すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

神無月の有情無情

2017年10月31日 | 雑記帳
 「月並みな表現」と書こうとして、「月並み」が気になり調べてみた。そもそもは「月並(例会)俳句」から転じて「平凡で新鮮味がないこと」を表すらしい。10月がその意味で月並みだったかと言えばそうではなく、「長かったような短かったような」といった気分だったからだ。現実と表現句はいつもギャップがある。


(UGO 2017.10.26⑤)

 先月末に我が家にとって最高に嬉しい出来事があり、そしてまたそれに伴う小さなアクシデントもあり、苦にはならなかったが時間的な制約が多かった。さらに、個人的には今月から新しく始まったノルマもあり、結構忙しかったのだ。昨年の日記を見直してみたら、ほとんど遊興三昧(笑)だったので違いに少し驚いた。


 先月に撮影した「鎌鼬の里芸術祭」を、ダイジェスト版と別にPRビデオを作成しFBに流したらシェアも多く1300回以上の視聴があったので嬉しいことだった。用事や天候不順もあり、たくさん写真を撮ることは出来なかったが秋らしい風景は収めた。恵みの収穫はキノコはそれなり、栗が全然駄目で残念だった。


 先日の宴席での年配者たちの我がまま勝手な放言が印象深い。曰く「あの人が選挙区で勝ったのは秋田の恥」「北朝鮮のミサイルが本当に落ちてほしいと思っている」「東京オリンピックに浮かれていることが信じられね」…ドンナコトガアッテモナントカナッテシマウ国、日本は今どのくらいの速さで沈没しているか。


 ハロウィンを認識したのはあの不幸な留学生射殺事件だ。あれから四半世紀が過ぎ、この「祭」が日本観光の一端を担うような状況になると、誰が想像しただろうか。よく言えば柔軟、正直に言えば節操がない。しかし私もそんな国民の一人で、仮装はしないがHalloweenを自分だけHaruoWinということにしている。

たべびと異聞

2017年10月30日 | 雑記帳
 隣市のホテルで研修後に懇親会。最近はそんなに頻繁に利用してはいないが、円卓の目の前には定番のA社のSビールではなく、K社のビールが一本置かれた。私の作法(笑)に合わせてくれて嬉しい。「親の遺言なのもので…」とテキトーに話し注いでもらっていたら、隣り合わせた方が少し変わったことを言い始めた。


(UGO 2017.10.26④)

 「何を食べても美味しいと思ったことがない。こういう味だなと思うだけだ。」Oさんは、種々のオードブルにも手を出さずに、枝豆を数個取っただけで、ビールを飲んでいる。「えっ、じゃあ例えば、今の時期なら新米を食べても旨いなあと感じないんですか」と問うと、「新米は新米、古米は古米の味がするだけだ」と仰る。


 重ねて「これは苦手だと思う食べ物はないんですか」と問うてみた。「ない」と言い切る。食べたり飲んだりしているわけだから、食欲そのものはあるし、味覚異常ということでもないらしい。「女房にも張り合いがないといつも言われる」…そりゃそうだ。味の評価をしないのは、皿にのるまでの一連の作り手を無視することだ。


 想像すれば、ただ食べて食欲を満たすことで精一杯になって、味がどうこう感じない大昔もあったろう。また食事に対して美味い不味いを口にすることがためらわれた身分や暮らしもあったはずだ。しかし人間の味覚は「快」を求めて、食物、料理は多様に広がっていった。食文化は、いわば評価の連続で成熟してきた。


 「何でも食べられるのが『生きる力』の一つ」と自覚しつつ、美味を感じないのは傍から見たら不幸としか思えない。「口福」に恵まれないことだ。ただ、先日開店した某ラーメン店に行き、出てきた品の不味さに腹を立てたことを考えれば、心安らかな生活のためにはそれもありか、とふと思う。いや、やはり無理だ。

本当に好きなことは…

2017年10月29日 | 読書
 何かが好きであることと、それを職業にすることは、全く別問題だ。憧れる仕事があったとしても、たいてい人はその一部分しか見ていない。そんな当然のことをはっきりと理解するためには、やはり一回やってみるしかない。実際にやってみると「本当に好き」の「正体」がだんだんとわかってくるのではないか。


(UGO 2017.10.26③)

2017読了108
 『ぼくは本屋のおじさん』(早川義夫  ちくま文庫)



 ミュージシャンの早川義夫が22年間やった本屋の仕事や日常について、あれこれ書いている。結局のところ「こんなはずでは…」といった繰り言が多く、つまり本や本屋は好きだが、その仕事のあれこれは大変だという口説きであり、内容がなんだかつまらなくて、途中でかなり流し読み状態になってしまったのだが…。


 抜群に面白い章が一つあって惹きこまれた。『凄い客』と題されたO氏という50代の常連のこと。昼からお酒の臭いをさせてやってくるO氏の行動は破天荒で、対応する著者の心理が揺さぶられる。「酒とたばこの臭いをプンプンさせながら、雨の日も風の日も、毎日、やってくる姿は、美しくないけれど、美しくもあった。


 オーディオマニアがいるように確かに「本マニア」もいて(本の内容より活字、装幀等に喰いつく)O氏もその一人のようであった。正体が不明なまま、著者との諍いのようなことも書かれている。要は「人との関係が、ぶきっちょ」同士のやりとりなのだが、本質だけを言い合っても結局うまく重なり合わないものだ。


 最後の最後に、著者の思いが一気に表出された文章に出会い嬉しくなった。「いいものは、うるさくない。月や太陽のように黙っている。もう二度と会えぬ人たちも黙っている。耳を澄ませば聴こえてくるかも知れないけれど、考えてみれば、僕たちの心やたましいは、いつだって黙っている。」本当に好きな正体は、それだ。

不便益こそ文化の本質

2017年10月28日 | 読書
 「不便益(ふべんえき)」という言葉を初めて見た。調べてみると「便益」は辞書に載っていて、簡単にいうと「便宜と利益」らしい。通常は「便利」ということになるか。この不便益を「楽しくいいこと」として提唱している研究室が京都大学にある。その代表である川上浩司教授と対談した評論家山田五郎のことば。

Volume84
 「人間、基本的に食って寝て死ぬだけですよね。そのあいだの時間をどうやってつぶすかが文化だとしたら、文化の本質は時間を短縮する便利さや合理性ではなく、むしろ引き延ばす不便さや非合理性にある」


(UGO 2017.10.26②)

 「便利さが人間を駄目にした」という言い方はよくされるが、だから何かが進むわけではない。その意味で「不便を楽しむ」手立てをいくつ持っているか、それを問うた方がいい。「不便益」をもとに様々に開発されるものは、「あえてひと手間かける」というコンセプト。その手間を楽しくさせる工夫に満ちている。


 「不便なトング」「カスれるナビ」「刻印のないキーボード」…自分の思い通りにいかない、スピードでなく偶然に頼る、微妙な間違いを直す必要がある…言うなれば「面倒」な作業をすることによって生まれる「何か」をどれほど楽しめるか。心の持ちようとしては、能力を実感、向上させる手立てととらえることだ。


 教育にとっても重要なことではないか。「不便だからこそ創意工夫する」という体験がどんどん失われている状況は、拡大する一方だ。意図的に「不便を取り入れる」という発想を持たないと「力」は育たない。試されるのは大人の工夫と忍耐か。世の中全体に「不便益」がもう少し浸透することが下地を作ると思う。

心が許す物語とは

2017年10月27日 | 読書
 ボクシングの村田諒太がタイトル奪取し「泣いてません」と強がったのは格好よかったなあ。真摯さが伝わってきた。振り返りたくもないが、常勝を冠された某球団のペナントレースの酷かった思い出として、ヒーローインタビューでの涙がある。あんな程度で涙を見せてプロと言えるか。今頃になって怒りが出てきた。


(UGO 2017.10.26①)

2017読了107
 『もらい泣き』(冲方 丁  集英社文庫)


 この文庫は裏表紙にこう記されている。「稀代のストーリーテラーが実話を元に創作した、33話の『泣ける』ショートストーリー集」。雑誌にエッセイ風に連載された作品が中心に組まれた。齢相応に涙腺も緩くになっているし、ぐっときた話もあったが、本物の「もらい泣き」までには至らなかったのが正直な感想。


 しかし作者は文庫あとがきに、こんなふうに書く。「本書でつづられた小さな物語たちは、必ずしも感情に訴えて強引に揺さぶろうとはしていません」。言うなれば演出を控えたということ。娯楽、エンタメなのに…と作者は逡巡したようだ。そしてそのねらいをこう書く。「やんわりと目に見えぬところで持続する物語」


 「あまり刺激的ではないからこそ、物語が入り込むことを心が許すのです。」と続ける。なんとなくわかる気がした。実人生においても、確かに強烈な思い出として残っている出来事もあるが、あの時の何気ない一言、さりげなく見せられた表情…そうした記憶がいつまでも離れず、よみがえってくることは少なくない。


 作者はその訳を「良心」と表したことにも納得した。さて肝心の33の物語は、やはりホットウォーミングストーリーと言っていい。秋の夜長には最適かもしれない。個人的に心から離れないのは『心臓の音』。亡くなった母親の箪笥から出てきた古いカセットテープには「保存」と書かれ…ほら、もらい泣きしそうでしょ。

マツコの正体、見たり

2017年10月26日 | 雑記帳


 今日はマツコ・デラックスの誕生日だという。それをいいことに(笑)ラジオで「なんか、あれじゃない」を前置きにした話をリスナーから募っていた。確かに「なんか、あれじゃない」という言い出しはマツコがよく使っているイメージがある。たぶん口癖だろうが、意図的とは言わないまでも印象を作る要素になっている。


 細かいことが気になる性分シリーズとして、この短いフレーズを分析してみる。「なんか」「あれ」「じゃない」の三つに分けて考えてみよう。「なんか」は当然「何か」の変化した語、くだけた言い方である。意味として該当するのは「副詞・漠然と感じられることを表す語」だろう。「どことなく」と同意と考えられる。


 「あれ」とは何か。もちろん指示代名詞である。周知のように「これ」「それ「あれ」の使い方で距離感が伸びていく。「あれ」は話し手や聞き手から空間的、心理的、時間的にも隔たりの意識が大きい。また「はっきり言えない、うまく言えない」ということにもつながる。「これ」や「それ」であれば正体は見えている。


 「じゃない」は辞書には載っていない。唯一「じゃないか」という見出しが「明鏡国語辞典」にある。語尾が上昇調か下降調かで違いはあるが、こう記されている。「相手に対する確認・共感や同意を求める気持ちを伴った控えめな断定・驚きや非難などの気持ちを伴った断定」。「か」を省略することで少しソフトになる。


 これらを合わせると「なんか、あれじゃない」は「どことなくだけど、まあはっきり言えないことだけれども(これから話すことは正しい、鋭いと)あなたもたぶん、いやきっと思うはずよ」といった解釈になる。あの身体を伴って圧力をかけられ、まんまと聞く羽目になるのが視聴者だ。私も含めて。祝、誕生日。

深秋の「林檎」の衝撃

2017年10月25日 | 雑記帳


 先日、秋田市からの帰り道。何気なくつけていたカーラジオから、その曲は流れた…『木綿のハンカチーフ』。言うまでもなく、松本隆作詞、筒美京平作曲の名曲、もはやスタンダードナンバーとも言えるだろう。椎名林檎によるカバーと紹介された。確かずっと前に聴いたことがあるなあと思いつつ、耳を傾けたら…。


 軽く衝撃をうけてしまった。椎名林檎(正確には松崎ナオとのデュエット)の声質や歌い方は承知しているつもりで、ああこんな感じと思い聴き始めたら、一番の歌詞がズドンと切れた(間を空けた)アレンジだ。引用するまでもなく有名なので、前後は省略するが、「♪探すつもりだ」と「♪いいえ」の間が、異常に長い。


 こ、これは…と思う。曲は周知のとおり男女の掛け合い型だ。原曲はテンポよく、メロディを変えながらの転換になっている。ところが、このカバーアレンジは「」(10秒程度)を入れた。その意図は…そうだ、女側の「戸惑い」「決意までの思考」を表すのではないか。そのくせ、歌い出したら妙に力強く響かせる。


 そしてその「」も1番のみで2~4番はない。そこに「思いきり」「諦め」の強さがこもるように思えてくる。気になって、帰ってからネットで調べ中古を注文した。2002年「唄ひ手冥利」という2枚組だ。この新解釈アレンジはエンディングに「♪恋人よ」と「♪いいえ」を繰り返しフェイドアウトする。実に恐るべし。


 ※youtubeにも曲はあるが、何故かPerfumeのプロモーションビデオのBGMになっている。集中できない(笑)



苦手な苦味に教えられる

2017年10月24日 | 読書
 「苦手な食べ物も口にしなくちゃ」と思うのは、今さら健康のため、と考えるだけでなく、もしかしたら美味しく感じる可能性もある、というチャレンジング精神がまだ残っているから…。とかなり自惚れた解釈をして、「読書の秋」に苦手な何か「時代小説」に挑もうと決意。選んだのはアラカルトで、少し逃げ腰だ。



2017読了105
 『衝撃を受けた時代小説傑作選』(文春文庫)



 時代小説を自ら著す三人の女流作家が、2編ずつ「読者」として選んだ計6つの短編小説アンソロジー。「衝撃を受けた」の形容どおり、確かに話の筋は面白く、意外な展開に引き込まれる要素もあった。それゆえ、苦手とする言葉がもう少し理解できれば、と感じたことも確かだ。「ガクが必要」と久しぶりに思った。


 正確に説明できない語彙は50以上はあったか。それでも読み進められるから…。言い回しも作者毎に独特だ。ドラマで有名な「半七捕物帳」にはこんな表現もある。「十に九つはこっちの物だという顔をして」…どんな感じか解釈を試みると、2,3秒経ってから「自信ありげな顔」だと納得するので、タイムロスが癪に障る。


 選者三人の鼎談が興味深い。自分たちも書き手であり、知識も思い入れもある。なるほどと思ったのは時代小説には「希望がない」ものがあるという件だ。「時代」は残酷であり、非情であり、無情であること。救いや希望のない終わり方に見られる潔さ。それはけして為政者に利用されるような身の処し方ではない。


 自分では日本史好きなつもりでいたが、どうも薄っぺらいと反省した。実在人物にそった物語のような感覚だったか。鼎談の結びの言葉が痛く響いてくる。「歴史の教科書にある、何年何月何日に誰が何した、っていうのは為政者の『記録』であって、血の通った人間を知りたければ小説を読んでくださいってことです

選び、選ばれし者へ捧ぐ

2017年10月23日 | 読書
 「ミタケ・オアシン」というアメリカ・インディアンが使う言葉があるという。意味は「すべては関わり合っている」。遠く離れた現代日本社会にあっても通ずる箴言である。自分の「選択」を終え、微笑んだ人、頷いた人、首を傾げた人、ため息をついた人…振り回されずに灯りを点していくために、心に留めてほしい。



2017読了106
 『アメリカ・インディアンの書物より賢い言葉』(エリコ・ロウ 扶桑社文庫)



 まずは、ある意味で今回の総選挙結果の流れをつくりだした方々へ

 片足をカヌーに突っ込み
 片足をボートに突っ込めば
 川に落ちてしまう
  ~タスカロラ族の格言から


 メディアが候補の様子を取り上げるには意図があるが、映像だけでも力が伝わってくる人は確かにいる。もちろんその逆もあった。つまり、こういうことか。

 まっすぐに
 しゃべれば
 光線のように
 こころに届く。

   ~アパッチ族の格言~


 その物語の果てに何があるのか想像しなければならない。選択する側がそこを怠ってはいけない。

 物語りに
 長けたものが
 世界を
 制する。

   ~ホビ族の格言~


 そして、今回の選挙でシンからこう叫んだ人は誰だったか。もう一度振り返ってみよう。遠くなくやってくる、次の選択のために…。

 私の前を歩くな、
 私が従うとは限らない。
 私の後を歩くな、
 私が導くとは限らない。
 私と共に歩け、
 私たちはひとつなのだから。

   ~ソーク族の格言~

信頼の途上を支える

2017年10月22日 | 読書
 「実態と実感の大きなギャップ」…景気好調の報道でよく言われる。データとマインドが違うことは、他にも様々な例を挙げられるだろう。個人的関心が高い「子どもの貧困率」に関しては、若干の改善はあるが、実際は厳しい。主要36国中24位という現状。制度改正はなく、改善に向けた政府支援は増えていない。



Volume83
 「子どもは大人のように「あの人はあそこがだめだけどあそこはいい」と複雑に他人を評価するのが難しいため、持ち物をその人自身の象徴ととらえることもよくあって、大人の合理的な『使えたらいいじゃない』は通用しなかったりします。(略)誰が何を着てもいい、持っていてもいい、という自他への信頼の途上には、『ちゃんとしたものを持たせてもらった』という記憶は確かに存在するのです。」


 作家津村記久子が、「子どもの学校生活と持ち物の関わり」について寄稿していた。
 学校現場に身を置いたものとして、該当する事例は際限なく見てきたが、同時に慣れっこになり鈍感だったのでは、と自省する。

 子育てを最終的に個人の責任と考えることは、間違いとは言えないかもしれないが、もはやそういう認識では社会全体が成り立たなくなっている。
 「自己責任」を強調している一定の層は、やはり社会や人間に関して傲慢であったり、きわめて浅い見方に留まったりしているのではないか。

 自ら幼少時代に金銭に関する無力感を抱え込んだと語る作家は、次のように言う。

 「すべての子どもには、家庭環境の如何にかかわらず、機会を与えられる権利があります。機会を与えられ、助けられた記憶がある人は、誰かに機会を与え、助ける人に成長します。

 支援の意義を心に刻みこむ言葉だ。

 明日は、選挙結果にそって様々な言葉が氾濫、拡散するだろうが、それはともかく、些細だけれどカンパ行動をすることを決めた。