すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

生の燃焼度を視る人

2025年02月15日 | 読書
 小学生の頃の漫画月刊誌といえば、「少年画報」「まんが王」それに「冒険王」が思い出される。ここで「冒険」という語が使われたのは、読者対象の心を強く揺さぶると考えられたからだろう。昭和30年代後半から40年代、広い意味で冒険は未来だったとも言える。そして今、限られた者の強烈な光を指している。



 読み応えのある一冊だった。対談と記事・解説のエッセイが集められていて、内容として重複する箇所も散見されるが、それでも著者たちの熱い思いが伝わってくる。角幡唯介の文章に惹かれ、昨年秋に古雑誌の記事に対する雑感を記したこともあった。今回、彼の活動のほぼ全貌を知ることができて、益々納得した。


 彼は「初めから文章や本を書くことを前提に探検や冒険に出かけている」とずばり記している。登山や極地探検等それ自体も「表現」であることに違いないが、その「行動」を書き手としても真摯に見つめるという…そう記せば格好はいいが、実際は「行為と表現のジレンマ」を乗り越える葛藤は想像を超えるだろう。


 全く縁のない「登山」。書籍などからなんとなく、目指す人は危険を伴う行為を乗り越えることによる「生の実感」が魅力だろうなと感じていた。表現の仕方は違うがそれに近いことも書かれている。しかし著者は登山ブームはもちろん、著名な探検家たちのアプローチについても、その行為の意義を徹底的に詰める


 それはいわば「生の燃焼度」を視ていると言ってもいい。予定調和化され、スポーツ化していく登山とは発想が違う。根本的には「自由」とは何かを問うているのだろう。文章だけで想像する世界だが、非常に魅力的に映る。この本に取り上げられた複数の書籍を買い求め読んでみようと思う。良き導き手に出逢えた。

無理せず、諦めず、偏らず

2025年02月13日 | 読書
 相変わらずの風呂場読書は新書か文庫に限る。何より軽いし、短時間でも一週間ぐらいで読了するのがいい。時に鋭い一節に考え込むこともあるにしろ、ゆったりと身体へ活字を流し込む時間は貴重だ。宗教や健康ジャンル、小説なら短編が多い。新しい知識、一歩先を行く知見…心開けば、染み入るものは必ずある。





 『「始末」~』は再読。4年前に読んでいてメモを残している。その時思ったことに加え、今回ぐっと考えさせられたのは「葬」だった。義母を最近逝去したこともあるし、たまたま見ていたTVでインタビューを受けた外国人が「なぜ日本人は亡くなった骨を大事にするのか」とその慣習を疑ったことが重なった。


 今の一般的な葬送の仕方は、極めて限定的と再認識する。この国の、平時の、経済優先の、現代社会に通用しているだけだ。人が人を弔うあり方に目が向くようになったのは、自分もまた「始末」のつけ方を深く考えるようになったからか。受け継いだのは何か、自分は何を伝えられるのか、葬を貫く芯はそこにある。



 『70歳までに~』の対象読者は中高年、まあ高くても60歳前後か。そこまであと一年少ししかない自分が読もうとする神経が、そもそも間違っているのではないか。そういう根性(笑)がサプリなどに手を出す安易さと結びつく。この新書で強調される「市販のサプリメントはほぼ効かず…」というパンチが心地よい。


 幼い頃、TVCMで「たんぱく質が足りないよ」というキャッチコピーがあった。現代も栄養過多に見えて、実は当てはまる者も多いようだ。様々な情報に振り回されてあたふたするけれど、結局、健康維持は栄養と運動が全てだ。それもごく自然に「無理せず」「諦めず」「偏らず」に尽きる。それが「始末」への道。

「今=ここ」に留まらず

2025年02月06日 | 読書


 日本人の見通しの甘さや、同じ過ちを繰り返す国民性、さらには「空気」に支配される風潮について書かれている本を何冊も読んできた。なぜそうなのかを著した部分はあったかもしれないが、あまり覚えていない。『日本文化における時間と空間』はまさにその答に迫ったものだ。難解だったが、興味深く向き合った。


 「日本では人々が『今=ここ』に生きているようにみえる」。そうした「世界観」を持つに至った、日本文化の歴史を「時間」と「空間」の両面から解説している。「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」の慣用句に頷いてしまう精神性もそのなかで作り上げられ、私たちの多くは、視角90度程度で生きている。


 中国や韓国外交で繰り返される戦争保障問題や、現在戦争が行われている地域に関して、一通りの歴史や原因は分かっていても、真底から理解していない訳もそういうことかと納得した。さらに問題なのは「今=ここ」が「大勢順応主義」と結びついていることだ。私たちは、そうした伝統的文化の中で生きてきた。


 『沈黙する知性』は二人の対談集。冒頭に内田氏が語る「まず同意する」対話の作法には、まず同意した。問題なのはその後であり、そこから他者との接点を語りながら、複眼的に新たなものを作り上げることこそ「知性」ではないか…そんなふうに捉えた。ありえたかもしれない世界」への想像力を忘れないことだ。


 『日本文化~』と絡ませた時、この国の大きな失敗はやはり太平洋戦争終結の遅さにある。「今=ここ」しか見えなかった指導者たちの理性のなさは、犠牲者を莫大に増やし、見る風景を大きく変えてしまった。80年が経ち唖然とするだけでなく、水に流したものを、明日の風を、もっと自力で想像し、歩みたい。

読書録3~その目線が決める

2025年01月27日 | 読書
 TVニュースで耳にした政治家の発言の違和感がどうしても拭えない。高校の授業料無償化がなった場合に「塾代に充てるなど高額の所得者に対して有利に働くのではないか」という箇所だ。教育の機会均等という点を念頭に置いているのかもしれない。しかしどのレベルの機会均等が肝心なのか。やはり目線は上だ。


 「塾に行くことは有利」…常識には違いないが「有利」の中味はやはり価値観・人生観を反映しているし、それは喧伝されている「多様化」と擦り合わせできていることか。「年収●●●円の壁」問題にしても、どうにも政策提案が小手先じみている。もはや小国の悲哀か。とそんなことを前置きに読書メモを書く。



 『コーヒーカップの耳』(今村欣史 朝日新聞出版)。「阪神沿線 喫茶店『輪』人情話」という副題の通りに、詩人である著者が夫婦で営む喫茶店で見聞きした話を、語った人の口調そのままに構成している。戦前から平成までの実に様々な物語…それらはいずれも、地べたからの目線で「己と人の世」を描いていた




 自分と同齢の「行動人」の著書を手にして、もう半世紀近く経っている。しばらくご無沙汰していたが、知人の感想を見て注文したのが『学校がウソくさい』(藤原和博 朝日新書)。義務教育初の民間人校長となった頃に読んだ内容と、本質的に変わっていない。正直、何年同じことを言っているのか、という印象だ。
 
https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/e02b971ae94f55c5a05b9d74136edf87

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/0f6efef8af7b72561622b7520f86bd80

 しかしそれは、いかに学校が変わってないかということの証左でもある。もちろんここ20年、半分は現場にいて、変化した事象は数えきれないほどあった。ただ抜本的・構造的な改革が為されたかといえば、それはNOだ。逆説的であるが「教師自身の学び」を尊重しない学校、社会の目線が規制する壁は強固だ。

読書録2~こころが着る服

2025年01月13日 | 読書


 今シーズン一番の降雪だった10日金曜日、山間部にあるこども園へ。峠道は朝に除雪していても10時半頃にはまた結構な量が積もっていた。車体はフラれるし、道幅が狭く、白さが強くて視界が悪い。こうした道路は慣れているはずだが、やはり不安が出てくるお年頃か…だから、この本を読む視点は複雑だった。


 『うちの父が運転をやめません』(垣谷美雨 角川文庫)。知り合いが寄稿していた読書記録にあり、興味が惹かれた。地方在住者にとって重要度が高いテーマだ。物語は50代の息子と80代に手が届く父親が対象であるが、免許返納に関わって描かれた事象や個々の思いは、この国の政治、社会課題と直結している。


 解説を書いた国際政治学者の言葉が鋭い。「決断せよ、50代。」内容はさておき、焦点が当てられた年代からズレてしまった自分が少し哀しい。とはいえ、何もできないわけではない。得た何かをいくらかは社会還元できるように暮らしたい。読書もその糧になると教えてくれるのは、『自分の時間へ』(長田弘 ちくま文庫)


 昨年秋に文庫されたエッセイ集。様々な今まで考えてみなかった事柄について、いつものように多くの教示を得る。前後は略するが、例えば「天職としての仕事という考え方」例えば「得たものはつねに、失ったものに比例している」…自分の来し方を思い、生き様を思い、何を今どう大切にすればいいかということ。


 「人が服を着るように、こころも服を着る。本はこころが着る服だ」という一節は深く染み入った。読むだけならいざ知らず、自分で本を書こうと思い立ち、形を成した者にとっては、どこか恥しいような気持になる。だからといって俯いてばかりでは気も晴れない。「読書という習慣」の力でこころを温かくしていこう。

読書録1 ~座布団20枚

2025年01月09日 | 読書


 元旦の読み始めは例年と違った。『残酷人生論』のことは一区切りついたように思ったのか、昨年末に買い貯めた中から『未来のだるまちゃんへ』(かこさとし 文春文庫)をまず選んでみた。2018年に92歳で没した偉大なる絵本作家、児童文学者のいわば自伝とも呼んでいい一冊だ。「迷い道人生」に学ぶべきことは多い。


 大正生まれの生き様を見る時、なんいっても「肚のすわり方」に圧倒される。学ぼうと思って学べるものではない。戦争体験がそれを支えていることには間違いなく、修羅場のくぐり方が決定づけるのかもしれない。「だるまちゃん」シリーズはその結晶であろう。重みを感じつつ、想像力を発揮して軽やかに読みたい。


 併行して読んでいたのが『噺は生きている 「古典落語」進化論』(広瀬和生 ちくま文庫)。落語評論家の著者が、有名な5つの噺をその成り立ち、落語家ごとの特徴などかなり綿密に分析している。初級ファンであるが、いずれの噺も何度か聴いた。しかし、ここで噺家という仕事に関して認識を新たにしたことがある。


 演者による噺の違いは、今まで「脚本」「演出」だと解釈していた。それは間違いではないが、それ以前に「解釈」「判断」があり、そして演出する「自己の表現技能」を生かすトータル性によって成り立つ。さらに時代性があり、やはり初級者としては「現代性」に惹きつけられる。それを、簡単に「好み」と言うが…。


 ちくま文庫にこんな本が…『しかもフタが無い』(ヨシタケシンスケ)。これは著者が絵本作家になる10年前に刊行された、なんと「アイデアスケッチ」集である。今につながる妄想の数々が並んでいる。なんとなく分析的に見てしまう自分には及びつかない真実への希求。文句なく、座布団20枚あげたい一節があった。


 「神サマに言われたくない言葉」
  ・・・何度もチャンスをあげたでしょう?


つまりは、自分次第だと…

2024年12月29日 | 読書
 久しぶりの池谷本は新刊。Re101『生成AIと脳 この二つのコラボで人生が変わる』(池谷裕二 扶桑社新書)。本書に人々のAIに対する態度は5つに分類されるとある(今年9月のアンケート結果)。それによれば現在の自分は「5観察派: AIを活用しておらず、様子を窺っている」タイプだ。それゆえに手にした一冊だ。


 予想以上に進化していてビックリ!という高齢者にありがちな感想を持つ。著者の示す例や論理は納得のいいものが多く、例えば、特にAIによるカウンセリング、授業などは今まで信じていた常識を覆すものだった。つまり、「人間味」などという粗い情緒面に対する評価だ。「仕事をする側」の偏見の有無が刺激される。


 「第4章 生成AIが抱える10の問題」では危惧される点が明確に整理されている。総じて思うのは、人間は結局ラクにはならない。新しいテクノロジーで私達が暇になるかと考えれば、明らかなのは「自分の心身に上手く活用できるか」だけだ。それは車だって、ICTだって、AIだって何一つ変わらないではないか。



 これも久々の池田本。Re102『人生は愉快だ』(池田晶子 毎日新聞社)は三章構成で、書き下ろしの第一章は歴史的人物(哲学者、思想家、高僧)の一節を引用し、池田流に解説していく。全く理解不能だが「空海」の箇所で救われる。「意味を捉えるのは理知であるが、音を捉えるのは身体である」。私にとって池田は音だ。


 二章は人生相談?三章は日常生活エッセイ。どちらも月刊誌の連載だったらしい。ここは実に読みやすく。箴言が豊富だ。あえて一つに絞れば「人間は自分の中にないものを、他人の中に見ることはできない」…これは深い。他者を評価する言葉、悪口も誉め言葉も自分にあるからこそ、気付き口に出来るということ。

100冊目が問いかける

2024年12月26日 | 読書
 Re100『〈ひと〉の現象学』(鷲田清一 筑摩書房)。予想はある程度していたけど、難しい本を手にしてしまった。風呂場で読んだ(そんな類の本ではないが)けれど、何日ぐらいかかったのか。ざっと半月以上は確かだろう。正直に言えば、理解度1割ちょっとか。しかし、それだけでありながら印象深い記述は多い。




 第一章の「顔 存在の先触れ」は特にうぅむと唸ることが多かった。私たちは日常、他者の顔を真正面から凝視できないことに初めて気がついたように思う。「いわば盗み見するというかたちでしか、じっと見つめることができない」という事象は何を意味するのか。一体、何のために顔を見るのかという問いが始まる。


 そこで第二章「こころ しるしの交換」に移ると面白い一節に合う。筆者はある小学校の出前授業で、子どもたちに心の存在を問うてから、こんなふうに誘いかける…「心は見える」よ。悲しみや怒りを他者の姿に見ようとする経験は「心にふれる」ことに他ならないという。それは「ふるまい」として可視化される。


 文楽や歌舞伎の動作や所作が「振り」+「舞い」によって「しるし」となっていることには納得した。突き詰めれば、魂と身体の関係とは、内部と外部、動かす主体と客体であるという常識的な考えを、疑ってみねばならない。私には自分の「こころ」は見えないように、「顔」もまた見ることができないではないか。


 多くの言葉に関して刺激を受けた。例えば「自由」。かつて憧れたその語は今、魅力的な響きを失ったが、結局「じぶんがじぶん自身をじぶんのものとして『所有』している」かという点が問われているのだ。とすれば意のままにできる「自由」の範囲を、まず近い所から取り戻さねばならない。さてそれは、顔かこころか。

物語が嗅覚を刺激する

2024年12月23日 | 読書
 久しぶりに小説を、と思って手に取ったのが、この名作Re98『蛍川・泥の河』(宮本 輝 新潮文庫)この作家には一度手を出したが、そんなに馴染みがあったわけではない。しかし、さすがにこの作品は心に染み入った。昭和30年代という時代。当時の大阪、北陸富山という舞台を、色濃くイメージさせてくれた。


 なんといってもニオイがする。それは匂いであり臭いだ。土地の自然環境だけでなく社会環境も景色となり、全体的に強く迫ってきた。現代とはかなりかけ離れた人間の機微を感じさせる。自分も少しだけ懐かしく思うのは、貧しさ、醜さそして意地のような部分が心底にかすかに残っているからではないかと考えた。




 ことし8冊目のドリアン著作本。Re99『あなたという国』(ドリアン助川 新潮社)。自身のバンドやニューヨーク滞在経験をもとに、劇的な展開のある一種の恋愛小説。なんといっても9.11という日付が登場する段階で予想できる筋はあるのだが、その背景として様々な国際、社会問題を包めながら構成された物語だ。


 「ドリアン」という名は、くさい詩を書くからというエピソードがもとになっているが、宮本輝作品を読んだ後に手にすると、明らかに無臭の感が否めない。いや異臭と言ってよい。ニューヨークのイメージが貧困な自分を棚上げしつつ、騒音や極端な明暗のフラッシュ、金属、コンクリートのクラッシュが頭の中に浮かぶ。

一言から、己の存在を確かめる

2024年12月15日 | 読書
 編者である照井孝司先生よりご恵送いただいた。Re97『野口芳宏 一日一言』(野口芳宏・著 野口塾文庫)。「教育箴言集」と銘打たれ、365項目にわたって人生観、教育観から始まり、国語科指導のポイントまでが並べられている。致知出版社の一日一言シリーズと同形式といってよい。野口語録のエッセンスである。



 編者が野口先生に学んだ足跡でもある。長きにわたり真摯な姿勢を続けてこられたからこその労作と思う。私も講座や著書に触れ、何度も同じ言葉を聞いてきたつもりではあるが、半端な根性ゆえに受けとめる深さは到底叶わない。一見ランダムのように並べられたと感じる箇所にも、明確な流れの意図を汲み取れる。


 「向上的変容の連続的保障」…4月の扉にあるその言葉は、授業の本質として常に心に留めていた。そこはぶれずに歩んできたが、振り返ってみると「向上」をどのような姿と捉えるかという価値観の幅の広がり、拡張する多様性に揺さぶられ続けた。それは昨今の学校教育のあり方に直結する。手離されない芯は何か。


 自らの向上的変容を問う時にも、時々読み返すことは有効なはずだ。それは前半の人生観や教育観の部分だけでなく、国語指導にあっても日常の「言語行動」を考えるうえで大いなるヒントとなる。11/30言葉を発する「第一の意味」が記されている。それは「己の存在感、実在感の確認」。今まさに自分がしていること。


 さて、9/29に<詩を虫食い(□の空欄)にして扱うことに関して>とあり、その指導の位置付けに関して厳しい指摘が載っている。思い出したのは、かつて「詩の伏字クッキング」と題して、研修会を開き講座を受け持った経験だ。拙い実践だったが今でも自慢(笑)の一つ。冊子を紐解くと日付は91年11月30日とあった
(明日の雑記帳へつづく)