すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

アカツキのランドク

2021年10月31日 | 読書
 眠りのリズムが悪く、4時半頃にやや覚醒状態になる。そこで枕元に本を引き寄せ、ページをめくる。30分もしないうちに二度寝の世界へ行くのも楽しみだ。久しぶりに小説を読み、こういう時は長編より短編の方がいいようだと、想定できたあれこれを思う。


『海の見える理髪店』(荻原 浩  集英社)

 久しぶりに読む作家だ。確か直木賞作品であったと思う。六篇からなる短編集。冒頭の表題作が良かった。理髪店の店主が自らの生き様を客に語りかけ、そして若い客が様子、景色を描写していく形で進行する物語だ。人生模様の語り口が巧みで、終盤に関係の判明する構成も見事だった。もう一つ印象深いのは「空は今日もスカイ」という女児を主人公にした物語だ。どこかにきっと同じような状況を抱えている子どもたちがいると想像させてくれる。視点を集中させた語りでその歩く道と出会いを辿っていく。覚えたての英単語を駆使するテンポのよさがなんとも面白かった。





『星月夜』(伊集院静  文藝春秋)

 ほぼ10年前の発刊で、「たしかミステリだったような…」という記憶があり手にとった。殺人事件で刑事の場面も多いので、そういう分類になりそうだが、そこはやはり伊集院ワールドで、どっしりと人物の出自や背景を描き、現在と重ね合わせる展開だ。読了するまで数日かかったので、ぱっとは結びつかなかった題名『星月夜』は、四十数年前に遡った日々の象徴である。「星だけで明るい夜」が印象的だった実体験は持っていないが、これは実際の明るさというより、内面的な感覚だろうと思う。やや綺麗過ぎる結末ではあるが、映像化したらさぞかし心に迫るような作品だ。

このナン絵本、どう読む

2021年10月30日 | 絵本
 自分が読み聞かせをしていても、他の方のそれを耳にする機会は頻繁にはない。年に数回程度か。同じ絵本を他の方が読むのを聞くと、やはり読み手によってずいぶんと印象の違いを感じるものだ。そんな観点で考えてみると、国籍不明の言語が数少なく発せられるこの本はどう読まれるのだろうか。実に興味が湧く。


『サルビルサ』(スズキコージ  架空社) 




 昨年度、二度この本を読んでいる(といっても、文字数にすれば200字にも満たない)。メモや記憶をたよりに思い返すと、高学年はあまりぴんとこなかった。低学年は結構面白がってもらえた。同じような設定(拡大画面と音読)にしたつもりだが、集団の差か発達段階なのか、正直ハマり方がまだ見えないままでいる。


 来週、中学年にもう一度取り上げようと思う。工夫の余地は、絵を見せる時間、めくるタイミング、そして読み方しかない。読み方は字数の少なさを補う「変化」だろう。と、ここで絵本の基本に立ち返ってみる。それは「絵でわかることは言葉になくともよい」という原則があるではないか。では字は無視していいか。


 いや、この少ない台詞は、「サルビ」と「ビルサ」に象徴されるように、対になり、同じ内容のことを逆さに発するパターンがほとんどだ。幼くともすぐに気づくこの繰り返しで立場や関係が一定は理解できるのなら、その色を強めることで面白さが増すか。今、声色を交互に変えること、最終のテンポの工夫を考えた。

困難はそこにある

2021年10月28日 | 読書
 副題が「父と娘の困難なものがたり」とある。この「困難」をどうとらえ、どう読み取るか。一つは親子関係という困難、そして、紛れもなくこの時代の困難があるだろう。きっと、いつの時代にもいくらかあったと予想するが、地球環境の危機的状況が迫っているように、確実にその度合いは増しているのだと思う。


『街場の親子論』(内田 樹・内田るん 中公新書ラクレ)



 父の語るプロローグでは、自らこの往復書簡集を「微妙に噛み合っていない」と評している。そして、その程度でいいと著者お得意のパターンとも思える肯定の仕方で読者を引き込んでみせる。この著を貫く一つの柱、この国における「共感圧力」の強さへの危惧を、自分たち親子にも当てはめ、在り方を問うている。


 離婚し、父親と一緒に暮らした娘の成長がどんなものか、当然定まった形などない。ただ多くの親子も持つだろう「あの時、こういう思いで居た」と当事者同士吐露できるのは、幸せなことだ。改めて「書く」と「思い出す」ことの強い相関を感じる。同時に「語る言葉が見つからない」という思いに気づいたりする。


 この父にしてこの娘ありと頷くほどに、感覚は鋭い。国の将来について「資本主義はすでに終わっていて、『名残り』というか、エンジンが止まっていてもまだしばらく慣性で車輪が回っている」と比喩した箇所はどきりとした。自分はその「機関車」のどの辺りに乗っているのだろうか、きちんと見極めなくては…。


 娘は「新しい生き方を模索しなくちゃいけない大変さを考えたら、資本主義と心中する方がラク、という人はたくさんいるようで、恐ろしい」と書く。困難に対して向き合わない安易さが、多くの困難を生み出しているのか。安心安全はいつの場合も逃げ口上としての常套句だ。政治も親子もそれだけでは成立しない。

発掘する手を休めない人

2021年10月27日 | 教育ノート
 古生物・恐竜学者の小林快次氏のインタビュー記事を読んだ。そうした分野に興味があるわけではないが、語る言葉に惹きつけられる魅力を感じた。発掘調査の実績が抜きん出ている氏は、その秘密を「他人と同じことをしない、同じところを探さないこと」と言う。視野・研究の幅を広げるためのポイントに唸った。

『「自分がやりたいと思うことはあえてやらない」のも重要です。自分で「やりたい」と思うことは、放っておいてもいつかやるんだから、自分で「やりたくない」と思っていることをあえてやってみる。』


 20年前いやせめて10年前に聴きたかったと密かに思う。もちろん同様の言辞を聴き逃した可能性がずっと多いはず…。発掘調査という仕事の本質を突く次の言葉も印象的だ。「そうやって『ない』エリアをひとつずつつぶしていけば、確実に『ある』に近づくことができる」そこに失敗はなく、成功のみが見える。



 教育関係の冊子なので、子どもたちに対するメッセージも載っている。それは「三日坊主」のススメだった。「いまの時代、夢を持つことは難しい。むしろ夢より先に『好きなこと』を見つけるべき。」と語る。軽い気持ちで興味関心を育む環境こそが、いつか憧れの対象と出会える素地になると考えている。


 そうでなければ、上掲した「やりたくないことをあえてやってみる」姿勢を持つまでには到らない。そこに性急さを求めてはいけない。発掘には目標達成志向は似合わない。氏はインタビュー等で「抱負を語らない」。それは歴史に対する深い洞察力でもある。古生物・恐竜学者が言うからこそ、次の言は重みを増す。

「大切なことは、この瞬間瞬間に、自分の足で一歩ずつ、興味のある方向へ歩みを進めていくだけ。それさえできれば。もう何もいうことはありません。」

マイクを握る者へ問う

2021年10月23日 | 雑記帳
 この頃あまり雑誌に手が伸びない。好奇心の衰えか。定期的にいくつか届くのでそれで間に合わせている自分を少し俯瞰している。ところで、雑誌の魅力とは玉石混交というか種々雑多な面にあるのは言うまでもなく、手元にある一冊も中身をそういう眼でみると面白い。ふと思ったのは「SDGs」と「ちゃぶ台返し」



 教育を扱っている冊子で、一つは「ESD(持続可能な開発のための教育)とは何か」をテーマにしている。当然SDGsの教育現場での具現化を目指す方向である。「節約やリサイクルやフードマイレージの重要性」を説くことが強調される。この消費社会を変えていくためには、そうあるべき、進めるべきと思う。


 ところが、もう一つの論考を読み、少し考えてしまう。それは「ちゃぶ台返しをするための哲学のススメ」というテーマだ。ちゃぶ台返しと言えば、私の世代なら漫画『巨人の星』の星一徹、またはドラマ『寺内貫太郎一家』の小林亜星に代表されるシーンが思い浮かぶ。もちろんここでは比喩として使われている。


 SDGsといっても広範囲かつ多様なアプローチがあるわけだが、総体として継続的な運動といったイメージの中にある。その意味で、ちゃぶ台返しにある根本的で、急激な動きを伴うようなアクションと折り合うのかという疑問が浮かぶ。つまり共通するのは「当たり前への疑い」だが、次の一歩をどう踏み出すか


 カテゴリーの違いと片付けず、自ら口にする時の行動指針を問おう。日常的な積み重ねはむろん必要だが、根本的な部分を変えないままに進行させていて、この行き詰まった社会は打開できるのか。SDGsに限らず変革、改善を説く者に今問うべきは、貴方はどんな大きさのちゃぶ台返しができますか、という点だ。

読書行為を一つの砦に

2021年10月21日 | 読書
 夏休みの研修で出会った高校の先生に、中学生に向けて「おすすめ本」を一つ紹介してくれませんかとお願いした。そこで挙がってきたこの新書、本館にはなかったので購読した。プリマ―新書は結構好きだが、この「桐光学園」シリーズは知らなかった。50年前に読みたかったと思った。もちろんあるわけがない。


『何のために「学ぶ」のか  中学生からの大学講義1』
 (桐光学園+ちくまプリマ―新書編集部・編)


 著者のラインナップは、外山滋比古、前田英樹、今福龍太、茂木健一郎、本川達雄、小林康夫、鷲田清一。7名中5人の文章は何らかの形で目にしている。もちろんこの国を代表する研究者、学者であることは間違いない。こうした方々が中高生向けに本質的なことをやさしく述べているわけだから、魅力がある。



 共通項を意識して読む。一つ目は「エラー」「失敗」の重視だ。その体験を通じて得たもの、学ぶことを繰り返し、様々なことが身につくと、表現は違えど語っている。学校教育はそもそも「予防」という観点が大きい。それはやむを得ないことでもあるが、そこで考えるべきは「自由度」の保障ではないかと考えた。


 二つ目は、自己存在をけして大きく見ていないという点だ。自然に、歴史に、他者に「圧倒される」ような体験の必要を説く。あるいは、生物学の本川が書くように「生物はずっと続いていく」という形で「私が残る」意味を教える文章もある。様々な視点から変貌する社会の中での自己をどう処するかヒントがある。


 最後は当然「読書のすすめ」。それぞれの章にお薦めする2,3冊の紹介がある。それはこの新書のテーマ「学ぶ」に直結するが、どの著者も現代社会に強い危機意識があることが見てとれる。あまりにオートメーション化された環境に染まることの警告でもある。読書行為は、戦うための一つの砦のように見える。

ランドクから白鵬をオモウ

2021年10月20日 | 読書
『勝負の格言』
 (桜井章一  宝島文庫)


 趣味で何かの競技をしているわけでもない、仕事上で「勝ち組」「負け組」のようなことを語る齢でもない自分が、何故こんな一冊を手にするのか。

 著者の本を数冊読んでいる訳は、専門的で具体的なことを「書いていない」からだろう。そこにある漠然とした書きぶりが一種の魅力といっていい。

 例えば前書きにある「つまり、進歩だ、豊かだ、と言って勝ったつもりになっていながら、実は負けているのが、人という存在なのである」…今、この国で起こっている出来事や特定の人物がぱっといくつか思い浮かべられるのではないか。そうした類の句に惹かれる。

 そもそも「勝負」という語を、どこに位置付けて語るのか。いやその前にそれは人生に必要なのか、と揺さぶられる。「勝負が人を選ぶ」という段階ではもはや生き方でしかない。

 そうなると結論は見えてくる。文章から拾うと、これだな。
「いい約束を自分とする。毎日する。」



 初め「ランドクの秋」シリーズ(笑)の一つとして、上のメモを書いたつもりだった。
 しかし、その後に観たNHKスペシャルで「白鵬」引退のことが取り上げられていて、どこか響き合うことを感じた。

 稀代の力士である事実を認めない者はいない。
 わずか50分程度の番組で全貌がわかるわけではないが、その努力たるや凄まじいものがあった。
 横綱の地位について14年という年月、そして数々の出来事の中で、その努力を支えたのは「勝負」への執念だったことがわかる。

 そして…白鵬が勝ちにこだわり、勝ち続けようとしたことによって失ったものは大きかった。白鵬のみに問題があるという言い方はできないかもしれないが、桜井の著書に照らし合わせれば、「勝ったつもりが、実は負けている」という状態に陥ったとは言えまいか。

 それは、目の前の勝敗にこだわり「いい約束を自分とする」ことが出来なくなったから、というのが、ここ数年の白鵬を見ての私の結論だ。
 もちろん、異なる見方で考えを持つ人も多くいるだろう。

 NHKは実に見事なナレーションで、この番組を締めくくった。きれい過ぎるか。

「大相撲とは何か。横綱とは何か。
 白鵬は、私たちにそう問いかけて、土俵を去った。」

ランドクの秋、冷える

2021年10月19日 | 読書
『ケーキの切れない非行少年たち』
 (宮口幸治  新潮新書)

 一昨年から昨年話題になった一冊であることは知っていた。著者の結論と願いは、最終章本文の結びにある。「犯罪者を納税者に~そのためにできることは『困っている子ども』の早期発見と支援である。最も効率的に支援できるのは学校以外にあり得ない。新たな視点をもった学校教育が充実していくこと」。強く共感する。この「新たな視点」が重視されていく学校教育は、今後期待できるだろうか。著者が訴えている現状に対する認識は、微々たるとはいえ現職時代から気づき、一定の力も尽くしてきた。また今も現に奮闘している方々も多くいる。その努力を泡にしないための、幼少期からの教育課程の検討が急務だ。あまりにも広告されていない



 『のうだま 2』
 (上大岡トメ・池谷裕二  幻冬舎文庫)


 『のうだま 1』は読んだ記憶がある。脳について分かりやすく解説してくれる池谷氏の文章はいつも注目している。この文庫は高齢者にとって、救いの一冊(笑)。なんと「記憶が年齢としともに衰えるなんてウソ!」と副題にもある。もちろん実験結果なども示されてある。要は…とここから提示されるのは「好奇心」「アウトプット」とそんなに他の本と変わらない。だから自分のしていることは案外間違いない…いや、その割に忘れている…という不安がよくないようだ。さて、実は「ケーキの切れ~~」を読み、無理やり関連付けるわけではないが、学校の教育課程に参考になるヒントを得られる一節が随所にある。脳を働かせる力をつけるために、著者か示した条件は二つ。「学習スピードが遅いこと」「繰り返し勉強すること」…これらをどの程度確保できているか。


「くらやみきんしの国」を行く

2021年10月18日 | 絵本
 次週は2年生が相手なので、ふさわしい絵本はないだろうかと新着棚で見つけた一冊。「くらやみきんしの国」、まずこの題が何だろうと思わせる。黄色と黒を基調とした表紙。王様が城壁からライトを照らして、そこに浮かびあがる題名。題字のデザインもなかなかよい。改めて絵本全体のイメージの大切さを知る。


『くらやみきんしの国』
  (エミリー・H・ブース作  おおつかのりこ訳) 
  あかね書房 2020.11



 「くらやみ」が怖い男の子は「王子さま」だった。王様になったら、くらやみをなんとかすると決め、成長して実行する。ところが…という展開で、表紙カバー裏には、次のような文章が添えられていた。「わたしたちに たいせつなことを 教えてくれる おはなしです」。読み終えてみると、確かにその印象が残る。


 表紙と同様に、お話の絵も黒と黄色が中心になって構成されている。画材が何かはわからないが、柔らかい線、シンプルかつコミカルな表現が、想像上の国であることにマッチしている。結局、もとに戻る流れは予想されるが、そのクライマックスが「花火」になる箇所が素晴らしい。読み手はここで心が明るくなる。


 読みはナレーションを大切にする。会話文もあるのだが、その表現はほどほどに抑えたほうがいいかもしれない。展開として劇的な部分はあるにせよ、抑揚や強弱より、間や緩急で読みを工夫した方がイメージにあう気がする。寓話的な物語と言っていいだろう。どんな種を心に残すか…闇あって光ということ。

うそだあと12回言う

2021年10月16日 | 絵本
 サトシン作品は図書館にも数冊収められているが、その中でこれが一番しっくり来る。全編が二人の男児の会話で進み、片方の子が題名の「うそだあ!」で受けるパターン。最初から思わずクスッと笑える「うそ」が、徐々に膨れ上がって、最終のオチまでが実にテンポよく、リズミカルに運ぶ。読んで楽しい一冊だ。


『うそだあ!』(サトシン・作  山村浩二・絵) 
  文溪堂 2014.10




 「えっ ホント?」「うそでしょ!」「ええーーっ うっそー」と、相手の言ったことを直接的に否定する言い回しはたくさんある。その中で「うそだあ!」を選択したのは、作家の直感とセンスかもしれないが、音声表現上、工夫できる幅が広いと思う。だから、嘘の「度合い」によって、返しの表現も違ってくる。


 暖色系、淡色系の色使い、二人の男児のシンプルな形象と端的な感情描写が、ぴったりマッチしている。仮に、真逆の写実的な絵だったとすると、重くなってしまい、変なイメージがついてしまうように感じる。中味のオーバーな展開やコミカルさを生かすために、あえて抑え目にすることで全体がまとまるのだな…。


 読み手としては、自分はどちらかと言えばキャラクタータイプと心得ていて、これはレパートリーにしてもいいかな。改めて考えたのは、計12回の「うそだあ!」の読み方だ。一番の驚きはおそらく最後になるだろうが、そのために大声を使う方法もあるし、驚きのあまり…声を失う(程度の小ささ)という手もある。