すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

働きを最高レベルで味わうために

2024年08月22日 | 読書
 お盆前から約10日間、寝床でゆっくり読んだ一冊、Re66『寂しさから290円儲ける方法』(ドリアン助川 産業編集センター)。「相談料290円」という「麦わらさん」が、メールをくれた困っている人、悩んでいる人に「麦わら料理」をこしらえ、会いに行くという設定で11話からなる連作集だ。さすがの面白さ、深さ。




 小説であるのは間違いないが、「麦わらさん」には著者の生き様が反映されていることは疑いなく、納得の結びとなっていく。例えば、第一章の相談者は多くの悩みに振りまわされてコントロールできない三十代後半(らしき)女性。待ち合わせ場所の、豪徳寺の招き猫と、作った料理ペコロスで「一粒だけ味わう習慣」に導く。


 国内各地とニューヨークが舞台となり、様々な悩み、困り事が寄せられていく。ただし最話終の相談相手が「昔の自分」と設定されていてファンタスティックに終わったは意外であったが、必然だったか。そこまで選ばれた場所も、実は著者の人生に深く関わりを持っていることがわかるし、とすれば悩みも困り事も…。


 個人的に行ってみたいと思ったのは「長野・小布施」。ここでは老齢の作家が相談者で、北斎館を訪れる。作品に触れ、北斎がこの地に来る経緯を聞き、「世界の受け止め方」について語る麦わらさんとやりとりをする。一種のクレイジーさがないと衰えていくばかりという現実は、読み手になかなか沁みる。きっかけは何処に。


コンピュータには、負けるための計算は存在しません(略)。利益がたった290円しかないような仕事は発想できないのです」という一節に著者の考えが集約されている。その値段設定こそが「よく働いたことを最高レベルで味わうため」と言い切る。現実無視の戯言と茶化す者には、AIに支配される未来しかない。

読書もまためぐりあい

2024年08月12日 | 読書
 最近の風呂場読書でようやく読みきった文庫本はRe65『短編伝説 めぐりあい』(集英社文庫編集部)。短編小説集は手軽さとともに、アンソロジーであればまさに作家との「めぐりあい」を期待して手にする。この一冊も13人の作品が並んでいるが、馴染みのあるのは4人ほどであとは名前を知っている程度だった。


 短編としているが、掌編と呼んでもいい話も三つほどあった。なかに三島由紀夫、五木寛之という大家の作品が並び、やはり五木がくりだす設定が好きだなと単純に感じたりした。考えると、短ければ短いほど作家の世界観、人間観が如実に表れるのではないか。表現意欲を喚起する事象への眼、そして結末の価値観。



 さて心に残った一つは「二人ぼっち」(森瑤子)。おそらく初めて読む。妙に人間臭さを感じる文体で会話の自然さで読ませていく。題名の「二人ぽっち」という表現はなかなか意味深だ。ここでは母子を指していると思えるが、他の登場人物との関係性も重なる。「ぽっち」は「ぽち」…それだけに抱える重みを感じる。


 「永遠のジャック&ベティ」(清水義範)は、顔を緩ませながら読み続けた。解説には「言わずと知れた名作」とあり、作者独特のパロディ感覚が存分に発揮されている。60歳以上のおそらく多くの者が、中学や高校の英語授業で体験したあの独特の言い回しを思い出すだろう。あの時、僕はジャックでありジョンであり…


 彼女はベティでありメアリーであり…これは「机」であり「ペン」であり…、〇〇の中で最も~~なのは…、~~するやいなや~~、そして~~するところの〇〇は…、と言わなくてもわかることや、ふだん使ってもいない日本語の「学習」をした。その成果はともかく、懐かしい時間に再びめぐり合った気分になった。

閉じれば豊かさは見えてこない

2024年08月08日 | 読書
 この本の存在は知らなかった。Re64『映画を撮りながら考えた』(是枝裕和 ミシマ社)。映画ファンとは言えないが、是枝作品にはシンパシーを感じる。主として台詞に表れる人間性の発露に心が響くのだと思う。読み進めて、TVドキュメンタリー制作を手掛けながら研ぎ澄まされてきた感覚が支えていると感じた。


 ドキュメンタリーというと、「やらせ」の問題がついてまわるが、そうした事例も含めながら、なるほどと思った記述がある。そしてそれは創造的な仕事に関わる者であれば、共通する要素があるのではないかと思った。先に見えない社会と言われて久しい。日々の暮らしに向かう時にあって、ふと思い起こしたい警句だ。

 「真面目な社会告発型ドキュメンタリーだろうが、撮る前からあり得べき理想が確固としてつくり手のなかに存在し、そこへ精神が閉じてしまえば、目指す志のいかんを問わず『やらせ』だと思います。」





 春頃に放送された『花よりもなほ』を録ってあったので、読書の合間に視聴した。元禄の忠臣蔵の時代に、一人の「仇討しない武士」を描いた劇映画である。是枝は、志ん朝と談志の落語を例として出し解説してあり興味深い。「フィクションは陶酔を、ドキュメンタリーは覚醒を(略)引き起こす」という分析も面白い。


 そしてその映画は陶酔を目指したが覚醒に留まってしまったと自己評価する。確かに迷いがあった分だけインパクトの強さは感じられなかった。しかし、いつの時代にあっても喧しい「生きる意味を問う」論は、是枝が『花よりもなほ』の脚本第1稿に残したコメントのこの言葉を通して解釈することができると信じる。

 「意味のある死より、意味のない豊かな生を発見する」

自分を信じて元気になるために

2024年07月28日 | 読書
 ミシマ社の出版物を検索、久しぶりに健康本をと思い注文したRe62『ナンバ式!元気生活』(矢野龍彦・長谷川智)。冒頭第一章のタイトルは、やや肩透かし的だ。「『健康』よりも『元気』が大事!」…しかしこれは単に語の解釈ではなく本質的な視点かもしれない。もはや通常の健康体とは言えない高齢者には響く。


 「健康にふりまわされない」というのは、なかなかの警句だ。「元気」との関係性で考えればわかる。人間関係や生活術について語っていることの肝は、「ナンバ」に見られる、無理をしない、自分の感性・感覚を信じるという点だ。自己点検して、様々な「排出」「設定」「心構え」を照らし合わせてみることにしよう。



 夫婦の脚本家ユニットの本も久しぶり。町の図書館にはなかったが隣市にあり借りてきたRe63『ぱくり ぱくられし』(木皿泉 紀伊国屋書店)。夫婦の対談(会話?)、妻の連載エッセイ、ラジオドラマ脚本で構成している。インプット担当の夫の本のチョイスと引用部分に改めて感心しきり。自分も読んだはずの一つはこれ。

 「ものごとだけでは、じきに沈んでしまう。<ことば>になることで、文章は羽根をつける。四方に飛び散っていくのだ。思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ」
 (荒川洋治『日記をつける』)

 脚本はどうも読みにくいのでほとんど飛ばした。エッセイは変な魅力が感じられる。文章の上手い下手というよりも、書き手そのものの味がダイレクトに伝わる。それは美味とは言えないが、癖が強くハマるイメージだ。何事も「やってみなければ本当のところはわからない」と開き直っている姿がゆったりしている。

希望はどこから生まれてくるか

2024年07月15日 | 読書
 『月の満ち欠け』は実に印象深い小説だったが、それ以来書いていなかったのだろうか。図書館で見つけたRe60『冬に子供が生まれる』(佐藤正午 小学館)を読んだ。これもまた、ある意味で幻想感に包まれる作品だった。作家のこのテンポは懐かしく、最初は分かりづらく厄介な展開に思えて、後半に揺さぶられる。


 話者の正体が終盤で明確になったのは仕掛けなのか。とすれば、ほぼ同齢の元教師を設定し、どうしようもない「悲しさ」に泣き続ける場面で終えた意味はどう受け止めたらいいか。様々な記憶を持ったり、消したりするのは愚かしいことか。そんなふうに「泣く」行為で振り切れば、そこに希望は生まれるか。




 『希望学』(中公新書クラレ)に続けて読んでみたRe61『希望のつくり方』(玄田有史 岩波新書)。同時期に出版された2冊なので、当然内容は似ているがこちらの方が読みやすかった。読むきっかけが本県の新聞記事だったと書き、「希望最下位」の中味を解釈したいと考えた。自分なりには、あるエピソードに頷いた。


 米国の優良IT企業を辞めていった優秀な女性たちに、その理由を訊いたときに大きく二つに集約されたという。一つは「このまま会社で働いてとしても、先が全く見えないから」、そしてもう一つは「先が見えてしまったから」なのだ。「働く希望を失った」理由は実に対照的だが、結局将来の想像力を喚起しないことか。


 そこに本県のデータを重ねて見えることがあるかもしれない。個人レベルに留まらず、少なくとも地域社会レベルで考えてみたい。本書は最後に「希望をつくる八つのヒント」がまとめられている。八番目が「空欄」となっていて自分で見つけるように促す。これが著者の姿勢であり、最終的な結論だ。共感できる。


「実現可能性」だけでは語れない

2024年07月11日 | 読書
 Re58『闘え!ミス・パーフェクト』(横関大 幻冬舎)。『ミス・パーフェクトが行く!』を一昨年読んで、それなりのエンタメ感を味わえたので続編も読む。総理の隠し子という元女性キャリア官僚が、次々と難問を解決していく設定。今回は冒頭の第一問が「限界集落である某村を活性化させなさい」。これは…切実な現実(笑)。


 本編通りに、もはや「集落」ではなく「限界自治体」である。結末は、自然を活かす大胆な事業提案それは高齢者の雇用も促し、なるほどと思うが、誰しも感じるように要は大胆な行動力。TVドラマ「ナポレオンの村」を彷彿させたが、それを夢物語としないための二の手、三の手を、「現実」が作り出さねばならない




 先月3日の朝刊一面の「『希望』最下位、どうする秋田」という大見出しが頭に残っていたので、関連の新書を読んでみた。Re59『希望学』(玄田有史 中公新書クラレ)。もやもやした気持ちで読み始めながら、まず当たり前のことに気づかされた一節がある。「希望とは、文字通りに読めば、希にしか叶わない望みである


 日常的に使う語とはニュアンスが違う気がする。従って、ずいぶんと幅、範囲が広いと言ってよい。つまり個人的感覚に差があるわけだが、学問とするからには「言語化」「類型化」が必要で、その点が興味深い。類型化の切り口として、著者は「実現可能性」と「個人の考えや行動への影響」の二つを挙げる。頷ける。


 ある事柄に対して実現する可能性が高いかどうか(その程度をどこに置くかを含めて)。そして、伴う動きをどのような手順、頻度で行い、結果をどう受け止めるか。その分析を行うことで、個人の私的事項から組織や団体の動静などが改善できるのではないか。そう思わせる。6章、7章の対談が面白くわかりやすい。

寝床と風呂でハルキ文庫

2024年07月05日 | 読書
 1987年に晶文社から単行本が出ている。Re56『食卓一期一会』(長田弘 ハルキ文庫)は、全66編が食べものに関わる詩集である。もっとも冒頭の詩『言葉のダシのとりかた』が表すように、レシピや食事場面を取り上げながら、人生の機微や深遠さについて語る。この詩人の創作姿勢のエッセンスが詰まっている。


かつおぶしじゃない。/まず言葉をえらぶ。」と始まり、カビを落とし、削って、意味を選び、ゆっくり沈め、アクをすくい、沸いたら火を止め、「黙って言葉を漉しとる」それが「言葉の一番ダシだ」と続く。それが本当の味であり、他人の言葉をダシにせず「いつでも自分の言葉をつかわねばならない」と締め括る。


 『ジャムをつくる』に共感する。これはイチゴやニンジンなど「いろんなジャムをつくれたらいいな」という構成が続き、最終連で「『わたし』というジャムもつくりたいな」と切り出す。様々なことをすり下ろして、煮詰めていくわけだが、思わず自分もそんなふうに鍋の中で一つになってしまえたら、と妄想する。




 「連作短編のおもむき」を持っていながら、確かに長編小説であるRe57『おやすみ、東京』(吉田篤弘 ハルキ文庫)。これは実に軽快に読むことが出来た。いわば群像劇のような味わいがあり、それらを著者独特に「交差」させる手法が巧みで心地よい。これは最近読んだ作品も初期の『つむじ風食堂の夜』も連想せる。


 「運転手の松井さん」という設定があり、あまんきみこの名作『車のいろは空のいろ』を絡ませたセンスには恐れ入る。それを現代世相にマッチさせる巧みさだけでなくある面清々しさも感じさせた。書名に表れているように夜の都会のドラマ。地方在住者はやや憧れの気持ちで読んだが、都会在住者はどう読むのか。

実は「記号接地問題」に悩む

2024年06月24日 | 読書
 本屋大賞作品のRe53『成瀬は天下を取りにいく』(宮島未奈 新潮社)を読んだ。その続編であるRe54『成瀬は信じた道をいく』も翌日に読了した。主人公の持つ痛快さ、ユニークさがこの物語の骨子となり、確かに面白く読めた。こうした設定がウケるのは、自分も含め読者が彼女に一種の憧れを感じるからに違いない。


 『隠蔽捜査』の竜崎しかり、古くはTVドラマ(コミックか)の『斎藤さん』しかり、そのいずれもが正義感が強く、日和らない、めったにぶれない…多数がそうありたいと願う人物像を据える。だから「変わっていく」のは本人ではなく周辺人物。読み手は誰かの心境に共感するのかもしれない。そんな思いが浮かんだ。


 「二百歳まで生きる」と宣言した冒頭に成瀬の真骨頂があり、掲げていく他の様々な目標とつながらないように見えて、一つ一つクリアしていく度に力をつけ、スケール感を増す。時事ネタを上手に取り入れつつ「生きる」芯も感じる筋だ。ドラマ化ならば成瀬役は平手友梨奈か。一緒に読んだ家人と意見があった。





 新聞一面下部に広告があったので、興味を惹かれた。Re55『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美 中公新書)。オノマトペを手がかりに言語の本質に迫っていく構成で、途中で少し読みがだれてしまった。ただ、「記号接地問題」という認知科学上の言葉を知っただけでも価値があった。


 言葉の意味を理解するために、「まるごとの対象についての身体的な経験」の有無や大小などが問われており、非常に興味深い。一年生の孫の宿題を見てやる際にも日々感じていて、考え出せば小学校教員の仕事は今は怖くて難しくて出来そうにない。だから、本県の教員志願倍率は落ちたのか…ってかなり無理矢理(笑)。

そえたい「か」は学びの時

2024年06月23日 | 読書
 『数学の贈り物』(森田真生)に、著者が紹介・引用した語は実に印象深い。数学者らしい選択となっているが、全て人の生き方そのものに関わってくる気さえする。一つは「かぞえる」。これは、かの白川静によれぱ、「かぞえ(へ)る」←「か+そへる」←「過ぎ去った日に『か』の音を『そえ』ていく」という由来らしい。




 「はかばかし」や「はかどる」の「はか」が、田んぼの区画を分かつときに使われた単位であることは、かなり昔学習で扱った記憶がある。今回、それが「はか(則、計、量)」に通ずることを読み、そこを基点とした計算認識の浸透によって、「さらなる便利と効率を追求しようという動き」の拡大が何をもたらすか考える。


 ダンプカーのおもちゃで石集めに夢中になる息子を見て、著者はこう語る。「僕の頭はいつも『いま』を、過去や未来との対比のなかで『はかる』ことで忙しいが、それに比べて息子は、はかない『いま』に、全身で没入している」…「はかどる」ことばかりに目が向き、瞬間の輝きを見過ごしがちな私達への警鐘である。


 この聡明な学者でさえ「これからどんな時代が訪れるのか、たった十年後の世界がどんな場所になっているか、僕には想像もつかないのである」と吐露する。教育に関する知見はそこを基盤とし、大人の「自分は学び終わっている側」という考えに釘をさす。「対象とともに自己を変形させていく」営みが求められている。


 古語辞典から「おくり」と「おくれ」が同根のことばだと書き出す「あとがき」も心に響いた。何かを「贈る」とは「おくれの自覚とともにおくる」のだという。学びから何かを見出すことが「前に進むだけでなく、自分の遅れに目覚めていくことである」という一節は、今頃似た作業をした自分にぴたりと当てはまった。

行為に先立つ意味がないのは…

2024年06月21日 | 読書
 『数学の贈り物』(森田真生 ミシマ社)の感想メモの続き。「意味」と題された章は、なるほどと思った。数学が苦手と語る人々は「『意味が分からなくなった』ことを以て『挫折』と決めつけてしまっているようである」と記し、分数の割算や、負の数によるかけ算などの例を出している。確かに思い当たるふしがある。


 ふと教員採用になる半年前、講師の時に中学校3年生へ数学を教えた(補充だったのだろうか)その教室で「1/2÷1/2の意味が分かる奴はいるか」と問い、いわゆる秀才も含め誰一人挙手できなかった場面が蘇ってきた。本質を理解しないまま包含除の考え方で誤魔化した時間が今さら恥ずかしい。そもそも意味は必要か。




 著者は、数が当初は意味を表現する道具だったが、記号として自立すれば演算は意味の記述のために定義されないと述べる。始めから予定された意味などなく、記号が人を導き「次第に意味はつくりだされていく」とし、「×(-1)」の演算行為を例にしながら、分配則や数直線の空間的なイメージをもって説いている。


 苦手と称する者に救いになるような一言がある。「自分が数学についていけなくなったのではなく、意味が数学についていけなくなったと考えてはどうか」この発想は、数学に限らないのではないか。ただそれは、意味を軽んじるということではないだろう。「意味ないじゃん」「意味わからん」を常套句には出来ない。


 「行為に先立つ意味がないというのは、日常においては常識である」


 この一節を深くとらえよう。我々大人は、ある面で「意味」の世界に安住している。日常生活のモノやコトはほとんどが意味づけられており、それゆえ時々目の前に登場する「意味不明」に心揺さぶられる現状がある。既成の知識や情報にすがってはいけない。やはり「意味をつくりだす」姿勢が、最後の手綱である。