すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

意味は風味を伴って伝わる

2013年11月30日 | 雑記帳
 長谷川櫂という俳人が、次のようなことを書いていた。

 あるとき、言葉には意味のほかに風味というものがあることに気づいた。

 言葉の風味かあ、なんとなくわかる気がする。
 「さくら」を例に、続けて書かれてある説明はこうだ。

 (略)人の心をふわりと包んで優しくさせる働きがある。これが「さくら」という言葉の風味だ。

 「風味」の意味は何か。
 広辞苑では「あじ。特に、上品なあじわい」とある。
 明鏡の方がぴんとくる。「飲食物のもつ香りや味わい」。

 語のもつ「香り、味わい」と考えていいだろう。

 とすると、言葉の風味を感じるための、直接体験は欠かせないといってよい。一度も接したことのない事物に関して、その風味を想像することはなかなか難しい。
 しかし間接的な体験、書物や映画などの視聴によって得られるイメージで作られる場合もあるだろう。
 むしろ、そちらが多いか。
 風味は肯定的な意味でとらえられるので、間接的な体験で得られることもまんざら悪くはないだろう。


 言葉と風味ということを少し考えてみれば、具体語か抽象語かで大きく異なることはすぐわかる。
 例えば、一番わかりやすい飲食物の一つである「ミカン」と、いよいよ迫りくる「冬」を比べてみればわかる。
 ミカンそのものの持つ色、香りや味の他に、家族団欒の温かさなどがイメージされ、風味の素になるだろう。
 しかし、冬は、とにかく範囲が広い。意味に伴う寒さや孤独感はうけとれるが、それも限定的だ。
 組み合わせる言葉によって、かなり風味に違いがでるだろうし、読み手の体験している質量の受けとめ方によって、大きな差が出るのではないか。


 さて、このことをふだんの言葉遣いに関連づけて考えてみると、意味を重視する人、風味は欠かせないと考える人に分かれるか。
 作家や俳優のように高級なことを考えなくとも、例えばチェーン店における店員のマニュアル言葉が意味重視であることはすぐ分かる。

 言葉の意味しか伝わらないといってもいい。
 いや、本当は意味さえしっかり伝えればいいのだが、そういう場では意味が意味の役目を果たさない場合もある。
 つまり,聞き流している人がほとんどだろう。

 そこに「風味」という要素が加わればどうだろう
 人の持つ香りや味わいが感じられれば、言葉によって伝わる力は強くなる。

 本当の意味というものは、風味を伴って伝わるものではないだろうか。

 「いらっしゃいませ」という抽象的な一言であっても、しっかり相手を見て、相手の気持ちに立てば、発せられる言葉はちがってくる。

 と、なんだかくどくなって、風味の薄れた文章になってきた。

久々の記憶を記録して

2013年11月29日 | 読書
 久々に「こむらがえり」発症。毎度のことながら朝早く目覚めてしまい、よし起きようと首を上げた瞬間に、ガチンと固まった。おおうっ、なかなか復帰しない。この原因は特定できないというが、それだけに癖になったら嫌だなとか、両足に同時になったらどうするかなど、後ろ向きの思考に陥りながらもだえている。


 久々に小説を読む。『民宿雪国』(樋口毅宏 祥伝社文庫)。何かの雑誌で紹介されたのを思い出して書店で手にとってみた。本の帯に結構なことが書かれていたが、確かになかなか他にはない内容、構成だ。美術界や対朝鮮半島の視点でも読み取れるし、それ以上にとにかくこの作者、何枚「舌」を持っているのか。


 久々の除雪車出動。先々週に積もったときは私の住むような小路には入ってこなかっただけに今回は年度初となる。それにしても3時53分である。せめて5時までは眠りたいという目標が達成できない自分には、試練の日々が続く。ありがたいやらうらめしいやらとは、こういう心境だろうなとひどく納得する。


 久々にホームページに読書記録を載せようと考えて、ソフトを始動したらデータを読み込めない状況である。この前の更新が悪かったようである。どうにも復帰しない。読破冊数を数えると今年もどうにか100は越えたようだが、それが記録できないとなると結構落ち込む。10年以上続けてきたが潮時なのかな。


 久々に来訪した某生命会社の方が置いていった『「先生のコトバ」集』。合間に開いたら冒頭に「記録より記憶に残るものを」…賞よりも心の充実感を!ということか。ページを開くとこんな言葉も。「記憶力より記録力」…ミスを防ぐのはメモだ!くだらない自作を思いつく…「記録より記憶と記憶したら記録」

その「爆弾」をつくる作業とは

2013年11月28日 | 読書
 『短歌という爆弾』(穂村弘 小学館文庫)

 2000年に発刊された本が今年文庫化された。副題が「今すぐ歌人になりたいあなたのために」となっている。1章、2章は楽しく読めるが、それ以降は以前読んだ『短歌の友人』という評論集より難解だ。読み進めていけば「今すぐ歌人になりたいあなた」は、「止めときなさい」の返答が突きつけられた気になる。


 書名が物騒だ。だがこの書名ほど穂村の言わんとする短歌の生命を表わす言葉はないようだ。誰かに向ける、誰かを驚かす、そのために言葉という火薬を詰め込みながら爆発物に仕上げる…しかもひっそりとその作業は行われる。五七五七七という変哲もない形式に込められた想いのドロドロ感まで想像してしまう。


 納得しながら読み進められた「1 製造法」は座談会と電子メールの往復という形式になっている。これが実にわかりやすい。素人?の作品を解釈していく歌人の目は、やはり「爆弾製造者」だなという気がしてくる。いかに危ない要素をその言葉や並びが潜めているか、暴き出してくれる。化学変化を知る人たちだ。


 メールレッスンの冒頭で、穂村は洒落た言葉を使う。「単なる言葉の添削ではなく<心の文法>を考えながら進めたい」。ふむふむ(穂村の場合は「ほむほむ」か)。「心の文法」ねえ。心の使い方ということなのだろうが、少なくとも真っ当なものじゃ爆弾は作れない。つまりは危険志向、不幸志向ということか。


 危険や不幸は言い過ぎかな。しかしこんな言葉も呟かれている。「善意や行為や明るさの領域だけで書かれた歌には、本当の力は宿らない」…数年前子どもたちへの授業として取り入れたこともあり、自分もちょっとだけ歌作を試みたことがあった。しかしこの観点は見えていなかった。花鳥風月を超えるのはそこからか。



 難しい歌論の中で理解できたこと…すぐれている短歌は「共感性」があること。「共有できる感動」といってもいい。数多くの凡人が気持ちや体験を形式に当てはめても「自分で自分に共感してしまって」は、他者の気持ちを揺り動かせはしない。「心に向かって言葉を研ぎ澄ます」…ただ、この一点への道程なのだ。

沈黙と混沌と辛味に浸る

2013年11月27日 | 雑記帳
 平日の宮澤賢治記念館は快適なのでは…とふと思った。振替週休を届けてあるので,野口先生の授業を参観させていただく前に,ちょっと出向いてみることにした。案の定,確かに観光客はいたがバスは1台のみ。もちろん客層は大人オンリーである。これはじっくり見られそうと入口に向かうと,衝撃の貼紙が!


 「熊出没注意」。ほおーっ,まさか賢治の童話ではあるまいな。記念館だけでなくレストランが入る建物の入口扉にも貼ってある。一人のお客さんが「これ,どういうこと?」と販売員に訊く。「ええ,道を横切ったりするんですよ」「えっ,じゃあ今ここに出たらどうするの?」しばし無言。この沈黙が不気味だ。


 それはともかく,記念館内部はまばらな人数で予想通り。造詣が深いわけではないが,何度となく立ち寄っているこの場所を初めてゆっくり回れる気がした。ほとんど修学旅行引率だったから当然か。あまりにも広範囲で深い賢治の世界。それでも魅力に満ちている。混沌さとわからなさに浸る,ある意味で贅沢な時間だ。


 ふと目に止めた広告。生前に出版した『注文の多い料理店』のものである。雑誌「赤い鳥」の広告と説明してある。そのキャッチコピーが凄いではないか。「東北の雪の曠野(こうや)を走る素晴らしい快遊船(ヨット)だ」…今,この言葉を聞き,何人が賢治を連想するのだろう。どんな色の帆なのか想像しにくい。


 軽く昼食をとってから会場へ…と考え車に乗り込むと,すぐに気になる看板を見つける。「暮坪そば」。暮坪カブは以前『美味しんぼ』にも登場したし,先月だったか遠野市唯一?の生産者である老夫婦がTVに出ていた。即注文する。そばの味はともかく,納得のカブである。まさに貴重だとわかるその辛味に浸った。

まだまだ道のり遠し

2013年11月26日 | 雑記帳
 研修会翌日,野口先生が花巻市内の小学校で児童相手に特別授業をなさるというので,参観させていただいた。5年生の学級で教科書にある「論語」の授業だという。いわゆる「伝統的な言語文化」にあたる教材だ。音読,暗唱が活動の中心とするのが一般的のようだが,先生はどのように料理されるか、注目した。


 導入で「凡人」という言葉を出し,それから秀才・天才そして「聖人」という言葉を教え,四大聖人について触れた。「孔子」の「子」は先生の意味であるから,「曰く」を「いわく」ではなく「のたまわく」に,解説文も「孔子は言った」でなく「おっしゃった」と読み替えるよう指示。教材の訂正から始まった。


 「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」。音読を繰り返し、視写をさせて、最初に指示したことは次のことだった。「自分がされて嫌なことを書きましょう」。できるだけたくさん書くように言われ、その返答が漠然としていると「具体的に、~から~されたこと」と、自分の体験をしっかり思い出すように話す。


 「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」。この箴言についての、初めの問いは「今まで、過ちをしていないという人は○、過ちをしてきたという人は×をノートに書きなさい」というもの。当然大方が○と書くことを予測しての問いであるが、その時誰しも一瞬自分を振り返り、他者もまた同じであることは確認する。


 「こういう勉強は、ああ、こういうことなんだと思わなくちゃいけない」。授業の後半部で野口先生が諭すように語られた。おそらく私達もこうした格言を指導するにあたって、自らの体験を呼び起させるような指導言は使うであろう。しかしその深度はいかほどのものか。言語人格の陶冶、まだまだ道のり遠しである。

「夏河を」語るうれしさよ

2013年11月25日 | 読書
 野口芳宏先生の解釈の深さや斬新さには今までも幾度となく驚かされたが,今回の野口塾でも「えっ」と思わされたことが複数あった。特に,あの与謝蕪村の名句とされる「夏河を越すうれしさよ手に草履」に関して,話者が舟に乗っているという解釈は,今まで考えもしなかったし,まだ自分自身で消化しきれない。


 「河」からうける大きな河川のイメージ。「越す」にある旅の連想など,それらは共通しているが,「うれしさ」にある涼感が,水を直接足に浸しているものか,頬に受ける風のそれか…。また解釈によって「草履」を持つ「手」が両手か片手かの違いも出てくる。あまりに描く情景が異なり,決着はつけておかねば。


 検索して調べると,この句には「丹波の加悦といふところにて」と添え書きがあるという(「丹波」は蕪村の勘違いで正確には「丹後」)。母親の故郷ということで,となると「河」は大きくない,さらには「夏川」という表記も見られるので,なんだか自分の持っていたイメージもずいぶんとアヤシクなってきた。


 説明として一番まとまっているように思えたのはJR西日本のサイトだった。当然研究者の緻密な解釈もあるとは思うが,これが結構読みやすかった。私達としては,何が正解かではなく,どこに注目してどんな解釈を導くか,その過程が学びといえる。そうした言葉へのこだわりを示すことが,いい授業に結びつく。



 それにしても会終了後の宴席で,この句の話題で盛り上がっている時に,野口先生の仰られた一言が忘れられない。「こんな些細なことで,ああでもないこうでもないと話し合うことのできる,教師っていうのは幸せな仕事だね」。その場にいた全員が声をあげて笑い,深く頷いた。その幸せはやはり手離したくない。

体験しにくい言葉の体験を

2013年11月24日 | 読書
 『「ことば遊び」で国語授業を楽しく』(鈴木清隆 明治図書)

 発表の事前学習の意味で再読してみた。94年の発刊、約20年前の著書である。「国語科リフレッシュ提案②」というシリーズ名があるが、他に関連著書は持っていただろうか。ともかく今読んでも新鮮で、刺激になる著だった。特に第一章に書かれてある著者の文章には、言葉遊びについての認識を新たにさせられた。


 ゲームやクイズが多用される言葉遊び。その意義をこう記してある。「ゲームもクイズも、知識を正面からではなく、裏や横から眺めてつくる。多弁を弄するのである。そのことが、言葉を吟味させ、言葉を増やすきっかけになる」…寄り道、回り道の薦めである。スピード化の現在では流行らないのかな、この思考。


 なぞなぞやゲーム等を思いつき、その場限りと突き放すのは容易い。しかしそこからが肝心なはず。こんな言葉がある。「思いつきだったことに、次第に輪郭がついていく。どんな思いつきも馬鹿らしくはないものだ。馬鹿らしくするかどうかは受け手の論理や感性の問題なのだ」…そこに向かう当事者性の強さだ。


 もしかしたら今でも、活動に「遊び」とつくと、どうも低級なイメージを思い浮かべる人がいるのではないか。この言葉は、とてもしっくりきた。「<遊び>は<動き>なのです。<流れ>なのです」…もちろん活動に没頭する身体は大事だけれど、もう一面で冷静に前後と結び付ける思考は持ちたい。準備と分析か。


 発表の結び画面には、著者の「言葉を豊かにする。その方法を一言で言い切ってみたい。日々の生活では体験しにくい言葉の体験をすること」を引用する。文章の読み取りや音読でももちろん、そのこだわりは発揮できるが、言葉遊びの気軽さや楽しさは、大きなメリットだ。興味を持ってもらえるよう話をしてみたい。

ドラマは家庭の食卓から

2013年11月23日 | 雑記帳
 「食」と「ドラマ」。また寝付かれないベッドの上であれこれ思索が始まった。食の切り口はいろいろあるが,主として「食卓」だ。そうすると,よく思い出されるのが,あの「寺内貫太郎一家」。あんな不自然に(カメラに背を向ける者がいない形)食卓場面を見せるとは,今となっては驚きだ。舞台的とも言えるか。


 最近のドラマで,食といえばまず「ごちそうさん」となるか。東京編,大阪編いずれも食卓場面は出てくる。その他,自分が目にする範囲では「東京バンドワゴン」,さらに「家族の裏事情」,あっそういえば「リーガル・ハイ」も結構食卓場面が多いことにも気づく。食事しながら語らせる意味があるということだ。


 一つには,人物を一挙に登場させる必然性のある場だと考えられる。一般家庭の現状は抜きにしても,家族や同居者が集まる時間がいつかと言えば,それは食事ということになる。そして,そこで結構重要なことが話題になるのだが(ドラマだから当然),食という主行動があるから不自然感が避けられると言える。


 食事をするとき,人はある意味で無防備といえないか。心情がむき出しになる場合も少なくない。だから口論,諍いの発端となる場という特色がある。また,そのなかで「ちょっと納豆とって!」「なんだよ,その食い方は」などといった些末的な台詞を入れることで,性格や人間関係をさりげなく入れ込みやすい。


 ドラマにおける,外食時のレストラン等での食卓と,家庭内での食卓には大きな隔たりがあるようだ。前者は目的が食事以外の設定である。展開の一部でしかない。後者は食事が目的の場における事件発生だ。重要な現場であることは疑うべくもない。全編食卓というドラマはきっと面白い…昔あったような気がする。

古希の教え子が読む弔辞

2013年11月22日 | 雑記帳
 先日,お世話になった方の葬儀に参列した。
 闘病の末にお亡くなりになったが,やすらかな最後だったと聞き,少しは安堵した。

 葬儀での弔辞に心が揺れた。
 確か定年前にお辞めになったはずだが,教え子たちとの交流は長く続いていたようだ。
 読み上げた教え子代表のご婦人は,来年古希を迎えるという。
 その同級生たちが後ろの席に控えていた。

 運動が苦手で運動会が嫌だった子に,「嫌でも,できるだけ頑張るように」と励ましたという。
 そして「運動が駄目だったら,他のことで一等になれ」と声をかけたという。
 このシンプルさは,今の学校でも変わらない教えだとは思うが,受け止める心の温度の落差は,誰しもが感ずることだろう。

 「先生の言葉を人生の糧として」と書かれた電文も読み上げられた。
 こんなふうに思ってくれる人が一人でも存在するということは,まさに生の証しそのものではないか。
 教職という仕事の素晴らしさ,可能性を想わずにはいられない。

 自分もその端くれながら,そんな言葉を心に保ってくれている子などいるものだろうか。
 同級会などに招かれ,嬉しい言葉をもらう時もあるにはあるが,その濃密さについては自分自身がよく知っている。

 いや,こういう言い方はむしろ不遜だ。
 善きにしろ悪しきにしろ,教職にある者の言葉の重みに対する自覚が足りない。
 私達の現場がそういう空間である事実そのものは,時代が変わろうと揺らぐものではないだろう。

 良き教師はきっと,自らの葬儀においても人に何かを教えてくれる存在である。
 ぼんやりそんなことを思う。
 合掌。

ぼんやり教師の戯れ唄は

2013年11月21日 | 雑記帳

 先月、今月と他校の授業を参観する機会が幾度かあった。
 いずれも授業に関する研究協議なしだったので、どこかぼんやりした見方のようになってしまったが、それでもいくらかの思いが残っている。

 昼下がりにぼやーっと窓の外を見ていたら、心の中に浮かんできた言葉たち。

 ★

 見えない教師の教室は
 子どもが見えない教室は
 たとえば、声がぼつぼつと
 宙に浮かんでいるようだ


 見えない教師の教室は
 相手の見えない教室は
 たとえば、机の教科書の
 向きのねじれが騒がしい


 見えない教師の教室は
 行方の見えない教室は
 たとえば、きれいで鮮やかな
 掲示資料に囲まれる



  見える教師の教室は
  教えが見える教室は
  うなずき、笑い、問いかけの
  顔、顔、顔が空気をゆらす


  見える教師の教室は
  願いの見える教室は
  まなざし、背筋、指先の
  その直線が空気をつくる

 ★