すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

哲学は、逆境を救う、か

2010年01月31日 | 読書
 『稲盛和夫の哲学』(PHP文庫)を再読する。

 週刊誌などでは例のJALのことで様々な話題が取り沙汰されるが、経営の第一線を退いたとはいえ、やはりその影響力の強さは甚大なのだろう。

 著者は、老師より「あなたは、得度して実社会で社会のために貢献していくことが仏の道でありましょう」という言葉をいただいたと、この書の終わりに書かれている。
 それを、どんな形で具現化できるか、今回のことは多少なりとも関心を持って見守りたい。

 さて、JALの顛末のことが書かれた記事をみるにつけ、これはこの書に書かれてある「運命と因果応報の法則」に当てはまるような気がする。
 もちろん経営破綻の明確な原因はあるはずだが、突き詰めていけば人の心の向きが決定的であるように思う。

 自分たちの仕事の意義を忘れず邁進することより、栄達を求めたり人間関係の軋轢に苦悩したりした数多くの有為な人材…ある新聞には、その罪の重さを強調していた。
 社会の中で栄華を誇った企業が、内部崩壊を起こしていることを知っていても手を出せなかった構造的な問題とは…まるでドラマを見ているようだが、現実にまだまだ存在することを露呈した。

 この逆境をどんな手立てを持って救うというのか。凡人には想像もつかない。
 某政党幹事長の剛腕もちらつきながら、経営という本質を見せてくれるのだろうか。

 こういう文章がある。

 大事なことは、最初の段階で理性で考え、実際の対応において情をつけることだと思います。 

 なるほど。頭ではわかっているようで実際に組織を動かす場合に自分ならどうなのだろうと、反省させられる言葉だ。
 そのギャップを毅然として使い分けられるのか、ということだ。

 JAL問題よりも、目前のことをしっかりやれよ、と言われている気がする。

すべからく級訓を持つべし

2010年01月29日 | 雑記帳
 大妻女子大学の校訓は「恥を知れ」だそうである。

 簡潔明瞭。こうした戒めの言葉がもっと必要ではないか、そんな気がする。

 昨年春、着任直後に文科省の進める「校訓を生かした学校づくり」への応募を奨められ慌しいままに文書作成した。そんな時期での取り組みだからもちろん取り上げられたりしなかったが、実は面白い要素を含んでいるのではないかという気持ちが残ったのは確かだ。

 小学校から大学まで自分が入った学校で「校訓」と称されるものがあったかどうか、唯一思い出せるのは高校の体育館の正面に大きく掲げられていた「動」と「静」という大書である。
 ああ、そういえば、中学の体育館にも「自主」「民主」ともう一つ何か掲示されていた記憶がある。あれは当時の職員団体のスローガンだったのだろうか。

 しかし、6年生の担任が口癖のように言っていたこの言葉は忘れない。

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」…意味不明な「メッキャク」という響き、「火もまた涼し」の飛躍、そうした要素がずっと何十年も記憶させている要素だろうが、今まで何度か頭に浮かんできたこともあるから、これも一つの「級訓」と言えるのかもしれない。

 すべからく級訓を持つべし。

 どこも似たような言葉で学級の目指す子を文章化するよりずっといいのではないか。
 担任の願いの強さをそこに表し、常々口にして頭に叩き込む。
 習った多くのことが忘れ去られても、その言葉は人生のピンチの時、チャンスの時、ひょいと顔をのぞかせたりする。 
 
 教師にとってこんなに嬉しいことはないではないか。

懐かしのスキー指導録

2010年01月28日 | 教育ノート
 私はスキーは上手ではないが、低学年初心者の指導についてはある程度の自信があった。(と過去形なのは、もはやスキーを履けなくなって十年近く経とうとしているから)
 スキー指導員資格を持っている面々に向かって、自論を偉そうに語ったこともある。若い。

 自分が不得手だったからこそ結構コツは学んだし、「やってみせなくても、指導の工夫はあるだろう」という思いが強かったからだろう。
 冬の寒い時期に、しかも低学年相手に、指導をするということは、いかに意欲を持続させるか、この一点にかかっていると言っていい。 
 久しぶりにスキー教室の様子を見ながら、自分が原則としてきたことを思い出そうと頭を巡らしてみた。

 取りあえず「斜面でプルークを指導する以前」と限定して、メモ程度に列記してみる。

◇準備、後片付けは極力手伝わない(もちろん、やり方を教える段階が済んでから)
◇スキー靴だけで歩く
◇スキーを一本だけつけて歩く
◇遊ぶ、ゲーム的な要素を取り入れて行う
◇スキーをはいて、片足ずつ上げる。足踏みをする。
◇その場で少しずつ回ってみる。
◇スキーをはいたままジャンプしてみる
◇緩い斜面で直滑降をする。そのまま止まるところまで。
◇直滑降しながら、ジャンプをしてみる。
◇滑りながらの一回ジャンプから回数を増やしていく。
◇直滑降しながら、歩くような動作をしてみる。
◇直滑降しながらの動作を自分で声をつけてやってみる。
◇タイミングをはかる声かけを忘れない。
◇絶えず賞賛する声かけを忘れない。
◇教師の立ち位置を目安とさせる。

 以上、まだまだあったかもしれない。
 そうそう「失敗した、うまくできない子」へ否定的な言葉かけをしないのもポイントだ。

 しかし、わがままを言う子に対して甘くならないことも必要だ。

 かつてスキー場で隣合わせて指導していた他校の先生が、私の一年生に対する非情さを驚きの声で語ったことがあるという。

 懐かしい(微笑)。

相変わらず学習できない自分

2010年01月27日 | 読書
 中谷彰宏といえば、いわゆるビジネス・自己啓発系書物の書き手としてはかなり有名だが、あまり読んだ記憶がない。

 今回、自称「整理下手の整理本好き」にふさわしい本?『なぜあの人は整理がうまいのか』(ダイヤモンド社)に目を通してみた。
 いや、さすがのベストセラー作家。内容をぐっと絞り込み、ずばりと斬り込み読者を惹きつける展開だなあと感心、感心。
 ちょっと長めの風呂であっと間に読了してしまった。
 ページの端を折り込んだ箇所だけを見直しても、目のつけどころにいたく感心させられてしまう。

 整理はアナログ→デジタル→アナログの順にする
 捨てる時のコツは、まず大物を捨てることです。
 2番手以降は捨てる。
 風通しをよくするためには、動かすことも必要です。

 実行できないまま暮らしてきた自分にとっては、きつい一言集なのだが、なぜそんなふうになったかということを見事に指摘している言葉が実は最初に書いてある。

 整理の考え方は、その人の根っこの部分です。

 整理は、そうそう簡単に身につくものではない。「片づける」という行為が持続するためには、どうも心の有り様が大きく左右するようだ。そうだなあと、自らを省みながら思う。あとがきには、こんな言葉がある。

 捨てるためには、テーマが必要です。

 自分のやりたいことがしっかりと定まっていれば、「とりあえずとっておく」などという考えに振り回されることもないわけである。その意味で、最後のポイント63は味わい深い言葉だ。

 整理からテーマが生まれ、テーマが整理をさせる。

 ところで、「運気のあるものは、人の間をグルグル回らない」という記述がある。
 実はこの本は、数年ぶりに中古本を扱う例の「BO」から買ったものである。しかも105円。さらにさらに2009年7月初版、9月の第5版というものである。…この本は運気があるのか、ないのか、とにかくたくさんの人の間を回っていることは確かだろう。

 さて、ここで捨てるべきか、とりあえずとっておくべきか…相変わらず学習できない自分がいる。

作家のディテールはそこにあったか

2010年01月26日 | 読書
 趣味と尋ねられれば、今なら「読書」と答えることはできるが、若い頃はそうではなかった。
 まして小説などはあまり手をつけなかったし、かなり限定された作者しか読まなかった。それが今では人並みに人気作家と呼ばれる人の著書にも手を伸ばすようになり、いくらか読めるようになってきたのかもしれない。

 小山薫堂。
 『おくりびと』の脚本を手がけ、脚光を浴びた人である。行きつけの書店に行ったら文庫本が並んでいたので、読んでみることにした。
 『フィルム』(講談社文庫)という書名の短編小説集であった。

 冒頭の「アウトポスト・タヴァーン」という作品を読み終え、あれっと感じた。何かスカスカする、という印象だ。これは次の標題作「フィルム」も同様だった。

 ディテールがもの足りない、なんて生意気な言い方だが、まさしくそんなふうに思ったのだ。
 人物の表情や周囲の風景、ちょっとした場や時間のつなぎのことなのだろうが、そうした点がスカスカしていて、十分に満足感を得られないことが寂しい。

 筋立ては十分に面白いし、展開のさせ方も上手なように感じる。また登場人物にこじゃれた言葉を語らせもしている。しかしどうもレベルが高いように思われない。
 脚本家は台詞でつないでいくだけの仕事ではないと思うのだが、やはりそういう性が小説などにもでるのだろうか。

 ただ「タワシタ」という話は面白かった。主人公が○月○日と書き継いでいく形式で、理想のバー作りに参画していく話だった。
 この中味が実に想像力を書き立てる。
 こだわりを持ちながら、仲間とともに進めていくその経緯が実に楽しそうである。内装に手をかけるために一切購入した建物の外装に手をつけない(錆びれた自動車工場である)。内装は土壁にする。そこに真っ白なキャンパスを立てかけておき、客の絵描きに描かせる。飲み物にこだわるだけでなく、酒の一つ一つに合うつまみも全国から取り寄せる、月ごとのカレー料理企画がある…ああ、本の中のこととはいえ羨ましい限り。
 と思うのは自分が食いしん坊のせいか。

 そこにはディテールを十分感じるんだよなあ。

 さすがにあの「料理の鉄人」の放送作家だと、奥付で知った。

綱引きの奥義に習う

2010年01月25日 | 雑記帳
 勤務校が替わったおかげで、今年度は綱引競技を見ることが多かった。
 昨日も全県大会があり応援に出かけた。
 おかげ様でいい成績を残し、子どもたちも満足したのではないか。
 その様子は「三つの輪Web」(学校ブログ)で。

 綱引の大会は、ほとんど大人の部も一緒に行われ、それぞれ練習を重ねてきた方々の白熱の勝負が見られる。
 しかし小学生ぐらいだといくら練習したとはいえ、やはり体格とチームワークの差が大きく出るのかなという感じである。それだけに、勝つためのポイントがはっきりするとも言えるだろう。

 素人目から見ても、その一つはスタートにある。
 プル(はじめ)の合図でいかに全員が引く体勢に入れるか、ここは大きい。これで劣勢に立つと、小学生の場合は挽回がかなり難しい。よほど腕力、持久力などに差がある場合や相手が体勢を崩した場合などに限られると思う。

 次のポイントは、かけ声やタイミングの合わせ方なのかなと考えられる。チームで力を合わせるという気合の部分と、引くタイミングをはかる合図という意味合いをしっかり決めて実行できることは有効なのではないか。

 スタートで一気に力を揃え、ぐいっと引き寄せる。
 声をかけることで、気持ちや力を合わせていく。

 考えてみれば、この二つの手立ては汎用性に富むものではないかと思う。
 スポーツなどの競技という場合に限らず、日常の学習や仕事にも適用できるポイントだ。教育の場でも、これらは原則的なことではないか。

 そうやって考えていくと、大人の綱引競技の様子からも学ぶべき点がある。力を保持しながら動かない体勢でじっと攻撃の機会をうかがっている戦略が象徴的だ。
 つまり、チャンスを逃さず攻める、ということだ。もちろんそれは単純なものでなく、相手チームの特徴、作戦なども考慮に入れてのことだろう。そのための情報収集力、それは事前もあり現場もありだ。

 手を抜かずに体勢を維持しながらここだと思ったら一気に攻める

 綱引きの奥義はなかなか普遍的である。

 もう一つ肝心なことがあった。
 「脇を締めて引く」だ。これはいつもどんな場合にも適用される。

 しかし、ちょっと視点を変えて「綱」を「より所」とか「絆」といった意味にとらえてみると、それは、「構え大きく懐深く」という全く逆に考えなければならない。
 まあ、それはそれで面白い。

SFコラボのメモ拾遺

2010年01月23日 | 雑記帳
 楽しみにしていた杉渕、深澤両先生による「SFコラボ」への参加は、どうやら日程的に今年は無理のようだ。刺激性十分の企画だけに非常に残念だが、まずは次に期待することにしよう。

 机の中の整理をしていたら、薄いメモ帳があり、何やら乱暴に書き込んである。ああ、と思いだした。昨年2月末の「SFコラボ」杉渕学級の折のメモである。
 数日に分けて、簡単な参観記をブログにアップしたはずであるが、
 
 その1  その2  その3

実はまだまだ多くのメモが残っていた。

 書いたことを見直すことによって、少しでも考えが深まるのなら、このメモ帳を廃棄する前にポイントだけでも残しておこうと思った。

 「聞く」ということについて杉渕氏はこんなことを言っていた。

 聞き手を育てるために
 ・まず教師が聞く
 ・聞かざるをえない状況をつくる
 教師に話をよく聞いてもらった子は、人の話を聞く
 
 いわゆる「遅れがちな子」に対する指導についてはこんなふうに語った。

 千倍ぐらい時間をかける。回路ができるとはやくなってくる。
 「変わらなくても俺はやるんだ」という気持ちを持って
 
 この話のときに、深澤氏はこんな発言をしている。

 与えるモノによる。
 「これだけは絶対にできるまでやらせる」というモノを持っていること。


 協議の終盤に、深澤氏が実に興味深いことを語っていた。

 潜在力が一番見えるのは「声」。
 返事、挨拶ができなくて、自分の頭で考えた文字列をしっかり声に出せるか。
 
 潜在力の定義がどうなのか少し疑問だが、いずれ自分もそう思っているし、それらを抜きに声を鍛えることはできないと考えている。

三冊の再読メモ

2010年01月22日 | 読書
 最近再読した三冊の一言感想メモを記しておきたい。

 『平成の校長学 学校バッシングとどう向き合うか』(向山行雄著 明治図書)

 2003年の著書である。現在、全国の校長会会長として精力的な活動を行っている。
 読みなおして改めて見えてくることがいくつもある。ただ個別の事項はさておき、読み終えるとやはりロマン多きという印象が強く残る本だ。
 ぜひ一度は生で話を聴きたいものだ。

 『吉永順一のTOSS流「学校改革」シリーズ第4巻』(明治図書)

 海浦小の研究紀要はほとんど読み切っている。当時は「必達目標」という言葉がかなり魅力的に思えたものだ。もちろん、今もその思いは残ってはいるが、現実に対応する課題はまた別に見えている。
 それをきちんと論理的に語れるかと問われた時、答えられるように組み立てておかねばと今考える。

 『新学力観と基礎学力』(安彦忠彦著 明治図書)

 これはもう十年以上前の著書である。
 先日「基礎学力」のところでも引用したが、改めて全編に目を通したら、唯一マーカーを引いた箇所があった。
 
 私たちは一体子どもたちにどのようなレベルやタイプの「思考力」などを求めているのだろうか。 

 「思考力のレベル、タイプ」ということが強く印象づけられたのだと思う。
 特に「タイプ」は今でもああそうかと思う。例えば表現力に比べて、様々な思考力があることはあまりふだん意識されない。正面きって取り上げている学校も多くはないだろう。
 一昨年、県の国語研大会でテーマとして扱われたことが新鮮に思えたほどだ。それを続けて考えてこなかった自分にも反省させられる。
 これも何かの形にしておかねばと思わされた。

遅読『唯脳論』

2010年01月21日 | 読書
 遅読シリーズ?である。
 「唯脳論とはなにか」という章を読む。
 まず本題が書かれている。

 ヒトの活動を、脳とよばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。
 
 唯脳論というのは「立場」である。
 この場合の立場とは「見地。観点。考え方」ということである。これは唯物論でも唯心論でも変わりない。
 従って、唯脳論とは脳の「法則性」でヒトの活動を「眺める」のである。
 「法則性」とは「一定の条件で常に成立する関係の傾向」と意味づけてみる。
 そしてこの場合の眺めるは「全体を見渡す」意味もあれば「じっと見る」という両方にかかるような気がする。

 眺めてどうするか、である。何のために眺めるのか、である。

 エルンスト・カップがこう言ったと書かれている。

 「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」
 
 この場合の作り出すものとは全てを指す。具体的な物体例えば手元にあるクリップから宇宙ステーションまで、そして言葉、社会、文化と呼ばれる抽象的な概念に到るまでが該当する。
 脳という器官の中に起こる活動が、外部のある場所に位置づけられるということが、投射ということであろう。
 誰かの欲望が、必要感が、形をなしていった結果として様々な造形があり、また概念さえ作りだされた。

 この章の一つのキーワードは「交換」ではないかと考える。

 脳は信号を交換する器官である。 
という記述がある。

 つまり、ヒトの活動によって作り出されたものは、何と何との交換であったかという観点で意味づけるために、「眺める」のではないか…これが今のところの理解である。果てしないメタ認知の旅のようだ。

書くことで乗り越える

2010年01月20日 | 読書
 次の二冊を再読した。

 『日記力 「日記」を書く生活のすすめ』(阿久悠著 講談社+α新書)

 『頭より先に手が動く! メモの技術』(坂戸健司著 すばる舎)

 特に意識したわけではないが、「書く」という並びになった。
 趣きの異なる二冊ではあるが、読み終わってみていくつか共通する考え方があることがわかる。

 どちらも「とにかく文字にする」ということにこだわっている。
 文字化は、つまり視覚化であり客観化である。

 自分のふと浮かんだこと、つぶやきのようなものであっても、かなり独善的なことであっても、文字にした瞬間に自分から離れて、認識できる対象になるということだ。
 また、ニュースや他者からの情報をそのまま書きつけたことであっても、結局は自分というアンテナに引っかかった事柄であるということが決定的である。

 従って、次に共通することは見直すということである。
 そこで取捨選択があり再構成されることになる。
 そのあり方や方法は、両者では目的や方向が違うので一緒にできないが、いずれその作業がルーティン化され、また一つの楽しみにもなっているようだ。

 もう一つ。加速しているマスメディアへの対し方が明確であるという印象をうけた。
 もちろん活用はしているが、その利点も限界も飲み込みながら、自ら「書く」ということに集約させている。
 自分なりの強いツールを持っている強さとも言えるだろうか。

 書くことは、多くの無駄を抱える危険性をもつ。時間の無駄、物質の無駄、空間の無駄…しかし、思考の無駄を乗り越えられる希望は確かにある。