すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「的」の意味を身体化する⑤

2016年04月30日 | 読書
 『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)


 「消費のクリエイティブを!」は第7章の見出しであるが、その前章で、もとになるとても大事なことが語られている。

★人間はもっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったんじゃないか

★消費や遊びを軽蔑して、蓄積や生産に狂奔してきたことが、人間のエネルギーをすっかり疲弊させ、「つまらない動物」に変えてしまった

★生産だけを集中的に管理し改良して推し進めてきたら、”市場がない”という状況を生み出してしまった現在の状況



 ここで言われている「クリエイティブ」は、創造性と直接訳すのではなく、もっと「ゆるい使われ方」として糸井は取り上げている。その精神が実は一番のキモなのかもしれないと秘かに思う。
 その部分をこう書いている。

★日本語で言うとしたら「独特の工夫」だとか、「いままでにない何か」だとか、「発想しつづけようとすること」だとか「そのままにしていられない気持ち」だとか


 生産や仕事の場でそんなふうにクリエイティブにしようと試みる人は少なくないが、消費の場ではどうか。
 もちろん、それなりにしているという人はいるだろう。
 しかし、その質はどうだ。

 もしかしたら、情報化社会のなかで誰かに巧みに誘導された工夫ではないか。
 結局のところ、単なる消費拡大という方向のみばかりで、新しい消費の広がり、深まりという面とは無縁なのではないか。

 
 消費のクリエイティブは、インターネット的表現と結びついていて、キーワードを自分なりに絞り込んで挙げると、この三つかなと思う。

 まず「立候補する」。

 選挙のことを指しているわけではない。もちろん私も政治にはいきません(笑)。
 つまりは「自ら手を挙げる」。
 その他大勢、以下同様ではなく、一人としての意志を持ち、発信することと言ってもいいだろう。
 
 糸井はこう書く。

★立候補することは、より自由になること


 次に「他と比べないで誉める」。

 まるで教育のような話である。
 気に入ったモノ、コトに長く深くつき合っていくには、他を貶めないことが肝心ではないか。
 
 そのもののよさをどれほど見つけられるか。
 集中力も必要になるかな、クリエイティブということは。

 とにかく、比較のなかで育ち暮らしてきた者にとってはとても難しい。
 しかし「位置」が価値であるような時代錯誤を正すためには、必須の姿勢だなと思う。練習も必要だ。


 そして「けっこう肉体仕事」を挙げる。

 生産に直結するようなキーワードだが、消費する側として精一杯身体を動かすという意味でとらえたい。
 そもそもインターネット自体が「脳化社会」の象徴でもあるゆえに、実際に肉体が動いている、感じていることの大事さは強調してもしすぎることはない。


 「身体化」などと大そうな言葉を使って、あれこれ考えを書き散らしてきた。
 では、今、節目である自分自身、どうネットを使い、消費していこうとしているか。
 もう少し模索してみたい。

昭和臭漂う日

2016年04月29日 | 雑記帳
 いったい何年振りになるのか、カセットテープで音楽を聴いたのは。レコード同様、カセットも20本以上残しておいたものがある。ここ十数年、時々そのケースを開けることはあって、聴いてみようとは思わなかった。カセットテープも入れられる旧式プレーヤーなので、昭和の日を記念して、気まぐれに入れてみた。


 ラインナップは…小泉今日子シングル集、Jazz vocal集、さだまさしトークライブ、Spitzインストゥルメンタル集、風ベストヒット集、山梨鐐平、BEGIN、JALジェットストリームⅠ…ああ、なんだか中途半端な感じだ。音楽はもちろん、録音途中で音が切れ反転させてプレイボタンを押す作業も、どこか昭和臭漂う。


 インストゥルメンタル系はともかく、日本語ボーカルはキョンキョンを除いてずいぶんと若い声だと感じる。さだまさし、風の伊勢正三、BEGINの比嘉など、たぶん20~30年前だろうから無理はないか。「伊奈かっぺいライブ」もあった。これまた軽快で艶があった。やはり女声に比べて男声は老化がわかるのだろうか。



 昼下がり、太陽光発電セールスの電話がかかってきた。以前、別業者からあったときは少しも興味がなくすぐ断ったが、「豪雪地帯でも安価に出来るものが開発され」との声に少し耳を傾けようと思った。「ご家族は5,6人ですか」と訊かれたので「いえ、二人で」と応えると「ではご主人は仕事を辞められて…」と重ねる。


 「はい」と言うと「そうですか、じゃまた」とあっさり向こうから受話器を切ったではないか。いやあ初めてだ。ターゲットは子育て世代なのだろう。「声で老人と見られたか。二人暮らしに太陽光発電は必要ないのか、くそっ」と家人と笑い合う。電話一本でそのように括られる対象になったと、改めて実感できた。

「的」の意味を身体化する④

2016年04月27日 | 読書
 『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)


 第5章は「インターネット的表現法」として、具体的にどんなことに留意して「ほぼ日」に文章を載せているかが書かれてある。

 文体としては「ほんとに、話すように書く」に尽きるのであろう。改行スタイルのこだわりも含めて、いかに「伝わりやすい」かが意識されている。

 しかし、それだけでは「的」の本質はつかめない。

 今まで述べられていることを、表現化するための言葉が象徴的に項目立てされている。

★クリエイティブの水子を救う

★「はらわた付き」のアイデアを活かす



 思いつきの欠片やうまく処理されていない苦みある部分などを大事にする。
 これはパソコンという偉大な機器によって、情報収集そして情報整理に関して飛躍的いや革命的に可能性が拡がったゆえに、容易になったことだ。

 その線上に姿を現したインターネットがいかに凄いものか、この新書が書かれてからの進歩を見てもあきらかだ。SNSやクラウドの誕生が典型的だろう。

 そうした莫大なクリエイティブやアイデアに溢れている世界、これはインターネットがもたらした大きな成果に違いない。
 しかし、忘れてならないのは「水子」や「はらわた」であることも強調したい。

 それらを背負ったり噛み締めたりできたうえで、発信することこそが表現していくうえで肝心なことだ。
 そうでなければ、自分が受信者になったときに、ディスプレイに映った文章や映像の奥を想像することはできない。


 第7章「インターネットの幻想」には、こんな文章がある。

★人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。


 所詮、道具や仕組みにしか過ぎないインターネットに、翻弄されている現状を憂えている人は多い。
 ある意味で糸井のその言葉は的を射ているだろう。

 つまり人間の「欲望」はどのような流れや動きを見せるものなのか、個別に追っても、地球的な視野であっても、危機感がないと言えば嘘になる。

 しかしそのことを心配するより、信じて行動することの方がより建設的だろう。

 前言には、次のように続きがある。

★これはなんだか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。


 具体的な「英知」の部分として、提案されている言葉がある。

★「消費のクリエイティブ」

 これこそ、じっくり考えてみるべきことだ。
 第8章に語られている。

「的」の意味を身体化する③

2016年04月25日 | 読書
 『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)


 「インターネット的思考」の本質とは何か。

 第2章から第4章を読み進めて、ピックアップしてみる。

★トライアル&エラーの多産系


 実に象徴的なことばである。
 つまりは、完成度を意識することなく、提示し、その繰り返しによって仕上げていくことである。

 正直にいえば、苦手なことだ。
 いわゆる正答主義、結果重視で育ってきた年代には、この考え方が一番のハードルかもしれない。

 その思考を実行に移すための心がけを、糸井は「個人の方法論」と前置きしながら、次のように記している。

★「やりたければやる」「選びたいものがあったら、もっといいものを待つよりも、すぐにやる」


 慎重さは一つの価値に違いないし、ある場面では必須なことだが、「的」の思考はそこに重きをおかない。
 そういえば、この思考が、かの酒井式描画指導法における一つの原則であったことを思い出す。

★見切り発車の原則


 有限な時間の中で人が動くには、自分の願いをよく見つめつつ、すっぱりと行動化していくことが好ましい。

 肝心なのは、自分の願いという部分だが、そこに関してこの新書では実に奇抜な思考法を提示している。

★一番極端なところをいったん考えてみる。そうしたら、「そこまではいらない」とか、「それはひどい」「それじゃ意味がないじゃん」とか、自分の心の底のほうにあったほんとののぞみが、輪郭を持ち出すと思うんです。


 これは実に面白い。
 例えば、お金でもいい、感情でもいい、対象に向かって「極端なところ」を設定してみれば、そのレベルと自分の気持ちとの落差に気づく。
 結果、気持ちが明確に見えてくる。


 第4章には「商品環境」という言葉で、ブランドのこと、評判のことが語られる。これは何のコピーだったか失念したが、「モノより物語」に、そっくり通ずると思う。

 モノに込められた物語を見出す目は、きっとネットがどうのこうのではなく、大昔から人間が大事にしてきたことだし、モノがあふれている今こそ、焦点化してあぶりだしたいことだ。
 「手作り」は物語を感じやすいけれど、そこには願いがほしい。

この頃の見聞読

2016年04月23日 | 雑記帳
 九州の地震、これだけ余震が続くと人間の神経ってどうなるのかなと想像してしまう。あの5年前に体験した、ごく些細な揺れであっても反応してしまったことを考えると、どれほどのストレスだろうか。個人としては「逃げる選択」もありかなと思っていたら、こんな記事を見つけた。共感できる箇所が多かった。


 2月末に挙げた娘の披露宴の写真を、ようやくフォトストーリーとしてまとめた。スナップ等は業者に依頼していて届いたのが今月初め、取りかかれたのが先週であった。データなので枚数が1500近くあり、さすがに全部目を通すだけでも疲れたが、そんな中でも、「笑顔」の写真は見る者を元気づけ、癒されると知った。


 録画していた映画『ツレがうつになりまして。』を観た。うつ病と診断された人と身近に接した経験は少ないが、受けとめる周囲の構えの影響は大きいと改めて思う。妻役の宮崎あおいに素敵なセリフがあった。「うつになった原因ではなく、意味を考えるようになった」…んんんっ、これは深い。とてもいい処方箋だ。


 湊かなえ『高校入試』読了。テレビドラマ脚本が初めにありきで、それから小説化したらしい。そのせいもあってか、あまりに語り手(視点人物)が目まぐるしく交代するので、最初は混乱した。高校の教育現場を知っている著者ならではの内輪話?も面白い。教員が読むと、それぞれに共感できる人物がいるのではないか。

「的」の意味を身体化する②

2016年04月22日 | 読書
 『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)

 第一章というよりこの本自体の大きなキーワードとなる「リンク」「シェア」そして「フラット」という用語は、ごく普通の言葉として通用するようになった。もちろん意味は理解しているが、その「精神」の解釈はどうなのだろう。単に「つながる」「おすそ分け」「同等な関係性」の表面的な部分をなぞっていないか。


 従来からあった「ジョイント的なつながり」、つまり問いと答えがセットされているようなものではない。リンクに込められているのは、次の文章から伺える。

★一見、不要な情報からのつながりに可能性を見出せるということ


 そのためにはもちろん、受け身でなく自分の情報を表現していくことが不可欠になる。その過程でしかリンクは実現しない。そうしてもう一つ肝心なことがある。

★役割や肩書き以外の自分の「情報」(熱心さや目利きぶり)を表現したから、リンクがつながった


 シェアもフラットも、そしてグローバルということさえも、その中に包括されるのではないかと思う。パソコンなどの情報機器をいくら使いこなせていても、結局その場で何が発信されているか、向かうベクトルは定まっているのか、そうした点こそ問われねばならない。つまり、その行為は熱心か、目利きであるか。


 知人の夢をネタに考えた「『毛もの=獣』度」という話題が面白い。対応する表現として「銀」を出す。「毛」と「銀」の持つイメージで、およそ想像できようが、人間の進歩は「銀」化が中心になってきた。ここは「毛寄り」に振っていこうという提案もある。アナログ、手作り、生々しさといったキーワードが浮かぶ。


 昔から言われてきたことだが、「現場」があってこそ「価値」が生まれてくる。今の自分の現場を充実、改善させようと思う者こそ「的な生き方」に近づく。今回の九州の地震被災地にあっても、個々がネットをどんなふうに使いこなしているかによって、その成熟度は測れるだろう。情報は何のために使われているか。

「的」の意味を身体化する➀

2016年04月20日 | 読書
 先月末から書店で買った本は文庫ばかり。そのラインナップは、今野敏、湊かなえ、そして伊集院静…なんだ、小説ばかりかよ!さすがの隠居生活だな!と一人ツッコミ状態である。しかし、実際にはそればかり読んでいるわけでなく、ある一冊を繰り返し広げている。『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)だ。


 実はこの新書は初刊の頃に読み、2009年にも再読し、このブログに感想メモを挙げている。そしてこの三月下旬にまた書棚から取りだし、読み始めたのだ。ぼやっーとした風呂場読書のせいかもしれないが、終わりまで読んでまた初めに戻ってしまった。一つの本にこれだけ執着できるのは珍しい。きっと何かある。


 15年も昔の、しかも「インターネット」というもはや「ネット」としか呼ばなくなった感のする用語が題名である。そして、誰が考えてもその面の変化がいかに加速度的であったかはわかる。それを今さら何故?結局「的」に込められた意味を追い求めながら、いまだ不十分な自分を強く感じているからに他ならない。


 7年前書いていることと同じと言っていい。従って、考えを実践にきちんと結び付けていれば、今さらこんな思いに囚われなくていいのだと思うが…。たとえ、繰り返しになったとしても、もう一度この場で少し時間をかけて咀嚼しながら、「的」の意味を身体化させていきたいと思った。どれほど周回遅れであってもだ。


 プロローグから引用したい言葉は、これである。

★「もうつながっている人」よりも、「まだつながっていない人」たちにこそ伝えなければならないし、逆にそっちに伝えられなければつまらない

 ネットの目的とは何か、自分たちでつるむことではない。伝えるだけの手段としてとらえることから広げる手段として、目的を見失わないことがより重要だ。

ミツバチ教師、せっせと働く

2016年04月16日 | 教育ノート
1991.4~1994.3

 6年もごやっかいになった仙道小学校から移動したのは、同じ山間地にある上到米小学校だった。
 大学を卒業してすぐに講師として勤めた思い出の学校である。といっても、校舎は移転して建て替えられていた。
 
 この学校勤務は3年間だったが、今でもその年ごとに強いインパクトがあったことを思い出す。

 1年目、教師生活の中でもっとも楽しかった1年だなあと思う。

 2年目、教師生活の中でもっとも忙しかった1年だったことは間違いない。

 3年目、教師生活の中でもっとも多くの実践を発表した年だろう。


 赴任した年、初めて一年生担任を命ぜられた。小規模校で担任の中では一番年齢が高い(といっても36歳だった)ので、教務主任になったが、それはそれなりにこなした気がする。
 とにかく一年生9名との毎日は新鮮であり、面白かった。保護者との連絡帳でのやりとり、「トトロ」と名づけた通信の発行…充実感がみなぎっていた頃だ。


 次の年、訳あって自ら志願して複式学級を担任した。管理職の案は違っていてたが、校内事情を考えるとそうするのがベターだと押し切った(これも今考えると、ずいぶん生意気だ)。
 この複式学級、2,3年の9名+9名の18名であり、実は県教委が施策として解消する予定の人数だった。後日、校内操作でこの学年同士を組ませたことでお叱りをうけたらしい。

 授業についてはいろいろなことが思い出されるが、典型的なのはPTAの授業参観時に、ある母親が「見ていると疲れる」と語ったことが忘れられない。
 学習シート準備の毎日も大変だったが、国語、算数などとにかく神経を集中して臨まなければならない。体力、気力の消耗もあった。

 教務主任は2年目でだいぶ慣れてきたが、途中から産休する教員が出て、研究主任も兼任した。しかし「もっとも忙しかった」と結論づけられるのは、それらでなく、外部の研究団体の仕事。郡市国語研において全県大会当番でありその事務局をしなくてはならなかったことが大きい。
 大会前後は言うに及ばず、年間通しての会議の連続、諸調整…今でもよくやり切ったと思う。家人に「死なないでよ」と言われたことも覚えている。
 それでも、学級通信は複式学級にちなんで「ツイン」と名づけられ、それなりに100を超える号数を発行しているので、人間やればできると改めて思ったりもする。


 3年目、複式2年目で同学年の組み合わせで人数は15名に減った。外部団体の仕事もようやく落ち着いた。
 授業づくりネットワーク誌などから原稿依頼が来るようになって、ずいぶんと書いた。

 当時、盛んに叫ばれていた「音声言語指導」を年間のテーマに複式で合同学習指導などにも取り組み始めた。その計画や資料等で県のある団体から助成金をもらったりして、新聞に顔写真が載るなどという名誉なこともあった。
 その実践を多く綴った学級通信「わ」は、今まで続けて書いてきた様々な通信のエッセンスを盛り込んだ出来になっている。


 もはや若手とは言われなくなり、自分のこと以外にも目がいくようになった。
 上の娘も小学校入学し、親としても様々な情報にしっかり向き合う必要を感じていた。

 3年を過ごし次に待っていたのは、娘のいる学校つまりは自分の母校への転任だった。
 そして、まだ30代なのに担任を外れるという大きな節に直面することになった。


 さて、これ以降は「懐古」と呼んでいいか疑問だし、未消化な点も多く、他の方々の迷惑になると心苦しいので、ひとまず連載(笑)は休止します。

長い時間が過ぎても…

2016年04月15日 | 教育ノート
1985.4~1991.3(続)

 この思い出が浮かんできたのは、実は10年以上前のことだ。

 今はもう閉じてある以前のブログに、こんな文章を書いていた。そのまま再載する。


-------------

 貴方の横顔を忘れない 2005/10/23


 PTAの研究大会で、お昼のアトラクションとしてバンド演奏があった。
 カントリーっぽいものからフォークまで、素人ではあるが、年季の入った音楽は温かな雰囲気がした。

 そういえば…と思い出した十数年前のこと。

 勤めていた学校での学芸発表会。

 職員有志による出し物も恒例となっていた良き時代である。
 「祭」好きの性格そのままに私が誘い出したのは、当時校務員をしていたTさん、それからPTAの役員をしていた住職のKさん、そして、受け持っていた子の父親Mさんの三人だった。

 バンドでフォークソングをやろうということで、体育館に臨時に設えたステージに立った記憶がある。

 それぞれが昔とったナントカで、ほんの2,3回練習しただけだったが、当時の親の世代には、それなりに喝采を浴びたような気がする。
 唄ったのはアリスだった気もするし、加山雄三だったような気もするし…とにかく楽しくやれたことは覚えている。

 しかし、それから数週間後。

 思いがけないことが起きる。

 一緒に唄い、演奏したMさんの死である。

 地域の電気屋さんとして誰にも愛された人の、突然の死の知らせに、一瞬私は言葉を失った。

 だが、それは近親の方々にとっては周知のようだった。

 実は、学芸会の舞台へ立つ前から体調に異変をきたしていたのだった。
 それでも「約束したことだから」と言って、無理をして夕刻からの練習にも出向いていったのだと、奥さんから聞かされた時のことは忘れられない。

 そうしたことにも気づかず、能天気にギターなどかき鳴らしていた自分が恥ずかしかったし、何よりなぜそんなにやさしく強い魂がこんな早く逝ってしまうのか…
 それが悔しかった。


 葬儀からの帰り道。

 ふいに感情が高ぶってきて、車のハンドルを強く握り締めたが、嗚咽は止まらなかった。

 Mさん、貴方はあのステージで、誰に向かって唄を届けていたのかな…

 あれから長い月日が過ぎた。

 しかし、私は今も、
 明るくにぎやかなバンド演奏の音を聞きながら、
 貴方の横顔をくっきりと思い出すことができる。

--------------

 だんだんと、人生とか人間の強さ弱さについて考えをめぐらすようになっていった。

ウナギ教師、蠢いている

2016年04月14日 | 教育ノート
1985.4~1991.3(続)

 「雪標」、我ながらなかなかいいタイトルをつけたと思う。
 この言葉は辞書にはない。
 今ネット検索しても、つけられた名称としてはあるが、認知されている熟語ではないようだ。
 新聞紙上で見かけた。雪国で道を見失わないために、道の端に差しておく小枝を意味する。

 この学級通信はB4の横版、上下2段構成という体裁をとっていた。
 内容面の特徴は二つ。

 一つは、子どもの日記をそのままコピーして載せたこと。
 紙面の半分を使って載せている号が数多くある。直筆だが高学年でもあったしなんとかなった。14名を順に載せていった。

 もう一つは、授業記録である。
 力を入れた国語科実践が主になるが、子どもの名前を登場させながら、日記風に書いてあった。
 これは明らかに当時続けて発刊された全国の実践家たちの通信集などを意識していたと言っていいだろう。

 この二つがあったからこそ、週2回ベースを維持できたと思う。

 次の4年間持ち上がり学級は、「タッチ」という名前で通した。
 週2から3までペースが上がった。通算すると500号を超えたことになる。
 ここでも授業日記的な内容は続けられている。
 ちょっと気取っていえば、それは修業的な場の一つだった。

 そして、大きなことは「自学」の登場である。
 岩下修先生の実践に影響を受けて、「チャレンジノート」という名称をつけ見開き2ページで毎日続けた。
 それをコピーして紹介することを取り入れ、授業そして学級づくりと連動させていった。
 その継続が仕事の大きな原動力だったことは間違いない。

 さてその自学ノート、19名ではあったが、朝に集めて帰りまで返すのは大変だった。
 しかし、その評価や処理自体も楽しみではあった。子どもたちの工夫にあふれた「学び」や、日記的文章に表れる「声」を読むことをルーティンにできた気がする。

 しかし、ある家庭から「夜遅くまでやっていてなかなか止めない」と聞き、ある意味で「自学地獄」かと思った記憶がある。
 いわゆる「はまった」状態で、誌面構成を仕上げていくように夢中になった子たちもいた。
 もちろん内容面は文句のないものだったが、このやり方がベストかと少し迷いも残った。

 数年前、その折の教え子の一人が訪ねてきてくれたとき「チャレンジノートは良かったあ。あれは忘れられない」と語った。
 私からみると、さほど熱心な男の子ではなかったが、そんなふうに述懐してくれたことでどこか救われた気持ちになった。

 ウナギ教師は、どこかへ上るだけでなく、ぬるぬると方向定まらず様々に蠢いていた感じだ。


 他のことで、ぽっと頭に思い浮かぶ、大変だったこと、嬉しかったこと、また時効?だから許されることなど記してみる。

 百周年記念式典の前日は大雨だった。
 二つの峠が土砂崩れで通れず、まだ未舗装の峠を冠水した道路を突っ切って帰宅した。
 さらに言い付けられて隣市へ明日使用するたれ幕を取りに行った。
 増水した川の水が撥ね上がってくる橋を、恐怖心を持ちながら渡ったことが忘れられない。

 その百周年記念の石碑に刻まれた文言に、自分の提案を採ってもらった。
 実に名誉なことだ。石碑だから、ずうっと残るんだろうなと思う。

 修学旅行の引率で、同行者とともに、宿舎に子どもたちを置いて周辺散歩(笑)に出掛けた。
 夜遅くに部屋に帰ってきたら、女児たちが押し入れに入っていて驚かそうとしていた。
 「先生、遅い!」と叱られた。今なら懲罰ものか!
 いい時代だ。

 書けそうなエピソードは数えきれない。
 自分が二人の娘の親になった年代でもあり、きっといろいろな機微を知り、少しずつ成長していた時期なのだろうと思う。

 もちろん、楽しいことだけでなく、少し悲しい出来事もあった。

 その一つを、次稿で…。