すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

凡人は他律的自律で

2010年06月30日 | 雑記帳
 不勉強の実感

 情けないが、今年の上半期はそういう括りになろう。
 いつものようにいくつかのバロメーターをみてみると明らかだ。
 学校を離れた研修、いわゆる公的でない会への参加はわずか2回。これでは新しい刺激を得ることはできない。

 年を経るごとにネットを通して多くの情報が得られるようになったのは確かだし、学びの範囲もいくらか広がったように感じているが、反面ちょっと腰が重くなっていることは確かだ。
 かつてはフットワークがいいと誉めてくれた人もいたが、あわせる顔がない。年齢によって重くなるのが仕方ない(いや、実は体重は半年で4キロ以上は落ちている)とはいえ、やはり自分のようなタイプはノルマをこなすことでしか自律は無理のようだ。

 質が高まらないとはいえ、読書は続けているし、ブログ書き込みもほぼ同様。
 これらは記録化しているという点に支えられているから、自分の見栄っ張り部分のよく引き出している。読む、書くは知的作業の基礎であろうし、その意味でこの路線堅持は大切だな。

 それにしても、修学旅行先で大学の同期と偶然会ったが、やはり自らのテンションをどう維持していくかが話題となる。
 どこまでも教育畑の中で大きな存在でいたいと思う者あれば、仕事以外のものに情熱を見つけていく者もあり、半端な自分にあえぐ者も少なくない。
 いずれ近くなってきた大きな曲がり角の向こうにどんな風景が見えるのか…それは、決定的なことのように思う。

 自分は…
 何かがストンとわかった時の快感を持つことが、この頃になってちょっぴり増えたように思う。
 積み重ねとはあえて言わないが、今までの経験の上にそれが乗っかっていることは確かだ。
 もう少し勉強すれば、もっと楽しくなるかもしれない。(という希望を持って)

 そこで「他律的自律による勉強の継続」が下半期の相変わらずのめあてである。

 今日だって、「総合的な学習の時間」の授業研究会の助言などを言いつけられたからこそ、少しは勉強したではないか。

同時代感覚を養う人

2010年06月29日 | 読書
 多くも少なくも小説家というものは自らの体験をどこかに織り込むと思われるが、大崎はその意味で自らの出来事を多く入れ込むタイプだと思う。まあ自分がその類を読んでいるだけかもしれないが。 
 ノンフィクションも書いているのでそうなのか、大崎との最初のかかわりが日記連載だったからか、ああ考えてみれば、自分がそう感じる訳は様々ことがあるなあ…

 『ロックンロール』(大崎善生著 角川文庫)

 この小説は、パリで執筆を進める大崎風?作家の若き女性編集者との恋物語である。そんな単純な要約で申し訳ないが、そこに到るプロセスや展開、そして結末、どこを斬っても大崎らしさが覗く。

 らしさとは単純にいってしまえば、動くまでが長い。筋を作る動きまでの待ち時間に、考えていたり見ていたり、飲んでいたりする経過が多く、それが独特のリズムらしきものを感じさせる、とでも言っておこう。
 本文中にある言葉で表現すれば、
 「岩となれ、そして転がるな」を信じている小石のような感じか。

 上質の文章が続く中で、時折言葉が妙にくだけた雰囲気を出したりする箇所があり気になったが、これも一つの大崎色かと考えた。

 ところで、この小説は何の因果か?イッセー尾形の解説である。
 主として取り上げているのは、性行為や性の有り様なのだが、その解説をこんなふうに言い切って締めた。

 彼の同時代感覚は、予言的でもある。
 
 ああ、同時代感覚か。鋭い観察眼が外にも内にも向いていることでしか養われないものだ。
 それはイッセーの舞台も全く同じだな、と感じる。
 だから、惹かれていく。

手の感触が記憶になって

2010年06月28日 | 雑記帳
 数年ぶりに、イッセー尾形の一人芝居を観た。

 座席がステージから少し遠いのが残念だったが、その表現の豊かさは相変わらずで十分に堪能できた。
 ちょっと離れていたから気づいたとも言えるが、足の動き一つとっても計算しつくされていた。台詞回しや顔の表情だけで多彩な人間を演じられるわけではなく、そういう意味で「全身性」を改めて確かめたような公演だった。

 さて、今回は終演後にサイン会があるというので、時間もまあまああるし並んでみた。
 十分ぐらい過ぎた頃だったろうか、イッセーの姿が見えた。意外なほどに小柄、平凡であり、人混みで会えばわからないかもしれない、そんな感じである。

 買った本を開いて、中表紙にサインをもらう。
 その後、握手をしたたのだが、その手はどう表したらいいか…少し小さめのサイズ、柔らかくて少しざらついている、そんなふうに言うこともできるが、それでは一面しか伝えられない気がする。

 さまざまな仕草をする手である。
 ウクレレ、ギター、そして今回はチェロまで操った手である。
 想像の中で手の感触が膨らみ、記憶としてよみがえる。

 ちょうど、大崎善生の『ロックンロール』という文庫本を読みおわったところだった。その中にこんな一節がある。

 感触は記憶に似ている。あるいは記憶そのものといえる。
 言葉は記号として残っていくが、感触はその瞬間に記憶になる。それは説明もできなければ、きっと再現することもできないだろう。
 
 そのとおり。何も言うことがなくて当然だ。
 
 ちなみにサインをしてもらった本は、『イッセー尾形とステキな先生たち』という題名である。
 読むのが楽しみである。

さんざんなデビュー後に

2010年06月27日 | 雑記帳
 先日参加した東北青年塾で事務局の阿部先生が、ipadを使って講師の野中先生のお話をまとめ、次のコーナーの対談にすぐ使っていた。
 そのものを使いこなせないが、議論や研究会運営の方法には強い関心がある自分にとっては大きな刺激になった。

 そんなこともあり、今週の校内研究会では研究主任にお願いして、PCを使って協議のキーワードを提示していくやり方を試してみた。
 Word本体にはそうした機能はないようなので、書き込む枠だけを設定した簡便なシートを作って準備してみた。当然、自分が記録係として打ち込んだわけだが…。

 協議の視点は、授業者から2点出されたのでこれはOKだった。その後の協議もそれにそって話を出してもらうことになるが、やはり少しずつずれる感じがし、どんなふうに書き込めばいいか迷いが生じた。
 また発言の要約、キーワード化もなかなか難しいものだなあと感じる。自分の能力の無さを棚上げしていうと、発言者の意図は何だとじっくり考えなければいけないわけの一つは、論法にあるなあとつくづく感じさせられた。
 途中でプロジェクターをミュートして組みなおしてみたり、はてに途中で重要な来客があり、会議を中座したりして…まあ、さんざんなデビューだった。(何の?)

 翌日に、やはりこの記録はウェビング型がふさわしいなあと思い、それに書き写してみる。
 実は、本格的にその作業をするのも初めてである。やってみて、ああこれだったらつなげていくのはそんなに苦労しないかもしれない。記録として実況的掲示も可能だし、絞込みにも役立つかもしれないと考えた。
 聞けば、ipadでなくてもそういうソフトもあるはずだという。実際に試してみたい。

声域に魅力があるということ

2010年06月25日 | 読書
 一方的な女の話を聞きながら、その不思議な声に聞き惚れていた。声質というよりも、その声域に魅力があった。
  
 吉田修一著『パーク・ライフ』(文春文庫)にある文章である。

 「声域に魅力がある」という表現は、どのようなことを指すのか。
 ふつうの意味で声域を考えると、「声域の広さに魅力がある」ということになるのか。
  http://www.bvt.co.jp/za20.htm
 しかし、この場面では別に女が歌っているわけでもなく、単に会話(というよりやや一方的な話)をしているに過ぎないのだが。

 そういう場合に、声域を感ずることが普通あるだろうか。
 まあ、意識的に声域の広さをアピールしようとして話すことはできる。
 しかしこの場合はそうではなくて女がごく自然に声域の広さを感じさせる、つまり高音から低温を使う話し方をしているということなのだろうか。
 まさか「声域の狭さに魅力がある」ということではないだろうから、文面通りであればそう解釈するしかない。

 それにしてもあまりそういう話し方は聞いたときがないなあ、強弱・緩急をつけた話し方であれば、それは結構聞いているように思うし、魅力的に感じた経験もある…
 声の高低かあ、とふと障害をもっている子がそんな話し方になる時があることを思い出す。感情の起伏が表れるのだろうと推測できる。そうすれば、それは私たちであっても無意識的に行っているかもしれない。

 テンションの高い低いはトーンに表れる。これはそうだろう。
 そうすれば、女の会話の中味は観察したことを言っているが、前半がやや否定的、後半は肯定的ととらえられ、トーンが変化する予想が立つ。

 ただ「魅力がある」と評するまでの声域が表現できるものなのか。結局そこには声質も含めた「口調」が魅力的ということではないのかなあ。

 まあこの作品は芥川賞受賞作なので、口調よりは声域としたほうがなんとなく重み?があるように思えるのは確かですね。

経験値の低さから生まれる力

2010年06月23日 | 読書
 なるほど、ね。

 『現実入門』(穂村弘著 光文社文庫)を読んだ。

 「『虚虚実実』痛快エッセイ」とは裏表紙に書いてある文句だが、確かにその様相をみせながら、実はこれは恋愛小説であった。
 その意味での納得だった。

 今ではお気に入りの穂村の本は、初めて読んだのが『本当はちがうんだ日記』という単行本だった。そこでなんとまあ自分に似通った人がいるもんだと感じてから、結構目を通すようになった。

 本業の短歌はともかく、このエッセイも本領発揮だなあと思う。
 今さらながらにその本領というものを拾い上げてみると、妄想を果てしなく連鎖させて言葉を紡ぎだしていく、とでもいえばいいだろうか。

 文庫本の解説を書いている江國香織は、「嫌味のない文章と観察眼のよさ、そして会話の拾い方の妙」と非常にまともな評価をくだしているが、その内容を魅力的にしてるのは、やはり妄想力だと思う。

 「人生の経験値の低さ」を改善?しようとした試みからこの話は始まるが、考えてみればその力はだからこそ身についたといってもいいのかもしれない。

 アクティブでチャレンジングな性格でないことで養われる力も大切に育てなくては…などと誰に向かって言っているのかわからない言葉が浮かんできた。

今さら萬流コピー塾を読む

2010年06月22日 | 読書
 1984年3月に発刊された『糸井重里の萬流コピー塾』(文藝春秋)という本がある。
 伝説的といったら大げさかもしれないが、当時コピーライターとして脚光を浴びていた糸井が、週刊文春に連載コーナーをもっていて、それをまとめて単行本にしたものである。

 当時の自分といったら「おいしい生活」というコピーぐらいは知っていたかもしれないが、教職一筋?生活をしていたので、そんな文化とはずいぶんと縁遠い暮らしをしていたように思う。

 それにしても面白い。
 現在「ほぼ日」で展開されている『言いまつがい』や『小さいことばシリーズ』は、もちろん形式や内容は違うが、明らかにつながっているんだなあと確信する。
 つまり、常識的な目(や耳)では人の心をつかむことができないということを感じてしまう、という意味においてである。

 最近、テレビのバラエティなどで「なぞかけ」が流行っているようだが、要するに言葉の組み合わせに過ぎないように思う。
 しかしコピーとなると、もちろん語呂合わせやシモネタもあるにはあるが、そこから一歩も二歩も抜け出ている。
 もはや「詩」と呼んでいいかもしれない作品とも出会える。

 「女」というテーマで、「生きる資本主義」
 「時計」というテーマで、「長針はずして南国気分」
 「東京タワー」というテーマで、「てっぺんまでいかせろや、ねえちゃん」

 うーむ。見事だと思う。
 自分との関係性、他者との共感性をどれだけ掘り起こせるか…それが表現の質ということか。

 ここで扱われているテーマは「巨人軍の藤田監督」であったり「国鉄」「銭湯」であったり、かなり時代を感じさせるものも多いが、何を取り上げるかという時代性、そして普遍性というものも優れたコピーの条件であることを、今さらながらに感じる。

修学旅行の謎

2010年06月20日 | 雑記帳
 昨年に続いて修学旅行の引率である。

 行き先、時期は同じであるが、コースや宿泊地は違う。
 いつもながらの風景と、そうではない個別の風景があるわけだが、気になること、驚いたことなど少し書き留めておきたい。

 まず小学生の修学旅行にも、事前のお土産発注が出てきたことに少しびっくりした。
 中学校でそういうことがあることを聞いたときも「時代だなあ」と感じたが、とうとうと言うべきか。これは少し考えてみるべきことだと思う。

 本校でも「木刀禁止令」なるものが出て、一部の男子?から不満が出たわけだが、そのこと自体もどうかとは思いながら、結局子どもたちの様子をみると、何かしら代替はあるものだ。
 今回は、(武将が描かれてあるような)扇子と(伊達政宗をイメージしたのか)眼帯だったように思う。
 それにしても、静まりかえった宿舎の夜の廊下で、黒い眼帯をして歩くのだけは止めてくれ。

 行程やグループ活動のあり方などについても考えさせられることはあった。ねらいや計画の妥当性というより、子どもたちの現実とどう照らし合わせるか、抜本的な見直しを行う時期に来ているのかもしれない。

 さて、今のところのハイライトは結局最後の遊園地となるわけだが、十数回は来ているうちの最高の混みようだった。
 入口前の案内板に書かれた団体名(そのほとんどは小学校)はなんと56。
 凄いなあ、と思って「秋田はわずか三校だけだなあ、他は岩手か山形だろうか…」などと学校名を眺めていたら、そこに奇妙な校名が。

 本宮まなみ小学校
 
 こ、これは何だ?ユニークすぎる。
 「本宮小学校」なら普通。
 「まなみ小学校」…ひらがな表記がどうかと思うが、十分あり得る。
 しかし「本宮まなみ小学校」とは…。

 あきらかに女性名ではないか。もしかしたら、女の子だけの入れる学校か。
 イメージとしては「本上まなみ」か。気品がある。だとしたら素晴らしい。
 いや「本宮ひろ志」だったら、どうする。いつも校庭で決闘をしているのではないか。
 折衷としての「本宮まなみ」か。えっ?

 謎の学校に入っている小学生が、この遊園地内にいると思うと楽しい気がした。

嬉しいような悲しいような

2010年06月17日 | 雑記帳
 BSの『週刊ブックレビュー』に、お気に入りの作家である伊集院静が出演していた。

 あまりテレビなどには出ない方だと思うし、こんなにじっくりと声を聴くことができたのは初めてのような気がする。

 新作『お父やんとオジさん』のことについて語っていた。内容はいわばお得意の自伝的小説であるが、そこにはまた格好のいい男の姿が描かれるとのだと思う。手にするのが楽しみである。

 本のことはともかく、周辺情報好き?の自分にとって、思わずニコリとさせられたのは、伊集院が

 「ぼくは今までたくさん遊んできたので、これからは仕事をしようと思っている」

 と語ったくだり。堂々とこんなことを口にできるところがまた素晴らしい。
 毎週、週刊誌で連載を読んでいるが、たぶんその言葉も裏切られると一ファンとして予想する。
 だから、その言葉は嬉しいような悲しいような決意である。

 司会が今後のことを訊くと、出た名前が「子規」だったことも意外だった。しかし、考えてみれば「俳句」には造詣が深いはずだし、なにしろ「野球」のことがあるから…。結びつくのは当然なのかもしれない。
 「恋愛をしなかった作家」として子規をどう描くか、興味津々である。
 これもまた、嬉しいような悲しいような生涯だろうな。

 http://www.nhk.or.jp/book/review/index.html

入り込んでも明るい隙間

2010年06月16日 | 読書
 ちょっと小説から離れていたので、何か読んでみようかな(と、いっぱしの文学好きのような言い回しをしている自分が可笑しい)と手にとってみたのは『家日和』(奥田英朗著 集英社文庫)。

 帯には「柴田錬三郎賞受賞」とでかでかと書かれてあるが、時代小説ではあるまい。もうこの時点であまり詳しくないことがわかる。初めて読む作家である。

 短編が六つ。どれも大きな事件などない日常的な場面ではあるが何だか惹きつけられて、あっと言う間に読了してしまった。

 全部に共通するのは、主人公が何かに「はまっていく」過程を描いているということだ。

 主婦がネットオークションに。
 会社の倒産で失業した夫が家事に。
 離婚して取り残された夫が自分の部屋のインテリアに。
 …

 そこに向かう心理がごく自然で、これはあることだなあとつい同化してしまうような感覚を持ってしまった。
 いずれも何か悲惨な結末に至るわけではないし、逆にはまったことがどちらかといえばプラスに転じているような印象を残しているので、いやな気分も残らない。

 編集者だと思うが、裏面カバーに「少しだけ心を揺るがす『明るい隙間』を感じた人たち」と記している。

 隙間は周りが明るければ暗くて中が見通せないが、周りが暗ければ行きつく先の見当がつく程度は明るさがあるものだ。
 また人は誰でも隙間に入ってしまうことがあるし、それが明るかったら結構心弾む瞬間もあるのかなと考える。
 そして暗い出来事の連続があったとしても、光が差し込む隙間もあるかもしれない、という発想も浮かぶ。

 「家日和」か。なかなか言い得て妙である。