すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

では、読書する価値とは…

2021年04月30日 | 雑記帳
 読書の「価値」とは、当然「目的」に沿うかどうかによって決定される。例えば「知識を得たい」「発想を学びたい」「考えを深めたい」さらには「(疑似体験を)楽しみたい」など考えられる。そのために、書物を開き、目で文字を追い、脳にイメージしていくことで、結果が得られたかという点が最大のポイントとなる。


 しかし、意識的に目的化して読書する場合だけではない。今だと様々な情報媒体が広告するものを目にし、心動かされた(上記の目的に照らし合わせたことだ)。という時も多いだろう。その時点から、読書の価値へ向かう道が始まっている。ただその価値は、必ずしも「目的」に照らし合わせて生ずるとは限らない


 もう一方で、読書行為でしか得られない(得やすいと考えてもいい)価値を明らかにしておく必要がある。情報収集だけなら、スマホでもPCでも可能だ。むしろそちらがたどりつき易いとも言える。ただ、そのたどりつき易さには問題が多い。信憑性はもちろん、ネットシステムの持つ誘導性の危うさは大きい。


 単純なことを知るなら良いが、学ぶ行為は、対象と脳との往復運動において成立する。情報を知り、問いを持ち、予想をし、展開・結末がわかり、また次へという繰り返しで培われる。その行為と、書物というメディアは親近性が高いと考えられる。これは科学や実用書だけではなく、いわゆる文学においても同様だ。


 さらに、紙をめくるアナログ行為のなかにも、読書が人に及ぼす影響はあると思う。めくらなければ開かないページ、出会えない文章、言葉…それを取りに行くという積極的な体の動きが脳につながる、というのは大袈裟か。知らず知らずに本の世界へ入り込むという没頭体験は、まさに人間である醍醐味ではないか。
 

続・我が読書「変」歴

2021年04月29日 | 雑記帳
 入ったゼミは「詩と音楽」。下手な詩も書いた。卒論も中原中也だ。著作が少ないこと選んだ理由だったように記憶しているが、研究本は人並みに揃えて熟読し、評価はいただいた。しかし正直なところ、量的にも質的にも充実した読書生活とは言えない。国語人を名のる(笑)わりに古典コンプレックスもある。


 そんな自分も教職に就き、目の前の現実に対するため急激に本を取りはじめるようになるのだが、今思うと大学時代にその芽生えはあった。だから当初は、遠山啓、そして雑誌『ひと』に関わる書籍を多く購読していた。講師生活1年を経て、正式任用されたその年に出会ったのが『齋藤喜博を追って』(向山洋一)だった。


 数年後「教育技術の法則化運動」が立ち上がる。そこからは、いわば教育書マイブームとも呼ぶべき十数年が始まる。師と仰ぐ野口芳宏先生を知り、その実践に傾倒するなかで、文字通りむさぼるように読み進めた。社会と価値観の変化が顕著になり、それに沿って読書傾向が変わり出すのは管理職になってからだ。



 教頭になった1999年に、年度末紀要に「99年、99冊を読む」という短文を載せた。年間100冊を目指そうと決めたのだった。しかし当初は教育書が7~8割だと思う。少しずつビジネス書、新書、文庫が増えていき、退職間際では教育書は3割程度ではなかったか。特定の著者や作家に偏った気もしないではない。


 教育が入り口だったので、斎藤孝内田樹などかなり揃っている。心理や発想法的なものにも興味があり、茂木健一郎、糸井重里、小山薫堂等々非常に多い。小説家ではずっと重松清を愛読していたが、吉田修一を知り、井坂幸太郎、湊かなえなどの人気作家にもはまって、ここ数年は森絵都、吉田篤弘もかなり多い。


 吉田修一の『悪人』や熊谷達也の『氷結の森』を読んだときに、次のページが待ち遠しい感覚が湧いたことを覚えている、エンタメ小説が肌に合ってきたのだろうか。それまで読書は、「何かを得る」ためという姿勢が強かったが、読書を楽しむという体験が、50代になりようやく実感できたのだった。間に合ったか。

我が読書「変」歴

2021年04月28日 | 雑記帳
 図書館では年に一度、協議会委員会議がある。新しい委員も入ったので形式的な話し合いだけでなく、読書体験のようなことを座談会風に語ってもらうことを企画した。言い出しっぺがまず語るのは大切だから、自分の読書体験はどうだったろう…と少しだけ振り返ってみた。思い出して貴重に思えることもあった。


 孫相手に絵本を読んでいて、六十年以上前、その頃の自分に対してそんなふうにしてくれた人はいるはずもないと、どうにもならない事を考える。皆無ということはないかもしれないが、昭和30年代前半の田舎の農家では当然だろう。どこから我が読書体験が始まったのか。明確な記憶とは言い難いがたどってみたい。



 買ってもらって(いや、もらったのかもしれない)、しっかり覚えているのは『源為朝』だ。保育園の頃か。武将の中でもどうしてそんなマイナー(笑)な人物だったのか。たしか弓の名手であった。その意味では男児が好む定番の一種から始まった。とにかくそんな所が入口だ。小学校に入りどんどんと本を手にするように…。


…とはならなかった。中学年になり俄然と手にし始めたのだが、それは漫画。ブームが始まっていた。田舎の町にも貸本屋ができ毎日そこに入り浸っていた。自分で描き始め、漫画家を少しだけ夢見た。その興味は小学校卒業する頃はなんとなく失せ、中学ではごく普通に部活動、受験etc、特に本好きとは言えなかった。


 しかし高校生になってから、人並みに青春の悩み(笑)を抱えて読み込んだのが加藤諦三、いわゆる人生論系である。そこを脱して筒井康隆安部公房など読みだすようになったが、時まさにフォークソングブーム。ギターを抱えてしまい活字に縁遠くなったか。いや、格好つけて現代詩など読み出した。ゼミにも入った。


 小説はあまり読まなかったが、二十歳の頃、何気なく手にした遠藤周作をゴロンと寝ながら読んでいたら急に胸が押さえつけられるように苦しくなった。主人公の心情が吐露される場面で、ああこれは自分の事だと醜さを見透かされた。この体験は初めてだった。まだ若く、物語に没頭できる心身があったからか。その後は…

 つづく

すぐ傍に居る善なる塊

2021年04月26日 | 読書
 特定の宗教を信仰している人はどうかわからないが、似たような世代の者は幼い時から「お天道様が見ている」と言われ、悪さをたしなめられた経験を持つのではないか。さらに道徳の授業でよく登場した?「もう一人の自分」の存在が、非道に進むことに対する歯止めになってきたと思うのは私だけではないだろう。


『カゲロボ』(木皿 泉  新潮社)


 手練れ脚本家の短編小説集。完全な連作ではないが、登場人物が重なったりする最近よく見られる手法を使って、9編で構成されている。書名になっている「カゲロボ」とは、「人間(時に動物も)そっくりのロボット」で、その人を常に見ている存在とされている。それが、見守りなのか、監視して罰を与えるのか。


 その存在がはっきり明示されるのは半分程度だ。ただ、その存在を想う人間の心の揺らぎが共通していて、物語を作り出す。取り上げられている題材は、学校内のいじめであったり、夫に先立たれ一人暮らしを満喫する老女の日常であったり、家族の中での姉妹間の確執であったり…似た問題はどこにもありそうだ。


 「きず」と題された最終編が面白い。そこに登場する「空豆」の寓話エピソードがいい。空豆にある黒いスジが、旅人によって縫い合わされた跡という結末だが、そこに至る筋はシンプルながら深い。一緒に旅に出た者に裏切られ、それらの陥った不幸を笑い、その挙句に自分は傷つき、旅人に救われる。人生模様だ。


 ロボットという設定は近未来だが、似通った想像も湧き上がる。日本人はモノを作り上げた時、そこに「魂」を込めようとする。それはある意味で「善なる塊」とも言える。ある時、ある場で、そういったモノと自分が正対し、心の中で葛藤した経験を持つ者は少なくないだろう。カゲロボは、周りにいくらでも居る。


9年目のサイズダウン

2021年04月24日 | 雑記帳
 自家用車を買い替えた。今まで乗っていた車は2.5ℓだが、今回は1.5ℓ。まあ齢相応だろう。実は9年前の買い替えのとき、当時も乗っていたアウトバックからサイズダウンを図ろうと考えていたのだ。しかし、試乗してみると圧倒的な差を感じ、新型アウトバック(しかもアメリカンサイズで大型)にした経緯がある。


 エコロジーや節約よりも、まだアクセルの勢いに惹かれる頃だったのだろう。お蔭でこの車には思い出も多い。2012年震災の翌年に購入し長距離ドライブにもしばしば出かけた。東北全県と新潟、そして北海道の半分ぐらいは走破している。お気に入りが本革シートであり、これが今もって飽きない理由なのかなと思う。


 だから、今までの買い替えの時とは違って「名残惜しさ」がある。普通なら新車への期待で旧車などあっさり見送ることができるが、昨日車内の整理をしながら、思わずしみじみしてしまった。ナビに登録された観光地の場所も懐かしい気がした。車体にちょっぴりお酒をかけ、安全に運んでくれたことへ感謝した。


 アウトバック最後の日。図書館をバックに、サヨナラ…

 さて、サイズダウンする意義。もちろん通勤時にあまり使わなくなったことや頻繁な遠出も難しくなってくるだろうし、つまりは経済的な点である。脱炭素であればハイブリットなのだが、先々を考えれば経費面でガソリン車に落ち着いた。それでもエコカー補助金はしっかり付けてもらえる年齢になった。嬉しい。


 地方在住者にとり自家用車は「足」である。サイズダウンしたとはいえ、それを使わなければやはり「全体」に衰えがくるだろう。行動のサイズを拡げるのは難しいが、小回りの良さを生かしてサイズ内の質を向上させる意欲を持ちたい。当然だが、安全第一。そして乗る楽しさや便利さを感じられる相棒に育てたい。

探索と選択と習慣と

2021年04月22日 | 雑記帳
 中野信子氏は「私たちは、なぜ脳を持っているのでしょう?」と問いかける。そしてその訳をこんなふうに書く。「『過去に自分が生きてきた環境条件のもとで、こういう戦略が適切だった』という情報を探すため」…脳を持たない生物は遺伝子にその情報を託すと続けられ、なるほどねえと、高校生のように感心した。


 「逃走か闘争か」という『スマホ脳』のキーワードを思い出す。私たちがさらされている現実とは、何十万年前とそう変わらないかもしれない。人生の大事な場面はもちろん毎日の茶飯事まで、選択の連続である。同じ雑誌で斎藤孝氏が、哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介し、次の一節を挙げる。


 「洞察力、判断力、識別力、学習力、さらには道徳感情をも含む人間の諸能力は、選択を行うことによってのみ鍛えられる」…選択という語は生活語彙だが、教育の場でも十数年前から用語として強調されてきた。しかしその場面を増やすことによってどんな能力が鍛えられたか、という根本は押さえられていたのか。


 同調圧力、予定調和でじんわり包まれているなかでは、いくら選択場面が増えたように見えても能力は高まるのか、と危惧する。個性を売り物にしながら、実は巧みに経済活動に誘導する手法はアナログ時代からあったが、今はカオス状態だろう。ツールとしてのPC、スマホの使い方を、だからこそ考えねばならない。


 哲学者山本芳久氏が雑誌の対談で語っている。「人間とは『習慣の塊』であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している」。例えば今、自分が機器にどの程度どんなふうに接しているかを、見直してみたい。何かを目指すなら、阻害する要素を「習慣の塊」の中から見つけ出し、捨て去るしか手はない。

スマホでは脳の強みを生かせない

2021年04月21日 | 教育ノート
 先月読んだ『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン 新潮新書)は印象深く、二つメモを残した。先日珍しく買ったビジネス誌の表紙には「スマホ利用者9割は『使い方が間違い』『頭が悪くなる』」と大きな見出しがあった。それは最近の脳科学分野で著書を連発している中野信子氏が書いた切れ味鋭い論考だった。

 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/6f100d724738646178d1a6c21cc5e088

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/70e23e9b24f60f1e26d897d2e37fce00

 「スマホ脳が奪う脳の強み」という箇所は特に興味深い。「脳の強み」を「遺伝子と認知を組み合わせて重層的に戦略を立てられる」とする。「外部記憶装置」の役割をもつスマホが与える「認知の仕方」は、はたしてその強みを後押しするか。現況では9割が無理であり、スマホによる「最適化」によって毒されていく。


 つまり、PCでも同様だが自分の過去の検索、表示履歴によって、興味のある事項へ誘導されるのが常だ。それは結果的に対立する意見、直接関わりのない重要な言説などを避けていることになり、自分の「知的空間」を高度にするには、よほどの意識化が必要になってくる。これはSNSによるつながりも同様と言える。


 個人にとって都合のいいように「最適化」されるスマホによって妨げられることは何か。多様な生き方、考え方を直接体験する場や偶然の出会いがもたらす価値、そういったことが予想できる。自分だけの「認知の殻に閉じこもる」危険性は限りなく高い。だから率直に使い方をもっと俯瞰し、是正する必要がある。


 重視する学び方は「覚える」から「考える」へと強調されてきた。それは確かに方向として正しい。しかし知識や情報を得ることなしに、認知を変えることはできない。スマホなどからの知識で自分の世界は拡がったのか、逆に狭まったのか。「考えるための時間とエネルギー」は大丈夫なのか、きちんと見直さねば…。

あれは遠吠えだったか

2021年04月20日 | 読書
 吉田篤弘作品はどうにも読みにくいものもあるが、今回の話のようにすうーっとその世界に引き込まれてしまう時は、まさに愉悦である。目次の前にあるページに「××」の文字?で組み立てられる一節があり、イントロダクションの役目を果たす。「バッテン」という語を「正と負の共存」と捉えることは新鮮に感じる。


『遠くの街に犬の吠える』(吉田篤弘  ちくま文庫)


 粗筋は紹介しづらい。小説家である「私」こと吉田君、水色の左目をして音を集める仕事をする「冴島君」、編集者の「茜さん」、茜さんの友人で代書屋をしている「夏子さん」、四人が共通して関わり、師でもある「白井先生」は辞典編纂者。しかし辞典に載らない「バッテン語」を収集する研究者だ。世界観が滲む


 「天狗の詫び状」と見出しのついた最終章は、物語の決着を知らせる白井先生の手紙である。「言葉に置き換える」という行為の意味を強く思い知らされる文章になっている。「言葉にならない」という小田和正の名曲、あれにしたって聴く者の思いの深度によって、感情のあふれ方は明らかに違うことなど今さらに想う。


 さて、小説の題名はいわば「犬の遠吠え」。この語によって連想した全く個人的な思い出を少し記す。時は昭和53年初夏。大学を卒業し臨時講師として山間部の小学校へ務めた。そこで7月に公開研究会があり、体育の授業が割当たった。小学校2年生相手に、平均台を使った運動遊びで何気なく口をついて出たのは…。


 「犬のように渡って最後に吠えてみたらどうかな、遠吠えも面白いかもしれない」「先生、遠吠えってなあに?」「えっ…、じゃあやってみるか」と、22歳の男は臆面もなくウオォォォォーン…と、体育館に響くその声に参観していた30人を超す先輩教師たちの、奇異な生き物を見るような目が集中したことを忘れない。

卯月憂い日記

2021年04月19日 | 雑記帳
4月13日(火)
 思えばちょうど3か月前は、大変な一日だった。朝の通常開館が、町内に感染者が出て11時になり急遽臨時休館措置に…。あれから近隣の感染はないが、この後国内情勢はどうなるのか。都会の病床逼迫は他所事ではない。坦々と新年度事業を進めたいが常に付きまとう不安。その時点での最善を目指すという姿勢が必要だ。


4月14日(水)
 町内学校へ改めて今年度の連携依頼をする内容を決める。町長の縁があり、佐々木ひでおさんの詩画を館内に飾る準備を進める。3枚だが、いい絵が並んだ。ニュースではスポーツの様々な活躍が目に付くが、この先が心配。盛り上げるだけ盛り上げておいて…とならねばいいが。政治家のリーダーシップが頼りない


4月15日(木)
 通常は勤務しない曜日だが、職員シフトの関係で午前は出勤。ブログや諸連絡をする。午後からは洗車をしてから久しぶりに理髪店へ。世間話が楽しい。週末に桜を見に県内名所に行く予定があったのだが、周りで体調を崩している者が出て、夜に電話をかけ宿泊キャンセル。「県内割」を使う機会を逃してしまった。


4月16日(金)
 昨日出勤の代替で休む。朝のうち孫が来ない日なので、家人と今春初めての里山めぐり。タラの芽とスジノコを少々採ることができた。その後タイヤ交換作業。長年使った食洗器の具合が悪くなり、業者に来てもらう。最近はこうした際の支払いも、その場でデジタルサインのカード決済だ。現金生活が遠のいていく



4月17日(土)
 花見予定が崩れた一日だが、天気もパッとしないし、仕方がないか。NHKのモニターをすることにしたので、昨夜の番組2本を視聴、レポートを送信する。秋田臨海鉄道廃線の放送、そんなに馴染みはなかったが、しみじみと時代の流れを感じた。田中将大投手公式戦登板。あれだけの超一流投手でも、現実は厳しい。


4月18日(日)
 雨や強風で荒れた天候の一日。昨日届いたwifiルーターを設置する。プロバイダーとの契約更新で無料サービスされたものだ。10年以上使っている現在の機器はTV接続が不安定で諦めていたが、最新のものは快適だ。ただこんなに環境を揃えても目移りして大変という状況に改めて気づく。受身とはそういうことだ。

状況と言葉の結び目をみる

2021年04月16日 | 雑記帳
 愛読雑誌『通販生活』夏号で、「言葉のプロたちが違和感を覚えたコロナ新語・流行語」というページがあった。作家や国語辞典編纂者などの名前が連なっていた。今号はまずはそこからだなとさっそく読み始めた。コラムニストの小田嶋隆と社会学者古市憲寿の二人は「不要不急」と同じ言葉を挙げた。やはり、ね。


 自分も「対語は何か」とブログに記したように、あまりに流行ったため?に、喰いつきたくなる語だ。小田嶋がこの言葉を広めようとした人々が「選択と集中」という語で日本の産業を変貌させた者たちと同一だと予想したのは興味深い。しかし、本当に必要なのは何かという問いを真に持てたなら、これもまた貴重だ。


 これは三年前に撮った。今はあの小さな舎はない。桜は残っているが、今年はどうか。

 歌人の俵万智が「夜の街」を挙げた。「ちょっと文学的すぎ」という印象を持ったという。「思い浮かべる絵柄」は確かに様々で、この括り方は乱暴かもしれない。作家高橋源一郎は「ニューノーマル」を取り上げて、彼らしい喰いつき方をしている。「新しい○○」が喧伝される時に何が排除されるか、注意深さが必要だ。


 この他、三名がそれぞれ「三密」「ステイホーム」「GoToトラベル」について述べていた。違和感を持つ者にはそれなりの理由があり、単に個のこだわりと済ませていけない気がする。ところが、一番言葉にこだわりそうな国語辞典編纂者として名高い飯間浩明は「不適切、不愉快と感じることばはない」と言い切った。


 「どんな言葉も理由があって生まれ、かつ、必要がなくなれば人知れず消えていきます。」まさに、新語の記録と観察という仕事そのものを語っている。とすれば理由や必要そのものへの関心より、状況と語との結び目を焦点化しているのか。言葉の洪水とも言うべき今の社会を、淡々と岸辺で眺めているような姿だ。