すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『公教育の未来』を読み進める…その2

2005年07月29日 | 読書
人間は、ナナメからの称賛によって自分の居場所に確信を持つ。いや「ナナメの関係」がなければ、大人になりきれないのだ。そうした視線が錯綜した地域社会の「寛容さ」こそ、狭義の学力ばかりでなく、世界観や人生観を育む「ゆとり」にほかならない。


「ナナメの関係」とは言いえて妙だ。
藤原戦略の骨子をなすイメージである。
地域の方々を中心とした外部からの目と手を学校へ注ぐということだが
その動きがナナメかどうか、緻密に見ていくことも大切だ。
タテばかりが増えたり、ヨコにつこうとしたり
それでは子どもたちにとってのある意味の障害になってしまう。

『公教育の未来』を読み進める…その1

2005年07月28日 | 読書
藤原和博『公教育の未来』(Benesse)を読み進めてみようと思う。

「先生は偉い。だから信用するもの」という幻想の上に、教育界は成り立っていたのだ。このことは、産業界が「資本主義は、今日よりも明日、もっと豊かになれるシステム」という幻想の上に立っているのとかわりない。幻想というのは、システムの効率を上げるには、どうしても必要なもの。それが崩れた。

学校制度はほとんど変わっていないのに
その効率性は明らかに落ちているという。
それは大きく言ってしまえば「豊かさ」の一つの象徴でもある。
システムの効率性の再向上を目指すべきか、
システムの変更や縮小という方向にいくべきか。



美しくて正しく、誰も反対できない

2005年07月26日 | 読書
「個性」も「自由」も正しく美しい言葉であるが故に、未だに定義さえできていない曖昧な言葉である。その曖昧さは研究も実践も進展させないだけでなく阻害する場合が多い。この美しくて正しく、誰も反対できない言葉を振り回す教条主義からさようならしなければならない時がきた。
酒井臣吾「学校マネジメント2005.8」(明治図書)


超のつくビックワードは、何も語らない。
何も語らない言葉を振り回す人々の
なんと没個性で、なんと不自由なことよ。
「個性も自由も認めない」と言い切れたのは
いずれも個性的で、自由な方々であった。

猫なで声の幼児「虐待」

2005年07月25日 | 読書
それは一言でいうと、猫なで声の幼児「虐待」とでもいうべきものである。親が、というのではない。日本という社会全体で、ソフトな、しかし執拗で強力なバイアスを、抵抗力のない頭脳とやわらかな体にかけつづけているのだ。それはますます強くなっていく。
藤原智美「なぜ、その子は腕のない絵を描いたか」(祥伝社)


幼児教育の場で、異変ともいうべき事態が進行しているという。
小学校でも、新入生の「異変」がぼつぼつと出始めている。
それが、猫なで声をしているうちは誰も気づかないし
仮に気づいたとしても、止めさせることは難しい。
もっと語られなければならない。
もっと取り上げられなければいけない。

森で聴いた野口先生の言葉…その3

2005年07月21日 | 雑記帳
休憩時間に見つけた観音堂の前の一つの器。
ぶら下がるように設置されたその器には
上部から水が入る仕組みになっている。
水が一つも入っていないときは傾いているが
水が適度に入るとまっすぐに立ち
しかし満杯になれば、すべての水が吐き出されるため
ぐらぐらと大きく揺れる。
その動きを見て「ヘェー」といったぼんやりしたことしか
考えられなかった私だが、野口先生の言葉を聴いてはっとする。

宥座之器(ゆうざのき)
 虚則欹(きょなればすなわちかたむき)
 中則正(ちゅうなればすなわちただしく)
 滿則覆(みつなればすなわちくつがえる)


器に水を一杯満たしたいと思っていることは
けして悪いことではない。
しかし、それは正しい姿に近づくことと同義ではない。
一歩引いて身を保つ…正しさはかくあるべきか。

森で聴いた野口先生の言葉…その2

2005年07月20日 | 雑記帳
「男は慢心でくずれる、女は虚栄でくずれる」と私の父は言った。そしてわたしは「教師は虚栄でくずれる」と思っている。

教師の何が虚栄なのか、たくさんの人は思い当たるだろう。
教師の世界に蔓延る美辞麗句。
建前が先行し、本音は非常に狭められた形で喘いでいる。
硬直的な組織、形式的な事項の検討なき継続…
「改革」をうたったとしても、誰のための何のための改革か
実際はあまり見えてこないのが現状ではないか。

教師自身が教えねばならぬと心の底から思うことを
教えたいと強烈に願うことを
揺らがぬ姿勢で実践し続ける意志を取り戻そう。

森で聴いた野口先生の言葉…その1

2005年07月17日 | 雑記帳
念願が叶い、野口芳宏先生宅で行われる野口塾に参加した。
ご自宅の裏山に、ご尊父様が建てられたという観音堂。
それを取り巻く自然は、私にとっては「森」だった。
日射しの強い一日、その森で聴いた先生のいくつかの言葉を反芻してみる

新しいものを取り入れる時は、自分の実践の不備をつくものにすべきである。自分の実践をふまえ、それと比較して批判的摂取をするように心がけなければならない。

まず、自分の実践の不備が明確にわかるために
自分は何をしてきたかを常に問う姿勢が必要である。
そして、新しいものの「新しさ」とはいったい何なのか、
その本質を、少なくても仮定できなければ
生産性には結びついていかない。

「批判文化」に手を貸さない

2005年07月15日 | 読書
ここに至る過程での最大のポイントは、日本の教育界に巣食う「批判文化」に対して、私がいっさい手を貸さなかったことだと、自分では思う。つまり、文科省の政策を批判するのではなく、「これを私たちに指導させてください」という提案文化をもって臨んだのである。日本の教育は長い間、批判の応酬で余計なところに労力を使い、益の少ないことをやってきたと思う。
陰山英男「陰山英男の『校長日記』」(小学館)


批判は大事なことである。
自分がしてきたことの意味づけをするのであれば
必ず批判は必要になってくる。
しかし「何のために」という大きな方向を持ち得ないと
そのエネルギーはあまりに虚しい。

できない問題を考えるな、でいいか

2005年07月14日 | 読書
受験塾で黄金率のようにいわれるテスト戦略を思い出してください。それは「できない問題は飛ばして、できる問題からやりなさい」という「助言」です。点を稼ぐためには、確かにこの方法は有効です。しかし、一時のテスト突破だけにしか通じない要領が、子どもたちの脳に浸透しているとなると、現実に起こる問題を解決する力を養うことはむずかしくなります。「できる問題をやれ」とはすなわち、「できない問題を考えるな」ということだからです。
清野由美「PRESIOENT 2005.7.18」


現実の問題は、簡単な順番でやってくるわけではない。
どうしても解決しなければ先へ進めない難問もある。
「回避」したり「後回し」したりできない問題について
失敗してそこから学んでいくことも、大きな能力であろう。
点数を稼ぐ効率性の強調だけでは育たない力である。

物事の本質さえつかむことができれば

2005年07月12日 | 読書
「物事の本質さえつかむことができれば、あとはつたない知識や経験しかなくてもやっていける」ということを実体験として学びました。インターナショナルスクールで学んだ考え方を実践が強化してくれたわけです。
伊藤正裕「日経アソシエ 2005.7.19」


21歳の若き経営者の才能を育てたのは
「本質を探る思考力を鍛えられた」ことだという。
対比されるのは「情報を学ぶような勉強」。
この二つの領域の配分は
もっと綿密に考えられていいことだ。