すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「コショク」の風景

2006年11月30日 | 雑記帳
 今月の中頃に行われた祖父母交流会の中で
餅つきをして会食する場があった。
 閉会のときの挨拶で、ほんの少しだけ「食」の話題に触れた。

 「コショク」という言葉に刺激されて話してみたが
事前の調べも足りなく、少し舌足らずになってしまったと反省している。

 そこで調べなおしをしてみると、
「コショク」にはずいぶんたくさんの意味が込められていることがわかった。

 「個食」と「孤食」
これが私がはっきり知っていた書き方であり、
どちらもひとりで食事をする風景と思っていたのだったが
少し意味は違うようだ。

 「孤食」、これは文字通り、ひとりで食べること。
 「個食」は、一緒に同じ物を食べるのではなく、
親子が別にバラバラのものを食べるという意味で使われる。
 
 そして、少しあやふやだったいくつかの「コショク」。
「固食」…食べるものがいつも決まっている
「小食」…食欲がなく、少ししか食べない
「粉食」…パンなど粉を使った主食が中心

 なるほどと思う。
 すべての「コショク」を改善せよということは無理な話ではあるが
いずれも成長期の子どもたちへの影響は大きいだろう。

 なかでも「個食」「孤食」は、そこに悲しい風景さえ浮かんでくる。

 家庭教育の中の芯とも言えることではないか。

 誰の文章か失念したが、「食」に関して心に留めている言葉がある。

 何を食べるかが問題なのではない。
 誰と食べるかが問題なのだ。


学校力とは、時間管理である

2006年11月28日 | 雑記帳
 久しぶりに『教室ツーウェイ』(明治図書)を手に取った。
 11月号である。特集名に惹かれたからである。

 あなたの学校の学校力の基本を点検する

 向山代表をはじめTOSSのライターが様々な視点から書いているが
 概観してみると、一番のキーワードは明らかだ。

 時間を守る

 向山氏が「時間の厳守」について書いたこと、語ったことは繰り返し読み、聞いてきた。
 だから、ある面で自分にも沁みついているはずと思っている。
 学校づくりの名冊子ともいえる「大塚の教育」も読み込んでいるし
会議の原則を作り実践してきた経験もある。

 しかし、改めて今自分のまわりを点検してみると、少し甘えも出てきているかなという気もする。

 例えば「授業時間の弾力化」に伴う動きはどうだろう。
 それ自体は授業者にとっては歓迎すべきことであるし、好都合といってもいいが
45分で終わらなくてもいいという縛りのなさは、逆に自分自身に曖昧さを残していないだろうか。
 第一、子どもの意識はどうなのだろう。

 例えば「会議時間」についてはどうだろう。
 職場の中ではきちんと守られているが、諸々の校外の会議でのアバウトさはまだ続いている。
 改善していく声を出すのには勇気がいるが、何かしらのアクションを起こさない限りは、自分も同罪である。

 大森修氏は、いみじくも言い切っている。

  時間内でできることが職務遂行能力

 それは45分の授業づくりがもちろんそうだし、一日、一週間の組み立て方も該当する。
 従って、一年間、六年間にもあてはまる。

 時間感覚を磨き、時間管理をすることが、学校力を高めていくのである。

「読書」していない自分の読書

2006年11月26日 | 読書
 詩人である長田弘氏の『読書からはじまる』(NHKライブラリー)という本を読んだ。
 平易な言葉遣いなのだが、意味がよくつかめないところもあって
自分の読解力の足りなさを痛感させられた。
 しかし、長田氏の言いたいことは、表紙にも書かれている次の一文に込められている。

 人は、読書する生き物である。

 拙い読み取りながらも、心に響くいくつかのことがある。
 例えば、情報と読書の違いである。
 新書好きで、いわば情報のための読書?が多い自分にとっては
なんとも考えさせられることだった。

  簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。
  対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。


 この論に即して言えば、「分ける」ことに力を入れてきた自分の
「育てる」部分の未熟さが指摘されているようだし、
感覚的にもあてはまるような気がしている。

 振替の休みがあったので四連休。
最初の二日で、読みかけの5冊を読了した。
本の背表紙を改めてみると、「情報」率80パーセントか…。
 三日目に、書店で購入した7冊。
読み始めているが、タイトルから内容を予想してみると
「情報」率はこれも7割は超えているなあ…。
 
 読書による反省がない。
というより、「読書」していないということか。

「やり過ごし」で見える本質

2006年11月25日 | 読書
 愛読している複数のブログで紹介されていた本
『マネジメント革命』(天外伺朗著 講談社)をようやく読みきった。

 天外氏が実はソニーの土井氏であることが一つ驚きだった。
かつてNHKの「プロジェクトX」でAIBOプロジェクトを取り上げた時
いたくその姿に感心した覚えがある。

 そこのリーダーとしての姿とは、また一味違う印象を持つ本であった。

 キーワードはたくさんあったのだが、
心に強く残ったのは「やり過ごし」である。

 人は、「やり過ごし」をすることによってのみ、まともなマネジメントに成長できる

 「もの作り」をする企業と同列には扱えないだろうが
学校現場にも多くの命令、指示、依頼がとびこむ。
 外部の人が想像している以上に多いだろう。

 公務である以上は、一つも「やり過ごし」はできないのだが、軽重はかけられるだろう。
 また実態にあった軽重をかけられずに、何がマネジメントと言えるのか。

 どの段階でかけるか、は個々の考えもある。
 まして、やり過ごすならば、覚悟が必要だ。
 それによって、組織の力が高まる、個々の成果があがるという
見通しや信念が求められるといってもよい。

 今日、何を「やり過ごし」たか。
 
 それを問いかけてみれば、案外自分の本質が見えてくる。

子どもをみる目を、みる

2006年11月18日 | 雑記帳
 野口先生をお迎えしての研修会のまとめの一部として、次のことを書いた。

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 今回のテーマ「子どもを『見る』目を鍛える」は、夏に開催されたある民間教育研究団体で野口先生の講演題になっていたものを参考にして設定した。
 しかし、今考えるとそれは「見る」ではなく「みる」とすべきだったようである。
 「みる」は「見る」でもあるが、「視る」「看る」「診る」と幅広い意味づけができるし、今回のお話によりふさわしかっただろうと思う。
 先生に宛てて依頼した文書には、例として次のことを書いた。

【今の子どもをどう捉えるか】
【授業においてどんな所に着目して「受け」ていくか】

 快楽追求、消費文化の真っ只中で育つ子どものひ弱さについて、幾度も言及している野口先生ではあるが、けして目の前の子どもを諦めたり、手放したりはしない。子どもは常に「向上欲求」を持つ存在としてみられており、それを信じて授業が構築されてゆく。
 授業に対する反応を、挙手や「音声発言」を中心としないで「ノート発言」という形で顕在化させていく、「音読発言」で理解度をはかる、そして「表情発言」に気を配る…これらは多様な「みる」と解釈することができる。
 
 さらに言えば、「野口流」として著名な○×方式の二者択一型発問は、全員参加を促し当事者性を意識させるための手法であるが、同時に子どもを「みる」有効な手立てとも言えるのではないか。今回の授業ではなかったようだが、特に子どもの発言を取り上げて問いの形にする場合は強く「みる」意識がでていると感じる。
 取り上げるポイントの一つはおそらく教材解釈とのズレにあると予想できる。
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 かの斎藤喜博氏は、子どもを「見る目」の重要性を大きく語っていたはずだ。

 大西忠治氏は、「とらえる視線」という言葉でそれを表していた。

 上條晴夫氏には名著「子どもウォッチング」がある。

 「子どもをみる目」を、私たちはもっと学ぶ必要があると改めて思う。
事実を通して、より具体的に、より体系的に、より実践的に…
そうした研修を組み立てていく必要がある。
 

子どもはみんな「よくなろう」と思っている

2006年11月15日 | 教育ノート
 野口先生をお迎えした先週のセミナーの集約に、今日ようやく取り掛かることができた。
 並行して、学校報にもその様子や野口先生の言葉を紹介してみた。


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 週が明けてすぐに野口芳宏先生より、本校宛に葉書が届きました。一部を紹介します。

 かわいい二年生との授業は久しぶりでした。九人の子ども達が、どの子も一生懸命考えてくれたと思います。読み方も上手になりました。
 いい子に出合うと心が洗われ、若返る気分です。
 木の香いっぱいの暖かい校舎を作ってくれた、地元の方々のご期待に応える実践の充実を期待します。


 古希を越えて今なお全国各地からの要請に応え、様々な研修会講師として活躍なされている先生です。
 国語教育や家庭教育の分野での著書も非常に多く、新聞紙上での連載なども抱えておられ、「鍛える」をキーワードとした骨太の理論は、教育界の中で影響力が大きいものがあります。
 そんな多忙な先生ですが、けして机上だけの考えはなさらず、必ず実践をくぐらせた「本音」や「実感」を大切にしておられます。
 今回も時にくだけた口調で、参加者一人一人の胸に迫るお話をしていただきました。

 「子どもを見る目を鍛える」をテーマにした会では、参加者の質問や感想に対して野口先生にお答えいただく形をとりました。
 最後に「先生の、子どもを見る目の原則はありますか?」と訊ねてみると、次のようにおっしゃいました。
 実に印象的な一言でした。

 子どもはみんな「よくなろう」と思っている

 その思いに応える実践を作り上げるために、日々の営みを大切にしたいと痛感しました。
(11/15)

「ぬくもりのまなざし」は欠かせない

2006年11月12日 | 雑記帳
 野口芳宏先生を本校の研修会講師としてお迎えするにあたって
進行役としての心積もりもあり、いくつかの著書や冊子に改めて目を通した。

 私家版である『国語教室』第28集の第1章は「授業と学級論」と題され
Q&Aの形で、様々な事項について答えている文章があった。
 「教室ツーウェイ」誌で、同じ質問について「有田・野口・向山」三氏が答えていく企画である(思えば、いい時代であった)。

 その冒頭の問い
「新卒教師、最初でぐちゃぐちゃになったのですが…」という状況について、
野口先生はもちろん具体的な手立てを示してはいるのだが
その手立てを記す前にこんなことを書いておられる。

その場に私がいたとして、私はこの新卒教師にすぐノウハウを話すことはしないだろう。
むしろ、「ああ、がんばっているなあ」というようなぬくもりのまなざしで、
しばらくは静観していたいと思う。
教育という仕事は、初めっからきちん、きちんと進められるというわけではないし、
それが直ちに責められなければならないというものでもない。


 この文章が書かれたのは、おそらく90年代初め。
その当時もその考え方が主流だったとは思わないが、十数年が経ち、
日本の教育現場は、そんな目がとんと通用しない状況が強まっている。

 子どもの変化に対応する姿勢として、素早い指導が求められることはもはややむを得ないことではあるが
それは、教員の評価や管理という面が強まっていることと見事に重なっている。

 年輩教員や管理職が若い方々を相手に、指導について語るとき
すべてにおいて、即効性や迅速性を求めてよいものか…
 それは「社会が、時代が、要求している」と言えばそれまでなのだが
そうした姿勢は、間接的に子どもに移っていきはしないか…

 野口先生にお願いした講話のテーマは、「子どもを見る目を鍛える」であった。
 子どもを見る目の中に、「ぬくもりのまなざし」は欠かせないことである。
 同様に、同僚や若年層を見る目にもそれは欲しいと思う。

 私たちの仕事は、厳しさの中で展開されるものではある。
しかし、そこに「ぬくもりのまなざし」が強く要求されることも
教育の仕事の持つ特殊性であるような気がしている。

発表会の力を、授業に転移させる

2006年11月09日 | 教育ノート
行事の成果を授業に反映させるという考え方は大切だと思う。
小学校の学級担任制のメリットはそこにもあるはずだ。
そんな思いで、いくつかの例示をした。


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 学習発表会の子どもたちの発表は、予想していた以上に「声がでていた」と思います。今までの集会などでの声を聞いていると、正直「大丈夫かなあ」という思いを持っていましたが、そこはやはり担任の先生方の指導によって、一定のレベルまで引き上げられたのでしょう。
 ぜひこの経験を他の活動にも結びつけたいものです。
 どの学級でも実態に応じて声を出す活動を続けているでしょうが、この機を逃さずレベルアップを図ることを考えてみましょう。

 例えば「音読」です。正確に読むことを競ったり、表情を出す読み方を求め変化させたり、劇指導などと絡めた指導がやりやすい時期です。
 また大きく、はっきりが基本ですが、上学年になったら「速読」という手法も子どもたちが食いついてきます。「何秒で読めるか」「1分でどこまで読めるか」…子どもの挑戦意欲を必ずかきたてますし、導入や中間でぱっと取り入れられる手法です。

 例えば「暗唱」です。暗唱ドリル的なものだったら、学期末までの目標を定めて取り組ませてもよいと思います。
 また何かの物語や説明文などの1ページ暗唱、全文暗唱なども集中力を高め、達成感を持たせるのに適していると思います。

 例えば「スピーチ」です。題材がマンネリ化しないように、様々な例示をしておくことが大事かもしれません。「○○を最初の言葉で」「○文でスピーチ」「○秒でスピーチ」、変化を与えてみましょう。
 また必ずしも全体でなく、個人→ペア→グループ→全体といった段階を織り交ぜて、繰り返し発表させることも考えてみるべきでしょう。ここは少人数のメリットが活きる箇所です。

 例えば「会話、対話」です。何かをテーマに話すことはなかなか難しいものです。「鉛筆対談」から「読む活動」そして「話すように」…「みんなの前で」などという段階も必要になってきます。
 話す質も問われますが、多様な設定をして興味ある内容で話せれば自信もついていくはずです。
(11/9)

研修会のもち方を考えれば

2006年11月07日 | 雑記帳
 9月末に行われた新潟・中野山小学校で行われた研修会に参加した友人より
一冊の本をいただいた。

『授業道場&学校改革「大森塾!」』

 大森修先生のいらっしゃる学校の研修会の記録である。
 しかも、今年4月から8月までという最新のものである。
 読み始めたら止まらなくなるくらいに興味を惹かれた内容だった。

 メールによってサークル内に流された文章が中心なので
若干わかりにくい点もあったが、それを通り越して刺激的な箇所がいくつもあった。

 外部講師として招聘した講師の話の内容
 校内研修の指導者からの感想を保護者に知らせること等々
 自分には手の届かない境地だなあと思うことも多かった。

 一つ、考えさせられたことがある。

 研修会、研究会のもち方についての話題である。
 いわば「講義型」の研究会を続けている中野山小学校。
 その理由はいくつも挙げられるだろう。
 それから、ずいぶんと広がっている?という「ワークショップ型研修」。
 付箋等による意見収集やグループ別討議を取り入れた形である。
 この比較を考えている文章があった。
 研修会のあり方を模索し続けてきた?自分としては実に興味深かった。

 今、勤務校でも、セミナーと称して研修会を継続しているので
思わずその有効性を考えてしまった。
 本校の形は「講師による授業→講話→質疑、意見交流→各自のまとめ」という流れである。
 特に深く考えた筋立てではないが、このラインは具体的にかつ深く学ぶには
なかなかいいのではないかと改めて思う。

 実技指導を見て、講話によってその意味づけを知る。
 そして疑問や意見を話し、自己の学びとして文章でまとめてみる。
 特に変わった形式とは言えないが、学ぶ流れが明確であるような気がする。

 もちろん、それを支えるのは個人の積極性や意欲であることには違いないが
「出合い」さえあれば、参加者をそうした気持ちにさせてくれる一流の講師を呼んでいるので、本当に心配がない。(これは自画自賛ですね)

 セミナーも今週金曜日で三回目。

 いよいよ野口芳宏先生の登場である。

多くの時間と人との関わりを語ること

2006年11月04日 | 教育ノート
 学習発表会が終わった。
 「学芸会」の時代から、学校文化の象徴的ともいえる活動だなと思う。
 一時期、様々な発表の形が模索され、それなりに変化はしたようだが
観客が見たいものは案外変わっていないし、その見方は教育全体に通ずるとも思う。
 古びた考えかもしれないが、発表会前に学校報に載せてみた。


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 B小の分校を14年度に卒業したMさんは、閉校記念誌に書いています。

「『この次は劇。劇の次は一輪車。一輪車の次は…』というように次から次へと出番が回ってきて、ゆっくりするひまはなかったけれど、とても充実した学芸会だったと思います。」

 第一期の卒業生であるIIさんは、百周年の記念誌に次の文を寄せました。

「二年生の学芸会で『五一じいさん』という題で話し方をやった時の、私の恰好がよほどおかしかったのか、担任のT先生に五一じいさん、五一じいさんと可愛がられた思い出があります。」

 時代が大きく変わり、名前も学習発表会となっても、学校の中に大きく根づく文化としてこの発表会があり、おそらく大人になった方の大半が何かしらの思い出をそれぞれに抱えているのがこの会ではないでしょうか。
 例えば
「あの曲を、学芸会で演奏したことがある」
「侍の役をしている時にころんでしまった」
「私は、村人の12番という役で、セリフは一つだけ」とか…
 今思い出せることはほんの少しでも、きっとその記憶の裏側には、大変多くの時間と人との関わりがあったはずです。

 そんな思い出話を、機会をみて子どもたちに聞かせてやってほしいなと思います。
 幼い子にとっては想像しにくい事柄であったとしても、身近な人から語られることはいつかの折に思い出したり、役に立ったりすることがきっとあるものです。
 また、それ以上に語る側が大切なことに気づいたりするかもしれません。さあ、明後日はいよいよ本番。時が経っても語られるほどに熱い発表が…きっと。
(11/1)