すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

神も春も「音」になって訪れて

2008年02月29日 | 教育ノート
 今日で2月も終わりだと言うのに、雪の高さは増すばかりのように思える。天気予報の画面を見ても雪マークが続いているではないか。昨日は学校前の坂道で給食運搬車が立ち往生した。
 そんなふうに、いっこうに春の足音は聞こえてくこないのだが、時は順調に流れていく。金管バンド部のさよならコンサートが校内であったのでこの字を取り上げてみた。


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 「立」と「日」を合わせたようにも思えますが、実は違います。
 これは「言」がもとになっていて、下の「口」の部分に「一」または「・」を加えた形から出来たと言われています。
 「言」はそもそも「神に誓って祈ることば」とされており、その祈りに神が反応するときにかすかな音をたてることを一や・で表したとされています。
 「音」とは神の訪れを意味する字なのです。
 夜ふけに神の訪れがあることが、「闇」「暗」という字の由来なのです。

 さて「音」は言葉のようには意味をはっきり伝えないけれど、人の心を揺り動かす力があります。様々な音楽が最も身近です。
 しかしそれ以外にもあるでしょう。
 今一番聞きたいのは、「春の音」でしょうか。
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教材一つにも込められる主張

2008年02月28日 | 教育ノート
 指導法はもちろんだが、教材の使い方一つにも主張は込められるものである。
 そう考えてくると、指導の有効さを生かす条件の一つとして指導者の願いや思想が大きな比重を占めることになるか。しかし、それはまた危険性も含んでいることを頭の隅に置かなければならない。
 久保氏、上條氏の本の内容とは別に、そんなことまでいろいろと考えさせられた読書だった。以下の文章は職員向けの問題提起。
 
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縷述「つながる授業」33


 上條氏の「タテ力・ヨコ力」に字面が似た言葉として、久保氏の本に下記の表現があります。

 授業はたて糸とよこ糸で織りなす綾錦

 双方とも、子どもが積極的に活動し力をつけていく授業を目指すことに違いはないでしょうが、アプローチがずいぶん異なるように思います。
 久保氏のそれは、教師の指導というたて糸を凛とさせ、学習規律を高めながら子どもたちの活躍というよこ糸を織りなしていくイメージです。
 一方の上條氏はもちろん「タテ力」の重要性を認識してはいますが、学習者の集中を教師の指導や評価だけでなく、学習活動を構成するルールから生み出していくという発想が強いと考えられます。

 具体的に相違を際立たせるものの一つに「ワークシート」の使用があります。
 久保氏は「ワークシート学習は教師の力を萎えさせる」と言います。教師の臨機応変の力を育むことを阻害するという考えです。
 対して上條氏は多くのワーク集も出版していますし、本書でもワークシートを重要なツールに位置づけます。活動の枠組みを確認して自由度を高める有効性があると考えています。

 久保氏がイメージしているワークシートは、課題だけでなく実際の問いや作業も含まれる固定化されたものを指しているようですし、上條氏が例示している多くは大きな活動の手順を示していたり、思考のヒントとなったりするシートと考えられます。従って単純な比較はできないと思われますが、それにしてもお二人の指導観・方法論の違いは色濃く浮かび上がってきます。

 本の中のキーワードをもとに自分なりに論題化してみると、次のようになります。

 「教師を仰ぐ」集中と「目的を仰ぐ」集中の質の違いは、学習にどのような影響を与えるか

 学習における「凛とした個別化」と「ゆたかな交流」の保障は、ワークでは不可能か
 
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向かい合って共鳴しよう

2008年02月26日 | 教育ノート
 興味深いのは「郷」という字の成り立ちだ。考えてみると「饗」という字がそれをよく象徴しているようだ。
 「響く」はいろいろな使われ方をするが、学校にとってはとても大切な言葉の一つに違いない。
 さて、調べていたら「響めく」という読み方も発見できた。なるほどと思った。
 読めますか?


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 「郷」と「音」の組み合わせ。
 郷は「食事をはさんで身分のある者二人が向かい合う形」から出来た字です。「さと・むら」の意味が一般的ですが、身分の高い人の領地を「郷」と称したことからその意味になったようです。
 派生して「向かい合っている村々」を表すとした辞書もありました。
 従って「響」は「向かい合って共鳴する音」という意味になります。

 響くためには相手が必要だということ。また単に音のふるえだけでなく、振動が他のものを動かすという意味にとらえられること。そんなふうに考えると学校における様々な活動は、子供同士の響き合いを目指しています。
 大きく小さく共鳴しあって学校全体の響きを作り上げたいものです。
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教師であることを支える

2008年02月25日 | 読書
 池田修先生の著した『教師になるということ』(ひまわり社)を読んだ。
 単純だが、書名が「教員」ではなく「教師」になっていることは、とても大切だろう。
 その違いについて記している箇所などはないが、1章に「一つ、きちんと押さえておきたい事柄があります」と宣言されていることがある。

 教育はビジネスではない

 ビジネスの世界から仕事術や上達論を学ぶことは多い。
 しかし、教育そのものをビジネスととらえることは、まさに陥穽のようなものであり、自分を見失う気がする。
 人事評価や免許更新制度の導入が身分や報酬と絡んでくる気配もある。そうなれば自問する時がくるかもしれない。自分の労力の対象となる利益とはいったい何なのだろうと。
 そのときに、思い出せばいい言葉も書いてある。

 「教師は、自分がなりたくてなる仕事」です
 
 この言葉の重みは、ずしんとくる。
 自分に問いかけて「なりたい気持ち」を思い出し、そこから踏み出していければどんなにいいことだろう。
 だから、この本には読者記入欄(笑)があるのか。配慮が行き届いている。

 今、教員採用は二極化のように進んでいる。地方と都会。置かれた環境によってずいぶんと違う現実がある。
 だから簡単に括ることはできないのだけれど、その道を目指す若い人にとって今は、「教員になること」と「教師になること」はそんなに大きな隔たりを感じないかもしれない。
 がしかし、年が経つにつれて「教員であること」と「教師であること」の隔たりはどう意識されていくのだろうか。

 私は、教員であることができるだけ教師であることと近ければいいと思っている。
 もちろん個人の意識の在りようなのだが、それを支える世の中であるべきだし、職場であるべきだと思っている。

 内容はしっかり詰まっているけれど、明るい装丁に見合った適度な軽さを持つこの本に出会ってそんなことを考えた。

個と集団の領域を見つめる

2008年02月24日 | 教育ノート
 年度末も近づいてきて研修関係のまとめもしているが、担任にとって一番大切なのは「授業の反省」だと思う。それも研究授業ではなく日常の授業。
 振り返るためには視点が必要だし、それは多くの場合、その学校の研究主題ということになろう。しかし授業とは何かを考えるとき、この2月に読んだ2冊はやはり有益だった。書き始めて改めてそう思った。


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縷述 「つながる授業」32


 最近、とても読みごたえのある教育書を2冊読みました。

 『一斉授業の復権』(久保齋著 子どもの未来社)
 『図解 よくわかる授業上達法』(上條晴夫著 学陽書房)
 
 どちらも著名な実践家、研究者であり、2冊とも「授業」についての全体像から具体的な場面まで対象となっている本でした。併行して読んでいたら、共通する事項や相対する点など見いだすことができ、「比べ読み」的に考えさせられることがありました。その一端を記してみます。

 前者の本は題名が示すように、「一斉授業」についてその意味と価値、実践的意義を明らかにしながら、いわゆる「新しい学力観」で示された考え方や実践を批判しています。
 後者の本は「タテ力(ちから)」と命名した伝統的指導法、「ヨコ力」と命名した活動中心の授業づくり法の双方を取り上げたものです。両方の本に一つのキーワードとして次の言葉があったことが印象的でした。

 「発達の最近接領域」

 この言葉は心理学者のヴィゴツキーの言葉ですが、簡単にいうと「一人で到達できる段階」と「他者の援助によって到達できる段階」の間のゾーンのことです。教育はその領域に合わせて行うべきだと提唱しているのです。
 久保氏も上條氏もその考え方にそった「課題設定」の重要性を説いています。久保氏は個とともに「集団の最近接領域」をとらえながら、段階を踏んで子どもたちを「飛躍」させていくための学習方法や形態のあり方に言及しています。
 上條氏は「数字を使って学習内容を目標化する」というレベル調整の必要性・有効性を述べています。

 「実態」という言葉が一般的でしょうが、「領域」というとらえ方で個や集団を見つめると、学習のねらいや設定がより明確になる気がしますし、動的なイメージが浮かんできます。
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四つの原則で進む

2008年02月22日 | 教育ノート
 PTA文集に寄稿した文章である。
 時々忘れそうになる大事なことを、もう一度かみ締めるいい機会となった。


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 「四つの原則で進む」

 今年は、五年生の図画工作指導のお手伝いをすることができました。
 学級担任を外れてからも算数や国語などの指導は幾度も機会があったのですが、図工というともう十数年ぶりになります。自分自身は器用さや芸術的センスと無縁な人間ですが、図工には多少の興味を感じていました。
 それは教員になってから出会った「キミ子方式」「酒井式」と言われる描画指導法のおかげだと考えています。

 後者の「酒井式」は、その主宰者である酒井臣吾先生の直接指導を数回受けた経験があります。横手にも幾度かおいでになったことがあり、当時まだ小学生だった下の娘と一緒に講座を受けたこともありました。絵に興味があるとは言えなかった娘が「あっという間だった」と呟いた五時間ほどの描画指導は今でも忘れられません。
 その指導法には細かい約束事があり、指導のシナリオがある題材も豊富ですが、五年生の授業で直接取り上げたのはほんのわずかでした。時間の制限があるなかで中途半端になることを避けたかったからです。
 しかし、その指導法の芯のようなものは、絶えず言っていたような気もします(子どもの心に届いたかどうかはまた別ですが)。

 酒井式指導の原則は、次の四つです。
①踏ん切る(見切り発車をおそれない)  
②集中する(かたつむりの速さで線を描く) 
③「良し」とする(結果を肯定する)   
④それを生かす(間違いもプラスの方向へ)
 
 授業であまり鉛筆を使わせずペンで描かせることが多かったのもそのためです。「慎重に、しかし失敗を怖れず、完全でなくてもいいから進んでいく、間違いもおもしろい形や色になることだってあるよ」…この描画指導の原則は、実は学習や仕事などの日常にも当てはまるのではないか、とある時気づいたことがありました。
 迷いが出たとき、このどれかを思い出すと楽になるかもしれません。

 さて、本校の今年度はどんな線や色で描かれたでしょうか…そこから、また始めていくのです。
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授業上達法が機能する下地

2008年02月20日 | 読書
 『図解 よくわかる授業上達法』(上條晴夫著 学陽書房)を読み終えた。

 上條氏の著書はワーク集等を除いて8割ほどは読んでいると思うが、昨年発刊されたこの本は購入していなかった。明治図書の「国語教育誌」で岩手大の望月先生が絶賛していたので早速注文して読んだ。

 なるほど素晴らしい!まさに上條ワールドともいうべき、明確で鋭い分析が網羅されている内容の本だ。
 授業技術を「タテ力」「ヨコ力」と分け、伝統的な指導法のよさやポイント、そして体験型やワークショップ型の授業を進めていく様々な要素が、端的にわかりやすい言葉で紹介され、提案されている。

 付箋を貼り付けたのは圧倒的にヨコ力の方が多いが、タテ力の中にも「破れを許容する~不定型を助言していく」という興味深い項目もあった。子どもに対する言葉かけの基礎から応用まで広範囲でカバーしているといってよいだろう。

 日常の実践に照らし合わせると、多用している得意な面、逆に不足な面も浮かび上がってくるのではないか。そして追試的に行うことも十分可能だし、効果も見えてくるだろう。

 ただそれらの全てが継続的にうまくいくかどうかは、また別の視点が必要だろう。
 書かれてあることは実践をくぐらせたものばかりではあるが、条件の違いがあることは確かだ。大人対象の講座における例も多いし、小学校教員時代のエピソードであってもやはり上條学級であるということは踏まえたい。

 つまりある程度の下地がなければ、効力感を得られないものもあるのではないか。たとえば、上條氏が常に強調している「ふり返りをする」にしても、単発や短い期間での取り組みでは見えてこない場合が多いだろう。

 と、このようなことを考えていると、こうした力、技術が機能する積み重ねはどうあればよいか、といった問いにシフトしていく。
 たまたま同時期に読んだ『一斉指導の復権』における久保氏との実践と比較してみるのも面白いかもしれない、という思いも浮かんできた。
 共通のことを言っている部分もあり、そしてかなり大きな違いもあり…比べ読みのようにもう一度読み直してみようと思う。

地に足のついた方法論

2008年02月19日 | 読書
 『一斉授業の復権』(久保齋著 子どもの未来社)を読む。

 久保氏の本を読んだのは初めてであったが、その主張は概ね賛同できるものだった。
 というより、自分自身がやってきたこと(やろうとしても力及ばなかったことも含めて)と重なることも多く、そうだそうだと受け止められる箇所が多かった。
 指導法としての「一斉授業」の長所や利点のみではなく、なぜ一斉なのかと突き詰めて考えてみることの重要性が述べられている本である。

 「一斉授業」という言葉は範囲が広い。
 ここで久保氏が指している一斉授業は、言うなれば教師主導、集団思考の授業と言っていいかと思う。
 対義的な授業として習熟度別指導や総合的な学習などにおける体験型学習、またいわゆる活動主義が強く出ている授業を批判している事例が多いことからも伺える。

 もちろん、教師主導といってもその範囲は広く、明確なステップもある。
 百マス計算の活用や音読重視の教科指導、そして話し合いや受け答えの指導を含めて、かなりトータルに、ここではあまり触れられていないが学級経営の全体像と関わりがあることも予想される。
 特にノート指導のあり方などけして奇を衒うことなく、それでいて見事なまでに力をつけていく姿が見えるようだ。
 第二章を中心に、様々な実践が汲み取れる本だ。

 新学習指導要領が発表されて、それに伴う様々な言述がにぎやかである。
 例えば「本当は強制でも、それを強制と思わせないのが教師の力量」といったしごくもっともな論を高名な学者は言ったりする。しかし、では現実の場面で力を持つのはどういう指導なのか、どういう教師が子どもたちの力や意欲を伸ばしているのか、具体的に踏み込む方向はあまり見えていない。

 そして、そうした言述が現場に着地するまでに、数多の「指導者」の指導助言にさらされて、机上論とそれを自賛するような実践ばかりが表に出ているではないか。
 今回もまた繰り返されるのだろうか。

 もっと泥臭く、地に足のついた方法論が語られるべきだ。
 時節柄?そんなふうに思わされた一冊である。

雪の土曜の「この私」

2008年02月17日 | 読書
 新書『学校のモンスター』(諏訪哲二著)は、去年の11月頃に買っていたのだが書棚で寝たままだった。前の『オレ様化する子どもたち』もそうだったが、諏訪氏の本は歯ごたえがありそうなので、つい手が遠のいてしまったのだろうか。
 週休ではあるが所属している研究会の会議が持たれるというので秋田市に出かけることになった。天候もよくないし電車が楽かなと思い、それならばと件の本をバッグに入れた。

 「若い人へ」と題した前書きが、なかなか読みやすい。
 そこでは「自分」という言葉をキーワードに語っているが、この本の核になる部分が既に著されているといってもいいだろう。

 ふたつの「私」

 著者は「私的な個」と「公共的な個」、また「この私」と「私」という言い方もしているが、全体を貫いているこのキーワードがどうしても印象強い。様々な章立てで歴史的な位置づけや他の論者の批判などもしている。

 実に興味深かったのはテレビ番組の例である。最近のクイズ番組にお決まりのように出演してくる珍答、迷答を繰りかえすタレント(女性ならばアホドルと言うのか?)を、どんな考え方をしているのか試したコーナーを紹介していた。
 いわゆる「速さ」の問題(速度と距離から時間を求めるなど)をどうとらえているか。条件を数式に当てはめて解いていく普通の?解答者と違うのは、付帯する様々な条件をイメージしてしまうということだ。その状況をよりリアルに、自分にひき付けて想像しているとも言えそうだ。それは紛れもなく「この私」が支配している感覚である。

 こうしたタレントたちを時々テレビで見て笑っていたが、もう一つ別の視点が生まれた。そして、それはどんな授業を受けてきたか、学校生活だったのか…そんなふうに思考が動いた。
 例えば算数の文章題指導で重要なことは場のイメージを持たせることであるが、それは様々な育ちをしている子たちにどう影響しているのか、などという問いも浮かんできた。

 「私的な個」だけが肥大している、「公共的な個」を身につけないままに、経済的な理由に左右されるままに…年代や出自をもとに分析していくことは、学校現場での対処を考えるうえで無駄ではない。
 身近に表れている事象がナニモノなのか、見きわめてこそ動き出せるというものである。

 読み終えて「少なくても『相田みつを』のような言葉かけは慎重に…」などと一人で笑ってしまった。
 週末の電車の中は、「面接でのスカートの丈の短かさ」を気にする女子高生や「シャコウ(自動車学校)にたむろする変な髪形の連中」で盛り上がる男子の声が、妙にはしゃいでいた。そんな子たちに囲まれて『学校のモンスター』を読むのもなかなかおつではあるが…。

 さほどの雪でもあるまいに「大雪のためJR運休」に数時間も振り回されたので、私のなかでは「この私」をなだめながらの一日であった。

責めるとは、もとめること

2008年02月14日 | 教育ノート
 この字と組み合わせたときの「禾」と「糸」の違いには納得だった。
 「積」も「績」も使われる頻度が高い。そして結局何かを求めたいときに使われていることに気づく。

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 責は「朿(シ)」と「貝」の組み合わせです。
 貝はお金、財物という意味で、朿は「先のとがったもの、とげ」を表しています。
 もともとは税として納める財物の上に朿を目印としてつけた形のようです。また、お金のことでちくちく刺すように責めたてるという意味もありました。

 税として納める財物が、農作物ならば「積」といい、織物ならば「績」という決め方があり、なるほどと思いました。
 この二つの字は学校でもよく使われます。
 勉強はこつこつと農業のように積み上げることが大切ですし、また成績は学習という布を織り上げた結果を表しているようにも思います。

 二つの「セキ」が充実するように、私たち大人の責任は重いものがあります。
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