すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「秋の一日」皮肉な解釈

2013年10月31日 | 雑記帳
 担任が不在なので2年生国語の補充を頼まれた。「きせつのことば・秋の一日」だという。「はあぁ」とその2ページを見て、結局低学年であれば言葉集めが主になるかなと考える。それにしても、モノの準備である。教材研究とはモノの準備と言ったのは、かの大森修先生ではなかったか。急げ!百円ショップへ。


 季節モノと言えば、百円ショップは宝庫である。今だと一番目につくのがハローウィングッズか。もう明日からはクリスマスだろうか?ともあれ、もみじとどんぐりと柿を仕入れて、あとはどう書かせるか考えた。単発なのでシートを準備しよう。季節のつながりも意識させたい。付箋も使おう。と構想は固まった。



 黒板に小さな丸三つと大きな丸一つを書く。それをつなげる。「なんだと思う」と問いかけても、当然ピンとこない。「じゃあヒント」と一番下の小さな丸に、ゆっくり「冬」を書くと、もう「わかった」の大合唱。春、夏、秋と空書きで確かめ、秋を一番大きな丸の中に書く。「どうして秋だけ大きいかわかる?」


 「今だから」とつぶやく声がする。「そう、今でしょ!では、ご一緒に、はいっ」「今でしょ!」…ノリのいい子たちである。ということで今日は秋の言葉集めをすることを言い、例として秋のモノを複数の言葉の中から選ぶことにする。「バナナ・みかん・かき」と板書し確かめる。当然百円モノの登場である。


 そんな導入で言葉集めと分類(食べ物、動植物…)をしたが、なかなか季節感というのは難しいと改めて思う。この頃「春」と「秋」が体感的にかなり短く、衣服関係などはまったくと言っていいほど出てこない。季節ごとの振り分けも結構困難だ。ははぁ、だから「秋の一日」か。皮肉めいた題名解釈をしてしまう。

抱返りですれ違い

2013年10月30日 | 雑記帳
 振替休業日があったので、三年ぶりに県内有数の紅葉の見どころである抱返り渓谷へ。ウィークデーであっても多少混雑するだろうと予想し、早めに出かけたが、案の定すでに観光バスは十台ほど並んでいた。紅葉情報通りに見頃を迎えているし、天気もまずまず。つり橋を渡って川沿いに眺める山は趣きがある。


 ここの魅力は、多くの人が語るように川の水の色。エメラルドグリーンに近く、ややブルー系も入っている。木々は混生林なので色は強く感じられないが、まさに「日本の色」と称していいほどの落ち着いた艶やかさを感じる。三年前もそう思いながら撮った。今年は天気もその折より良くてシャッターを押しまくった。


 今回は紅葉の他にもう一つ、苔に目がいった。先月、小川洋子のあの小説を読んだせいもあるかもしれない。茸狩りに近くへ出掛けたときも、妙に気になったりした。今回面白いなあと思ったのは、遊歩道の木製柵の頭を覆う苔。最初の到達点から徐々に広がりをみせていく。魅力的な造形だ。それも撮ってみた。

 いずれも写真はこちらのサイトへ
 
 すれ違うのに困るほどの道幅ではないが、行き交う人の声はよく聞こえる。印象として観光バスで来ている半数は、中国人か韓国人である。田沢湖や角館も込みでツアーをしているのか。全国的に著名な観光地ではよくあった風景が今やローカルなこの地も対象になる。喜ぶべき時代になった。でも結局すれ違うのみだ。


 この抱返り渓谷の名前の由来は「地形が非常に急峻で狭隘なために、人がすれ違うときに、互いを抱き合って振り返ったことに因む」とされている。整備されずに狭い道幅だったら,隣国の方々とも抱き合えるかもしれない,などとくだらない考えも浮かぶ。もっともそんな観光地ならバスは来ないのだろうけど。

平和な時代の平和な男

2013年10月29日 | 雑記帳
 学習発表会のある劇に登場した禿頭のおやじ。女子が演じているのでほのぼのしている。テーマは「ジオパーク」についての調べたことの発表だが、導入として一家族が話題にする展開だ。こういう場合、テレビドラマは知っていても地域ニュースには疎い、が定番と言ってもいいか。それはある面の平和の象徴だ。


 六年生は「平和ってなんですか」と題した寸劇仕込みの朗読劇調の内容だ。様々な考えを織り込みながら、戦争のことから身近なことまでよくまとめ上げられていた。当然、「幸せ」同様に辞書的な意味以上に個々の持つ感覚が大事にされる。考えれば、それを語り合えるという事実が、きっと平和と呼べる状態だ。


 「いくつかの科目の点数を取り上げて、いちいち知事が反応するのは大人げない」…朝刊に載った、本県知事の学力テスト結果公表に関するコメントの一部である。某県某知事を指しているのか。個人的に「大人げない」というより「大人でない」と思うし、幼稚な管理・指導手法への固執は平和な県だからなのか。


 先週のある日、一人の男児がランドセルを忘れて登校してきた。スポ少活動の道具は背負いながら、である。なかなか珍しい出来事で本人は深刻だったが、少し笑えた。しかし今日は、もっと笑えた。件の子と廊下であったら、明るい笑顔でこう言うではないか。「今日はランドセル持って来ましたよ」。平和な男だ。

百通りの悩みの解決

2013年10月28日 | 読書
 今までうまく月を撮ることはできなかったが,退勤時にたまたまいいポイントがあったのでシャッターをきってみた。安価なデジカメでも結構いい出来のように思った。十三夜翌日で,それなりのいい形をしている。「花鳥風月」とはよく言ったもので,被写体として挑戦したい題材にもなっている。近づいてみたい。



 『古典落語100席』(PHP研究所)を読んでいる。落語のダイジェスト集である。ちょっと落語の知識も増やしたいと思った。監修した立川志の輔が前書きに「今アナタが悩んでいることがあれば,この百の落語の中に必ず同じパターンがある」と書いている。そうかもしれない。悩みは百通りなのかもしれない。


 吉田修一の『元職員』(講談社)を読んだ。実に著者らしい作品。公金横領に喘ぐ公社職員がバンコクへ旅する。落語にある百通りの悩みの中に分類される事だが,江戸時代との大きな違いは身体性だ。煌めく虚飾の世界と,血と汗まみれの地べたの現実。現代に生きる人は何に悩み苦しみ,何に安心し癒されるか。


 「嘘って,つくほうが嘘か本当か決めるもんじゃなくて,つかれたほうが決めるんですよ,きっと。」…青年が語るこの言葉は鋭い真実だ。他人の話のどこまでを信じるか,私たちの会話も常にその選択の連続で成り立っていることを思えば,その結着をどこでつけるか,何を使うか。悩み解決とはその見極めである。

学習か学芸か,ではなくて

2013年10月27日 | 雑記帳
 学習発表会が終わった。数日前、家族で昔話をしていた折に娘が「私たちの時は学芸発表会だったよね」という。そうだったかなと思いつつ確かめたら、その記憶は正しかった。学芸か学習かは、結構以前から話題になっていた。その時は「芸じゃない」のような言い方があったように思う。今どきはどうなのだろう。


 そもそも「学芸」の意味は「学問と芸術」だ。その意味では結構難度が高い。だが「学芸会」という熟語になると、とたんに辞書での意味はこうなる。「小・中学校で児童・生徒が演劇・音楽などを次々に舞台に出て発表する行事」。学芸から派生した用語だが、もはや完全に独立していると言っていいだろう。


 学習指導要領に「学芸的行事」という項目がなくなり「文化的行事」となったのは確かにこうした活動の名称を考えるうえでは大きいだろう。それ以前に、やはり「学習」の発表会であるべきという考えや教科の授業時数の問題が絡んで、「学芸」はだんだん押しやられた。そしてそれと同時に内容も変化していった。


 結局何が言いたいのかというと、学校はだんだんと「学問と芸術」が薄くなっているのではないか…そのことだ。小学校は初等教育だからみっちりと基礎を積ませていくことに異論はない。むしろそうあるべきだとは思う。そのための効率化、形式化が進むことは当然だ。だがこのまま進むことには心配を覚える。


 教科内容、授業方法の問題、学校行事のあり方…様々な視点から考える必要がある。そして一面として教師の「学芸」に関する意識は大きいのではないか。つまり学問をしていますか、芸術を理解しようとしていますか。まずは、教えることの専門家がその下地を持っていなくてどうする、そんな結論となる。

顕示と変化と億劫と

2013年10月26日 | 雑記帳
 BSで吉田拓郎がホストになって対談する番組を見た。ゲストは小田和正。同年代だが音楽性もずいぶんと違う。またその佇まいもかなり異なる。小田の理知的な姿に比べると、拓郎の奔放さは少し幼稚に見えたりして、それが作る曲にも反映されるのだろうなと想像した。年齢を重ねても人をつくる芯は残るものだ。


 ある雑誌の某生命保険会社の対談的なCM記事にも小田が載っていた。継続する大切さ、ブランクを作らないことを大事にしているという小田は、自分の役割を深く認識しているのだと思う。かの対談番組で「億劫」という言葉を気軽に出した拓郎をやんわりとたしなめたが、そこには一本筋の通っている論理がある。


 同じ雑誌に「男には気づかないけど、女には見えるもの」と題された面白い心理テスト結果があった。欲求特徴として男性は「顕示」と「変化」が強く、女性は「異性愛」と「養護」。人との関わりは性差より個人差が強いと感じていたが、原則はあるのか。では加齢によって、その特徴が薄まるのか、濃くなるのか。


 男性としてつらつら周りをみれば、「顕示」はそのままに「変化」が落ちてくるような印象だ。精神と肉体のギャップから来ているのか。侘しい話だ。女性の方は皆目分からないが個人差が大きい気がする。何かが弱まったら何かを強めていけばいいと思うが、変化を求めない億劫さを顕示することはやはり老化だ。


 「億劫」とは、「おっこう」という仏教用語からの転という。「おっこう」とは、とてつもなく長い時間のこと。時間が長くかかってやりきれない、という意味から考えられたらしい。齢を重ねて億劫になるのは、もしかしたら残された時間を想い、次第に手足が遠のくということか。「何をやるにも…」では困る。

躾けられていない者の言い訳

2013年10月25日 | 雑記帳
 去年の秋に、職員向けの文書にこんなことを書いていた。

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 「しつけ」を漢字で書くと、

  となりますが

 これは国字(日本で作られた漢字)です。

 しかし、「しつけ」と書く漢字は、まだ他にも三つあることを知りました。

 いずれも国字で、PC辞書では出てこないようです。「身」を偏にして、その旁の漢字が次のようになっていました。

  それから
 どちらも意味を考えてみると面白いですね。もうひとつは
  でした。これは文句なしですね。

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 我ながらなかなか面白い、と思ったが、あれっ出典はどこだったけと、まず「大漢和辞典」を開いた。

 ないぞ。

 電子辞書の「漢字源」の「身」の部をあたったが、そこにもどれ一つない。

 PCで検索をかけてみた。

 わずかに「花」と記述した文章を見つけたが、とても正式な?国字であるという表現ではないようだ。

 いったい、どこから見つけてきたのだろう…。

 何かの創作で見かけて、単純に信じてしまったのだろうか。
 我ながら、そのそそっかしさに呆れる。

 ただ改めて考えると、「躾」という国字の組み合わせの素晴らしさには及ばぬものの、
 「身」が定まる、という意味のしつけも、
 「身」が益するという意味のしつけも、なかなかしっくり来るなあと思うし、
 「身」が花の姿というのもうっとりするほどだ。

 いや、何でも単純に思いこんだり、どこからか引用しながら出所も残しておかなかったりするのは、しつけられていない証拠なので…言い訳っぽいということは、重々承知している。

穴を埋めることこそ仕事

2013年10月24日 | 読書
 『養老訓』(養老孟司 新潮文庫)

 久しぶりに養老センセ(そんな感じ)の本を読もうと、この文庫を買った。それにしても絶妙なネーミングだ。貝原益軒の『養生訓』であることは誰しもわかる。それでいて紛れもなく著者の本。講演によく存在する「三列目の不機嫌じいさん」にならないための処方箋?であることが、ページを開くとすぐわかる。


 養老節という語りのイメージは相変わらずで、様々な視点から刺激を与えていただく。「実は人が手をつけていない穴はあちこちにあります。探せば見つかります。その穴を埋めることこそが仕事なのです」こんな仕事の定義は聴いたことがない気がする。しかし、それは自分の日常であっても同じかと深く頷く。


 そこを詳しく言っているのが次の文章だ。「仕事というのは世の中からの『預かりもの』です。歩いていたら道に穴が空いていた。危ないから埋める。たまたま自分が出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです」自分が先にあるようじゃ、まだまだじゃのう…と言われている気分。穴は目の前にいくつもある。


 「養老」なので、幅広い年齢層を主たる読者に想定していないと思うが、鮮やかな切り口で語る文章もある。「個人が『こうしたら効率よく儲かる』ということを第一にして動くと、社会システム全体の効率は非常に悪くなるのです」今の世の中の流れに、居心地の悪さを感じてしまう原因の本質をついていると思う。


 養老に向かう齢に近づいて、今後いくつ穴を埋められるか、と考えがちだが、その思考自体が「三列目の不機嫌じいさん」につながるかもしれない。「世間」をよく見て「」をわきまえて、淡々と仕事をこなす。出来なければ「仕方ない」。ずどんと響く一節がある。「貯金より体力。これは間違いありません

あんこを語るあんこ

2013年10月23日 | 雑記帳
 漢字で書くと「餡こを語る兄こ」となる。餡こについて秋田弁で兄・若い男が語るという、なかなかウイットに富んだコピーだ。といっても自分は長男でも若くもないのではったりなのだが…。雑誌「ブルータス」の特集がまた私をとらえた。「あんこ好き」。方言だと勘違いされそうだが、当然「餡こ好き」である。


 先週はボランティアで来校した読み聞かせの方々を前に、饅頭について一席ぶった私だった。いわゆる左党に分類される自分だが、言ってみれば両党つかいなのか、ワッハッハである。しかし子供の頃はそうではなかった。亡き祖母の羊羹がきっかけとなった。あの甘さに心が動きだしたのは、職についた頃だった。


 雑誌で「あん国大統領」を自称する糸井重里は、こう書く。「笑う食べ物としてのあんこがあります。(略)あんこを食べている時は、口の中で祭りが行われているんです。」なんと適切な比喩だろう。あずきを煮て、練って、あんこを作り出す作業にはどこか神々しいものを感じる…って言い過ぎだろうと思いつつ。


 取り上げられている餡菓子の種類は多く、しかも東京に住んでない者にとっては、遠い存在の品ばかり。それでもなんとなく想像できる味覚、いつか口にしたい願いがわき上がってくる特集である。しかし、糸井大統領のこの一言は重い。「作る側と食べる側の間に、あんこの菓子の密度の共同幻想がないとダメだ


 となると、羊羹、饅頭、おはぎ、どら焼き…という種類以上に、その物を一定の頻度で口にしていることが大きな条件となる。そうすると手間をかけずに手に入る範囲のものとなるだろう。自分が共同幻想を持てる餡菓子はどの程度あるだろう。数えてみたら…ある、結構ある。超有名菓子からローカルなものまで。


 超有名なのは東京T屋の羊羹、銀座K屋のあんパン、伊勢のA福(こんな書き方もあり)あたり。個人的には仙台T総本店の黒砂糖饅頭が大好きだ。県内では、M伝の饅頭、K屋の花見団子、そして完全ローカルのS饅頭となろうか。これらだと、どのように口をつけるか食前の心構えができる。それが共同幻想だ。


 この特集で驚いたのは「酒とあんこ」だ。四種類の有名菓子とアルコール飲料のコラボである。両党つかいと宣言したが、一度に攻められるのは自信がない。飲食への興味が、もはや教職への興味を上回っている(笑)自分が、それに挑戦できなくてどうする!手始めはあんパンとビールか。甘苦く夜は更けていくか

いくら多忙感を語ったところで

2013年10月22日 | 読書
 『総合教育技術』誌が、教師の多忙感をテーマにした特集を組んだ。昨年もあったような気がする。購読者層の必要度が高いということか。解決のカギとして出しているのは「負担軽減マネジメント力」と「メンタルヘルスマネジメント力」の二つ。具体策も示されている。反論はない。がしかし、すっきりはしない。


 多忙感について論じられたもので、深く納得したのは堀裕嗣先生のブログにあった文章だ。かなり以前から書かれている。「多忙」と「多忙感」の見極め、そして「徒労感」を処する目配せは的確だ。反して行政側から調査や指導は様々あるが、施策にメスを入れる部分を素通りしていては、矛盾の誹りは免れまい。


 サークルを定期的に開いていたその昔、仲間がこう言った。「もっと楽に教えるために、オレたちは集まっている」。なるほどと思った。休日に集うのは楽な方法を知るため…確かにある一面をついている。ただ、その時間は面白くなければならない、充実して心が高揚してなければならない。その一点が分かれ目だ。


 かの遠山啓が「教師はペンキ屋ではない」といった文章を書いていると思う。比喩としてのペンキ屋は、言われた通りに子どもを塗り込めること。その意味で、絵描きとは言わないにしても、独創性があっての教職こそ醍醐味だ。発揮できるための道のりは結構あるが、登りつめる感覚があれば疲れもまた心地よい。


 と書きつつ、学校や関連機関の疲弊状況は構造的であり、教員への外部圧力は増す一方だと感じる。そこに内部の人間が安易に同期してしまえば、事態は悲惨だ。状況の深刻さに地域差はあるが、負担軽減、メンタルヘルスの質の見きわめなしに改善はあり得ない。教育現場のマネジメントの特殊性に目を配るべきだ。