すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

二月末日の馬鹿話

2017年02月28日 | 雑記帳
 2月28日が「バカヤローの日」であることを数年前に知った。
 昭和期の国会解散時のエピソードから出たものだが、この日を記すそうというセンスというのは結構好きだなあ。

 そもそも「馬鹿」とはどんな意味なのか、とつい調べたくなってしまう。
 世の中、そんな馬鹿者が無駄なことを繰り広げているから、面白くなる。


 まずは『日本 語源辞典』(日本文芸社)より

【語源】⑴痴の意を持つ梵語moha慕何(ばくか)から。
    ⑵同じく無知の意のmahallaka摩訶羅(まから)が訛ったもの。


 ここを知ると、「馬鹿だなあ」という冗談を「マカラだなあ」と言って煙に巻いても洒落ている気がする。


 電子辞書で調べると、内蔵している三辞書ともやや違いがあって面白い。
 一番シンプルにかつ多方面に書いてある『明鏡国語辞典』を引用してみよう。

 ➊頭のはたらきがにぶいこと。また、その人
 ➋つまらないこと。何の益もないこと。
 ➌損をすること
 ➍機能を果たさないこと
 ➎一つのことだけにかかわっていて、広い視野の判断ができないこと
 ➏程度が並外れていること。


 こう並べてみると、「あなた、馬鹿ではありませんか」と問われて、即否定できる人などなかなかお目にかかれない気がする。

 「本当に、そうだなあ。➊そのものだ」
 「ぼくは➋の馬鹿です」
 「俺なんかまったく➌の人生を送っている」
 「この頃、まったく➍の馬鹿ですね」

といった、妄想返答は十分考えられる。


 ネットの「語源由来辞典」に俗説が載っていた。

 『史記』の故事「鹿をさして、馬となす」からというものである。
 秦の時代、趙高という権力者が二世皇帝に、鹿を「馬です」といって献じた。
 周りの家臣たちは、趙高の権勢を恐れ「馬です」と答えたが、それを「鹿」といった者は暗殺された。

 このことから、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになったというものである。

 なんだか、現在も世界のどこかで、あるいはこの国でも見られそうなことだなあと、思ってしまう。


 こんな馬鹿話を書き連ねるうちに、二月は過ぎる。




 本当に良いお天気の末日でした。
 そして、とうとう新聞に花粉情報が載りました。
 今年も、いよいよ戦いが始まりそうです。

「いいこと」の創作もしくは捏造

2017年02月27日 | 読書
Volume40

 「どうしてそのことを始めたのか、自分でもうまく説明できないものについては、なんとか自分で理由を見つけ出そうとする。『自分がやったことについては、必ず事後的に合理化を企てる』という人性の自然の帰結である。(中略)『継続は力』というのは、だからほんとうなのである。継続すると何か『いいこと』があるのではない。そうではなくて、『継続している自分』を正当化するために、私たちは『いいこと』を創作(悪く言えば捏造)するので、続けているうちに、気がつくと『いいことづくめ』になってしまうのである。」


 「『なんとなく』の効用」と題された文書が、古いPCデータから見つかった。
 内田樹氏のブログコピーのようだ。

 うんうんと、いつもごとく納得できる。
 始めた物事は、一定期間は続ける性質(たち)なので、こんな言葉は励みになる。



 続けるということは、いいことを作り出そうという意志である。
 それが客観的にみて、価値とか成果とか呼べるようなものでなくとも、その意志がある限り、いいことと判断しても一向にかまわないだろう。


 「いいことづくめ」のその事の他者にあたえる影響が、「迷惑」と受け止められることはままあるだろう。
 その質や量に敏感でさえあれば、信ずるに値する「いいこと」には近づけるのではないか。

無自覚な道徳律~名著拾読

2017年02月25日 | 読書
 『「空気」の研究』(山本七平 文春文庫)を読み始めた。40年前に発刊された名著である。書名は知っていたが未読、読みかじるかと買い求めた。難しい箇所もありそうだ。しかし、冒頭に面白いエピソードが載っている。教育雑誌の記者から、道徳教育について何から始めたらいいかを問われ、著者はこう答える。

 「それは簡単なことでしょう。まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよいと思います。」



 あきれ、あわてる記者を相手に、著者は当時起こった爆破事件を例に、居合わせた人たちの行動をもとにしてその意味を説明した。「知人・非知人に対する明確な『差別の道徳』」という表現で、私たちのなかにおそらく無自覚にある道徳律を明らかにしている。困っている記者を前に、さらに続けたことも非常に痛快だ。

 「日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。」



 確かに私達いや少なくとも私は、この言葉に納得せざるを得ない。小さい頃から自分もそんなふうに教えられてきた。それは「本音と建て前の区別」と称されたり、都合のいい場合に「言わぬが花」と美化されたコトバで誤魔化されたりしてきたことだ。そして自らを見ても次のような事実を否定することはできない。

 「結局みんな、以上のことを、非系統的に断片的に、周辺におこった個々の事例への判断を口にするに際して、子供に教えつづけてきた」


 ただ、少しは意識的であったかなと自己弁護もしたい。それは、現役のときに数は少ないが書き散らしてきた「道徳教育」への逡巡にも表れている。その後、自分も人並に道徳教育実践へ踏み出した訳を考えると、やはりそれは「空気」だったのではないかと、その拘束感の強さを今さらながら確かめたくなっている。

低俗感漂うプレミアム

2017年02月24日 | 雑記帳
 今日はこの言葉を取り上げねばなるまい…「プレミアム」。結構前から知っていたように思うが、今だと一番思い浮かぶのは、ビール名だ。他のメーカーもかなり冠しているが、「プレモル」と略称されるのだから、先鞭をつけたモノは強い。そういった商品名から受けるイメージは、概して「高級感」と言えるだろう。



 では辞書ではどうか。「premium ①賞金、賞品、割増金②手数料③株式の時価の額面超過額」とある。なるほど。国語大辞典では①に関連して「~~俗に、手に入れにくい入場券などが、闇で取引される際の値上がり分」とある。以前から「プレミアがついて…」という言い方がコンサートなどでされることがあった。


 で、「プレミアムフライデー」。この場合は「特別な」といった程度か。マスコミでは盛んに喧伝されているが、実際の動きは鈍い。「政府が口当たりのいい言葉を使いやがって…そんなのとれる奴は限られているよ」そんなボヤキが聞こえそうだ。ある意味、プレミアムな人を対象とした現実という、実に皮肉な状況だ。


 消費活動の刺激ではなく、いわゆる「働き方」の改善を考えているならば、現状について誰しもがわかっている。プレミアムでは駄目だ。毎日がノーマルであればいい。その状況をエスカレートさせておいて、「せめても」のような発想で動かそうとするのは貧しい。名ばかりが浮き上がるプレミアムには低俗感が漂う。

「聖痕」のある小説

2017年02月23日 | 読書
 「作品のまとまりとして見れば、転調は瑕疵にも見える。もちろん、そうではあるだろう。だが、この瑕疵こそが、作品に刻印された傷跡こそが『調律師』の『聖痕』となった」この文庫版の「あとがき」を書いた仙台在住の編集者土方正志はそう記す。「聖痕」とはこう使うのか。まさに小説家は書かざるを得なかった。

2017読了21
『調律師』(熊谷達也  文春文庫)



 事故のせいで、ピアノの音を聴くと香りを感じるという「共感覚」を持った主人公が、調律の仕事をしながら出合う様々な出来事。亡くなった妻との関わりをフィードバックさせながら、物語を進めている。専門的な用語も多いが、さほど気にせず読み進められるし、特殊な職人、職能の世界が垣間見える物語である。


 調律師の仕事をじっくり見た経験はない。音程の狂いを直すだけだろうという非常に狭い認識だったので、どんな仕事にもその世界しか知りえないことがあると改めて驚く。調律師とは、いわば「響き」に関する料理をするようなイメージがある。素材(部材)の吟味、部位の組み合わせ、環境の設定が際立つ仕事だ。


 7章からなるこの小説は、6章で突然の「転調」をみせる。東日本大震災を直接、筋に入れ込んだからである。仙台在住の作家が苦しんだ結果として、大きく話が展開する。しかしある面で「復興」とは「調律」に似ていて、多くの人が自分なりの技能や志を持って取り組んでいることが、象徴的に思えた題名である。

極私的猫うた

2017年02月22日 | 雑記帳
 「猫の日」記念。
 しかし、猫さまにまったく関心も興味もない者が心動かすのは、音楽ぐらいしかありません。
 まず「ネコふんじゃった」のメロディが思い浮かびますが、それは別格扱いにして「歌」を並べてみますと…


 最初は、おそらく一番売れた?この曲でしょう。ぴんとくるのは50代以上かなあ。
 「黒猫のタンゴ」BY 皆川おさむ 
 https://www.youtube.com/watch?v=UkkUoUguaRA

 出だしは、♪君は可愛い 僕の黒猫♪でした。
 これはものすごくレコード!が売れたはずです。
 あ、大橋のぞみちゃんも歌っていましたね。


 次はかなりマニアックになりますが、
 「ねこ」BY 吉田美奈子
 http://www.nicovideo.jp/watch/nm26486463
 (ニコニコ動画です)

 『扉の冬』というアルバムに入っている名曲です。
 ♪ねこが耳をなでると、雨が降ると言いますので、私は今日は家にいることにしました♪という出だしが印象的です。


 少し若い方を含めてポピュラーなのは、この曲でしょう。
 「猫になりたい」BY スピッツ
 https://www.youtube.com/watch?v=Ih-w4AmOXpU

 スピッツらしさを感じさせる佳品です。
 つじあやのが歌ったカバーも素敵です。
 ♪猫になりたい 君の腕のなか♪というサビが忘れられません。




 まったくの番外として、「猫」というバンドがいたことを思い出します。
 「地下鉄に乗って」という曲も売れましたが、私は、この歌が好きです。
 「雪」BY猫
 https://www.youtube.com/watch?v=tK2Z7aq7RZs

 ♪「ユッ キ」でした♪という歌いだしが印象的ですね。
 これも五十代以上ということでしょうかね。


 もう一つ、実は好きな歌が「やまねこ」BY中島みゆきです。
 「ねこ」という言葉は一切ありませんが、
 ♪女に生まれて喜んでくれたのは 菓子屋とドレス屋と 女衒と女たらし♪と続く凄まじいばかりの歌です。

 本人映像はありませんでした。
 ニャンのため。

「たべもの」の話はいつも

2017年02月21日 | 読書
 「ママがお湯を入れてくれたカップラーメンは、とてもおいしい」と、その子は言った。先日放送されたあるドラマのセリフ。一人のシングルマザーの「貧困状況」を暗に示す場面だ。私はこの地でも20年ほど前に、似た言葉を聞いたことがある。切ないにしろ、温かいにしろ、「たべもの」の話はいつも心と結びつく。


2017読了20
『いとしいたべもの』(森下典子  文春文庫)


 著者は私と同年生まれのルポライター。ある雑誌に連載した自身の食べ物についての思い入れがまとめられた一冊である。同世代感覚は食についても共通項が多い。むろん都会育ちと地方農村との差はあるが、昔ながらの食生活が残っていた部分、そして高度成長期に変化をみせていく部分が重なり、懐かしく読めた。


 例えば「茄子の機敏」という章。夏になると食卓が茄子のオンパレードだった頃は自分にとっても忘れられない。そしてその「価値」に気づくのは、やはりずいぶんと齢を重ねてからだ。「何がいいのかわからない」と喩えたのが「小津映画」であったことも妙に重なる。普通の人々の感情の機微がわかる頃に、味を知る。



 「サッポロ一番みそラーメン」や「どん兵衛きつねうどん」が登場する章も、非常によくわかる。私には「チャルメラ」「カップヌードル」が該当する。それらは豊かでない時代の大量消費がつくった味ではあるが、日本人の独特で豊かな発想と工夫に支えられていて、相変わらず人々の舌の一部分を支配し、心揺らす。

自由問答・肆

2017年02月20日 | 読書
 「自由を得る」「自由になる」という言い方が普通だ。しかし、今まであれこれ頭を巡らすと「自由」とは「つくる」ものという言い方が一番しっくりくる。自由とは、自分と別のところに存在しているわけでもなく、自然発生するわけではない。この問答を書き散らすきっかけとなった2冊の本を紹介して、締め括る。


2017読了18
『自由をつくる 自在に生きる』(森博嗣 集英社新書)

 「自由というのは、自分の思ったとおりにできることです」と定義すると、たいていの人は「当たり前だ」という顔をするという。ところがその言葉にいたく感動する人たちがいて、著者はそれをきっかけに書き出した。「自由の価値」に気づかなければ、自由を自分でつかむことは出来ない。いわばその説明書である。


 多く割かれるのは「支配」のことである。人は様々な支配をうけているが、それを意識化することこそ、自由への出発点と言える。「他者からの支配」「社会からの支配」「自分による支配」…現在の社会状況に照らし合わされて、細かく分析されている。著者独特の「抽象的思考」の価値が高い一言を選ぶとすれば、これ。

 非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。P126



2017読了19
『一〇三歳になってわかったこと』(篠田桃紅 幻冬舎)

 何度も何度も「自由」という言葉が使われる。そのもととなる文章はこれである。

 自由という熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。P15


 今年は105歳ということだろうか。この美術家は、「自らに由って生きている」と言い切る。「由る」とは辞書的には「原因」「基づく」ということだが、この場合は「たよる」「拠り所」といった意味合いを感じる。そう考えると、まずは貴方には拠り所になるような「自ら」があるのか、と問われているような気になる。


 著者は長い時間をかけて「自ら」を作り上げた。それは、人生を自由に選択することが困難な時代に生まれながらも、自分の願いを正直に希求し続けた結果(まだ過程か)だ。いわば「仕方なしの道」を歩みつつ、常に心の招く方へ足を踏み出すことの心掛けが、美術家という道の、そして自由の拠り所となった。

自由問答・参

2017年02月19日 | 雑記帳
 水泳に「自由形」がある。周知の通りクロールという泳法のことを実質的に指しているわけで、なぜクロールと呼ばないのか、これも疑問だ。それはさておき「自由形」は本当に自由かというと、これも周知のように違う。あくまで泳法選択であり、潜水できる距離の制限はあるし、歩いたり蹴ったりも違反である。


 結局スポーツのいわゆるフリースタイルとは、種目中において制限の幅が一番緩いだけである。当然だがルールとはそうやって出来る。つまり「制限の中での自由」。しかし人生という有限時間のなかではもう少し緩いはず。従ってどんなふうに泳いだっていい。泳ぎ方を途中で変えても構わない。最低限のルールさえ守れば。



 それなのに、ああそれなのに。自分は自由に生きていると堂々と言える人が何故こんなに少ないのだろう。戦国時代や封建時代とは違った形での「支配」が私達を抑えつけているということがあるからか。そして個を見れば、スキーで喩えたように、自由につまり自在に滑るための技術が足りない人が多いからなのか。


 十数年前、研修である工房を訪問したことがある。主人の生き様を見て「自由人」だなと感激したことを覚えている。話の中で、今の仕事を得るまでいかに「仕込み」が大事かを強調されていた。それは、自由を得るためには不自由さが強いられる時期があることを証明している。俗論ではあるが、見逃せない真実だ。

自由問答・弐

2017年02月18日 | 雑記帳
 「先生、ジユウってないんですか」「ジユウはいつからですか」…小学校教師であれば、水泳やスキーなどの授業時に子どもからそう質問された経験を持っている人は結構いるはずだ。私の返答パターンは、スキーであれば「なにぃ、君はいつも言われた通り滑らず、ジユウではないのか」と笑顔をつくることだった。



 言うまでもなく子どもの「ジユウ」とは、教師の後について滑ったり、指示された滑り方で細切れに止まったりせず、広いゲレンデを思う存分、勝手に滑りたいことである。「遊び」と言ってもいい。スキーの上達は指導者に従ってプログラムに沿えば確実だが、ある程度進めば、確かに「遊びたい」と思うのが自然だ。


 それは「スキーを楽しみたい」ということである。考えるとその気持ちを抱いた段階で、スキー指導の半分のねらいは達成したようなものだ。ジユウに滑って楽しいと感じれば、もうそれでいいのでは…。ただし技術レベルが低いままでは、制限された斜面を身体感覚を意識しながら、という「体育」は実現できない。


 ある時、子どもは気づく。「あんなふうに格好よく滑りたい」「あの急坂を転ばす降りたい」…指導者や上手なスキーヤーの姿がモデルになり、ジユウの意味が少し深くなってくる。それは「自在」という言葉に置き換えられるかもしれない。「ジザイに滑られるよう練習したい」そんなふうに決意するのは少し先になる。