すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

必要だが足りない力

2018年02月28日 | 読書

(20180226 雪消月実景⑤)

Volume98
 「日本に必要だが足りないのは、このプロデューサーの能力です。ひとりひとりのプロフェッショナルには、卓越した人材がいますが、それらを束ねて化学反応を起こし、1+1+1+1……がその総和以上になるような制作物を生み出す能力といってもよいでしょうか。そういう人材が足りない。」

 社会学者の上野千鶴子が雑誌連載「情報生産者になる」の最終回に記した言葉。

 どうしてプロスポーツチームの監督に外国人が招聘されるのか、正直あまり納得いかなかった。
 サッカー日本代表しかり地元のバスケチームしかり、プロでなくとも今回の五輪チームにも、そうした存在は多い。
 監督は、意味としてはディレクターが近いのかも知れないが、そこを含めて総括するプロデュースの力量に日本人がいかに欠けているのか、ずばり宣言された気がした。

 なぜこの国にそういう能力が育たなかったのか。
 古代からの歴史を紐解けば、いろいろと分析できるだろう。

 歴史上のリーダー、ヒーロー(の物語)を取り上げてみると、プロデュース能力に長けている者は当たり前のように考えられる。ただそういう存在は特殊だ。
 その人物の下をずっと辿っていくことで「教育」のあり方の大勢が見える。
 とすると、やはりこの国は上意下達が圧倒的で、それがまた一面では強さであったことも認めねばなるまい。

 その点を踏まえながら、これからの時代に対応するためには…と様々な人が様々なことを言ってきた。
 傾聴するに値する言葉はたくさんあったが、今ふと浮かぶのは、かつてのサッカー日本代表監督のイビチャ・オシムが語ったことだ。
 『日本人よ!』の感想メモを残していた。

 「もっと自分の頭で考える」機会を増やすことが、出発だ。
 みんながプロデューサーになったり、そうした仕事につけたりするわけではない。
 しかし自己をプロデュースする力は、誰にとっても必要が増していることは言うまでもない。

五輪へそ曲がり視聴記

2018年02月27日 | 雑記帳

(20180226 雪消月実景③)

 昨日は競技解説者の「ワオッ」を少し書いたが、結構見続けた五輪について思ったことを、つらつら書いてみたい。まず、本当に今まで知らなかった競技がたくさんあったこと。正直、そんなに種目を増やしていいものか、という気にもなった。競技推進、拡大を図る人たちの気持ちはわかるが、どこまで拡がるのか。


 もちろん、観る側の楽しみは否定しない。そこにつけ込み(笑)競技人口を増やしたい意向が当然あるだろう。その規模が今後を支えていく構造をつくるわけだ。現役選手にすれば、穿った見方になるが、従来の種目で芽の出ない者には新たな挑戦の場になるかもしれない。しかし参加性が拡大するからいいと断言できるか。


 ネットでも拡散した「ハーバード出、何の技も披露しないハーフパイプ選手の謎」などの例はどうなのか。そういえば、夏季五輪でも「猫ひろし」のマラソンのことや、かつては水泳で泳げなかった国の選手もいたはずだ。国別メダルがいくらなど騒いでいるレベルとは、あまりにもかけ離れすぎている現実もある。


(20180226 雪消月実景④)

 よくも悪くも五輪がテレビ画面を通じて、華やかな舞台になっているのは確かだ。カメラは競技中の選手だけでなくその周辺情報をフルに集め、また観客の方にも向けられて、全体的な様子を映し出す。巻き込んで参加させ膨らませていく。ただ同時に、画面が映し出すクールなメディアという要素も強くなっている。


 真剣な勝負の場でも、観客はピースしたりあくびしたりする。応援にノラナイ人を見つけたりする。また、映像技術の進化が選手の表情をより細かく見せるのも一長一短だ。かく言う自分が今回一番笑ったのは、フィギュア日本T選手の4回転ジャンプのスロー時の顔。残念なことに、何度も流れる順位ではなかった。

ワオで出合いチャオでさよなら

2018年02月26日 | 雑記帳

(20180226 雪消月実景①)

 先月読んだ雑誌のある対談で、60代後半の翻訳家が「ワオ」という言葉を使っていて、少し驚いた。

 かつてはテレビで芸能人が口にしていた気がするが、とんと耳にも目にもしなくなったなあ。
 そんなことを思っていたら、平昌オリンピックのハーフパイプを使ってのフリースタイルスキーだったか、解説者が「ワオワオッ」と大きく連呼する声が聞こえてきた。
 自然に笑みがこぼれてしまう。
 ワオはイメージとして身体をよじって驚いてみせる仕草が伴う気がする。
 この解説者も結構なアクションつきで咆哮していたのかな。

 なんでも、スノーボードなども含めてその競技には「ワオ係数」という評価があって、盛り上がりを表す指数のようだ。

 予想外の出来事、意外な嬉しさ…そんなことが最近少なくなった世の中に戻ってきてもいい言葉かもしれない。
 松岡修造とかは使っているのかな(笑)


(20180226 雪消月実景②)

 そう言えば、もう一つ最近見かけた懐かしい言葉に「チャオ」がある。
 これもこの頃使っている人を見ない。
 もちろん、いくら昔でもこんな田舎で実際に使った人など数えるほどだろうが、都会から流れてくる画面や誌面には結構載っていたような気がする。

 これは感嘆詞のワオとは違い確か外国語…と思い調べると、イタリア語だ(ciao)。
 なんとなくお洒落なイメージなので、やはり田舎ではふさわしくない。

 かと言って、都会であっても見栄えする女子や育ちの良い子女が使うならわかるが、ヤンキーとか成り上がり的な者には似合わない。また音声的にはダミ声では駄目な気がする。

 オシャレ感覚は時代に伴って変化するのは当たり前だから、まあチャオが粋な感じを持たれる現在ではないということか。
 しかし発音からは陽気さ、楽観的なイメージが十分伝わり、我が国に足りない要素とも言える。その意味ではこれもまた戻ってきてほしい言葉だ。


 で、自分が積極的に使えるかというと、使ったら相手にワオッと驚かれそうな気もするし…まあ酔っぱらった時ぐらいしか口にできないか。

 いずれ、ワオと言えるような始まり、そしてチャオと交わして別れていく、そんな出逢いが幸せなことは確かだろう。

いびつな国に住んでいる自覚

2018年02月25日 | 読書
2018読了19
 『成長から成熟へ~さよなら経済大国』(天野祐吉 集英社新書)


 この新書「読んだかも」と一瞬思った。開いたら結構新鮮な気持ちで読むことが出来たので買い求めたが、結局後で思い出すだらしなさだ。「広告に目を凝らす心構え」と書きつつも、ちっとも心構えができなかった証拠ではないか。やれやれ。冒頭、世の中がいびつに「歪んでいる」事実の5例をもう一度叩き込む。


 「マスク」「原発」「テレビショッピング」「福袋」「リニア新幹線」。いわば、この国のいびつさの象徴として、この事例を挙げたのだが、ここで何がおかしいのか気づかなければ、だいぶ心身が疲弊して、溺れかかっているのかもしれない。もちろん自分もその一員。言われてみればとその黒々した部分に気づかされた。


(20180223  今日も凍りつくガラス窓)

 「大量消費社会」に対する問題提起の本である。広告のスペシャリストとしての視点から、その歴史や意義について詳しく語られている。キーワードは、広告する側から言えば「欲望の廃品化」「センスの差異化」となるが、それらの果てに「成熟社会」はまだ遠い。「脱成長」への眼差しが多様であり、苦い現実がある。


 紹介されたドキュメンタリーには驚いた。電子廃棄物が第三世界の国へ中古品を装って輸出され、ゴミ捨て場になっている。自然破壊だけでなく「くず鉄」拾いにくる子供たちの事故も多いという。グローバル化の陰は思っている以上に濃い。大量生産、消費を支えた「計画的廃品化」のつけを押し付ける現実である。


 広告の変遷のなかで、活字メディア・映像メディアの比較が実に興味深かった。どちらを主に育つかで考え方・感じ方を身につけるうえの違いがあるそうだ。テレビの特性として「参加性が高い」ゆえに「ウラ」が好まれるという論述にも納得した。そんな視点で今の五輪報道をみると、確かにと納得することも多い。

目的と形式を往復しながら

2018年02月24日 | 教育ノート
 今週は月曜と金曜に集まりがあり、講話や講義、実践発表等を聴く機会があった。



 それぞれの内容については、会の趣旨にそったものであり、聴きごたえのある充実した中味だったと思う。刺激にもなった。
 しかし、残念ながら5つあったなかで、時間が守られたのはわずかに一つだけだった。数分伸びたのが一つ、あとは数十分であったり、予定時間の2倍強であったりした。

 こういう場が重なると、日本人(そんなに括っていいか)の言語技術はまだまだか、といらぬ心配がまた頭をもたげてくる。
 話し方や筋の工夫などは以前と比べればずいぶん進歩している。
 ただ「時間」を守る点はどうしても粗っぽくなってしまうようだ。

 やはり「意を尽くす」国民性なのだろうか。
 それ以上に「みんな自分を語りたい」のかもしれない、と聴きながら、ふと思った。
 それは集合した場においての音声表現だけでなく、様々な投稿などネット上の場での表現、もちろんここもその数多ある一つに過ぎないのだが、実に多種多様の姿を見せている。
 
 しかし自分がしている「表現の特性」を踏まえないと、他者に迷惑がかかったり、会だと全体の効率性に影響が出たりすることになる。
 その意味では「目的意識」の希薄さが一番大きいかもしれない。


 昨日の会では、発表後にワークショップと称して付箋を使った円卓作業も行われた。一応のゴールは示されて個々の動きはあったにしろ、結局そこでも時間配分の問題が決定的になった。

 研修とは、解や意義が個々の中に生まれ、咀嚼されたり発展されたりすることが最終的なねらいとも言えるが、そのためにその場で必要な活動は何かを捉え切れていないようだった。
 
 目的がわかっていて、形式を工夫しても、その二つを往復して絶えず位置確認をすることが大事だ。

 達成感のないまま無駄な筋肉ばかりつけるようでは、何かに利用されかねない。

平均値は正常値ではない

2018年02月23日 | 読書

(20180223 今日もずいぶん冷えました)

 読了を覚えていて再読する本、不確かなまま再読する本と正直いろいろあるが、いずれ自分にとっては価値が高いから、再び手にとることになる。その場合、時が経ち立場も違えば、当然ながら、読み込んでしまう視点も違ってくる。同じ言葉であっても、目に入る時、そうでない時があることを今さらながらに感じる。

2018読了18
 『整体生活術』(三枝誠 ちくま文庫)


 書下ろしの文庫が発刊されすぐに読んで、その一節を引用しメモした。13年も前のことだ。→「つまらない自我は学びを阻害する」。本書のキーワードは「外経絡(がいけいらく)」。著者の造語である。経絡とは漢方の語で「身体中の筋道」を表す。その意味を、外的な「場所」「対人関係」などに適用した考えである。


 「誰とつきあうのか」「どんな場所に住むのか」「何を食べるのか」といった、自分と外との関わりがはっきりしていないと納得した人生は送れないと筆者は力説する。そこに現れる「気の交流」こそが肝要という。整体は広範囲だがいくつかの芯がある。その一つは「平均値でものを考えない」精神のあり方だと思う。


 「平均値であるからといって、それは人間の正常値ではない!平均ならばいいだろうとみんなで安心しているようなところがあるけれど、その平均値は人間が本来持っている力よりもずっと低いところに置かれている」…この認識を持って時々思い起こさないと、結局「常識」やら「多数決」やらに浸食されていく。


 「感謝という感情」の難しさについて述べたり、「シゴキの論理性」について触れたりしている部分など、おそらく一般的には受け入れ難い考えかもしれない。しかし個人的には納得できる。「感謝に距離感や間合いが必要なこと」や「すべての稽古は追い込むこと」という正常が、平均に崩されぬように見張っていきたい。


懐かなければ伝わらない

2018年02月22日 | 雑記帳
 「猫の日」。イヌ年ではあるが猫好きには関係ないだろう。無関心者は昨年もかなり狭量なネタを書いていた。さて結構前から「猫ブーム」らしい。「道の駅うご」に出向いたら、猫の写真パネルがたくさん飾られていた。『世界ネコ歩き』なんていう番組もあるし、世界中に猫好きな人って一体どれくらいいるのだろう。


 また『村上さんのところ』の話になるが、村上さんの猫好きが有名で、その本にもたくさん猫にまつわるメールが届いていた。仕事の邪魔をする猫、仮病を使う猫、ラブホ街で人間の真似をする猫、夫婦で「イカを食べたいなあ」と会話していたらその夜に咥えてきたイカを猫って…。「伝わる」エピソードばかりだ。


 先日刑事ドラマで、主人公にとって良くない報道がされていたテレビを家族と観ているシーンがあって、その時に可愛がっている猫がリモコンで電源offにしたことがあった。フィクションには違いないが「懐く」とはそういう現象で、言葉に出さなくとも心中を察するわけだ。それが出来ない人間様も多いというのに。


(猫の写真は少ない。これは台湾・九份の猫)

 懐くことによって伝わるのは猫だけではないはず。犬の方が…と思う人も多数だ。いずれにしてもペットとして人間と共にある動物は、その要素が高いだろう。猫好きでも犬好きでもない者ゆえ、ペットに癒される感覚は正直ぴんとこない。しかし少なくとも「伝わる」と信じる心が癒しの素地にあるのは間違いない。

更衣着(きさらぎ)の本読み

2018年02月21日 | 読書
2018読了16
 『ぱんぷくりん』(宮部みゆき・黒鉄ヒロシ PHP文芸文庫)


 手練れの作家宮部が「気がふさいで」いる時に、身近にある縁起物などを題材に「楽しい話」を書いた。おそらく編集者がそれに目をつけ、黒鉄に漫画をつけてもらい、ちょっとユニークな絵巻のような本に仕上がった。「宝船のテンプク」「招き猫の肩こり」と題だけでもイメージの広がる、実に奔放な物語であった。


 「縁起物」とは何か。辞書の意味は「吉事の到来を祝い祈るための品物」。それらが事件に巻き込まれる、また反乱(そこまで大袈裟ではないが)を起こした時、それはいかにして収まるものか。収まり方から見えたのは、人間にとって「吉事」とはきっと、縁起物に込められる気持ちそのものではないかという想いだ。



2018読了17
 『世にも美しい日本語入門』(安野光雅・藤原正彦 ちくまプリマ―新書)


 このシリーズでは「世にも美しい数学入門」を読んだ記憶がある。日本語の美しさを語るのが、画家と数学者であることに大きな意義がある。それは世代的、個人的な経歴等にも大きく関係あるが、どちらも「美」を、しかもかなり対照的な美を追求してきたはずだ。表現、思考の言語と真正面から対峙してきた両者だ。


 日本語の持つ造語力の素晴らしさはよく言及される一つだが、改めて気づかされた。数学で「確率」を「確からしさ」と言い換えた頃があったが結局淘汰されて今は使わない。いかに本質をつく簡潔な言葉が強いかのいい例だ。翻訳言語に限らず「真似→工夫→独創」の文化を作りあげた日本人の底力を見る思いがした。

自由を保つ1割の目安

2018年02月20日 | 雑記帳
 誰の言葉だったか失念してしまった。おそらくTV番組制作者か作家とかだろうか。つい先日メモしておいた一節だ。

 「こちらが頭に置いているのは、筑紫哲也が言っていた「視聴率7~10%の理論」である。自由が保たれる視聴率はそれくらいだ、という。視聴率が低すぎれば番組が打ち切られるし、視聴率が高ければ、視聴者の要望に更に応えようと力んだり、会社の意向を聞き入れる必要が生じたりして、不自由になる。」


 報道番組を想定している文章だろうが、これは多くの商業的なコンテンツに共通する考えかもしれない。

 『村上さんのところ』で、ちょっと似たようなイメージを抱いた回答がある。「お店をやっていたときの哲学」という質問に次のように応えている。

 「お客の全員に気に入られなくてもかまわない、というのが僕の哲学でした。店に来た十人のうち三人が気に入ってくれればいい。そしてそのうちの一人が「また来よう」と思ってくれればいい。」


(20180220 空が近いと子どもたち)

 生業としてやっていれば、経済的に成り立つかどうかを無視するわけにはいかない。
 ただ、そもそもの目的が何で、そのために始めたことであれば、視聴率、来客数が象徴する「人気」に囚われてしまうことは、非常に危険であることは誰しもわかることだろう。

 そしてまた、世の中にはそういう現実がいかに多いか。
 人気が高いということは、多くの人の目に晒され、均されていく部分が出てくる。尖った部分が惹きつけたはずのものが、いつの間にか内実なく空虚になり、いったい何のために目の前のことをしているんだという状況に陥る。
 だからと言って「止める」ことでは、何も生み出されない。

 一定の「自由」を保つための、見極めが大事だ。

 上の二つに共通する1割とは、いい目安と言えるかもしれない。

贅肉は美の象徴なのか

2018年02月19日 | 読書
2018読了15
『やせれば美人』(髙橋秀実 新潮文庫)


 「妻はデブである」という一文から始まる。そして書名は「妻の口癖」である。なんという自己信頼、自己肯定かと思う。「やせれば美人」の「やせれば」という仮定のなかに、「いつでもできるんだ」という自信が漲っている。そして「美人」というストレートな評価。ダイエットがテーマだが、結果は目に見えている。


 著者の書くノンフィクションは、読んだ範囲ではパターンが似ている気がする。テーマと出会い、まさに「降りていく学び」と呼べそうなアカデミックな調査があり、多様な方々への取材を重ね、そして常に自分とその周囲が照らし合わされる。今回の対象者は著者の妻。面白くないわけがない。スリリングでもある。


 サイズ計測や服の号数のことなど、実際に専門家しか知らないような点も興味深く読ませる。また、食事からエネルギー保存の法則という物理まで発展する。エネルギーの蓄積が身体に影響しないわけがないが、人間のエネルギー収支がピッタリするのは、「火葬場で体を完全燃焼」した時というのは、納得しつつ笑える。


 しかし、なんといっても主人公ともいってよい「妻の名言」が溢れている。ダイエットを志すための決意ではなく、なかなかうまく運ばない(本当に目指そうとしているのか)その訳が的確に理解できるコトバたちである。

 「努力には“美”がない」
 「これ以上、私に何を我慢しろと言うのよ!」
 「やせてると、話が盛り上がらないのよ」




 ダイエット実践者たちの言葉も特徴的で面白かった。ある女性に関する記述は、先週の読書を思い出すと衝撃でもあった。

 「彼女は村上春樹ファンだった。彼の小説に登場する人々はみんな自分をコントロールできているらしく、その世界に浸るとダイエット感覚が自然に身についていくらしい」


 要するにこの本では「自己コントロール」の方向性が問われる。それが「体重コントロール」「身体機能コントロール」に向かうか、はたまた精神的な方向なのか…このせめぎあいがなかなか難しい。それにしても、芸術の美が「贅沢」から生まれることから「贅肉」を「美の象徴」とする見方は一面の真実と感心した(笑)