すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

我慢しろよ,後半戦

2013年09月30日 | 読書
 今年度も今日で前半が終了する。あっという間という感覚はないが、あれっという間に過ぎたような気もする。自分の計画したことはある程度できているが、成果としてしっかりとらえられているかと言えば、落第点である。一つ一つ現在地点を確かめながら(まずこのことが大事だ)、前進を加速させていくことだ。



 自分の仕事と位置づけている学校報発行、ホームページ更新は順調である。時間をかけない作業としているし、同時にマンネリにならないような工夫もしているつもりだ。「ベタな情報提供を続ける」意義は目立たないけれど、継続進行していますよ、という多少のアピールはなろう。次は反応を引き上げることか。



 昨年度途中失速した職員向け校内報は、今のところ21(通算38号)発行したので目標とする年度末50号には届きそうな見通しだ。実践研修会と銘打った演習中心の校内セミナーも今週二度目の開催予定だ。どちらも内容面での迷いは多いが、とにかく続けることだ。自分がもがく姿を見てもらってもいいではないか。



 気休め程度と思いつつ、この拙ないブログを続けている。しかし今回、初めて一日も休みなしに9月の30日間(実は8/21から40日)を乗り切ったことは微妙に嬉しい。週末ぼやっとしたり、家にいなかったりで、ぼつぼつの空白は仕方ないと思っていたが、やろうとすれば可能だ。取り合えず次のひと月を目指す。



 『あまちゃん』なき明日からの世界…と言うほどの喪失感はないのだが、ちょっぴり寂しい。楽しい話題やら音楽やらを提供してくれた。最後に総括?をメモしておこう。一番おおうっと思った回は鈴鹿ひろ美が歌う9/25。一番印象深いのは「ダセェくらいなんだよ、我慢しろよ」とアキがユイを叱りつけるセリフだ。

第2次図解ブームが…

2013年09月29日 | 雑記帳
 と言ってもマイブームである。金曜に県の教育センターで講座を受ける機会を得た。一日日程で,午前は学習指導案の「見える化」をテーマとした講義,そして午後からは「図解の技術と伝える技術」の講義である。午後からの講師は,多数の著書を持つ永田豊志氏だった。基本からじっくり学ぶいい機会となった。


 自分の「第1次ブーム」は,資料等を検索したら2001年であった。これもちょうど干支一回りである。PCドキュメントに「図解のススメ」と題したレポートが残っていた。きっかけはビジネス誌の特集もそうだったが,野口芳宏先生が主宰して出していた季刊誌で取り上げた「言語技術としての図解」が大きい。


 書棚を探って『鍛える国語教室』第21号を見つけ出す。連載コーナー「言語技術ノート」の9として野口先生が執筆している。もちろんポイント図解を入れ込みながら,実にわかりやすい誌面に仕上げている。基本手順としての「情報選択」「構造化」「単純化」「視覚化」は,いつも先生が強調しておられる事柄だ。


 この号は実践発表に「ポイント図解」を課した要請をしている。しかし,それぞれ精鋭の実践者たちは,必ずしも課題を受けとめきれていないようだ。それだけ図解は難しいし,一般的ではなかった。そしてその状況は今も変わらない。実践の構造化が進んでいないことも理由の一つではないか。そんな見方もできる。


 12年前の自資料を見ても,「図」はあるが「解」の部分が不明確である。当時の新書や雑誌から様々なパターンを知り,単に形だけ真似した感じである。さらに自分なりの工夫を入れたいから,益々わかりにくくなる。図解は「本質をつかむ」ことである。基本にそって「つなぐ」「かこむ」を地道にやっていきたい。

ほどよい油であるために

2013年09月28日 | 読書
 『人間にとって成熟とは何か』(曽野綾子 幻冬舎新書)

 冒頭のニュージーランドについての記述に納得した。
 端正で道徳的な国づくりをよく理解したうえで,こんなふうに書いている。

 私の心の五パーセントか,十パーセントほどの部分が,こういう国はほんとうに退屈だと思ったことも告白しなければならない。

 アフリカなどの未開発な国々を足しげく訪問しその実態を深く心にとめて,安穏に暮らしている私達に向けて鋭く発信する著者ならではの心情に思える。

 著者の「成熟」は,例えばこのような文章の中に沁み込んでいる。

 世の中は矛盾だらけだ。だからいいことだけがいいのではない,時には悪いことも用意されていて,その中から選ぶ自由も残されていた方がいい。

 この幅の広さをどんなレベルで受け止めることができるかも,成熟が試されるのだと思う。
 人は弱いものだ。良くないものと知りつつ選択していることは日常で,だんだんと感覚が麻痺して,染まっていくことがある。そのことを自覚できない人さえいる。

 面白い喩があった。
 おからの調理法について箇所である。炒るための油についてこんなことを書いている。

 豚カツなどを揚げた汚れた油はだめだ。あくまで精進揚げ一,二度程度のものを使う。これはやはり人生の姿勢にも繋がるような言葉だ。まっさらで現実を全く知らないような人には,おもしろみがない。しかし世の中の悪さに汚れきって平気な人も,使い物にならない。

 自分を油に譬えれば,現実のどの部分をどの程度揚げるかによって,汚れ具合が決まる。受け入れねばならない事項をカラリとよく揚げることができたとしても,そのことによってどう自分が変化したのか見極めることも大事だ。

 むろん,だまっていても古油にはなっていく。変質していく。
 (こう書くと,この喩えの苦しさがわかるが)
 しかし,油は足すことができる。汚れを濾したり,入れ替えたりすることも可能だろう。そのためにするべきことは,ほぼ決まっている。

 しっかりとした目の細かい金網のようなこの著は,ある意味の濾し器になりえるだろう。
 日常生活から地球規模のどんな現実に目を向けるべきか。
 本当の自分を認識するために著者が繰り返し語っていることを受けとめれば,粗悪な汚れも少しは浄化できるかもしれない。

腑に落ちたわけではないけれど

2013年09月27日 | 雑記帳
 「カミキッタ?」のことを先日書いた。それから何日目だったろうか。給食を食べ終わったあと、一年生の様子を見に行ったらある男の子に声をかけられる。「カミ、ナオッタネ」。うーんなるほど。一挙に髪の毛が伸びたわけでもないが、見慣れるとそう思うらしい。それまでの駄目さ加減を指摘された。


 退勤時、車に乗り込んだら、グラウンドに遊びにきた女児らが声をかけてくる。野球をするらしい4人組だ。一人の男児の元気がない。右腕にかすった傷あとが見える。突然、となりにいた女児が叫ぶ。「この傷で、シナナイヨネ」。男児、じっとこちらを…。「死なない!」きっぱり言うと、にっこり笑う。


 学級会を見ていたら、なるほどと思う言い間違いに気づく。ある子の発言、「バスケットボールは、○年生も大好きダソウカラ」。えっ、何?ははあん、わかるなあ。混乱しちゃったな。考えると「大好きだ」「大好きだそうだ」「大好きそうだ」という答え方の違いは見事に状況を示している。どれなのか。


 ある講座で「納得や了解することを簡単に言うと…」と問われ、「腑に落ちる」と答えた方がいた。えっ、それは腑に落ちないなと、手元の辞書で調べてみたらやはり見出し語としてはない。ところが『問題な日本語』では,使用状況調べをして昔の作家も使用しているという結論を出した。ただし使用率5%。

「お疲れ様」は疲れない

2013年09月26日 | 雑記帳
 「お疲れ様」がすでに挨拶用語になっていることは知っていた。愚娘らも小生意気に「お疲れ!」などと声をかけている姿がある。社会人だけでなく学生などにも浸透しているらしい。この前、校内でもそんな声をかけられたが、慣れないのでこちらが面くらってしまう。まだ昼下がりだし、第一疲れていないから。


 職場での「お疲れ様」と「ご苦労様」の区別はかなり以前から言われていた。目上と目下で使い分けるとされている。しかし、それでいいのかというちょっとしたひっかかりもあった。木田章義(京大教授)という方の文章を読み、その訳がわかった。「お疲れ様」は表現が入れ替わる過程にあるらしい言葉のようだ。


 もともとは、旅館などで女将や女中が旅人に対して「お疲れ様」と発していたという。つまりは長旅の慰労の言葉である。それから慰労全般を指し、その場の慰労へとだんだん軽くなったようだ。これに対して「ご苦労様」は骨折りや心労に対しての感謝の言葉として使用されてきた。江戸時代末頃からの敬語なのだ。


 木田氏の言では「敬語は使ううちに敬意が下がってくるのが原則」らしい。敬意が下がり目上の人に用いにくくなってきて、それに替わる表現として「お疲れ様」の台頭である。しかし比較すれば「お役目、ご苦労様です」が自然なのに「お役目、お疲れ様です」には違和感がある。「お疲れ」はやはり軽いのである。


 「お疲れ様」は自分とあまり関わらない行動についても使える。「苦労」は何らかの形で自分も関係しており、「ご苦労様」はそれに対するねぎらいの性質を持つ。共に慰労には違いないがニュアンスに差があり、微妙な関係性を要求する「ご苦労様」は誤解を生みやすいだろう。「お疲れ様」は疲れない、が結論だ。

幸せな奴の恋語ゼミ

2013年09月25日 | 読書
 ダラリ読書、もう一つだけ。

 『恋する日本語』(小山薫堂  幻冬舎文庫)


 連休読書のためのネット購入、紹介も見ずに著者名に惹かれて買ったのだが…。勝手なイメージで「日本語に恋するということだね。言語について楽しく深いことを書いているのでは…」などと予想。「楽しさ」はあるにはあるがこれはまさに「恋に関する日本語」という内容。35の「恋する言葉」が書かれている。


 と言ってもふだんお目にかかれない言葉がずらり。知っていたのはわずかだ。冒頭の【あえか】にしても、知っている日本人は何%か。自分の古典音痴は棚上げしても1%以上はいないだろう。その意味「はかなげなさま」を表すショートストーリーが添えられ、シャレた装丁で仕上げている。若い女性にうけそうだ。


 女性でない、若くもない自分には縁遠い中身だが、ああなるほどね、とじいんと沁み入る言葉もある。【気宇】きう・心のひろさ、【忘れ種】わすれぐさ・心配や心の憂さをはらうもの、そして【相生】あいおい・夫婦で一緒に長生きすること。古い言葉を知ることは、生きることそのものに思えてくるから不思議だ。


 「つがい」という言葉は知っていたが【番い】と書くことにびっくり。「番」自体がペアを表わす意味となっている。確かに「入れ替わってする役目」からの派生は考えられる。調べたら「結びの一番」という用例があって、ああそうかと思う。この「番」とはつがいのことだ。組み合わせなので、番組も番付も。


 表紙裏にある著者紹介に目を丸くする。著者自身が書いたのか。「趣味を仕事にして『サプライズ&ハピネス』を追求」とある。こんな幸せな奴がいるのか。いやそういえば、彼は究極のポジティブシィンキングを実行する人だ。書いてしまえばなんとなく痛快。言いきってしまうのはいい手である。見習えない(笑)

穂村の小さな焔の連鎖

2013年09月24日 | 読書
 連休中に、ダラリとして読んだ本から…

 『もしもし、運命の人ですか。』(穂村弘 MF文庫


 「恋愛エッセイ集」という分野であるそうだ。もちろん、かの穂村(そのエッセイに触れている者ならわかる)であるから、甘ったるい心情を吐露しているわけではない。自己愛、妄想、偏執…どんな言葉で表わしたらいいかと考えて思いついたのが「焔」、ある意味の激情である。それもチッチェーのがわんさか。


 さわやかに相手に話しかけたり、男らしく堂々に言い放ったり、向こう見ずに押しまくったりするタイプではない者が、恋愛を深く考えるとこうなる典型がある。「性的合意点」「性愛ルールの統一」は、大胆な提案だ。読者層ではないだろう男性の支持を得られるはず。しかし、絶対に受け入れられることはない。


 「『比較』と『交換』」という回は読み込むと恐ろしい。恋愛渦中の者はメタ認知から遠い地点にいるが、ちょっと離れるとそういう作業?を誰しもしていることがわかる。さらに人的なことだけでなく、常に「比較」「交換」している日常そのものと大きく関わる。富める者とは、その範囲が広いことの証しである。


 穂村の表現パターンの一つに、一言へのこだわりがある。聞き逃しそうな何気ない言葉を拾い、様々な可能性を探る。言語を分析しつつ結局妄想系になって広がる。この幅と種類が大きければ大きいほど、現実場面では動けなくなってしまう。それは、きっと分析することに満足している自分が好きだから。似ている。


 この愉快な本を「シュミレート天国」と称してみる。シュミレートで遊べるというのは偉大なことだと思う。いくらそんな遊びをしたって現実は一つという真理さえも、シュミレート天国の中では埋もれそうだ。大きい焔を燃やさなくとも、あちこちに焔が上がっていることを楽しむという姿勢だ。歓迎の人生観だ。

「対」に息づく「鏡」

2013年09月23日 | 読書

 『最後の小学校』(秋山忠嗣 講談社)

 先週参観した国語の授業は,男の子ばかりの2年生4人だった。
 授業者は元同僚なので,反省の宴では勝手なことを言わせてもらったが,その中の一つに,いわゆる極小人数を相手にする教師の働きかけという問題がある。
 私自身も複式学級解消の学習担当として,3人,4人,5人と一定の経験は持っている。担任としての経験ではないが,ある程度実感を伴っている結論である。

 極小人数においては,教師の「圧力」コントロールをより慎重にしたい。

 どの規模の学級においてもそれは言えることだ。しかし人数が少なければ少ないほど,その優先順位は上がると考えられる。


 そこで,この著である。
 昨年3月に休校となった島の小学校。
 前年度に併設なっていた中学校が廃校となり,残された6年女子児童との1対1の一年間の教育を綴った記録である。
 テレビドラマとして描けそうな場面もあるにはあるが,かなり現実的な葛藤や混迷もしっかりと綴られている。


 こう書いてみて,ふと「対」とは何かと考えてしまう。
 辞書にある「向かい合う,相手にする」という意味を,私たちは日々教育現場で具現しなければならない。
 そのために,子どもの心を察し,その声も,声にならない部分も受け止めて,応じていく。

 一人の教師のキャパシティには限界があるし,時間制限の中でやりくりしていく。
 その意味ではやはり1対1という条件がずいぶんと濃いものになることは言うまでもないだろう。
 だからこそ,この物語が生まれ,この著ができた。

 しかし,それはその条件を厳しく受け止めるという覚悟なしには生まれてこない。
 著者が入院中に考えた次のことは,この著全体と重なるからこそ輝いてみえる。

 ぼくは,さつきと向かい合いながら,だれよりも,ぼく自身と向き合わなくてはならなかった。さつきは言葉ではなく,ぼくの姿を受け取っていく。

 とすれば,「対」に息づくのはまさしく「鏡」。
 人数の多少に関わらず,教師の姿は子どもに映り込んでいく。
 そして人数が少なければ少ないほど,より濃くなっていくと言えるだろう。

 鈍感である場合,またその姿から目を背けている場合,そんな時に教師の圧力は増していくか…そんなことを思った。

佇む記憶を取りだしてみる

2013年09月22日 | 読書
 『空の冒険』(吉田修一 集英社文庫)

 好きな作家を5人選べと言われれば,吉田修一は必ず入るなあ。
 きっかけは,あの『悪人』だった。そのあと遡って文庫になった作品は全部読んでいると思う。
 この文庫はANAの機内誌に連載していた短編小説とエッセイをまとめた第二集だ。中にはああこれは目にしたと思う作品もあった。

 さて,収められた作品を読み進めていくと,ある意味あまりの「事件」のなさに肩すかしをくらったような感覚になる。
 しかし,そうした坦々な展開が心に沁みることもあるなあ,そこが作家の腕かあ,と感心させられた。


 そして,だんだんとこれは人の心や身体に佇む記憶とは,どんなものなのかを考えさせられる作品集だなと感じた。

 例えば,洗濯代行サービスの店で働いている女性は,母親に叱られたときに洗濯物をたたませられたことをずっと記憶している。

 例えば,主人公の女友達は,自分が亡くなった母親と近い年齢になり,子どもの頃に母親の親友がトラブルを抱えて自宅に泊まりにきていつの間にかいなくなってしまったことを,母の死に際して真っ先に思い出す。

 毎日,過ぎ去っていく些細な出来事のかなりの部分を私たちは忘れていく。そうでなければ生きていけるはずがない。
 そういうなかで記憶としていつまでも自分の中に佇んでいることは,必ずしも劇的なこととは限らないはずだ。

 あの人のあの仕草であったり,何気ない一言であったり,繰り返した単調なことであったり…しかし,それらにはきっと意味があるはずのもので,なぜそこに佇むのか,自分で取りだして眺めてみたい気にさせられる。

 そういう時間を持てるのは,やはり旅が一番なのだと思う。やはり吉田修一はうまい。

ことばのことばかりか

2013年09月21日 | 雑記帳
 言われてみればなるほどと思ったのが、「炒める」という調理用語は、そもそもは「痛める」と同じ言葉であったこと。江戸期の料理本に「酢でいためる」という表現があるそうだ。つまり食材を柔らかくするという意味に通ずるらしい。火を使うのはかなり後で、明治期に「油でいためる」という表記が現れる。


 「日本語には、本来濁音から始まる言葉はありませんでした」…知らなかった。「抱く」はもともと「いだく」、「薔薇」は「茨」であったなどと出されると、そうかという気がしてくる。「ヒラヒラ」と「ビラビラ」を例にして清音の濁音化がもたらす、対立化、パロディー化という発想は面白い。濁りは嫌われ者か。


 「倭」と「和」。昔、倭国を同じ音を持つ和に変えたことは、かなり重要な意義を持つ。変更に関する明確な説はないようだが、和は日本を表わす中心の一字だろう。平和、調和、柔和、親和…安心が基盤にある意味をなすこの一字の雰囲気は国民を包んでいた。そういえば「和子」なんて名前はつけなくなったなあ。



 「暦は周期を人為的に設定したもの」…その周期が天文学と関わることぐらいは知識としてある。それにしても日めくりカレンダーには、実に多岐な刻印がある。例えば明日22日は、三碧・先勝・かのと・う・不成就日・一粒万倍日・昴…それぞれが当然意味を持ち、時間を有効に使うために設定されたものなのだ。