すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

欲かベージュか

2020年07月31日 | 読書
 『波』8月号(新潮社)の表紙が良かった。

 ヨシタケワールド全開!



 そうだよ、人間ってそんなものだよ。
 でも今の世の中は、それだけじゃね…と言いたくなるのも自然だ。
 そこから一歩突っ込んで、では何のためって考えた時、結局「欲まみれ」の自分が顔を出す。

 とにかく、前作も良かったし、またヨシタケの新作を買わなくては…。


 谷川俊太郎の新刊紹介があった。作家の朝吹真理子が書評を書いている。

 詩集のタイトルは、「ベージュ」で、著者の年齢は米寿。

 ちょっと笑えた。当然、その重なりをねらったタイトルなんだろうが、解説はこう続く。

 ベージュは染めていない羊毛の色だ。その生成りは、「裸のことば」にも呼応している気がした。

 なるほど。「ベージュ」を改めて辞書で調べる。
 国語系では「明るい薄茶色。らくだ色」などとなっているが、ブリタニカの百科事典の記述が面白い。文末表現がこうなっている。

 明るい灰色がかった黄橙系の色で、色相、明暗ともかなり包括的である。


 「包括的」…すべてを包み込む、そうかあ。ベージュはそういう色、そして米寿はそういうお年頃ということか。まだ自分には少し遠いけど。

 どんなコトバが並んでいるか、楽しみだ。

いつもの夏のように…旨い

2020年07月30日 | 雑記帳
 いつかは来ると思っていても、隣県岩手が感染拡大を食い止める牙城のような気分があった。それも崩れてしまい切迫感が出てきた。先月下旬からあまり意識せずに(もちろん現在のマナーを守りつつ)、近場の温泉に出かけたり、食事の店を訪れたりしたが、どう進むのか。とりあえず、7月編と題して残しておこう。


7月3日 ~県プレミアム飲食券を使って隣市の馴染みの店へ~



 この料理だけでわかればかなり通だが…。主人からやはり客足はもどらないことを聞く。でも堅実に商売はしている。いつもの味わいだ。


7月9日 ~初めて入ったラーメン店Nで~



 冷やし担々麺をねらいに訪問してみたが、店に入って考えが変わり、チャンポンと、担々麺ブラックを注文。このブラックがなかなかハマる味だった。


7月18日  ~頑張っている町内農家レストランへ~



 知り合いも多くいるし、今月の「七夕御膳」をいただきに出かけた。これに冷がけそばとミニ天ぷらがつく。地物を利用して作りあげる味が、やさしいと思った。


7月26日  ~温泉帰りの自宅反省会、初の…~



 プレミアム宿泊券を使っての温泉泊を終えて、帰りに完熟の桃を購入。自宅へ帰って、今シーズン初の桃ビール。桃の形を崩さずやりたかったが、サイズが合わず、こんな感じで。…いつもの夏のように旨い。

安価な美味いケーキもある

2020年07月29日 | 読書
 ひと月に一度くらい、主として風呂場読書用に新書や文庫の古本をまとめて買いするのだが、時間がなく手当たり次第に選ぶ時もある。今回もそうだったのか、帰ってきてから「どうしてこんな本が…」と思ってしまった一冊がある。著者に見覚えがあったのか、それとも意外といい表紙写真に見惚れてしまったか。

 『生きているうちに、さよならを』(吉村達也  集英社文庫)



 「吉村」という名字だったら、吉村昭は知っているが他にいたかなあとレベルなのでたぶん初めて…と思いながらページを開いていく。小説だが、「はじめに」とあるのは、主人公による半生記の形で語ろうとしたためという設定だからだ。読み進めていくと、知らず知らず引き込まれる。なかなかのストーリーテラーだ。


 この書名が示すのは一般的には「生前葬」であり、その考え方に共感した主人公を巡る物語だ。一代で会社を築き上げたいわば豪腕の経営者が、それを実行しようとしたときに、彼の身に降りかかる思わぬ出来事と、そこへ到る深い因縁が暴き出されるという流れだ。工夫された構成と読み応えある展開となっていた。


 それにしても「生きているうちに、さよならを」とは、齢の重なりをひしひし感じる世代にとって、時々思ってもなかなか実行に足を踏み出せないのが普通だ。自分もまたしかり。それゆえ『一期一会』のあまりに著名な語の重みが増す。しかしこの小説の劇的な展開は、書名の柔らかさとはかけ離れてゆくのだが…。


 ミステリを中心にずいぶん多作で、巻末にある「作品リスト」に驚いた。これは一つの職人技と言えるか。何年もかけて執筆した大作ではなくとも、プロットを立て取材をし読者心理を上手く掴む文章表現によって、作品を仕上げたイメージ。喩えれば、安価だけれど「うまい!」と素直に言えるケーキのようだった。

主語ではなく主題を生きる

2020年07月28日 | 読書
 教員になって初めの頃、力を入れた実践に「漢字」と「文法」がある。これは当時購読していた教育雑誌の影響が大きいだろう。いわゆる読解の授業とは違い、教えるべきことが明確という印象を持っていた。しかし取り組むなかで強く感じ始めたのは、特に文法における「例外の多さ」そして「曖昧さ」であった。


 『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』(金谷武洋  飛鳥新社)


 この本は、こう切り出される。「日本の学校の国語の授業では、日本語の本当の姿が教えられず、可哀想なことに生徒たちが根本的に間違った文法を習わされている」。一般の読者が目にすれば、少し驚く文章だと思う。いくらか文法指導をかじった立場の者としては、「間違った文法」という語の捉え方だなと解釈できる。


 筆者は、日本語の文法は明治維新後に入ってきた「英文法が土台になっていて、そのことが大問題」とする。読み進めていくと、自分が頼りにしてきた文法も該当していると気づかされる。単純に「主語信仰」とでも名付けられるか。小3で始まる(今は小2?)文法の授業展開で、確かに「主語を探す」比重は大きい。


 当時は何の疑問も持たなかったし、むしろ「文の要素」を細かくみて「きまり」を見つけ「適用」していくという手法は、学習の本筋だと捉えていたのだろう。しかし今改めてその意義を考えると、なぜ英語的だったか、それで良かったのか疑問が浮かぶ。「英語とは発想が逆方向」の日本語について、筆者は詳しく述べる。


 典型的な例として「ありがとう」と「Thank you」が挙げられ、英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」と対比される。Thank youはもともと「I Thank you」だったという。「ありがとう」は「有難い」から派生したことはよく知られている。主語の有無が決定づける意識は大きい。


 「日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉」と結論づけ、日常表現例を示す第一章を皮切りに、「人名・地名」「声と視線」「愛の告白」等々による比較がされていた。まとめとしての「十大特徴」も興味深い。肝心なことは「主語」ではなく「主題」という主張は、価値観、人生観に結びついている気がした。

そうですよね、二宮先生

2020年07月26日 | 雑記帳
 「密にならないで!」

 TVからの声や、店舗内の放送では繰り返し何度も聞かされたことだが、直接に、しかも強い調子で、そう言われたのは初めてだった。

 勤務上は連休ではなかったが、昨日の午後から「骨休め」と称し応募したプレミアム宿泊券を使うことにして、県内の温泉へ一泊した。その帰りに地元の鮮魚などを扱う店内のことだった。


 (泊まった場所はここ。玄関横にかの銅像が…。これを知っていればかなり通だ)

 前夜はゆっくり温泉につかり、美味しい料理を堪能した。
 当然ながら宿もずいぶん気を遣っていることが分かる。
 食事も分散させているし、予防のための策がすみずみまでとられている。

 さらに宿泊券を使うのでそもそも半額になっているうえ、その市では独自に宿泊者におみやげまで持たせている。
 いくらぐらいだろうか…今調べたら一人当たり3000円相当の地元特産品だった。地元産業の消費拡大の意味もあるだろう。

 そのうえ支払い時に、例の「GO TO トラベル」の請求用の証明書までいただいた。
 これも調べると、旅行者から申請すると35%引きになるということ。
 いわゆる金銭面だけで考えてみると、実際の宿泊代は本当にわずかだ。

 言い方は悪いが、コロナのおかげみたいなものである。
 しかし、それは今後拡大させないようにして経済を回すためにあるのだという点は、きちんと頭になければいけない。
 そこを踏まえての動きにこそ、意味がある。
 (皆さんも積極的に県内を回りましょう)


 狭い通路でいい魚が並んでいないかだけに気を取られ、思わず前の人に寄った自分が「密にならないで!」と、店のオバちゃんに注意されたのは、それに気づかせるためだったのだ。

 そうですね、二宮先生。

出会いづくりを万全に

2020年07月24日 | 雑記帳
 感染予報対策による臨時休校が解除されたのは5月連休後。その月19日のT小から始まった学校での読み聞かせも、今週21日火曜で一学期分が終了した。備忘としてメモ書きしたら、延べ7校(実質3校)7日間、取り上げた絵本は延べ17冊(2回読んだ本もあり実質14冊)となった。結構、いいリズムで廻れた。


 思い出してみたら1年生から6年生全部の学年を一度は担当していた。選本もバラエティに富んでいるわけだ。さて、学校・学年によって、その実態や雰囲気が違うのは当然だが、こちらのねらいは一貫している必要があることを改めて思う。つまりは「本の楽しさ・面白さ」を伝えるというごくありきたりのことだ。


 ここで一番大切な点は何かというと、絵本を選ぶときに、自分が楽しめる、感動できることが出発点になるようだ。難しいのは、それが対象となる子どもたちとマッチするかという問題だ。発達段階や集団の持つ雰囲気などに大きく左右される。評価は、感想発表等に頼らなくとも場の空気で把握しているつもりだ。


 突き詰めると、子どもたちの眼差しの強さだろうか。声の出る出ないは集団で違いが大きく、そこにも影響されるが集中すれば感じ取れる。今回、少しすれ違ったかなという印象を持ったのは、『心ってどこにあるでしょう』(金の星社)だった。1年生と2年生で二度読んだが、片方の学年の反応が今一つの気がした。



 「こんのひとみ作・いもとようこ絵」のある程度評判の高い一冊だ。で、今調べたらなんと、昨年の課題図書の一冊だったではありませんか。とすると2年生は読んでいる可能性が大…それだったのかもしれない。と今頃リサーチ力の至らなさを知る。たった20分弱の短い時間だからこそ、出会いづくりは万全に!

オベの語りを聞き流す快感

2020年07月23日 | 読書
 私の住んでいる地域で、様々な物事を知っていて積極的に口を出す者を「オベ」と言ったりする。これは「覚えている」の訛り「オベデル」から来ているだろう。その呼称を周囲はどんな印象で使っているかは、普段のその人の接し方にもよるだろう。雑学、薀蓄、またトリビアと称されること、「オベ」にも得意がある。

 『トンデモ一行知識の世界』(唐沢俊一 ちくま文庫)


 まえがき冒頭の「ジャイアント馬場の足は本当は十五文しかなかった」を皮切りに、まあどうでもいい知識が満載されている一冊。個別の面白さは確かにあったが、頭に浮かんだのは、本当に「何の役にも立たない知識」というものはあるだろうか、という疑問である。それらを集めればこうして本になるではないか。


 無用な知識という表現も、その知識を取り上げた時点で何かの「」にはなっているわけで、どこかパラドックスめいている。いわゆる知識人とは異なるが「博識の趣味人」たちには「粋人」という呼び名もあったと記されている。著者の解釈は「世の中の精粋は雑なものの内に存する」という、これもまた逆説だ。


 この本は著者自身が得た知識はもちろんだが、開いている「一行知識ホームページ」サイトにあった投稿も多く採用されている。同好者は結構多いらしい。解説の植木氏は、「役に立たないからこそ知識はオモシロイ」という姿勢と、それを貫く困難さを評価している。価値がないことを続ける価値はいずこにありや。


 「役に立つ知識」は「目的のための知識」となりそれ自体の楽しさに欠けるというのは、ある意味浅い知識観かもしれない。しかし、時々こうしたドウデモイイ知識に触れて面白みを感ずると、脳自体が喜んでくれる性質を持っているのではないかと想像できる。リラックス効果としてかなり役立つとおススメできる。

 この本で知った一行知識(真偽は怪しいが)勝手にベスト3

 1 人間国宝の定員は七十人。
 2 人間は、平均14個のアザをからだのどこかに持っている。
 3 パソコンについているマウスの移動距離の単位を「ミッキー」という。

Think Differentの肝となるのは…

2020年07月22日 | 読書
 前稿より続く。

 『考え続ける力』(石川善樹 ちくま新書)

 このブログに訪問してくださる方々には、国語教育関係者も少なくないと思うので、紹介に値する情報だと確信して載せてみる。著者が友人から教えてもらったという、芭蕉の有名句の「すごい理由」というのにたまげてしまった。「古池や蛙飛びこむ水の音」…高学年担任の時に授業したときのことを思い出すと…。


 切れ字の「や」で感動の中心についてふれる、蛙の数、周囲の様子を問うて情景を想像させる…程度だったと思う。ここで紹介されているのは、この句は「古池や/蛙/飛びこむ/水の音」の四要素に区分され、それぞれ意味づけ、象徴され、融合されているという。それは順に「侘び/雅/下品/寂び」というのだ。


 「つまりこの句は『生命のいない白黒の世界』からはじまり、さいごは『みずみずしい生命あふれるフルカラーの世界』へと大展開を遂げている」という解釈には恐れ入る。詳しくは本文に委ねるが、ここから「芭蕉の発想を、一般化するにはどうすればいいか」と展開していく。ここからの件も実に興味深かった。


 話は「大局観」という方向へ展開する。そこで示されたダイアグラムは実に明快だ。縦軸に「主張⇔謙虚」、横軸に「個人主義⇔共同体主義」がとられ、四分割された箇所に、米国、ヨーロッパ、中東、日本が位置づけられる。この軸が「思考」の型に結びつくのは云うまでもない。予想できるように日本は右下である。


 文化基盤として、日本はいろんなものを取り込むと同時に、本質を探し出そうとする傾向がある。この精神的特徴を背景に、芭蕉のすごさを結論付ける。大雑把に言えば、キーワードは新しさを求める「アップデート」と質を高める「アップグレード」。双方向的な展開と優先づけが、Think Differentの肝になるとみた。

考える時間を減らすために考える

2020年07月20日 | 読書
 夜中に目がふと覚めて何か考え始めると、なかなか眠りに戻れない。考えと呼べるほどのものでないモヤモヤが続くという感じか。この新書での「考え続ける」と一番かけ離れている時間だと思う。ところがこの書名を使いつつ、著者はあとがきでこうひっくり返す。「私は『考えることに価値はない』と考えています。

 『考え続ける力』(石川善樹 ちくま新書)

 数年前からずっと注目している研究者だ。直截な物言いが心地よい。上に挙げた点に関しても、何故考えることに価値がないかを「実行して初めて価値が生まれる」→「限られた時間で価値を出す」→「考える時間をできるだけ減らし、実行に時間を使う」という端的な論理で展開する。この絞り込み方は明快である。


 著者はそのために五人の賢人たちと対談し、「考える」についてのエッセンスを引き出している。浅学ゆえにわずかに一人しかその名前は知らなかったが、企業系研究者・開発者が多い。中でも著者が「デカルト・ベーコン・濱口」と公言する濱口秀司氏との対談は興味深い。「不確実性のレベル」には目を見開かされた。


 先行き不透明な時代と言いつつ、全部ひっくるめて考えるようでは、およそ「実行」の効力はしれている。ロジックとアイデアを対にすることも考えさせられた。濱口氏のいう「これから先に持つべき力」は実にわかりやすい。「おもしろがる力・おもしろがらせる力・おもしろくする力」の三つだ。万歳と言いたくなる。


 対談は専門用語が頻発し難解な部分もある。しかし著者の書いた第一章だけでもえらく刺激的だ。中でも「日本人で最もThink Differentな人は?」の項目は目を惹かれる。トップは松尾芭蕉。ネット上で最も多くの国に翻訳され、ページを見られている。そしてあの「古池や」の俳句の分析たるや、あまりに面白い!(ので、つづく)

缶詰話~そこに詰まっている想い

2020年07月19日 | 雑記帳
 『サライ』の特集の巻頭原稿は、かの小泉武夫氏が書いている。日本の食文化のトップランナーの一人だ。小さい頃からの缶詰好きのエピソードが綿々と綴られていた。缶太郎というあだ名で呼ばれた高校生の頃、帰宅が遅い時に食べたカレー缶の話など、食の博士を作り上げた缶詰の存在はずいぶんと大きいようだ。


 個別な違いはあるにせよ、六十代以上だったら缶詰に関わる記憶は結構持っているのではないか。小さい頃はミカンや桃の缶詰は貴重だったなあ、病気になるのが待ち遠しい(笑)時もあった。食卓にあがる魚系では、もちろん一つは鯖缶だ。水煮、味噌煮あまり今と変わらない。違いが大きいのは「クジラ」の缶詰だ。


 隣が魚屋だったせいではないと思うが、自分にとって一番ポピュラーな味だ。ゼラチン質に肉が合わさった部分は、舌がその感覚を覚えている。それが今ではこんなに高価になってしまい…。学生時代の自炊でお世話になったのはツナ缶、それにサンマの蒲焼。熱々のご飯に乗せてわしわし食べる感覚、もう戻れない。


 サライでは「日本上陸150年 いつの世も缶詰が日本人の食を支えてきた」とタイトルコピーをつけた。そこまでとは思うが、これからの時代「保存食」そして災害時の「救荒食」としての位置づけは益々大きい。ノミや斧、缶切りなどが無くとも開けられるし、今は実に多様な種類が商品化され、店先に並んでいる。



 自称「たべびと」としては色々試してみたい。なんせあの名店『分とく山』の野崎総料理長も缶詰の可能性を評価し、レシピを公開しているほどだから。初めての種類は試食をしてみよう。ちなみに一番身近な缶詰は、毎年春に夫婦で採ったタケノコを業者で加工するものだ。思うと、それには思い出も詰まっている。