本」は読んでいない気がする。
 久しぶりに手にとったこの文庫は、実に刺激的だった。

 『響きあう脳と身体』(甲野善紀・茂木健一郎 新潮文庫)

 甲野の話す武術における型稽古の意義は、今まで自分が考えていた「型」ということを根底から覆す一言だった。

 「型」の重要性は、教育の分野においても強調されてきたことだ。何事も初歩の段階では「型」の指導を重視すべきだし、その意義は「形を真似して、それを反復練習することによって、その動きをスムーズに、自動化していくためのものだ」と考えていた。
 しかし、甲野はこんなふうに否定する。

 ついやってしまいがちな、当たり前の動きを封じるためにあるのであって、反復練習とは正反対の世界なんです。

 反復の目的が違うのである。

 あえて不自由に制限することによって、日常的な動きから飛躍したレベルの高い動きを本人が発見できるように組まれていた

 これは意味が深い。
 日常の授業や活動場面をそんな切り口で見たら、ずいぶんと面白いことがわかるのではないか。

 対談はそんな流れの中で、論理的な教育法やマニュアル化に対する疑問が提示されている。

 例えば「説明力」は、昨今のキーワードの一つとは思うし、わかりやすく、内容をしっかり伝えることに腐心するのは、教師の大きな仕事の一つである。
 しかし、同時にその限界を知るべきだし、そうでない方法も常に吟味するべきだということを考えさせてくれる。

 甲野はこんなふうに指摘している。

 言葉による説明というのは公平で、誰にでも教えられるけど、その先にある大きな世界を失わせてしまうという意味で、長所即欠点だと思うのです。

 「その先にある大きな世界」が、言葉によって封じ込まれたり、萎んでいったりする現実は常にあるだろう。避けられないだろう。それが道具としての言語を獲得していくということなのかもしれない。

 しかし、その意識をもって子どもが伸びる場面に立ち会っているのであれば、ああここは言葉抜きで、語ることを禁欲して、という思考も出てくるはずだ。

 それにはまず、自分が言葉を超えて浸れる大きな世界をいくつ持っているか、数え上げてみることも必要か。

 …ちょっと、愕然としてきた。

「コミュニケーションの量の減少」という問い③

2011年09月20日 | 雑記帳
 きわめて個人的な振り返りをしようと思った。
 自分が子どもだったとき、教員になったばかりの頃、そして現在と比べてみて、子どもたちのコミュニケーションの量は減少しているのか。

 しかし、印象のみで語るとしてもやはり難しい比較だ。
 あきらめよう(誰かに「ハヤッ」と言われそう)。

 ただ、会話場面のみ思い起こしてみたが、量としてそんなに大きな違いがないような感覚をもつ。

 量というよりむしろ質の違いの方が明らかなのではないか。
 取り巻いている環境が大きく変化しているのだから、当然だろう。その質の変化こそが「クラスの中の人間関係」に影響を及ぼしていると言えなくないか、そんな気がする。
 
 どのような質の変化か。
 思いつくまま挙げてみる。
 一つは話題そのもの、次は気遣いの落差が大きいこと(気を遣って言葉を選ぶ子がいるし、全くお構いなしの子もいるという現象が広がっているのでは?)そして、身体性に重きがおかれなくなったこと(反面語いは増えているのか?)。
 
 では、これらの変化が一概に人間関係を狭めたり、希薄にしたりしたと断言できるか。また、自信がない。
 しかしまた、地域社会の多くがそうなっているように、「クラスの中の人間関係」がかつてのような濃厚で同質性の強い結びつきでなくなっているのは確かだろう。

 その現状(といっても各地各教室で幅があるだろう)をどう把握し、どんな方向を目指し手を打っていくかは、学校現場にいる者としてやはり優先度の高い問題だ。

 ともあれ、授業や学校生活に関わる私たちが、改めて確認するべきことの一つに、「コミュニケーションの量の保障」があることは間違いない。
 「コミュニケーション教育」という名づけで、様々な新しい内容を入れ込むことを否定はしないが、やはり先日の研修会で講師陣が語ったように、ふだんの授業の中で「続ける」ことこそ肝要になる。

 どのようにしたら、続けることができるのだろうか。
 「コミュニケーションの量の減少」と言い切った赤坂先生は、飛び込みの授業の中でも、十分すぎるほどのコミュニケーションの場と方法を示した。 
 堀先生は、かなり具体的な数字を示して授業におけるグループ学習の継続を主張された。
 そして情報交換の質疑のとき、参加者の思うように進まないグループ学習の悩みに対して、講師陣が答えたのは「続ける覚悟」に尽きていた。

 しかし、覚悟を持てない、持ってもすぐ降ろしてしまう私のような人間は、何か工夫する、どこかに絞るしかないだろうといつも考える。
 「見取ろうとする」「記録する」…まずは、自分にできる具体的な行動から。

「コミュニケーションの量の減少」という問い②

2011年09月18日 | 読書
 コミュニケーションの「量の減少」という問いから少し横道にそれるような気がするが、周辺の勉強という意味で書き留めておきたい。

 文科省のコミュニケーション推進会議の座長を務めている劇作家平田オリザ氏が、講談社『本』で連載を始めた。
 「分かり合えないことから」と題した連載の一回目のタイトル。

 コミュニケーション能力とは何か?

 もちろん辞書に載っている意味を探ることではなく、なぜ今「コミュニケーション」ということが大きくクローズアップされるかについての現状と展望について語ることだと思う。

 「コミュニケーション問題」は、次の二つのポイントから見ていくべきと語っている。

 一つは「コミュニケーション問題」の顕在化」という視点。もう一つは「コミュニケーション能力の多様化」という視点。

 簡単に言ってしまえば、前者はコミュニケーション能力が「向上」しているなかで一定数の無口や口下手な人はいて、それは就職などの人生選択の場で大きく影響していること。そしてそれに行政や教育が対応できていないこと。
 後者は、ライフスタイルの多様化の中で一人ひとりが得意とするコミュニケーションのスタイルも同様に広がっていて、成育歴や慣れによる個人差が目立つということ。そして現実社会とのギャップがあるということ。

 この現状把握には納得できる。
 その先にある提案めいたこと、つまりコミュニケーション教育の充実ということにも方向として賛成である。
 しかし、おそらくはそういう体制的な整備だけでは、どうにもならないことを抱えているのが、この「コミュニケーション問題」であるというような気がする。

 この感覚が、平田氏のいうように「人格に関わる深刻なものと捉える傾向」に当てはまるかもしれないと思いつつ、「はいっ、こうした教育内容を新しく入れ込みます、頑張ってください」という流れの中で、ひどく弱く薄くなったものがいくつかあり、その一つは「コミュニケーション」ではなかったか、と思ってしまう。

 「分かりあえないことから」というタイトルは素敵だ。
 注目して読み続けたいと思っている。