すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

なんとか乗り切った霜月でした

2012年11月30日 | 雑記帳
 11月も末日となった。
 今朝は久し振りの晴天で、やけに通勤時の朝日が眩しかった。交差点で止まったときに信号機ともろに重なって、視界がきかなくなり少し慌てた。

 ほぼ同じ時間帯に出ていて、今までこんなことはなかったので、季節による太陽の位置の変化に、この道を通い始めて八か月経つんだなとしみじみ思う。冬本番への備えに忙しくなる。


 今月は、まさに公私とも目まぐるしく過ぎた。
 私事の部分はともかく、昨日の指導主事訪問(2教科)まで、校内会議の他に研究会参加や校長会議など頻度が多かった。校長会などは計4度もあった。

 そんな中で、日常業務のバロメーターの一つとして学校報や校内報発行がある。
 学校報は週1を保てたが、研修中心の校内報は中旬でストップ、しかも引用中心で少しさえなかった。
 救いは,校内研での説明文読解授業をうけてその骨子についてある程度まとめたことか。表裏版として自分なりの発問プランも練ってみた。
 もしよろしかったら、こちらへ。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/rujyutu9.pdf


 写真は、新しいコンデジも買ったが、まだ使い慣れていない。
 昨春からの愛人機(笑)であるリコーCX4で、ぎりぎりの晩秋を撮ってみた。
 こちらも、よろしければ。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ff67.html

 
 いよいよ師走。明日は、楽しみにしていた花巻の会である。

11年目の反省

2012年11月29日 | 雑記帳
 01年10月とメモしているので、もうすぐ干支がひと回りなのだなと思う。
 『学校の役割は終わったか』の最終章、当時文科省にいた寺脇研氏と、宮台真司氏の対談を読み終えて、こんなふうに書き留めていた。

 目配りは大きく三つ求められる。
 ひとつは、時代認識に伴う国全体の流れがどう向くか。次に、それが現実の場にどう反映されてくるか。そして、最終的に子供に向き合う私達の構えはどう変化していくのか。
 もちろん、注意深い目配りだけでなく、当事者としての踏み出しが要求されているのだ。


 この10年あまり、自分がきちんと目配りしてきたか、甚だ自信がない。しかし、現実の場への反映であれば少しは語れる。私なりに典型として挙げられるのは、次の二つだ。

 「全国学力テスト」
 
 「職員の不祥事防止」

 もちろん、まだまだいくつものキーワードはある。
 しかし、この二つが迫った「構え」の意味は実に大きい。

 テスト実施によって学力観を普及させたこと以上に、数値化への志向は高まっている。その意味づけ、根拠は語られるにしても、「結果」という言葉に括られることも少なくない。
 
 不祥事防止の強調は、指導の質という面と教員の人間性保持という面で、大きく圧し掛かってくる存在だ。底にあるのは人権尊重であり法令遵守であるが、それは現実との乖離が大きいと思われることもしばしばだ。表沙汰になった多くの問題処理が、本当に正しいことだったかと首を傾げるのは私ばかりではないだろう。

 正面きってこの二つに異を唱えるつもりもないし、自分の立場での努力はしているつもりでもある。
 ただ自分がどんなふうに踏み出すかが、少なくない影響も及ぼすとすれば、それは目の前の子どもや教員が元気でいられる、意欲をなくさない言動でなければならない。
 肝に銘じてはいるが、どれほど実現できていることか。うな垂れる首の重さを感じる。


 さて、この著はそれまで全然考えもしなかった教育委員会の存在について、はあっと納得したことも大きい(完全に遅すぎなのだが)。
 こんな引用をしていた。

 つまり義務教育とは
 ①国民を育成するものであり、その内容には全国的な共通性が必要である。
 ②地域の人材を育成するものであり、地域が独立し、独自に行うべきである。
 という、二つの異なる要素を内包する制度ということになる。
 むろん、国家とは地域の積み上げであり、地域が独自性を持って育てた人材も国民には違いないのだが、しかし、全国的な共通の要請と、地域独自の教育方針は、必ずしも同じ向きのベクトルになるとは限らない。


 この正論は、ある面で今の教育委員会制度改革を唱える根拠でもあろう。
 しかし、現実は全国学力テスト参加に見た犬山市の「騒動」を見てもわかるように、対立には複雑な要素も絡む。
 またその折に「騒動」がさほど注目されず、一部に留まってしまったことを思うと、やはり、「地域」そして私達の呑込まれ度は予想以上に大きいと言わざるを得ない。

枠組みの中で生きる

2012年11月28日 | 読書
 教育に関しての政策は優先順位が低いのは、この国の現状からして仕方ないことかもしれないと思う。
 しかし、そういうなか(つまり人々の関心も教育にあまり目が注がれないまま)で、新しい政権がひと月経たないうちに発足することを思うと、どこかしら不安めいた気持ちが強くなる。

 細かい政策を見ているわけではないが、いずれの政党(代表者)も語っている一つに「教育委員会制度」のことがあった。これはあの大津市のいじめ事件が騒がれた後なので当然とも言えるだろう。

 小学館の「総合教育技術」誌が、12月号の特集2として「『教育委員会廃止論』を検証する」を組んだ。
 「根拠を読み解く」「論点を整理する」「識者の考え(5名)」という構成である。


 多くの現場教員にとって教委がどういう存在なのか。
 これに関したデータも目にしたことがないし、きわめて個人的な印象など語っても意味はないかもしれない。

 ただ一つ、大津市の事件をめぐっては、自分の住んでいる地域や務めている学校はそこまで酷くはないだろうと思いつつ、絶対有り得ないと断言できる教員はいないのではないか。

 形式主義から逃れられない…これは組織の持つ宿命でもあるだろう。形式によって伝達が可能になるし、効率が保障される。
 私達がやるべき、押しつけられていると感じている人もいるだろうが、いくつかの仕事は、授業づくりから報告的な事務仕事まで、ある意味では形式の中でこそ保たれている。

 しかし時々、形式に入れる内容よりも、形式そのものが優先されて、形式によって自分を守ることが大切にされるようになる。そして、そのこと自体に気づかなくなる。

 その点を自覚し、そこに陥らないように声を上げる人がいても、縦系列の流れの中で薄められたり、省かれたりする。
 そこからどういう方向づけをするかは、人によってまちまちだが、組織が大きければ大きいほど、呑込まれていく率が高くなるのは、予想できることだ。

 どんな枠組みの中でも生きる姿勢を示す、それは日和見主義ということでなく、常に本質と向き合えるかということだと解釈する。


 こんなことをつらつらと書きながら,少し思い出したことがあって,以前ホームページの文章を探してみた。
 もう十年以上前に読んだ『学校の役割は終わったか』(NHK出版)という本。その中に宮台真司の次の一文があった。

 過渡期においては全体を見て個別の物事を文脈に応じて評価していくような態度が必要です。そうしないで部分だけを見て「こうすると、こうなっちゃうじゃないか。」といういい方をしてはいけない。場合によっては、一部にある種の矛盾が出てきてもいいという立場は、広いスコープのなかからしか出てこないのですから。(P253)

 改めて納得できる。
 それにしても結構考えさせられることを書いているなあ。もう少しこの感想を書いた自分につきあってみたい。

レーダーチャート妄想

2012年11月26日 | 雑記帳
 今月上旬に、国語科の研究大会発表で、生徒が活動の自己評価をレーダーチャートの形で表すという実践を聴いた。

 今月中旬には、ある学校の実践のなかに、児童の個別のアンケート結果をレーダーチャートで表しカード化しているものを目にした。

 そんなに珍しいわけではないが、たまたま続いたので、このグラフのよさって一体何なのかという思いが浮かんだ。

 前者は観点が6項目あって六角形。後者は、観点が5つ、4つと分かれているので、それぞれ五角形、四角形ということだ。
 と考えていくと、妙な話しただが、理想形は「円」なのだということがわかる。

 つまり、観点が多くなればなるほど、数の多い多角形になる。観点が多いとは、より詳しく細かくチェックするということだから、それは望ましいにちがいなく、それをどこまでも突き詰めれば、円ということになるではないか。

 「円満」とはよく言ったものである。

 視覚化、見える化を意識してのレーダーチャートというが、まあ他のグラフであってもそんなに変わらない気がする。
 高い数値、低い数値は棒グラフで十分ではないか。そうすると、やはり利点はバランスなんだと思う。

 しかし、バランスのよさだけ尽きつめれば、どんなに小さくとも、観点の数にあった多角形に近ければいいということになる。
 従って、もう一つの観点は広さ、面積ということだろう。
 つまり、項目ごとのよさが量で表現されることになる。
 この両面を満たせば、理想的と言えるだろう。

 と誰しも考えそうなことを書きながら、ここからはやや妄想バージョンとなる。

 一番の理想形として「円」をイメージしたとき、バランスの悪さはどう出るか、と仮定してみた。

 半分はとてもよくて、半分は全く駄目なとき、その見える形は極端に言えば、次の二つになる。

 半月orハリネズミ

 と奇を衒ってみたが、つまり「半円」か「ギザギザ形」である。
 結局、評価項目の並べ方によって、落ち込む部分が違うので、極端と考えると、ないわけではない。

 しかし、私達が項目の順番を考えるときは似たような観点で並べるだろうから、ハリネズミということにはならないだろう。ただ時として一本の針か刃のように、ぴんと高評価になるものがあれば、それはそれで面白い。

 全般的に評価が低い子が、ある点だけに秀でているとしたら、そんな形になる。そういうのはやはり異形として見られるし、日常生活でもそんな見方をされるのかもしれない。

 しかし、実際どうだろう。
 日常の暮らし方や生活で100ぐらいの観点を決めて、円に近いレーダーチャートを作って評価したら、結構ハリネズミは多いんじゃないかな。
 自分だってそうだろ。

ダブルバインドを緩くするため

2012年11月24日 | 読書
 再び『わかりあえないことから』(平田オリザ  講談社現代新書)

 八章からなる全編を通じて、やはりこり言葉の意味は重い。

 ダブルバインド(二重拘束)

 これは今の日本社会をよくあらわしている言葉で、当然ながらコミュニケーション能力に大きく関わっている

 つまり、「表向き」と「現実」が違う状況に置かれているということである。
 「いいから、いいから」と優しくされていながら、実は「なんだ、これもできないの」と言われているような状態。
 「教育は全人的な歩みであって…」と言われながら、「数字を根拠に」というようなこともそうか。

 著者はこんなふうに記している。

 いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

 これは多くの方が納得できるのではないか。
 現に自分のいる場を切り取ってみても、たとえば地域社会や保護者との関わりをみても、まさしくその状況に近いと言える。

 急激な変化を遂げている社会状況がありつつも、「変わらないもの」の重要性は繰り返し説かれる。しかし、その区分や混合を正確に見抜けているのか。
 個性が大切、特長をアピールしろと言われながら、一貫している対応や揃えた足並みが常に要求される。

 しかし、この矛盾に見える現実を一つ一つ解していくほどの余裕を持っていないし、また共通認識として取り上げられていないように思う。

 ある意味では八方美人になりながら生き抜いていくことで「成熟社会」に対応していくべきだろう。
 そのためのコミュニケーション能力であり、わかりあう関係づくりを最初から志向するのではなく、わかりあえないことから、少しわかり、どこかを折り合わせていきながら…ということなのだ。

 それは、著者がこの本の最終章で述べた「協調性から社交性へ」ということに結びつく。

 少し軽薄な響きを持つように受け取られる「社交性」は、それゆえ指導としては取り掛かりやすさを持っていると思うし、著者がコミュニケーション能力を「その程度のこと」と繰り返し語ることと重なる。

 そして「その程度」のことが、この大変な世の中にとって必須であることはもっと強調されていい。
 現場教員として、具体的なアプローチを示せるようにしたい。


 さて、著者はあとがきにこう書く。

 人間は、演じる生き物である

 これは前に読んだ平野啓一郎の「分人」論とも結びつくように思えてならない。この割り切りかたこそ、まさしく生きるコツであろう。

 人は様々な環境の中で、様々な役割を果たしながら生きている。その役割の一つ一つを楽しみながら演じられたら、それ以上愉快なことはない。
 (今日は家族にとって大事な日であり、私もその役割を楽しく果せたらいいな…)

「わかりあえないことから」読み直し

2012年11月23日 | 読書
 『わかりあえないことから』(平田オリザ  講談社現代新書)

 この文章は、講談社のPR誌『本』に連載されていたときに、非常に興味を持って読んだ。
 頷き、立ち止まり、前にもどったりして繰り返して読んだように思う。

 自分たちの仕事にとって、とても大事な視点が書かれている。それは、この書に添えられた次の副題を見ることでわかるだろう。

 コミュニケーション能力とは何か

 演劇・戯曲の専門家の立場から、積極的に教育、社会への発言を続けている著者の考えは、今私達が直面している問題を正確にとらえているように感じた。
 そして私達が安易に「コミュニケーション能力」と騒ぎ立てることに、警告を発しているようにも思う。
 それは、無言も口ごもりも表現とする演劇人としては、当然なのかもしれない。

 このブログを検索してみたら、計3回もメモを残していた。

 「コミュニケーションの量の減少」という問い②

 冗長率のことを冗長に語る
 
 対話というナマモノ


 改めて読み直してみても、本当に読みどころが満載である。

 以前書いたこととは別に、いくつかのキーワードに再び出合う。
 これらについても、明日からメモを残しておこうと思う。

ああ,降ってきたと思う

2012年11月21日 | 雑記帳
 ここ数日、天気予報では雪マークが多かったが、いつもの年のように、目覚めたら真っ白!という感じは今までなかった。

 今朝もそうだったのだが、朝の支度を整えているうちに少しずつ降り出した。少し湿気の強い雪である。
 通勤の車はさすがに気を遣っていることがわかる運転であり、途中にある峠のトンネル前の温度計が、今シーズン初の「0℃」を示していた。

 学校に着き、さっそく街頭指導に向かおうとすると、歩道も一面白い。まだ一つの足跡もない。
ふんわり、さっくりした新雪とまではいかないが、それでもほんの少しの緊張感を持って足を踏み出していることがわかる。

 子どもたちが登校してきた。
 いつもと変わらぬ姿ではあるが、挨拶のあと「ようやく積もったね」とにこやかに声をかけてくれる3年生の女の子、ぱっと雪玉をつくってこちらに目を向ける男の子…。

 校門横で待っている二人の2年生は、雪を転がし始めて大きな塊を作り始めた。

 ああ、降ってきたと思う。

 本県の大雪は2年続いたと言っていいだろう。今年はどうなのかと心配がよぎる。

 カマキリの卵の位置はどうだったのだろう。大豆の枝の伸び具合はどうだったのだろう。
 ふだん気にとめないことを思ったりしている一日だ。

 公私ともに一気に慌ただしさを増している周囲だが、冬に入っていく時期はいつも慎重に、慎重に、と心がけている。
 そして、やるべきことがどのくらいできるか見定める季節になっていく。

 そんな今朝の写真は、別ブログへ
 

「気づき」が邪魔をするという気づき

2012年11月19日 | 読書
 本当に久しぶりとなるTOSS関連の本である。

 『TOSS英会話指導はなぜ伝統的英語教育から離れたか』(向山浩子 東京教育技術研究所)

 5年前の著書であるが、現在ごく普通の学校で高学年を対象に行われている「英語指導」に到るまでの歩みが、概観できるように思う。
 思えば90年代、まだ法則化の研修会に参加していた頃、英会話の講座も何回か受講したことがあった。それなりの興味はあったし、大森修氏が学校ぐるみで取り組んだ実践にも刺激を受けたことを覚えている。

 そこから自分の中でも進展しなかったのはなぜか。
 はっきりと思い当たるふしはないが、この著の中に書かれてある賛成・反対派のやりとりや、中学校英語とのギャップ等の問題が次々と出てきて、乗りきれなかったというところだろうか。
 総合、特別支援など次々に迫ってくる問題に目が向かったし、そもそも英語への関心は薄いのかもしれないなあ…

 正直そんな自分だから、英語教育の重要性という点ではちょっと腰がひけていて、この著の考えに全く同調できるまではいかなかったが、引用している参考文献の言葉にはかなりの刺激をうけた。

 TOSS英会話指導の背景となる思想といっていいかもしれない、次の言葉はある面で衝撃だし、同時に教育関係者であれば、きちんと正対しなければならない。

「意識は、学習能力を減少させる」

「学習は意識的というよりはむしろ、肉体的な事柄というべき」

 『神々の沈黙』(紀伊国屋書店)に書かれている、ジュリアン・ジェインズの言葉である。

 幼い子どもの言語獲得の場面を想像すれば、それはやはり当然の知見であるし、そのことを考えれば、小学生に第二言語として英会話能力を身につけさせるには有効な考え方だと思う。
 つまり、意識させないでスキルを身につけさせることを、何より最初に繰り返し行う。
 具体的には場面状況のみを知らせて、ひたすら英会話のみで押し通していく。そのたくさんの経験が、中級学校での読み・書きにも転移していくという考え方である。


 いつものごとく、それは英語指導ばかりではないだろう、とまた横道に入っていく自分を感じる。
 小学校(特に、低・中学年)において習熟を要する学習活動は数々ある。最近は、ずいぶんテンポアップしている授業も出てきてはいるが、やはり私達はどこかで、「意識」の大切さを強調したい思いにとらわれて、よけいなことに時間をかけたりする。
 そればかりか、子どもを迷わせ、学習の効率性を削いでいることはないか。

 「気づき」という言葉は、「学び」と同義と捉えられるほど大切にされている。しかし、学ぶ内容によって実は「気づき」が障害となってくる場合もある。

 国語、音楽、体育、そして算数において、あくまで発達段階に即してではあるが、もう少し教材や活動の「量」についての吟味がされてもよくないか。子どもの気づきによる「質」を求めることなど、単なる大人の自己満足ではないかという気さえしてくる。

 繰り返しによる体感的な学びを強めるために、この問題はもっともっと検討されていい。

科学のある部分を担う

2012年11月17日 | 読書
 『科学的とはどういう意味か』(森博嗣  幻冬舎新書)

 著者の小説を読んだ記憶はあるが、なかみに関してはまったく印象がない。フィットする部分がなかったのだろうと思う。
 しかし、この新書はなかなか面白かった。

 内容は、「科学を敬遠するな」「敬遠していると大変な目に遭う」「みんなで正しいことを積み上げていこう」ということを、震災や身近な事例を引きながら繰り返し述べているに過ぎないが、説得力がある。
 それは、やはり科学者の視点があるからだろうと思う。
 
 科学者の視点とは何か。
 それは言うまでもなく、この本の題名に関わることである。

 二章のまとめで、著者は述べている。

 科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。

 そのために、「数」と「実験」が重要であると語っている。
 だから、この本には結構多く数字がでてくる。さらに実験を紙上でしているわけではないが、様々なエピソードが紹介されていて読み手を引きつけるし、納得もさせる。

 また,さらっと読んでいこうとしても、手痛い言葉がすぐ目に入ってくることも特徴だ。
 例えば…

 言葉を覚えることで、無意識のうちに「立ち入らない」境界を作ってしまう

 「やる気」や「心意気」よりも、数字の方がずっと信頼できる。数字は人を裏切らないし、数字は調子が悪くなることもない。



 さて、科学を「他者による再現性」をもとにしたとき、某出版社が雑誌に名づけている「教育科学」というのは、実に興味深い。
 そしてその社が、法則化運動に深く関わってきたことも頷ける。かの『現代教育科学』誌は廃刊となったが、まだその冠をつけられている雑誌はある。

 その目指すものはやはり「他者による再現性」が大きいと言っていいのだろうか。
主たる読者である教員にとっては、自分がページをめくり何かしら得ることが、科学かどうかなどふだん考えてみることなどないと思う。
 しかし結局、雑誌等に載るそれらの「実験」(これは誤解されそうだが)の記録を通して、ある意味の「数値化」を提示し、それを文章化した提案、報告を受容し、さらに実験し、結果を得ようとする道筋は,科学だと考えてもいいことだろう。

 科学は、「みんなで幸せを目指す」ものだと著者は強調している。
 困難は多い。けれどやはり私達は「教育科学」のある部分を担っているという自覚は持ちたいものだ。
 別に雑誌宣伝しているわけではないですが…。

ダニエルの言葉が沁みる季節

2012年11月16日 | 雑記帳
 地域の方が、『葉っぱのフレディ』を高学年に読み聞かせてくれていた。
 ああ、懐かしいなあ、この季節にぴったりだからなあと思った。

 終わった後もひとしきりその話題をして、帰宅してから書棚を探してみた。絵本はごくわずかしかないので、すぐ探せた。
 後付けをみると、発行の翌年1999年に買ったようで珍しく日づけをも入れている。
 「11.9」とあった。

 もう廃校となりその名前ではないが、統合校舎として今も残っている山の小さな学校で、5,6年生に読み聞かせたことがあった。

 改めてめくってみると、ああここが好きだったと思いだした。
 フレディの親友であるダニエルの言葉だ。

 「生まれたときは同じ色でも いる場所がちがえば 太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。月の光 星明かり 一日の気温 なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは みんなちがう色に変わってしまうのさ。」

 なんとなんと。
 歳を重ねれば重ねただけ、沁みてくるような言葉ではないか。
 そう言えば、森繁久弥の朗読CDもあったはずと探したが、見つからなかった。


 朝、国道から学校へ入る桜並木は、紅葉の時期を過ぎかなり葉を落としている。
 その落ち葉も見ていると、当たり前だが一つ一つ形も色も違っている。

 この後、風に吹かれ、雨に打たれ、細かくなって、土に還っていくのだろうか…などとしばらく見ていたら、校舎に入る間際に同僚に何をしていたか尋ねられた。

 「濡れ落ち葉に我が身を重ねて…」と寂しく笑ってみせたら、「またあ」と笑い飛ばされた。

 落ちて濡れて,なお,魅せてくれる造形はあった。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-a9c3.html